デジェルは師から譲られた聖衣と、大量の蔵書を携えて聖域にやって来た。最初に彼を迎えることになった番兵は、荷車を押し潰しそうな量の本を見て、どこの貸本屋かと思ったそうだ。
彼の師は水瓶座のクレスト。それまで最古参の黄金位として、遠い北の大地より聖闘士を見守り続けた重鎮だった。
デジェル自身も若くして該博深遠、博覧強記の人であることはすぐに知れ渡った。その噂を耳にした教皇は、彼を星見の丘に建つ小屋に招いた。
世界を見下ろす鐘楼のような、断崖絶壁の上。麓から決して窺い知ることのできない頂上は、一軒の平屋が建つだけの殺風景な場所だった。
建物の中は、学者の研究室に似た雰囲気だった。たとえば部屋の主だけが理解できる法則で並べられた書物。無造作に放り出された貴重な品。使い込まれた計測道具。時代の埃と日焼けした紙と、歴代の前任者たちの溜息が地層を成している書き物机。
その中でデジェルは、教皇を相手に知識を披露する羽目になった。老人は静かに話に耳を傾けていたが、若者の認識や理解が甘い部分があると容赦なく指摘し、更に深い質問を投げかけてきた。お陰でデジェルは、進講どころか教授の口頭試問を受ける学生の気分だった。
それが終わると、星見の助手を務めるよう言い渡された。試験は合格だったようである。
ある日のこと。机上に星図を広げて星の軌道を計算していたデジェルは、肘で本の山を崩してしまった。床に散乱した本を慌てて拾い上げ、埃を払う。と、本の間に挟まっていたと思しき紙も落ちているのを見つけた。
それを見たデジェルは首を傾げた。星見の初歩の初歩、教皇がわざわざ文字に起こすとは思えないような基礎知識が記してあった。
「猊下、申し訳ありません。これはどちらの本に戻しておけばいいでしょうか」
紙を一瞥するなり教皇は、「ああ、マニゴルドの覚え書きが残っていたか。戻さずとも良い。捨てておいてくれ」と言った。
星見の丘に立ち入りを許された先客がいるなら、新参者として挨拶をしなければ。そう思ってデジェルは何の気なしに尋ねた。「マニゴルドとはどなたですか」
すると教皇は言った。
「私の弟子だ。今はいない」
太陽が昇る方角が東である、と言うのと変わらない口ぶりだった。
デジェルが聖域に入ってからまだ日は浅い。知らない事の方が多い。けれど聖域の中枢に関わる事項や人物については、漏れなく伝えられているはずだった。教皇に近しい者がいれば、たとえばハクレイのことのように、間違いなく伝えられているだろう。それにも関わらず、今まで存在を伝えられていなかったということは、マニゴルドなる人物には何かある。
教皇に直接尋ねることは憚られたが、調べてみたくなった。デジェルは知識の収集家にして探検家。未知の事柄に対して貪欲だった。
【蠍座】
教皇の弟子の事を知りたいというデジェルの話を、カルディアは途中で遮った。
「だからって、何で俺が答えなきゃなんねえんだよ」面倒だ、という意志を表情と声色と身振りと、要するに全身で示された。
天蝎宮の守護者、蠍座のカルディアはデジェルと同じ年に聖衣を授かった。生まれ年も同じとあって、他の同僚よりも気安い間柄になるまで時間は掛からなかった。
「そう言わずに頼む。おまえなら猊下に気を遣って口を閉ざしたり、新参者相手に当たり障りのない無難な話に脚色したり、そういうことはしないだろう?」
「そりゃそうだ」
とカルディアも機嫌良く笑い、座り直した。
「確かにあいつの話は誰もしねえけど、もういない奴のことだからだろ。おまえに伝えなかったのだって、その必要がなかったからじゃねえの。勘繰るような裏はねえよ」
マニゴルドは、デジェルが来る一年前まで聖域にいた候補生だという。教皇の内弟子というのも事実で、候補生の宿舎ではなく教皇宮で暮らしていたそうだ。その更に数年前にカルディアが聖域入りした時点で、既に聖衣獲得を期待されていた実力者だったという(カルディアはその事実を認めるのも嫌そうで、彼にしては婉曲な表現を用いた)。
ところが、ある頃から修行を放り出して俗世で遊ぶようになった。評判は地に落ち、ついにマニゴルドは姿を消した。
「なぜ?」
「知らねえ。多分逃げたんだ」
どういう人物だったのか、デジェルは尋ねた。本来は誠実で堅実な性格だったのが、何かの拍子に身を持ち崩したのではないかと考えた。そうでもなければ、あの堅苦しい老人が弟子にするとも思えない。
しかしカルディアの語ったマニゴルド像は、思い描いたものとはまるで違った。
「嫌な奴だったぜ。調子が良くて、いい加減で、小狡くて、乱暴で、年上だからって偉そうにしやがって。おまけに死の匂いをぷんぷんさせてた。聖闘士になれなきゃ、何かやくざな稼業に手を染めるしかなさそうな奴だった。俺が来る前から、雑兵連中にまで糞ガキだの悪ガキだの言われてた。そんな奴が遊び人だか渡世人だかになったって、べつに不思議でも何でもねえ。なるべくしてなった、ってやつだ。だからそんな奴が消えた理由を調べても無駄だって俺は言ってんだよ」
「しかし放蕩暮らしになるまでは、曲がりなりにも候補生として修行していたと、おまえも言ったじゃないか」
デジェルは、マニゴルドが書いたという書き付けをカルディアに渡した。捨てろと言われた物だが、謎の人物に繋がる手がかりとして持ち帰っていた。
「どこで見つけた物だと思う」
なんとなく受け取ったものの、活字嫌いのカルディアは見るなり「知らねえよ」と突き返してきた。
「星見の丘で見つけたものだ。弟子が書いた物だと教皇猊下が仰った。子供の字じゃない。紙とインクの状態から見ても、せいぜい二、三年前。既にマニゴルドが堕落していたはずの時期だ。猊下がいくらお優しくても、そんな者にわざわざ星見など学ばせるか? 本人だって学ぼうとするか? おかしいだろう」
「おかしかねえよ。学んだ結果、才能がなかった。それで師弟揃ってマニゴルドが聖闘士になるのを諦めた。筋は通る」
カルディアは冷たく断言し、手元を見下ろした。右手の爪を弾く。
「だいたい、助手に選ばれて嬉しいのは分かるけど、おまえは教皇を買い被りすぎなんだよ。いくら偉くたって、所詮あの野郎の師匠だからな。俺があいつに殺されかけた後、仕返しで使っても良いって教皇に教えられた技がある。だけどあいつに仕掛けたら、逆にこっちが痛い目を見た。あのクソジジイは俺を騙したんだ。師弟揃ってろくでなしだ」
「カルディア」
デジェルが窘めると、カルディアはそれまでの冷淡さが嘘のように快活に笑った。
「でももう技は俺のもんにした。もうあの頃みたいな事にはならねえ。マニゴルドを見かけたらあと十四発、ぶちこんでやるって決めてるんだ」
【双子座】
自宮に戻ったデジェルは、書き付けを取り出した。
文字をなぞる。几帳面さよりは大雑把さを感じさせる筆跡。カルディアには散々な言われようだったが、マニゴルドは教皇から期待されていたはずだ。少なくとも星見の丘で学ぶ事を許されるほどには。デジェルが星見の助手に認められたのが、彼の代わりだったとしたら……。
「通るぞ」
外から声が掛かった。顔を上げると、双子座のアスプロスが教皇宮から下りてきたところだった。デジェルが知る限り、黄金聖闘士の中で最も教皇に接している時間が多い男だ。教皇からの信任も厚い。
「アスプロス。あなたはマニゴルドという人をご存知ですか」
「知っているが、それが何かな」
「星見の丘でこれを見つけたんです。猊下はご自分の弟子が書いたものだと仰っていました」
書き付けを見せると、アスプロスはそれを読んだ後、口角を上げた。
「なるほど。猊下に目をかけられたと有頂天になっていたところへ、過去からの陰が差したか。それともあわよくば猊下に取り入って、奴の居場所に収まるつもりかな。止めておけ。きみごとき新参者がいくら努力したところで、奴の代わりにはなれないぞ」
デジェルは頬と耳が熱くなるのを自覚した。それを楽しげに見据えながらアスプロスは喋り続ける。
「マニゴルドは猊下の唯一の弟子だ。他に弟子は取らないと猊下も仰っている。マニゴルドは奴なりに猊下を父のように慕っていたし、猊下もあいつを我が子のように慈しんでおられた。守護星座が同じという運命もあった。他人が成り代われる立場じゃない」
「では彼はなぜ姿を消したのでしょう。猊下ご自身から伺うまで、私はマニゴルドの名前さえ聞いた事がなかった。彼の存在を過去に葬りたいのだとしたら、その理由を知りたいと思うのはいけませんか」
ふむ、とアスプロスは笑いを消した。「奴が消えた当時のことは誰かから聞いたか?」
「おそらく逃げたのだろうと、カルディアは言っていました。あまり詳しいことは知らないようでした」
「そうか。あんなに『殺す前に逃げられた』と息巻いていたのに」
アスプロスは書き付けをデジェルに返した。
「奴が姿を消した理由について、当時有力な説が二つあった。一つは、十六歳を過ぎても正式な聖闘士に認められないことに業を煮やして、自ら出奔したという説。もう一つは、素行の悪さから師匠に愛想を尽かされ、放逐されたという説だ。いずれにしても猊下への批判に繋がりかねない憶測を孕んでいる。そこでマニゴルドに関する話題は、自然と禁句になった」
そういうことならデジェルも納得できる。弟子の出来が悪いのは、弟子に逃げられたのは、教皇に人を育てる力がないせい。そういう論調になるのを人々は避けたのだろう。マニゴルドの話を聞く相手は、慎重に選ぶ必要がありそうだ。
「ちなみにあなたの見解は」
「俺は猊下に直接伺ったからな。奴は密命を帯びて聖域を抜けたそうだが」アスプロスは腕を組み、教皇宮の方角へ目を向けた。「それも方便ではないかと思っている。実際のところはマニゴルド本人に聞かなければ分かるまい。だが死人に口なしだ」
「彼は生きているのでしょう?」
「死んだも同然だ。好き勝手に遊んで、好き勝手に出ていって、あの馬鹿。どこかで好き勝手に野垂れ死んだに決まっている」
と苦々しげに断言する。デジェルが「ご友人だったのですね」と言うと、相手は酸欠の魚のように口を開閉させてから、諦めたように頷いた。
【牡牛座】
双子座との最後のやり取りを聞いて、ハスガードは大笑いした。涙を拭き、「アスプロスを黙らせるとは大したものだ」とデジェルを賞賛した。
「その密命のことは俺もアスプロスから聞いた。方便ではなく事実だろう」
マニゴルドは教皇の指示で動くことが多かったという。体の良い雑用だと本人は零していたが、ハスガードから見れば、候補生に任せるには荷の重い仕事が多かったそうだ。
「単なる候補生ではなく弟子だったから、と言ってしまえばそれまでだ。でも猊下の期待と信頼を背負っているからこその働きだったと思う。普段の言動からはとてもそうは見えなかったが、有能な奴だったよ」
「だから密命を受けても不自然ではない、と」
ハスガードは少し迷った素振りを見せた。それから己の厚い掌を見下ろした。
「あいつが姿を消す前に、成り行きで少しやり合ったことがある。修行もせずに遊び回る姿が目撃されるようになってもう数年経っていて、落伍者という評価が定着していた。体も勘も鈍ったものと俺も思っていた。でも違った。あいつは俺の、黄金聖闘士の動きにも平気な顔で付いてきた。雑兵にもなれない落ちこぼれと蔑まれながら、弛まず鍛え続けていた。堕落したというのは嘘だ」
「え、ちょっと待って下さい」
とデジェルは話を遮った。
「するとあなたは、彼が周囲に見せていた遊興三昧の姿を、偽りだと考えているのですか」それではまるで、敵の油断を誘うために酒と女に溺れたふりをした、どこぞの軍師ではないか。
ハスガードは真剣な顔で頷く。
「遊興すると見せかけて、俗世に何かを調べに行っていたんだ。だから、あいつが姿を消した理由を問うことにも意味はない。密命を隠すための表向きの理由に過ぎないのだから。おそらく教皇宮の記録にも、マニゴルドは調査任務に出ていると記してあるはずだ」
これはとんでもないことになった。とデジェルは額に手を当てた。「ただ」と続けたハスガードの声に、顔を上げる。
「ただ、この意見はアスプロスにもシジフォスにも笑い飛ばされた。任務で失敗をした直後の俺が言っても、説得力がなかったんだろうな」
「任務に失敗?」
「まだ若い頃の話だ。今ならあんな考え無しに動いたりはしないさ」
若い頃と言っても、たかだか数年前の話ではないか。そう思ったがデジェルは黙っていた。
【射手座】
任務から戻ったシジフォスにも同じ質問をぶつけてみた。教皇の弟子はどういう人物だったのか。なぜ聖域を去ったのか。
「難しい質問だな」とシジフォスは頭を掻いた。長い旅暮らしの中で、日差しと風雨に晒され続けた髪は藁のようになっていた。
「まず知っての通り、俺はあまり聖域にいない。だから当時の状況を直接は知らないんだ。久しぶりに帰ってきて、そういえばマニゴルドの姿を見ないことに気づいて、聞いてみたら聖域から姿を消して半年も経っていた。そんな有様だ。俺が知った時には、もう彼の話題は過去のものになっていたよ」
「理由についてはご存知ですか。極秘任務に就いている、というハスガードの説を否定されたそうですが」
シジフォスは苦笑いを浮かべた。
「べつに友人を馬鹿にしたつもりはない。そう睨まないでくれ。実際にマニゴルドは猊下の指示で、聖域に関する重要な調べを水面下で進めていた事がある。だから荒唐無稽な説ではないと思う。ただ今回は違うだろうと俺は考えている。かつて同じように極秘の調査任務に就いていた別の人物を知っていてね。目的も似たようなものだろう。それがハスガードの想像と異なるだけで、教皇猊下に認められて行動しているという点に関しては、俺も同意見だ」
別の人物とは誰だろう、と思ったがそれは後回しだ。調べれば分かる。「その目的というのを伺ってもよろしいですか」
「済まん。俺からは言えない。聖域の未来を左右するような類のものではない、とだけ言っておく」
デジェルは黙っていたが、不満が顔に出ていたらしい。シジフォスは別の話をしてくれた。
「昔、まだ子供だったマニゴルドが教皇宮を飛び出したことがあった。師である猊下と喧嘩をして、向こうが折れるまで戻らないと言い張っていた。なんでもマニゴルドが聖闘士を志して、猊下がそれを許さなかったそうだ。意味が分からない? まあいいじゃないか。師弟は色々あるだろう。それからしばらくの間、あいつは麓の納屋で寝起きしていた。一日二日の短さじゃない。周りの大人があれこれと目を配ってやっていたが、本人は気づいていなかっただろうな。いつまで続くかと見ていたら、ある日、猊下ご自身が迎えにいらっしゃったよ。あの悪童は、膨れっ面で猊下と一緒に教皇宮に帰って行った。……マニゴルドが聖域を去ったという話を聞いて、真っ先に思い出したのがそれだった」
子供の家出ごっことは状況が違う、とデジェルは言った。もちろんそうだ、と男は穏やかに頷いた。
「またやっているのか、と思ったという話だよ。俺個人の感想だ。それでデジェルはどうしたいんだ。聴き取りをして、マニゴルドの人となりを知って、その後は」
知識を得て、満足して。その後は。
「……分かりません」
「まさかそんなことはしないと思うが、猊下の歓心を得る参考にするつもりなら、止めておけと言っておく。守護星座も同じだった。本人の実力も十分にあった。それにも関わらず猊下はご自身の聖衣を譲られなかった。あの方も他人に見えない所で色々抱えていらっしゃるだろう。下手に弟子の思い出を刺激すると、逆効果になりかねないぞ。いくら頑張ったところで、きみはマニゴルド本人にはなれない」
「あなたもアスプロスと同じような事を言う」
「そうか。珍しくあいつと意見が合ったか」
シジフォスは嬉しそうに笑った。
【山羊座】
デジェルはエルシドの所へも行った。
「そういうわけで、マニゴルドという人の件を聞いて回っています」
刃物のような雰囲気の男は、仲間である彼にも三白眼を向けた。
「俺以外にもあいつを知っている奴は大勢いる。今更なぜ俺に聞く」
「むしろなぜ今まで黙っていたんですか。越してきたばかりの隣人に近所の事情を教えてくれても、罰は当たらないと思いますが」
山羊座の磨羯宮と水瓶座の宝瓶宮は隣り合わせである。エルシドに聞くのが後回しになったのも、隣人だからいつでも聞けるという思いがあったからだ。
「べつにわざと黙っていたわけじゃない。聞かれなかったから言わなかっただけだ」
「では、こうして尋ねたからには答えてくれるのでしょうね」
ふんと短く笑い、エルシドは前方に目を戻した。二人の見守る闘技場では、候補生たちが汗と埃にまみれて訓練の真っ最中である。
「……あいつが聖域に来たのは、ざっと七年くらい前のことだ」エルシドは訥々と語り出した。「その頃は俺もまだ修行地に行く前でここにいたから、来た頃のあいつを知っている。色々あってあいつは教皇の弟子という扱いになった」
「猊下と同じ守護星座だと聞きました。そのために見出されたということですか」
男は黙り込み、しばらくしてから「違うと思う」と答えた。
「マニゴルドは、自分の守護星座をしばらく勘違いしていた。実は自分は天馬星座だと俺に打ち明けてから、それは間違いで実は蟹座の候補だったと訂正するまで、年単位で時間が空いている。俺が修行地にいたせいもあるが、猊下が初めからご自身の後継者として見込んだのなら、そんな勘違いは起こらないだろう」
静かな確信と共に紡がれる言葉。デジェルも思わず納得してしまった。
「ところで、彼が蟹座の候補だと明かしてくれたのは、いつ頃でしたか。もしや師の聖衣を継ぐという重圧に耐えかねて遊興に走ったのでは」
「時期的にはそうだな。あいつが聖域をちょくちょく抜け出すようになったのは、その後だ」
では、と気色ばむデジェルを、男は手で制した。
「あいつが隠密の調査を続けているとか、堕落して放逐されたとか、おまえももう色々聞いているだろう。事実はもっと単純だ」
「単純」
「マニゴルドは修行の旅に出たんだ。己を見つめ、研ぎ澄ますためには聖域だけでは足りなかった。そういうことだ」
これまでに聞いてきた話とは全く違う見解だった。正直、見当外れではないかと思う。デジェルは失礼にならないよう、そう考えるに至った根拠を尋ねてみた。すると一言、「勘」ということだった。
やはり後回しにして正解だったな、とデジェルは安心した。
【魚座】
デジェルが聖域に来て季節が一巡した頃、魚座のルゴニスが亡くなった。デジェルが生まれる前から十二宮を守っていた男だった。彼の死に伴い、魚座の聖衣はその弟子アルバフィカが受け継ぐことになった。
「知らねえおっさんが死んで、知らねえ奴がその後を継いだだけだ。興味ねえな」
カルディアの暴言をデジェルは窘めたが、内心は同感だった。ルゴニスと顔を合わせたのは、水瓶座着任の挨拶に行った時の一度きり。彼の後継者には会ったこともない。教皇の間に集まった他の黄金聖闘士たちも同じようなものだろう。魚座の師弟は、隠者のように他者との付き合いを断っていた。
やがてアルバフィカが数年ぶりに人前に姿を現した。同性ながら感心するほど美しい若者だった。しかし師を亡くしたばかりの顔は青ざめ、表情は乏しい。作り物のようだった。後で知った事だが、アルバフィカの魚座継承は、ルゴニスの死をもって完結するものだったらしい。他人にぶつけようのない怒りを押し込めて、若者は教皇に頭を垂れた。
教皇は威風泰然とした態度で、新たな黄金聖闘士の誕生を祝福した。それからアルバフィカに小声で親しげに囁いた。若者の肩が僅かに震えた。軽く頷き、教皇に言葉を返す。二人の態度を見るに、初対面ではなさそうだった。
立ち上がって振り向いた魚座は、広間を、そこに列席する黄金位を睥睨した。それは自らの存在を主張するようでもあったし、誰かを捜しているようでもあった。
散会の合図があった後で山羊座が話しかけた。
「アルバフィカ。俺を覚えているか」
「その目つきの悪さは見覚えがある。山羊座を授かったのか」
「今はエルシドと名乗っている」
「そうか、またよろしく」
ありきたりな再会の会話。アルバフィカは微笑すらしなかった。山羊座が手を差し伸ばすと、彼はそれを避けて身を引いた。
「悪いが触れてくれるな。いや、きみのせいではない。私の側の問題だ。この身体を流れる血は猛毒と化している。今の私は歩く毒壺のようなものだ。済まないが以前のような付き合いは期待するな。他の方々も、私には近づかないでほしい」
広間に残っていた者たちに淡々と告げて、アルバフィカは足早に去っていった。それから新しい双魚宮の主は、再び人前に出なくなった。
ある日、宝瓶宮にいたデジェルは上から駆け下りてくるアルバフィカを見かけた。
「通らせてもらうぞデジェル」
「あなたが」
そんなに急ぐとは珍しいな、と言い終える間に相手は走り抜けていった。魚座の代替わりから一年以上が過ぎていたが、初めてのことだ。デジェルも読みさしの本を置いて後を追った。アルバフィカは快足を飛ばして階段を飛び降りていく。
「何があったんだ」とデジェルは走りながら聞いた。
「今ハスガードから念話があった」
牡牛座は任務で外地に赴いたはずだ。それが寄越した連絡で魚座が動くとは、間違いなく火急の用件に違いない。
「彼はなんと?」
「放蕩息子を連れて帰ると。もう聖域に着く」
「放蕩息子?」
アルバフィカは朗らかに答を明かしてくれた。
「マニゴルドが帰ってきたんだ!」