目が合った途端、ハスガードの鼻先で戸が閉ざされた。閂の掛かる音で我に返る。今、目の前に現れたのは間違いなく彼だった。
「マニゴルド!」
ハスガードは、往来の人々に借金取りと間違われる勢いで、激しく戸を叩いた。「おい! なぜ閉めた! 開けろ!」
中から応えはない。ハスガードは躊躇わずに扉を蹴破った。奥へ駆けだす背中に手近にあった壺を投げつける。強靱な肩から砲弾並みの威力を与えられた壺は、男の後頭部めがけて飛んでいった。当たれば頭は西瓜のように割れてしまうだろう。男は振り向きざまに壺を叩き落とした。その一瞬を逃さず、黄金の雄牛は男に突進して床に組み伏せた。壺が派手な悲鳴を上げて破片へ変わった。
「なぜ逃げる。久しぶりに会ったのに」
「久しぶりに会ったからだよ」
と、苦しそうな姿勢と、ちっとも苦しくなさそうな表情で、マニゴルドは答えた。「聖域時代の知り合いに見つかったら面倒臭せえと思ってたけど、よりによって黄金かよ」
ハスガードは納得した。
「そうか。秘密の探索をしている最中だったな」
「なんだそれ」
「とぼけなくていい。教皇猊下から密命を受けたという話は俺も聞いている」
マニゴルドは一瞬黙り込み、なるほど、と短く息を吐き出した。それから退いてくれと言われたので、ハスガードは相手の背から下りた。逃亡未遂者は身を起こし、わざとらしく壺の破片を払い落とした。
「野郎に組み敷かれるなんて経験、二度としたくねえな」
「相変わらずだな。元気だったか」
「まあな。おまえはどうよ」
野次馬を追い払い、戸口を布で隠したマニゴルドは、ハスガードに茶と茶請けのデーツを出した。一応は客としてもてなすつもりのようだ。問われるまま、ハスガードはこの町へ来た経緯を答えた。それが一段落して相手に聞き返す。
「そう言うおまえは? ずっとここにいるのか」
「いいや。この町に来てせいぜい一月だ。聖域は地中海の向こうだし、聖闘士には見つからねえと思ったのにな」
「おいおい、ここは聖域の息が掛かった拠点だぞ」
「え、そうなの?」
と、マニゴルドは一段高い声を上げた。どうやら宿屋の主人は、裏の顔を隠したままこの男に接していたらしい。気づかずに留守番を引き受けた男は頭を抱えた。
「畜生。あのオヤジが聖域に通じてるとは思わなかった。自分から檻に飛び込んだわけか、俺は。間抜けすぎる」
「向こうもおまえの素性を知らないようだぞ。ここに来る前に市場で会ったが、素人に留守番を任せたと言っていた。俺より前に聖闘士に遭遇したことはないのか」
もし会っていれば、そこまで追っ手を警戒する必要がないことも分かっただろう。
「出くわす前にこっちで避けてたからな。基本的に青銅や白銀は小宇宙を馬鹿みたいに垂れ流してるから、遠くからでも察しやすい」
ハスガードも納得した。強大な小宇宙を持つ黄金位は、逆に、日常では極力小宇宙を抑えるのが習慣になっている。
「おまえも大分抑えているようだな。顔を見るまで気づかなかった」
「だろ。あんたのお墨付きも貰ったことだし、今からでも逃げようかな」
そんな事を口にしながら、彼はまだハスガードの前に座っている。ただの一般人を装っていても、他人の魂を自由に抜き取れるという積尸気使いだ。ハスガードの行動の自由を奪って逃げることは容易いだろう。ハスガードはその技を見たことがないし、抵抗の仕方も分からない。本気で逃げられたら追いようがなかった。
「ここに来る前は何をしていたんだ」
「色々。マドラスとかジャワとか、あの辺まで行ったぜ。マダガスカルでやってた海賊稼業も面白かったけど、すぐに飽きちまって」
ハスガードはどうにか茶を吹き出すことを堪えた。十七世紀から十八世紀にかけてのアフリカ東海岸からインド洋は、海賊が盛んに活動していた海域である。当時マダガスカルはその一大拠点として有名だった。
「船は嫌いだと言っていたくせに」
「言ってねえよ」
「密命を帯びての行動なんだろう。そう言ってくれ」
生返事の後、男はだらしなく両手を広げた。「俺が探し物をしてるってのは事実だ。俺の生をな。探してんの。だけど見つからねえんだよ。どこにあるか、あんた知らねえか」
煙に巻くつもりか、とハスガードは思った。この手の冗談をマニゴルドは昔から口にしていた。そして本心を明かしてくれない相手に、少しだけ落胆した。
「確かに人生に迷走していそうだが、これからどうするんだ。ここの亭主はおまえに宿屋の仕事を手伝わせたいらしいぞ」
男は肩を竦めただけだった。
「決めていないなら、一度聖域に帰ってこないか。探索が名分なら、きりのいいところで引き上げてもいいだろう。現に何度も戻ってきている者もいる」
「シジフォスか。そういや女神は見つかったのかよ」
「残念ながらまだだ。しかしそう遠くないうちにお迎えする事になるだろう。聖戦は近い」ハスガードは太い指を一本一本折っていった。「十二宮のうち、すでに八宮が守護者が立っている。おまえの出ていった後に新たに二つの黄金位が埋まり、別の二つが代替わりした」
同じように骨張った指を折って計算していたマニゴルドは、首を傾げた。「それなら九人じゃねえか」
「セージ様を巨蟹宮の守護者として数えていいなら、九人で正しいかな。同じように、宝瓶宮にも名目上ずっと守護者がいたんだ。俺も知らなかったんだが、後継者に譲られるまでクレスト翁が現役だったんだ。そこと双魚宮が代替わりした二宮だ。それでイリアス殿が亡くなられて獅子座が空位となったから、八人で合っている」
マニゴルドは興味深そうにハスガードを見返した。「あんたがあのおっさんを殺したのか」
あらぬ疑いにハスガードは急いで首を振った。「弔っただけだ。勝手に人殺しにするな」
「なんだ。渋い顔で言うから、てっきり後悔してるのかと」
意地悪く笑うと、男はデーツを一粒つまんだ。ハスガードは思い出した。獅子座を連れ戻しに行く旅に誘い、断られたのが、マニゴルドと聖域で交わした最後の会話だった。
「イリアス殿は冥闘士の襲撃に斃れたんだ。俺はあの方を葬っただけで、他に何もせずに引き上げてきた。あの方には小さい息子があったのに、何もせず、馬鹿みたいに手ぶらで帰ってきた。任務以外のことに何も気を配らなかった。アスプロスに絞られたのも当然だ。俺はイリアス殿の子供を見捨てたんだ。他に身よりもない小さな子供を」
当時を振り返る度に彼は胃の辺りに冷たさを覚え、掌に嫌な汗を掻く。
「そんな気にすんなって。ガキでも一人で案外逞しく生きていけるもんだ」と、マニゴルドは軽く受け流した。その軽さのまま言葉が継がれる。「その見捨てたガキの代わりに俺を連れ帰りたいんだな」
ハスガードは首を横に振った。
「イリアス殿の件で俺の評価は下がった。一度失った信頼を取り戻すには真面目にこつこつやっていくしかないが、好機があるなら無視する手はない。そこでおまえだ。消息を絶っていた教皇の弟子を連れて帰って、そいつが蟹座に就任すれば、俺も功労者と称えられて一気に汚名挽回だ。おまえも一人で帰るよりは、聖域側の仲介者がいたほうが気が楽だろう。どうだ、お互いのために手を組まないか」
デーツの種を吐き出し、マニゴルドは口角を上げた。
「挽回してどうすんだ。にしても、あんたがそういう事を言うようになるとはな。でも少し考えろよ、牡牛座のハスガードさんよ。そもそも俺は聖域に戻りたいなんて一言も言ってねえ。放蕩三昧の鼻つまみ者が戻ったって歓迎されるわけないし、戻ったところで蟹座になれるかどうか怪しいもんだ。前より弱くなったからな。それを無理に連れ帰っても、功労者どころか厄介を持ち込んだ大馬鹿呼ばわりされるのが精々だぜ」
「それは困ったな」と、ハスガードは深刻そうに腕を組んでみせた。「だけどおまえも、そろそろ帰りたくならないか」
「今まで一度も帰ってない、近づいてすらないってのが答だよ」
「それは脱走者扱いを恐れてのことだろう? だけど脱走しただの、追放されただのとおまえを非難する者には、正論で反論できるんだ。必要以上に警戒する必要はない」
男はむくれたように横を向いた。
「……でも俺はまだ戻れない」
手や爪に刻まれた労働の名残。横顔の輪郭の鋭さ。かつて周囲の空気をギラギラと突き刺していた激しい小宇宙は、死の気配と共に落ち着き、夜の海のように静かに彼を覆っている。最後に別れた時から三年。未熟な若者が大人になるには十分な時間だ。
「マニゴルド。本当に猊下から何かを命じられているなら、手伝ってやろうか」
「いや、いい」
「逆に俺の任務を手伝ってくれたら、大々的にその功績を聖域に伝えて、受け入れの下地を作ってやっても良いぞ」
男は横に首を振り、苦く笑った。ハスガードはそれをじっと見つめ、やがて膝を手で叩いた。
「止めた。やはり率直に言おう。俺はおまえと再会できて嬉しい。このまま別れるのは惜しい。この出会いはきっと星の導きだ。イリアス殿の子供を見捨てた俺に与えられた、最初で最後の機会だ。おまえを連れ帰るのが俺の使命なんだ。猊下のお怒りが怖いなら、一緒に叱られてやる」
「人をガキ扱いするな。叱られるのが怖いって、何だそりゃ。馬鹿にするなよ。こちとら叱られるのには慣れてんだ」
「じゃあ怖いものは何もないだろう」
押し問答の末、マニゴルドは音を上げた。
「しゃあねえな。確かにあんたと会ったのも何かの縁だろう。聖域には行ってやるよ。けど教皇はその場で改めて俺を追い出すはずだ。出直してこいって追い返されたら諦めてくれ。擁護は要らない。これは俺とあのクソジジイの話だから」
「……分かった。ありがとう」
やがて宿の主人が帰ってきた。扉の惨事に呆然とした様子だ。
「ワフディ、あの入口はどうした。何があったんだ」
「お帰りおっさん。何もねえよ。なあ、お客さん」
「ああ」
二人は何食わぬ顔で頷き合った。
「もしかして借金取りか何かが、おまえのところに押しかけてきたんじゃないだろうな。だったら尚のこと悪い仲間とは縁を切って真っ当に働け。な、ワフディ」
「縁切れってさ」マニゴルドは大男を盗み見て笑った。ワフドとは、ならず者や悪党という意味の言葉である。
ハスガードは睨み返した。「ワフディとやら。借金があるなら今のうちに清算しておけよ」
「あー、そういう事言うんだ。あのな、おっさん。そこの入口ぶっ壊して突っ込んできたのはこの人だ。俺は脅されて口裏合わせただけなんだ」
「それを言うなら、扉を開けなかったのも、入口の側に置いてあった壺を割ったのも、全部おまえだろう」
「あんたが投げつけてきたんだろうが!」
中年の亭主は、実に穏やかな表情で溜息を吐いた。ハスガードはすかさず財布を取り出した。
「亭主、これは詫びだ。足りなかったら言ってくれ」
「えっ、こんなに」
「この男の壊した分も入っている。それと一つ相談だが、この男を連れて行ってもいいか」
「道案内ですか。いいですよ。こいつも噂を持ち込んだ客の話を聞いてましたから、場所は知ってます」
「そうではなくて、聖域に連れて行く」
客の突然の発言に、亭主は驚きながらも喜んだ。
「……そうかあ。良かったなワフディ。この方は聖闘士という、生ける奇跡なんだ。その従者に引き立てられるなんて願ってもない幸運だぞ。頑張ってこいよ」
「どうかな。すぐに首になるかも」
何も知らない亭主の勘違いに合わせて、マニゴルドはとぼけた。ハスガードは彼を小突いた。
その後は手早く任務を片付けて、二人で聖域に戻ってきた。
◇
「――と、そんな次第だ」
ハスガードは話を結んだ。カルディアとマニゴルドの「じゃれ合い」は、まだ続いていた。
結界の外は酷い有様だった。地表は抉られ岩は割れ、塵となって大量に舞い上がっている。その塵が二人の男の起こす小宇宙の摩擦で帯電し、極小の雷を混沌と孕んでいる。その中で二人は拳と罵倒を激しく応酬し合っていた。ほとんどの者が結界の内に引き上げていて影響を受けていないのが幸いだった。
デジェルが風に乱された髪を押さえながら言う。
「つまり彼は本気で聖域に押し入るつもりはないんですね」
「ああ。俺の顔を立てて来てくれただけだ。猊下には認められないと当人は決めつけている」
アルバフィカが首を傾げた。その時、
「この騒ぎは何事だ!」
と、鋭い一喝が空まで響いた。一瞬にして辺りを制した小宇宙に頭から冷や水を掛けられた気分で、二人の男も動きを止めた。
双子座のアスプロスである。彼は静まりかえった場に乗り込むと、辺りを見渡した。
「これほど多くの者が持ち場を離れて聖域の外れに集まるとは、どういうつもりだ。騒ぎに乗じて敵が侵入したらどうする。平時であっても聖域の防衛は怠るな。……いや、白銀以下の者たちに罪はないな。上に立つ黄金がだらしないのが悪い。十二宮を空けて喧嘩見物に現を抜かしている者たちの自覚のなさを責めるべきだった。とくに蠍座。騒ぎを起こす側とは言語道断」
睨まれたカルディアに「やーい。怒られてやんの」と、マニゴルドが囃し立てた。
「おまえもだ馬鹿野郎」アスプロスの矛先は彼にも向けられた。「聖域を出て三年。これまで一度も連絡を寄越さず消息を絶っていたくせに、急に戻ってきたかと思えば結界の外でのこの騒動。近隣住民の目を引き、隠された聖域の存在を世に知らしめようという魂胆なら許されないぞ」
「違うって。カルディアが怒ってるから一発殴られてやろうと思ったら、いつの間にかこんな事になっててさ。不可抗力だよ」
「そうか。俺も貴様の頭をかち割ってやりたいんだが、割らせてくれるか」
「いや、ちょっとそれは」
口ごもる彼に双子座は詰め寄った。
「出ていった時と同じようにコソコソ戻ってくれば良かったんだ。黄金聖闘士を相手に私戦をやって、不必要な騒ぎを起こした罪に問われても文句は言うなよ」
ハスガードが割って入った。
「待ってくれアスプロス。騒ぎを起こしたのが罪に問われるなら、その責を負うべきは俺だ」
彼は喋りながらマニゴルドに上着を渡した。服が激しい戦いに耐えられずに襤褸切れと化していたからだ。返した上着は袖を通されることなく腰に巻き付けられた。ハスガードは自分の外套も貸してやった。ようやく文明人の格好が付いた男を庇い、彼は言う。
「マニゴルドは俺の説得に応じてくれただけだ。騒ぎになったのは同行を頼んだ俺の責任であって、彼のせいじゃない。ただし、この騒ぎは私戦ではないぞ」
「なんだと」
アスプロスは眉をひそめ、ハスガードは堂々と胸を張った。
「来年のパンアテナイア祭に向けた予行演習だ。冥王軍に寝返った元聖闘士が聖域に侵入を試み、それを察した者が食い止めている。しかし元仲間ということもあって疑いを確信できずに傍観している者も多い。さあ皆はどう動く。そういう筋書きでマニゴルドには敵役をやってもらっている。どうだ」
言い切った直後、ハスガードは腹を押さえた。アスプロスの拳が一発入っていた。彼は一人で現れたが、それは別の人物の露払いとしてであった。
「この方の前でもう一度同じ申し開きをできるか。……皆、控えよ。教皇猊下のお出ましである」
法衣姿の老人が到着すると、人々は自然と膝を付いた。カルディアでさえ例外ではなかった。アスプロスも跪き、立っているのは教皇セージとマニゴルドの二人だけになった。
こうして師弟は再会した。
老人は聖域の領分である結界の内に。若者は俗世の側の結界の外に。境を隔てて対峙した。
大多数の予想に反して、彼らはすぐには言葉を交わさなかった。念話を通じているのかと考える者もいたが、それも間違っていた。二人は本当にただ見つめ合っていた。
――セージは弟子を見て落胆し、そして安堵した。
双子座から話を聞いて教皇宮から歩いてくる道すがら、成長した弟子の姿を思い描いた。数年も世間で過ごせば立派になっているだろうと期待していた。ところが実物はというと、寸法の合わない外套を羽織り、髪は乱れて全身のあちらこちらに傷を負っている。追い剥ぎ時代を彷彿とさせる姿だった。
しかし目が違った。
かつて廃墟から拾い上げた少年のそれは、厭世と諦観に昏く浸っていた。やがて虚無は受容へと変わった。
聖域を去る直前の若者には、焦燥と鬱屈が焦げ付いていた。その後の変化を逐一見ることはできなかったが、若者が苦悩を抜け出したことは目ですぐに分かった。皮肉な陰にその名残があるだけで、春風のような掴み所のない軽やかさと明るさが表面を覆っている。
その目で弟子は今、真っ直ぐにセージを見つめている。虚勢を張るでもなく、卑屈に愛想を良くするでもなく、ただセージを見ている。
――マニゴルドは師を見て安心し、それから緊張した。
牡牛座から聖域の近況を聞かされた時、心配したのだ。ひょっとしたら自分がいなくなって師が落ち込んでいないかと。しかし杞憂だった。師は老け込んだ気配もなく、初めて出会った記憶の中から少しも変わらない姿だった。威厳も気品も何もかもがそのままだ。たかが三年程度で変わるわけがない。
目も同じだ。
かつて忙しい合間を縫って熱心に修行を付けてくれた頃は、優しく穏やかに子供を見下ろしていた。当時はそうは思わなかったが、今から振り返れば慈しみに満ちたものだった。
蟹座の後継であると明らかにした後は、彼を見る目に厳しさと冷徹さが加わった。遊行を咎めるものではない。作り上げようとしたものの完成、もしくは失敗を見極めるものだった。聖域を去るまでその視線は続いた。
その目で師は、今も真っ直ぐにマニゴルドを見据えている。内心を窺わせない靱い光が、彼の内側まで射貫いている。
二人は相手の知りたい事を理解して答える術を持っていた。けれど言葉にはしなかった。それをするにはこの場には余計な人間が多すぎる。だから相手の目の中に己の求める答を探して向き合った。
長い一瞬が過ぎた。
マニゴルドはセージに跪いた。
「……ご無沙汰しております」
教皇とはアテナの代理人。聖闘士に連なる者が教皇を敬うのは当然のことだった。けれどマニゴルドの不遜な為人を知る者にとっては意外な行動だった。一番驚いていたのは、そのような弟子の行動を目の当たりにした教皇セージだったかも知れない。
「目的は果たせたのか」
「いまだ道半ばです」
周囲は気づいた。教皇が現れてからというもの、マニゴルドは口数が減っている。聖闘士と戦っている最中にもベラベラと喋り続けていた男なのに。
「それなのに戻ってきたのか。中途半端なことよ」
「一時的にです。すぐ荒海に戻ります」
また海賊をやる気か、とハスガードが呟いた。
その小声を拾ってセージは、そんな事をやっていたのかと呆れ声で弟子に問う。頷くのを見て苦笑に似た溜息が漏れる。
「しようのない奴だな。その調子ではいつまで経っても私の言いつけは果たされそうにないな」
目線を落とした若者に教皇は告げた。
「マニゴルドよ。そなたに蟹座の黄金聖衣を授ける」
その宣言は多くの者の耳に届いた。次いで大勢に向かって教皇は声を上げた。
「皆も聞け。この者は我が命に従い、数年に渡ってある探索の任に当たってきた。その内容について明らかにする事はできぬ。しかし巷で言われているような悪しき理由で聖域の外にいたか否か。またアテナに背く者か否かは、本人の今後の振る舞いを見て判断するがいい」
蟹座を指名されたばかりの若者は顔を上げた。
「ちょっと待てよ。まだ」最後の修行が、と言いかけたところへ、セージは言葉を被せる。
「おまえが探しに行ったものは、人が死の間際にようやく悟るほどのものだ。それを考慮すれば『探索の任』はおまえの死ぬまで続くこともあり得よう。見つけたなどと抜かすようなら、逆に追い出すつもりであった。中途半端さが身を救ったな」
「なんだよそれ。俺めちゃくちゃ覚悟してきたのに。一度決めた事を成し遂げるまで顔を見せるな半端者、って説教されると思って」
「そうしても良いが、荒海に揉まれて三年経って、それでできあがったのが今のおまえなら、後はどこにいようとさほど変わるまい。これからは聖域を拠点として探索を続けろ。外部任務をたんまり用意してやる」
「どうせまた使い走りさせんだろ」
「嫌か」
「いや……いいえ」マニゴルドは表情を引き締めると、深く頭を垂れた。
「謹んで拝命いたします」
他人が異を唱えられる段階が過ぎたことを、その光景を見た全ての者が悟った。マニゴルドは蟹座の黄金聖闘士になることが決まった。正式な授与は後日となるだろう。
セージはアスプロスに皆を引き上げさせるよう命じると、来た道を戻り始めた。ふと振り返る。「いつまで突っ立っておる。手を引いてやらねば入れぬか」
マニゴルドはまだ結界の外にいた。ある子供が初めて聖域に入った時は、セージと手を繋いでいた。そうしなければ結界を抜けられなかったからだ。
その子供は今は「まさか」と不敵に笑って、あっさりと境を跨いだ。
セージは頷き、再び歩き始めた。
……聖域の外れでは、マニゴルドが帰還できたことを我が事のように喜ぶハスガードと、まだ不満そうなカルディアが騒いでいる。マニゴルドは候補生時代の知り合いや雑兵たちに囲まれてもみくちゃにされている。「殴るなら立場の対等な今のうちだぞ」というアスプロスの助言を真に受ける者が少ないことを、良心的な少数派は祈った。
聖域中枢への道を辿りながら、アルバフィカは口を尖らせた。
「猊下はあいつに甘い」
「そうか?」
と隣を歩いていたエルシドは受け流した。
「だってそうだろう。任務の結果が評価されたわけではないのだから。あいつは何も見せなかったし報告もしなかった。自分で道半ばだと白状した。それで良しと済まされるのか」
「任務に出ること自体が任務だったとしたらどうだ」
「どういう意味だ」
「俺は以前から言っていたんだ。あいつは修行の旅に出たと。それから帰ってきたから聖闘士になれたんだ」
エルシドは僅かに誇らしそうに言った。
「だとしても猊下のお言葉からして、あいつの修行はまだ続きそうではないか。やはり甘い」
アルバフィカは吐き捨て、道端に薔薇を捨てた。エルシドは黙って前を見た。隣の友人が言葉の割に嬉しそうだったので。