【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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愚か者の旅立ち

 

 教皇の間は、アテナやその代理人たる教皇が、公に聖闘士に対面する場所として存在する。

 

 鏡と化すほどに磨かれた大理石の床。大理石と数種類の花崗岩を使った、物言わぬ巨人のような重厚な列柱。窓から差し込む光に照らされたその空間は、不思議な静粛さと清潔感に満ちている。

 

 慣れないうちは、その独特の雰囲気に呑まれる者もいる。任務から帰還し、たった今、教皇の御前で報告を終えた聖闘士も身を固くしていた。しかし彼が身を竦めているのは別の理由からであった。

 

「そうか。イリアスが死んだか……」

 

 教皇の独語に、跪いている聖闘士はますます巨躯を縮めた。

 

 古代の英雄のような逞しい肉体を誇る黄金聖闘士。牡牛座のハスガード。

 

 彼は、獅子座のイリアスを召還するという命を受けて海を渡った。大西洋を定期運航する船はまだなく、貨物船に便乗する形での船旅である。イギリス・リヴァプールで出航を待つこと一ヶ月。風向きが悪く航海にも二ヶ月以上掛かった。そして海の向こうでイリアスとの接触に成功したが、帰還することには同意してもらえなかった。ハスガードは説得を続けるつもりだったが、直後に冥闘士の襲撃を受けてイリアスが落命。かの地に亡骸を葬って引き上げてきた。帰りは船の空きが出るまで三ヶ月近く待ち、航海は三週間だった。

 

 つまりは八ヶ月近く掛けて任務に失敗したわけだが、それ自体にはセージは落胆していない。

 

 そもそも今回の任務は、教皇の命という形を取ってはいるが、ハスガードの再三の上申に根負けして許可を与えたのが実際のところだ。誰を送り込んだところで、イリアスを呼び戻すことはまず無理だ。最初からそう思っていた。イリアスは風だ。風だった。風を手中に留めることはできない。

 

 それでも戦闘以外の場所で、ハスガードの意外な才覚が発揮されたら儲けもの。それが人捜しの才能だったら、シジフォスのアテナ捜索に協力させても良い。その程度の期待で送り出した。

 

 申し訳なさそうにしているハスガードに、セージは優しく言葉を掛けた。

 

「黄金聖闘士といえど人は人。イリアスが死んだのは仕方ない。しかしあの者が並の冥闘士を相手に後れを取るというのも俄には信じがたい。ハスガードよ。イリアスの最後の戦いぶりは如何なものであった。相手は誰だ」

 

 若者は正直に分からないと白状した。

 

「戦いは見ていないのです。イリアス殿は冥闘士の襲撃時期も、敵の狙いが自分であることも予想していました。しかし、相手が誰かまでは……。森の向こうで激しい戦闘が始まった時、私は人々を避難させている途中でした。戦いの行方は気になりましたが、イリアス殿に頼まれた力のない人々を置き去りにすることもできません。後で現場に行った時には、竜巻が暴れ回った後のように荒れた森と、ひどく傷んだイリアス殿の遺体しか見当たりませんでした。しかし獅子座の聖衣を調べれば、その傷の付き方から敵の特徴を掴めるかも知れません」

 

「では、その聖衣はどこにある」

 

 ハスガードは戸惑い、目を瞬かせた。「先に戻ったのではないのですか?」

 

 イリアスの体を包んでいた聖衣は、埋葬のための穴を掘っている時にいつの間にか消えていたという。聖衣はただの防具ではない。ときに意志を感じさせるような、不思議な出来事を引き起こすことも記録されている。そこでハスガードも、てっきり聖衣が聖域に戻ったと思い込み、徒手で帰ってきた。

 

 しかし獅子座の聖衣は聖域にはない。

 

「あの黄金の輝きは無知な者の目にも美しく映るだろう。そなたが埋葬の用意でイリアスの側を離れている間に、何者かに持ち去られたのではないか」

 

 教皇の示した可能性に、牡牛座はあっと声を上げた。そしてその時初めて、イリアスにはレグルスという幼い息子がいることを報告した。

 

 その子供は避難の途中にハスガードの制止を振り切って父の所へ駆け戻り、そのまま姿を消してしまった。戦闘に巻き込まれて死んだものと、ハスガードは割り切った。辺りには冥闘士たちのものと思われる肉体の破片が散乱していたから。しかし死体を確認できなかったということは、生きている可能性もあるのだ。もし聖衣がイリアスの遺志を汲み取って動くことがあり得るなら、聖域に戻るよりは息子の側に留まって見守ることを選ぶだろう。

 

「そうです。きっとそうです。獅子座の聖衣は息子の傍らにあるに違いありません」

 

 セージは物憂く息を吐いた。

 

「きみは物見遊山にでも行ったのか。イリアス殿は連れ戻せず、息子は放置し、聖衣はみすみす奪われる」

 

 呆れたように言ったのは教皇ではない。牡牛座の入室によって伺候が中断されることになった、双子座のアスプロスだ。ハスガードが報告する間も、セージは彼を退室させることなく同席させていた。若い世代にとってイリアスは憧れの存在だった。同席させたのは、消息を知りたかろうという心配りのつもりだった。

 

 アスプロスは教皇に改めて発言の許可を求め、それが許されてから友人に向き直った。

 

「イリアス殿が戦死した動揺で、考えることを忘れたのか。それとも元々考える頭などなかったのか。考えろ。敵の目的は本当にイリアス殿だったのか? イリアス殿が敗れたのは、何か不利な条件を課せられたからではないか? 具体的には、戦場に向かったという息子が人質にされたからではないか? 息子の姿が戦いの後に見つからないのはなぜだ? 敵に連れ去られた可能性は? 獅子座の聖衣が消えたのも、父子の絆を利用して敵が奪ったのだとしたら? 敵の情報を得るには、聖衣よりもイリアス殿の遺体についた傷を調べるべきだ。きみは調べたか? 傷は何種類あった? 黄金聖闘士ならそれくらい判って当然だろうな」

 

 矢継ぎ早な質問に、ハスガードはろくに答えられなかった。見ていて痛ましいほどに悄然としてしまった。お陰でセージは彼を叱責する必要がなくなった。アスプロスが意図的にそうしたのだとしたら、大したものだ。

 

 セージはアスプロスが問題にしなかった、おそらくは気にしていなかった部分について尋ねた。

 

「イリアスの息子は父を失った。母は無事か」

 

「イリアス殿の奥方はすでに亡くなっているそうです。親戚くらいはいると思われますが」

 

「そなたが避難させた集落に、レグルスの安否を気にする者はあったか?」

 

 いなかったという。

 

「では、保護を期待するのは無理だな」

 

 寄る辺を無くした子供。野良犬の目。セージの脳裏には出会った頃のマニゴルドの姿が浮かんでいた。また一人、あのような者が生まれるのか。胸が痛み、老人は眉をひそめた。

 

「子供のお使い以下だな。見ろ、猊下も呆れられている」と、アスプロスが口を挟んだ。

 

「まこと、私の認識不足でした」やおらハスガードが床に手を付いた。「猊下、この度の私の不手際はご寛恕賜り、今一度機会をお与え下さいませんか。どうかイリアス殿の遺児を探しに行くお許しを下さい。イリアス殿を召還させられなかったからこそ、彼の息子を見つけて保護いたしたく存じます。なにとぞ猊下。お願い申し上げます」

 

「見苦しいぞ、ハスガード。少し黙れ」

 

と、アスプロスは友人を牽制した。おそらくは、これ以上ハスガードが教皇の不興を買わないように。

 

「私からも申し上げます。先ほど申しましたように、獅子座の黄金聖闘士の死とその息子の行方について、敵に何らかの思惑がある可能性も考慮に入れるべきです。このまま捨て置くのは聖闘士全体にとっても由々しいこと。なにしろ獅子座の聖衣が失われたということは、この先獅子座に相応しい者が現れても、称号を与えることが叶わないということです。せめて聖衣だけでも取り戻すべきでしょう。まず捜索を行うべきはイリアス殿が亡くなられた場所。そして聖衣を持ち去ったかも知れない、その息子。派遣するなら、息子の顔を知る者が良いかと存じます。ゆえに牡牛座を推挙いたします」

 

「アスプロスおまえ、いい奴だな」

 

「黙ってろ馬鹿」

 

 若者同士の言い合いを聞き流しながらセージは考えた。結論。

 

「その申し出は却下だ。黄金位を派遣するほど差し迫った懸案ではない。聖衣は十中八九イリアスの息子と共にあるだろうが、父の遺品でもあることを思えば、強引に取り上げるのは忍びない。仮に敵の手に渡ったとしても、あの聖具を壊すのは不可能だ。壊そうとしても無為に力と時を浪費するだけだろう。我らとしては労無く敵を消耗させられるから、それもまた良し。獅子座の候補が現れた時は、聖衣の捜索と奪還をその者の試練としよう。己の身を守る聖衣くらい、己で探させよ。異論はあるか」

 

「ございません」とハスガードは納得してくれた。

 

 人には得手不得手がある。ハスガードは調査任務に向いていないようだ。名誉挽回の機会は他に見つけてもらいたい。

 

 もしイリアスの許へ赴いたのが射手座のシジフォスだったら、事態は少し変わっていたに違いない。

 

 実弟が来ても、イリアスの翻意はなかっただろう。しかし今やシジフォスは探索の達人である。アテナ捜索の合間にも、調べ上げた各地の情報を逐一報告してくれるほどだ。彼ならば、イリアスの死後、何もせずに撤収することはありえない。

 

 同じく地道な調べが得意なのが、意外なことにマニゴルドだった。独りで生きていた頃に磨かれた肌感覚に、セージの与えた知識と知恵が融合して、優れた追跡者という一面を彼に持たせていた。神官たちの起こした事件では、その一面が役に立った。

 

 彼なら獅子座の聖衣が消えたことに気づいた時点で、盗まれたと判断して捜索を始めるだろう。蛇の道は蛇。後ろ暗いことをする時の人間の行動と心理について、彼は熟知している。必ず持ち去った者を見つけるはずだ。

 

 更に言えばマニゴルドは積尸気使いだ。イリアスが死んだ直後であれば、黄泉比良坂に飛んで本人に事情を尋ねるという荒技が使えた。それができたら、敵についての情報を今よりも掴めたことは間違いない。

 

(そうだ。あやつを送ろう)

 

 黄金聖闘士の失敗した任務の後始末に、格下の聖闘士を送るのは、体裁が悪いし理屈が合わない。自然なのは、イリアスの肉親であるシジフォスが「自発的」に、甥の保護へ向かうことだ。そのついでに「なぜか」獅子座の聖衣も発見してきてもらう。そうできれば良かったが、あいにくシジフォスはアテナ捜索で各地を巡っている多忙の身。次善の策としてセージはマニゴルドを使うことに決めた。公の任務として命じる必要がないのも理由の一つだが、外地に行かせたかった。

 

 弟子が蟹座の聖衣を継ぐための最後の修行に苦労していることは、セージにとっても心痛の種だった。

 

 人の生を知り、己の生を見つけること。

 

 俗世で人の営みを知ろうとする試みは悪くない。弟子が自分で考えたやり方だ。周囲の評判はセージの耳にも届いたが一蹴した。マニゴルドの心が堕落したわけではないことを、セージはよく理解していた。

 

 ところが数年経っても、修行を成し遂げたと認めることはできなかった。

 

 セージも悩んだ。弟子が一人前になったのを認められないのは、マニゴルドの側に問題があるからではなく、己のせいかとも考えた。後継者に対する目が必要以上に厳しすぎるのか、もしくは無意識に子離れしたくないのか。

 

 しかし冷静に考えても、言葉では言い表せない何かが弟子には足りなかった。殻を破るためのあと一突き。壁を越えるためのあと一歩。それが足りなかった。

 

 弟子はその一歩に苦しんでいた。それで目先を変えるきっかけになればと、先日ジャミールへの使いに出した。その甲斐あってか、送り出す前は鬱屈で曇っていた表情も、帰ってきた時には晴れ晴れとしていた。気合いを入れ直したようだった。それを裏付けるように、昨日は部屋を片付けていた。

 

 聖域から離れることが、マニゴルドに更に良い刺激となればいい。

 

 そう思いながら帰ってきたセージを、用人が教皇の従者を連れて待ち構えていた。二人とも表情が硬い。

 

「何かあったか」

 

「猊下、これを」

 

 用人が、従者がマニゴルドから預かったという書き付けを主人に手渡した。見間違えようのない弟子の字で記されていたのは、一言。

 

 ――行ってくる。

 

 それだけだった。

 

 そしてそれだけで充分だった。セージは理解した。

 

 いつもと同じように俗世に出かけるだけなら、弟子はこのような書き置きは残さない。奇しくもセージと同じ結論に達し、師から促される前に自ら聖域を離れることにしたのだろう。

 

 マニゴルドは揺籃を出ることにしたのだ。

 

 その意志が、簡単な一言に籠められていた。

 

 黙って書き付けを見つめているセージに、用人が恐る恐る当時の状況を伝える。

 

「この文をナーゼルに託される際、猊下のお世話は今後全て任せると告げられたそうです。料理番にも、もう自分の分の食事は必要ないと言い置かれていきました。他の使用人たちには、このことはまだ伏せてあります」

 

 従者はともかく、なぜ料理長に? セージは首を傾げたが、理由は単純だった。夜遊びで帰りが遅いマニゴルドに、用意した夕食が無駄にされてばかりで怒った料理長が宣言したことがあるそうだ。「飯が要らねえ日はそう言え。でなきゃもう金輪際てめえの分は無いと思え!」と。それ以来マニゴルドは、律儀にその日の食事の要不要を告げていたという。

 

 それが「もう不要である」ということは、教皇宮を去る意思表示に他ならない。

 

 セージは一度強く目を瞑り、開けた。主人の指示を待つ用人に言い渡す。

 

「相分かった。本人がそう申したのであれば、もう戻ってこないものと考えよ。教皇宮の者たちに隠すことはできまいから、いないという事実は明らかにしても良い。ただし神官や聖闘士に何か聞かれても、去り際のやり取りの件は答えさせるな。あの者の行動は教皇が命じたものである。答えさせるならそれだけに」

 

 蟹座の黄金聖闘士になるための答を探しに行ったのであれば、マニゴルドがセージの指示に従ったというのは偽りではない。

 

「かしこまりました」と、用人は安堵した様子で立ち去った。

 

 私室に着くと、セージは兜を外して、白髪頭を掻き上げた。不思議と心が軽い。清々しい寂しさだった。

 

 ふと、マニゴルドが使っていた隣室が気になった。

 

 以前覗いた時には、怠惰な若者の巣となり散らかっていた。今はただの空き部屋だった。部屋を使っていた者の痕跡は一切残っておらず、綺麗に片付けられていた。

 

 ところがセージの私室のほうで保管してあった少年の私物は、ほとんどそのまま残されていた。それどころか処分に困ったらしい品々が隣室から移されていたほどだ。現金だけ消えていた。

 

 以前の家出の時には持ち出されたナイフを手に取り、なんとはなしに鞘から抜く。曇った刃。

 

(もう今のあやつには必要ないのだな)

 

 頼もしいことだ。それでも金だけ持って行くあたりが弟子らしくて、セージは苦笑した。

 

 一方、従者は両手で捧げ持った兜をじっと見つめていた。

 

「どうした」

 

「この兜を磨くのは久しぶりだなと思いまして」

 

 そういえば、兜の手入れは従者の仕事だったはずなのに、いつのまにか弟子の毎晩の日課になっていた。どうしてそうなったのか、セージももう覚えていない。

 

「これからはまたおまえの仕事だ。頼むぞ」

 

「はい。それはもう」

 

 従者は、兜の装飾を愛おしむように指でなぞった。「しかしよく手入れされてますよ。私なんかよりずっと丁寧に」

 

 知っているとも。一瞬、セージの腹から怒りがこみ上げたが、すぐに穏やかに凪いだ。なにも相手はセージを責めようとして言ったわけではないのだ。

 

「隣の小部屋が空いたが、おまえが使うか」

 

 隣の部屋は本来、教皇の従者が使うための控えの間だった。けれど老いた従者には冗談交じりに断わられた。

 

「ありがとうございます。ですが、マニゴルド様がお戻りになった時にまたお使い頂きましょう。帰る場所を奪ったと思われたら、俺が恨まれます」

 

「帰る場所ということなら、この聖域全体がそうだろう。なにも部屋一つに拘ることはあるまい」

 

 喋りながらセージは、書卓に無造作に置かれていた箱を開けた。弟子が押しつけていった品の一つ、遊戯用のカードだ。元々は教皇への贈り物として書棚で埃を被っていた物だから、返されたというのが正しいかも知れない。弟子が聖域に来たばかりの頃は、たまに二人で遊んだものだ。

 

 蓋を開けた時の空気の動きで、一番上にあった一枚が滑り出てきた。

 

 荷物を担ぎ、杖を持つ一人の男。昂然と顔を上げて野を歩いている。描かれている絵は、今頃どこかを歩いているマニゴルドの姿のようだった。

 

「それでもやはり遠慮しておきます。もしかしたら事情が変わって、今日お戻りになるかも知れませんよ」

 

「……思うようにすればいい」彼は呟いた。「Aut viam inveniam aut faciam ――私は道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう、か」

 

「何か仰いましたか、猊下」

 

「いいや。何も」

 

 セージはそのカードを箱に戻した。

 

          ◇

 

 マニゴルドが姿を消して数日が経った。

 

 教皇宮の者たちは恩知らずと罵ったり、寂しがったりしたが、そういった反応はあくまで教皇宮の中だけに留まった。「聖闘士にもなれず俗世で遊び呆けていた落伍者」が去ったところで、今さら気にする聖域住人はいなかったからである。

 

 例外はアスプロスだった。早々に事情を聞きつけて教皇の所へ乗り込んできた。

 

「お弟子を調査任務に向かわせたそうですね」

 

「耳が早いな。誰から聞いた」

 

「知り合いの神官からです。そう処理するように教皇猊下直々に仰せつかったと申しておりました。真でございますか」

 

 セージは掛けていた椅子の肘掛けを指で叩いた。

 

「事実だが、何か不都合でもあったか」

 

「猊下のご意向に異を唱えるつもりはございません。ですが、そのご指示はお弟子の出奔を隠すためという説も耳にいたしました。根も葉もない憶測だとは思いますが、念のためにお聞かせ願いたい。マニゴルドは何の調査に行ったのでしょうか」

 

 肘掛けを規則正しく叩いていた指を止める。

 

 聖闘士もしくはそれに準ずる者が許可なく聖域を離れることは、通常、脱走罪と見なされる。聖闘士の掟では、脱走は死罪となるほど重い罪だ。マニゴルドの外出がこれまで見逃されてきたのは、彼に逃亡の意志がなく、毎日必ず帰ってきていたからだ。外出が気づかれ騒がれる前に、何食わぬ顔で戻る。聖域の一番外側を覆う結界の所で見張っても、いつのまにかそれを抜けている。まるで隙間風のように自由にふるまう彼から、脱走の証拠を挙げることは難しかった。

 

 しかし今は違う。聖域を去る意思表示をして実際に出ていったという事実がある。これは脱走だ、探し出して口を封じるべきだ、と主張する者が現れてもおかしくない。ただし追っ手を差し向けられたところで、大人しく捕まって死んでくれるマニゴルドではないだろう。徒労に終わればいいほうで、追っ手が返り討ちに遭う可能性もある。それは避けたい。

 

 避けるのは簡単だ。「弟子を破門して聖域から追放した」とセージが公言すれば良い。それで丸く収まる。けれど、口先だけでも師弟の縁を切ることはしたくなかった。もう二度と。

 

「イリアスの任務を引き継がせた。彼が長らく探索で各地を巡っていたことは、そなたも知っておろう。先日そのイリアスが亡くなったので、役目を引き継ぐ者が必要になったのだ」

 

 アスプロスは探るような目を向けてきた。

 

「さようですか。調査任務という名目は、イリアス殿の放浪癖を隠すための猊下のご厚意だった。弟のシジフォスからそう聞いたことがございますよ」

 

「さもあろう。命じた私とイリアス本人しか知らぬ密命であったからな」

 

「今度はマニゴルドがその密命に従っていると」

 

「然り」

 

 老いた教皇と若き黄金聖闘士は見つめ合った。

 

 先に目を伏せたのはアスプロスだった。

 

「分かりました。猊下がそう仰るなら、もう何も申しますまい。もし不審に思う者が現れたら、今のお言葉を伝えることにいたしましょう」

 

 手間を掛ける、とセージが労ると、滅相もない、と若者は首を振った。

 

「直談判に来る者があって、却って私も安心した。あやつの存在を気に掛ける者がないというのも、師としては悔しいのでな」

 

「そこまで猊下にお心を砕かせるマニゴルドが、少し羨ましくもあります」

 

「なに、弟子の出来が悪くて苦労しているだけのことよ」

 

 アスプロスは声を立てずに笑い、「猊下」と軽やかに呼びかけた。

 

「私が猊下のお弟子ならば、マニゴルドのようにご迷惑をお掛けすることも、勝手に出奔して猊下にお寂しい思いをさせることもありません。いかがです、私を弟子になさってみては」

 

 老人が気落ちしていると思い、慰めてくれているのだろう。アスプロスのように優秀な若者が弟子ならば、たしかに何も心配はない。セージの感情を荒立てることもない。

 

 長い間、セージの心は落ち葉に水面を覆われた古沼のように静かだった。様々な出来事や記憶はゆっくりと底に堆積し、風が吹いても水面を僅かに揺らすだけだった。ところがある日、その沼の辺に一人の少年が現れた。

 

 少年は遠慮無く沼に石を投げこみ続けた。水面は荒れ、落ち葉は沈み、底から噴き上がる泥が水を濁した。そうして長年の澱みが取り除かれた時、セージの心は滾々と湧いていた。もう枯れ果てたと思っていた感情が、新たに、豊かに生まれ続けていた。少年と向き合うのは、時にひどく体力と気力を要する勝負でもあったが、思い返せば人として満ち足りた時間だった。

 

「ありがとうアスプロス。しかし私の弟子はマニゴルドだけだ。そなたのように既に立派な聖闘士として独り立ちしている者におとうと弟子になられては、あやつも立つ瀬があるまい。気遣いには礼を言うが」

 

「そんな恐れ多い。ただの戯れ言にございます。二番手は私も好みませぬゆえ」

 

 若者は淡々と返し、部屋を出ていった。

 

 そして季節は移ろう。アーモンドの桜色の花が散り、葡萄の花の芳しさが風に漂う。日差しが容赦なく地面に突き刺さるのを避けて、人々はプラタナスの木陰に憩う。オリーブが丸々とした実を付け、月桂樹の実が紫黒色に変わる。楓の葉が紅葉し、白鳥の群が南下していく。くぐもった遠雷と共に雨が訪れ、雪が舞い積もり、やがてそれも溶けてクロッカスが咲き始める。

 

 いつしか教皇の弟子の名は、誰も口にしなくなっていた。

 


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