【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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さすらい人の夜の歌


 

 次はいつ来てくれるの、と女は客にしなだれた。柔らかな胸が相手の背で潰れて形を崩した。服が着られないと言われて離れるが、もう一度同じ事を尋ねた。商売としての愛想だけではない。女はこの若い客が気に入っていた。

 

 顔立ちは悪くないし、体つきも猫科の猛獣のようにしなやかだ。そして時折見せる、奇妙な雰囲気が好きだった。

 

 彼の体の向こうが、どこか知らない場所へ通じている。抱かれていると、そんな感覚に囚われることが時々あった。だからいつか本当に遠くへ連れ出してもらえそうな気がした。誰もいない、何もかも忘れられる場所へ。

 

 無論、それが都合の良い錯覚だと彼女は知っている。同じようなことを彼に感じる娼婦が他にもいるからだ。逆に、なんとなく彼が怖いと、近づくのさえ忌避する者もいる。それこそが彼の魅力だろう。

 

 この若者は、自分のことをほとんど話さない。それでも稀に溢れる言葉の断片を繋ぎ合わせると、親方の許で修行中の職人らしい。まだ一人前として認められていないのが不満なようだ。見たところ十五、六歳。そんなに焦らなくてもいいのにと女は思う。

 

 何の職人を目指しているのかは尋ねていない。

 

 服を着終えた客が振り返った。そこにあるのは、いつも浮かべている不敵な笑み。きっと悲しい時や腹立たしい時、死の間際にさえ同じ表情をしているだろう。

 

 その笑顔で客は答えた。――気が向いたらまた来るさ。つれない返事に、女は腕をつねってやった。

 

          ◇

 

 娼館を後にしたマニゴルドに、横から声が掛かった。顔見知りの遊び人だ。「よう名無し、どこ行くんだ! 一杯どうだい」

 

 もう帰るのでまた今度、と断るものの、他にも何度か同じような誘いを受けた。道行く彼に親愛を込めて挨拶をする者は多い。一見してその筋と分かる者とさえ、彼は気軽なやり取りを交わす。

 

「名無しの若旦那、たまにはうちの店にも顔出して下さいよ。用心棒をしてくれるなら、お代は安くしておきますよ」

 

「嫌だよ。この前の揉め事、まだ片付いてねえだろ。人を巻き込もうとすんじゃねえ」

 

 マニゴルドが釘を刺すと、「女たちが待ってるのは本当ですからね」と含み笑いを残して男は引っ込んだ。

 

 

 大通りに出たところで、彼は知り合いを見かけた。特徴的な大きな箱を背負っている。つまりは移動中の聖闘士だ。先方は彼の存在に気づいていないようなので、走り寄って声を掛けた。

 

「アンサー!」

 

 旅装の若者は振り返った。そして駆け寄って来た彼と、彼のやって来た通りを、順に見やって顔をしかめた。

 

「噂に聞く女遊びか。恥ずかしくないのか」

 

「羨ましいならいい娘紹介してやるぜ」と、マニゴルドはへらりと笑った。

 

「黙れ。おまえといると俺まで堕落しそうだ」

 

 足早に歩き出した友人の横にマニゴルドも並んだ。

 

「この前、ガキみたいな候補生にも言われたわ。女好きが移るから近寄るな、だと。傷付いたねえ。俺もう闘技場行けない」

 

「人のせいにするな」アンサーは彼を小突く振りをした。「おまえ、闘技場になんか全然来ないじゃないか。だからって代わりに白粉臭い修行を何年積んだところで、聖闘士になれるとは思えないぞ。腐ってないで、いい加減に心を入れ替えろよ」

 

 セージから最後の修行を言い渡されて数年。花街を歩いても不自然でない年頃になっても、マニゴルドの身分は未だに候補生のままだった。修行仲間が聖闘士や雑兵として歩き始めているのに、彼だけが揺籃の中で取り残されている。しかし彼の知り合いは皆、その状況を仕方のないことだと受け止めていた。

 

 何しろマニゴルドは、来る日も来る日も俗世で過ごしている。彼は酒場や娼館や賭場や、時にはもっと物騒な場所に出入りして、しかもその事を隠そうとしなかった。闘技場で汗だくになって訓練に励んでいたマニゴルド少年を知る者からすれば、今の彼は自堕落もいいところだ。

 

「金はどうしてる。まさか猊下から小遣いを頂戴しているわけじゃないだろうな。それとも何かくすねて売り飛ばしているのか」

 

「あ、勘違いしてんな。聖域とは関係ねえよ。俺が自分で稼いだ金だ」

 

 マニゴルドは腕を叩いてみせた。選り好みさえしなければ、世間には案外仕事が転がっているものだ。

 

「威張るんじゃない。余計に腹立つ。どうやって聖域を抜け出しているかは知らんが――いや言うな、聞きたくない――近場のロドリオ村で遊ばないのは、少しは後ろめたい自覚があるからだろう。いい加減に改めないと、どんどん肩身が狭くなるぞ。おまえの品行の悪さや評判が猊下のお耳に入ったら、お嘆きになるだろう」

 

 そのくらいで嘆いていたら自分の師は務まらない。元来がふてぶてしい弟子はそう思うが、黙っておいた。

 

 やがて二人の若者は人里離れた荒野に立ち入っていた。まもなく聖域だ。アンサーが立ち止まった。

 

「悪いが、ここからは離れて歩いてくれないか。嫌なことを言っている自覚はあるんだが……」

 

 聖域一の遊び人としての悪名ばかり高くなったマニゴルドは、気まずそうな相手のために笑った。

 

「気にすんなって。おまえにも立場があるってことくらい分かってるさ。先に行けよ」

 

「済まん」

 

「任務お疲れ」

 

 かつての候補生仲間は頷き、聖域へ続く岩山を登っていった。後ろ姿はあっという間に見えなくなった。

 

 一人となったマニゴルドは振り返り、来た道を遠く眺めやった。

 

 残日の黄色い光が大地に突き刺さっている。岩々は夕陽に磔にされた苦痛を、悲鳴を上げる代わりに影を伸ばすことで耐えていた。

 

 彼は再び前を向き、積尸気に通じる穴を開いた。雑兵や聖闘士に見咎められずに俗世へ出入りするための、積尸気使いならではの「近道」である。

 

 十二宮を抜ける階段は、このところ全く使っていない。彼の素行を心配して説教をしてくる者に、冷ややかな侮蔑の視線を向けてくる者。何か言いたそうにして何も言ってこない者。そういう鬱陶しい連中がいるからだ。

 

 積尸気経由で教皇宮に帰ったマニゴルドは、夕食の場で師と顔を合わせた。

 

「今日は早いな」と師が言う。

 

「まあな」とだけ弟子は答える。

 

 その日マニゴルドがどこで何をしていたか、二人は話題に上げようとしなかった。必要がない。セージは弟子の普段の行動を知っている。

 

 アンサーのように誤解する者は多いが、マニゴルドの悪所通いは遊興ばかりが目的ではない。より多くの人と触れ合うためである。

 

 彼は機会さえあれば聖域を抜け出して、世間に交わることを修行としていた。酒場で見知らぬ者と喧嘩するのも、年寄りの昔話に付き合うのも、賭博に一喜一憂するのも、女に溺れてみるのも、他の観客と一緒に滑稽芝居に笑うのも、人足やそれより危険な仕事で日銭を稼ぐのも、目的は同じだった。

 

 すなわち生者と触れ合うこと。

 

 剥き出しの欲望や本音で生きている者たちは、正に荒波に揉まれてゴツゴツと互いを削り合っている石だった。中にはそのぶつかり合いにも負けて、柔らかな泥に沈んでいく石もいた。かつてのマニゴルド自身が、その泥に頭の上まで浸かっていたようなものだった。

 

 けれどその泥の世界すら、聖域という特殊な環境で数年を過ごした後では新鮮に見つめることができた。死霊だけを友としていた頃とは違う世界が、彼の前に広がっていた。

 

 夕食の後、マニゴルドはいつものように二人分の茶を淹れた。部屋に用意されていた法衣に気付き、教皇に尋ねる。

 

「明日は何か行事あんの?」

 

「ああ。牛飼座の候補が仕合を行う。同格の白銀聖闘士に打ち勝てば、それを以て聖衣を授けようと思う。……おまえも見に来るか」

 

 弟子は返事の代わりにさりげなく切り出した。

 

「俺もそろそろ蟹座になっても良いと思うんだけど」

 

「否。まだ早い」

 

 この数年、師弟の間で毎月のように繰り返されたやり取りだった。弟子が聖衣の継承を願い出ては、その度に師に却下されている。

 

 それを受けて弟子は、大人しく引き下がる時もあれば、なぜ駄目なのかと食い下がる時もあった。この日のマニゴルドは後者の気分だった。

 

「一体何すりゃ認めてくれんだよ。お師匠が俺に何をさせたいのか全然解んねえ。今だって見当違いな努力してんじゃねえかって思うんだ。間違ってるならどうすりゃいいのか教えてくれ。お師匠だって、他人から白い目で見られる不肖の弟子なんて嫌だろ」

 

 セージは微かに目を細めて、彼を見つめた。

 

「仏陀の弟子にチューラパンタカという者がいる。前にこの者の話をしたことがあるな」

 

 覚えがなかったが、口にしても無駄だろう。二人で海に行った頃から、師は、物事を以前のように懇切丁寧には教えてくれなくなった。思い出したように教えてくれることはあっても、基本的には「自分で調べろ」「自分で考えろ」と突き放す。まして過去に教えたことを浚い直してはくれない。

 

 弟子の沈黙を肯定の返事と受け取ったのか、セージは視線を茶器の中に戻した。「温いぞ」

 

 腹が立った。

 

 マニゴルドは無言で茶を一気に飲み干し、席を立った。

 

 

 結局、彼は牛飼座候補の仕合を見に行った。師が誘ったのには理由があるのでは、と期待したのだ。

 

 久しく足を向けていなかった闘技場。近づけば土煙の中、二人の人物が対峙しているのが見えた。人だかりを避けて道の端から遠目に観戦することにした。

 

 どちらもマニゴルドより若い。十三、四といったところだろう。技倆も、小宇宙の扱い方も、彼の目には稚拙に映った。片方は現役の白銀聖闘士という話だが、とても見ていられない。会場に飛び込んで二人まとめて叩き伏せてやりたくなったほどだ。彼らがセージの弟子であれば、すぐさま師から手厳しい批判が飛ぶだろう。

 

 仕合を見守っている教皇の表情は読めなかった。少なくとも呆れている様子はなかった。

 

(俺のほうが強いのに)

 

 それにも関わらず、こうして彼らの後塵を拝している己は何なのか。マニゴルドは試合内容に興味を失った。数分もすれば挑戦者が勝つことは見えていた。

 

 見物人に目を向ければ、さすがに知った者が多かった。聖闘士も、候補生も、雑兵もいる。しかし候補生の集団の中に、ちらほらと知らない顔が増えていた。いずれもマニゴルドが初めて聖域に入った頃の年代だった。彼が最後の修行という沼に溺れている間に、あの子供たちは、その上をあっさり飛び越えていくかも知れない。

 

 頭の中に誰かの言葉が甦る。

 

『俺の実力なら十分に狙えると言われ続けて……、諦めきれずにいつの間にかこの歳だ。周りの候補生は皆、俺より年下になっちまった。情けないし、頭にくる』

 

 全く同感だ。慰め合いたいほどに共感できる。いったい誰が言った言葉だったろう。

 

 思い出して、目眩がした。咄嗟に木に寄りかかる。それほどの衝撃だった。

 

 それは、聖衣を得るために競争相手を陥れて殺した者の言葉だった。

 

 自分より劣っているはずの者に追い抜かれる屈辱。焦燥。それゆえの卑屈。砂地獄に落ちていく精神。

 

 当時それを聞かされたマニゴルドは、自嘲した者の心情を理解するには若すぎた。今なら分かる。あの年かさの候補生は、近い未来の彼自身だった。

 

 かつて軽蔑した者と同じ心境に堕ちるまで、同じ魔が差すまで、どれほど猶予があるだろう。

 

 ――このままではいけない。

 

 今までに覚えの無いほど強く、頭痛がするほど強く思った。

 

「大丈夫か」

 

 不意に肩を叩かれた。牡牛座の黄金聖闘士だった。

 

「酒の飲み過ぎか? 顔色が悪いぞ」

 

「放っとけ。大人しく仕合見てろ」

 

「相変わらずの堕落っぷりだな」ハスガードは歯を見せて笑った。「イリアス殿が戻ってきたら、おまえをしごいてもらおう」

 

「何でいきなりおっさんが出てくるんだよ」

 

「なんだ、面識があったのか。実は新大陸のほうにいらっしゃるという情報が前からあって、ずっと探索の任務を願い出ていたんだ。それがようやく認められた。長い船旅になるから、捜索自体に掛けられる日数が少ないのが問題だな。計画的に動かないと」

 

 そう言う青年は、既に探し人が見つかったかのように嬉しそうだ。

 

「呼び戻してどうすんだ」

 

「聖戦に備えるにあたって、経験豊富な方の助言が欲しくてな。お体の調子が良くないルゴニス殿には、あまり負担を掛けられないだろう。イリアス殿は最強の黄金聖闘士だ。組み手の対手をして頂いたら、それだけで世界観が変わる。だらけきったおまえでも真っ当な候補生に戻れる。そうしたら蟹座の称号もすぐに譲られるはずだ。なあ」

 

 ハスガードは微笑んだまま、マニゴルドの頬を手の甲で叩こうとした。マニゴルドはその厚い手を掴んで遮った。ハスガードの表情が引き締まった。掴まれた手を引き抜いて、逆にマニゴルドの手を包もうとする。目が本気だ。二人の攻防は、マニゴルドがハスガードの手首を打ったことで終わった。瞬きよりも短い時間での出来事だった。

 

 闘技場のほうで歓声が沸いた。無論、場外の一瞬の戦いに向けられたものではない。

 

「マニゴルド。肉体は正直だぞ。俗世で遊んでいるというのは、何かの偽装か」

 

「嘘でもふりでもねえよ」

 

 何か複雑な事情があるなら、と言いかけてハスガードは躊躇った。「……聞く気はないが、一緒に新大陸に行くか?」

 

 マニゴルドは相手の気遣いに軽く笑った。

 

「止めとく。船は酔ったことあるんだ」

 

 

 ハスガードが任務に出た後も、マニゴルドの俗世通いは続いた。

 

 ある日、師からジャミールの長老宛の書状を預かった。聖域一の遊び人に成り下がっても、セージの弟子までは辞めていない。彼はすぐにジャミールへ飛んだ。

 

 教皇からの書状を一読したハクレイは、返事を書くので一晩待つようにと言った。

 

 山に抱かれた天空の集落。訪れたのは数年ぶりだが、何も変わっていなかった。

 

 修復師の工房を窓から覗くと、少年が一人で作業をしていた。明かり取りの窓が遮られたことに気づいて、少年は顔を上げた。利発そうな面立ちになっていた。

 

「長はご自宅だ。用があるならそちらへ回ってくれ。でなければそこをどいてくれ」

 

 大人びた物言いに、マニゴルドは口角を上げた。「シオンのくせに偉そうに」

 

 声だけでは正体が分からなかったのだろう。シオンは訝しそうに窓の近くまでやって来た。「……マニゴルド?」

 

「当たり」

 

 少年の表情はめまぐるしく変わった。最初に浮かんだ喜びは何かに押し留められ、躊躇いに変わる。そして困惑に横を向き、再びマニゴルドに向き直った時には、微かに顎を上げて侮蔑を示そうとしていた。

 

「ろくに修行も仕事もしない、聖域の穀潰しが何の用だ」

 

「ひでえ言われようだな。誰から聞いたんだよ」

 

「聖域から来る者におまえのことを尋ねると、皆そう言うんだ。本当なのか」

 

 シオン少年がマニゴルドの行状の悪さを信じるまで、それなりの葛藤があったようだ。嘘だと否定して欲しい、と目が必死に訴えていた。ところがこの若者は、自身を善人だと思っていない。子供の願いをあっさり打ち砕いた。

 

「憧れのマニゴルドお兄ちゃんがろくでなしで、ごめんなあ」

 

「……誰もおまえなんかに憧れてない! 女の尻でも追いかけてろ、馬鹿!」

 

 音高く窓が閉ざれた。やれやれと芝居がかった仕草で首を振って、マニゴルドは工房を離れた。

 

 その日は長老の館で世話になった。しかしハクレイは姿を見せず(弟への返信を書いているのだろう)、訪う者もなかった。おまけにギリシャとジャミールでは時差があり、夜になってもすぐに眠る気になれなかった。

 

 マニゴルドは馴染みの場所に行くことにした。

 

 地上のどこにもない場所――黄泉比良坂。そこは大穴を中心とした世界である。噴火口のような大地のひび割れの奥には、冥界があるという。

 

 不思議なことに、マニゴルドがそれまで地上のどこにいようと、霊体だけだろうと肉体を伴っていようと、積尸気を抜ける度に、大穴は必ず少し離れた場所に存在していた。穴から遠い場所には何があるのかと、ひたすら地平線を目指して駈けたことも一度ならずある。しかし走り続けてふと気づくと、大穴はいつも彼の行く手に待ち受けていた。

 

 大穴が至る所にいくつも存在しているのか。それとも積尸気使いであろうと黄泉比良坂の存在意義、その求心力から逃れることはできないのか。人たる身には確かめようがなかった。

 

 さて、彼はいつものように積尸気を抜けて薄暗い世界にやってきた。地面に降り立つなり、大穴を頂上に抱く丘を見やる。その付近に何かの気配があった。

 

 冥王の兵である可能性が思い浮かび、彼はニヤリと笑った。せいぜい冥闘士《スペクター》とやらの面を拝ませてもらおうと、マニゴルドは亡者に混じって坂道を登った。

 

 大穴の向こう側の縁に、剃髪の少年が座っていた。

 

 見たところマニゴルドとシオンの中間くらいの年頃である。目を瞑り、両手を組んだ足の上で軽く合わせているところからすると、瞑想中だろうか。身を投げる亡者に次々と衣の裾を踏まれていたが、気にした様子はなかった。

 

 これは冥闘士ではない。霊体だけだが亡者とも違う。生者だ。同類か、と積尸気使いはしばらく少年を眺めていた。

 

 やがて少年は彼に意識を向けた。目を閉じたまま身動きすらなかったが、マニゴルドにはそう感じられた。そして二人は相手が求めているものを知った。

 

 少年は人の苦しみを感じ取れるがゆえに自らも苦しみ、苦行の先に悟りを見出そうとしていた。悟りと救いを求めて魂は肉体を離れ、地上を離れ、この黄泉比良坂まで辿り着いた。彼は積尸気使いではない。誰にも教わっていない。それでも、己の求めるものがどこかにあると信じて、生者には縁のない世界に乗り込む術を身に付けた。

 

 そんな少年の覚悟を知り、マニゴルドは自分を恥じた。求めるもののために未知の世界に乗り込もうという気概は、自分にはなかった。

 

 海に入れと師に言われて、それに従ってきたつもりだった。しかしこの少年の前では、浅瀬で水遊びをしていたようなものだ。荒海で揉まれてきたと胸を張ることはできなかった。蟹座の称号を得られないのも当然のことだった。

 

 ――このままではいけない。

 

 マニゴルドは両の拳を握りしめた。

 

 気づくと、剃髪の痩せた少年は姿を消していた。生者の世界に帰ったのだろう。

 

 

 翌朝、ハクレイは返信をマニゴルドに託した。

 

「なにやらすっきりした顔をしておるな」

 

「ん。やること思い出した」

 

 マニゴルドは答え、長老の後ろに置かれた仏像に目をやった。ジャミールの民はチベット仏教を信奉している。ハクレイ自身はアテナに拳を捧げているが、ジャミールの長としてはまた別の話である。

 

「なあハクレイさん。仏教絡みの言葉だと思うんだけど、チューラパンタカって知ってるか」

 

「ああ。周利槃特なら有名よ。なるほど、セージか。相変わらず弟子に甘い」

 

 老人は経緯を察して一人で笑う。それから快く教えてくれた。

 

 ――周利槃特は物覚えが悪かった。自分の名前すら覚えられずに、名前を書いた札を身に付けていたほどだ。兄と一緒に仏陀の弟子になったはいいが、師の教えが何一つ理解できない。覚えられない。他の弟子たちにも馬鹿にされてばかりだった。そこで他の道を探せと兄に諭された。

 

 教団を離れがたく、また己の愚かさを嘆いて周利槃特が泣いているところへ、仏陀が来た。仏陀は彼を慰めて言った。

 

『自分を愚かだと知っている者は愚かではない。自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である』

 

 そして彼に毎日掃除をするよう言った。来る日も来る日も、周利槃特は二十年も愚直に掃除を続けた。あるとき、催し事のためにいつもより念入りに掃除することになった。日頃は動かしたことのない置き物をどかした途端、周利槃特はそこに埃が山のように溜まっているのを見つけた。そこで周利槃特は思ったそうだ。

 

『塵や埃はあると思っている所だけにあるのではない。無いと思い込んでいる場所にも、意外に溜まっているものだ』と。

 

 その気付きが初めの一歩となり、彼は悟りを得た。やがて兄と共に、仏陀の弟子で特に優れた代表的な十六人の一人に数えられるようになったという。

 

「おぬしが未だに称号を得られないことには意味がある。考えろ。出来ることは全てやったのか。……まあ、そんなところじゃろうて。ひょっとすると、おぬしのような出来の悪い弟子が一人前になるには、二十年掛かって当たり前だ、という嘆きかのう」

 

「二十年も掛かって堪るか」

 

 マニゴルドは両頬をぱしりと叩いて立ち上がった。

 

「なんじゃ。もう行くのか。仏教に興味があるなら、上と少し話をしていっても良いぞ」

 

「上?」

 

「言わなんだか。最近ここに子供を引き取ってな。今は二階におる。おぬしとシオンのちょうど間くらいの歳じゃが、聡明で慈悲深いために、歳に似合わぬ苦悩を背負っておる。仏門で修行をしていたから、仏教の話ならあやつもきっと乗ってくるじゃろう」

 

「気難しいガキの話し相手になれってか。嫌なこった。俺は子守じゃねえんだよ」

 

 若者は手紙を懐に、さっさと退散した。その「気難しいガキ」こそ、前夜に黄泉比良坂で会った少年だと知らぬままに。

 

          ◇

 

 横たわる白い山脈を旅人が往く。

 

 丸い肩の峠を越えて、脇腹までは下り坂。くびれて跳ね上がった腰から前に進むと、腹の丘に出会う。右に行けば温かな乳房の小山が二つ。丘を回り込んで左に行けば、谷間の奥に神秘の泉。

 

 それまで横向きになっていた山脈は仰向けになった。手の旅人は宙に浮いた。そして冒険を続ける気を無くしたのか、持ち主の体の横に乗せられた。

 

「なにかあったの?」

 

 山脈は女に戻って尋ねた。久しぶりにふらりと訪れた若い客が、彼女の体の線を確かめるように、手を肌に添わせてきたのだ。嫌悪感は覚えなかったが、今までにない行為だった。

 

「もうあんたとも今日が最後だからさ」

 

「どうして? 親方に叱られたの?」

 

 尋ねた声は自分でも驚くほど大きかった。客の若者も少し目を見張った。

 

「お師匠は関係ねえ。そうじゃねえ。しばらくこの町に来ないつもりなんだ。修行でちょっと遠くに行く」

 

 若者の視線は窓の外へ向けられた。横顔には決意がありありと見てとれた。これまで見たことのない、どこか高潔ささえ感じる横顔だった。

 

 本当に遠くに行くんだ、と女は思った。この若者に抱かれている時、彼の体の向こうが、どこか知らない場所へ通じている気がしていた。

 

「遠くって、どこまで行くの。どれくらい掛かるの。何の修行なの。修行が終わったら何の職人になるの」

 

「尋問かよ。行き先は一ヶ所じゃ済まねえだろうし、何年掛かるかも分からねえし、そもそも修行内容を口で説明するなんて無理だ」

 

 初めて色々と尋ねたことに、初めて色々と答えてくれたが、ほとんどが無意味だった。

 

 ねえ、私も連れてってよ。

 

 その言葉だけは飲みこんだ。女は若者の胸に手を触れた。

 

「修行が終わったら、戻ってくるんでしょう?」

 

「まあ、そうだな」

 

「じゃあその時また来てよ。数年もしたら私、この町一番の高級娼婦になってると思うけど、あなただけ特別に安くしてあげる」

 

「お、いいね。この町どころかギリシャで一番になってても会いに行くぜ。でも誰かの女になってたら、どうする? スルタンとかさ」

 

「忍び込んでくればいいじゃない。梯子を用意しとくわ」

 

 町の娼婦がハレムに召されることなど、万が一にもなかったが、女は澄まして請け負った。若者は楽しそうに笑った。

 

 別れ際、その若い客は名前を教えてくれた。後で一人になった時に、マニゴルドという耳慣れない響きを口にして、女は少しだけ泣いた。そしてそれきり、彼のことはきっぱりと忘れた。

 


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