聖域の外れ。そこに集っていた聖闘士と候補生たちはもういない。残るのはマニゴルドと、彼の帰還を歓迎する雑兵たちだけだった。
ひとしきり手荒な歓迎を受けた後、マニゴルドは候補生時代からの知り合いたちを押しのけた。
「あー、首痛い。てめえら遠慮無くバカスカ叩きやがって、後で覚えとけよ」
笑ってはみせたが疲労の色が濃かった。白銀、黄金との連戦。師との対面。その緊張がようやく解けてきた。
「そういやマニゴルドはこの後ずっと聖域にいるんだな。今夜とか、どこで寝起きするか決まってんのか」
聖域の手前ですげなく追い返されると予想していたマニゴルド自身は、娼館に行く気だった。しかし予想は外れた。黄金聖闘士になると公にされた日に取る行動としては、あまり相応しくない。一方、彼をここまで連れてきたハスガードは、牡牛座の役宅に泊まらせるつもりだと道中話していた。帰還がすんなりと認められない可能性を見越しての計画だろう。その案に乗るのが無難そうだ。
そう考えたマニゴルドは、ハスガードのところで世話になるつもりだと答えた。上に戻らないのかと、セージとの師弟関係を昔から知る者が意外そうに尋ねた。
マニゴルドは苦笑し、「いきなりはちょっとな」と言葉を濁した。かつて身を寄せていたとは言え、一度は去ると決めた場所だ。自分から押しかける気はなかった。けじめというのがある。
「じゃあとりあえず俺らのとこ来いよ。なんか着る物貸してやるから」と、別の一人が言った。マニゴルドと同年代だが早々に聖闘士になることに見切りを付けたため、雑兵としては中堅どころだ。その言葉に周りも頷いた。
「そりゃありがたいけど、服くらいあるっての。俺の荷物は?」とマニゴルドは辺りを見回した。
「牡牛座様が持って行くのをさっき見たぜ」
そのハスガードは、恐らく今頃は教皇宮に上がって任務の報告をしているはずだ。いつ報告が終わるかは予想が付かない。
聖域の外れで待っていても仕方ないので、まだ無位の男は雑兵たちと宿舎へ移動した。何かあれば金牛宮なり教皇宮なりから呼び出しがあるだろう。しかし呼び出しは一向になく、日が沈むと自然に酒盛りになった。牡牛座からは上等な酒も届けられた。ありがたいことである。
語らう中でマニゴルドが諸国を遍歴したことが明らかになると、それまで冷めていた一部の雑兵が、俄然興味を持って寄ってきた。
聖闘士の活動範囲は世界各地に及ぶ。それを支えるのが世間に紛れて拠点を預かる者であり、聖域と各地を結ぶ者たちだ。聖闘士への伝令だけなら手紙や小宇宙による念話でも事は足りるが、それ以外の用件にはやはり人手が欠かせない。辺鄙な場所にあることの多い修行地への送金と、指導状況の確認。聖域の下部組織が回収した地代の確認や一部処理。候補生となりうる子供たちの保護と修行地への移送。聖域から雑兵が遣わされる機会は、聖闘士が知る以上に多い。
「聞けよチェフ。こいつ牡牛座様と会ったのはアレキサンドリアの拠点に寄った時なんだってよ」
一人がマニゴルドの首を抱えて、隣の輪にいた別の一人に伝えた。
「本当か。じゃあフィラースにも会ったろう。拠点を預かって二十年のおっさんだけど、俺たちの仲間だ」
「名前は聞いてねえけど、隊商宿の亭主はここにほくろがあった」とマニゴルドは特徴を伝えた。
「あ、じゃあフィラースだ。元気そうだったか」
「俺に宿を手伝わせようとしてたけど、まあ元気だったと思うぜ」
それを聞いて座は爆笑した。
「黄金聖闘士に雑兵の仕事させんのか。凄い先見の明だな」
「今度エジプト行く時に奴に報せてやれよ。おまえが雇おうとしてた野郎は黄金聖闘士になりますって」
酒が足りなくなった。まだまだ飲み足りない面々が盛大に不満を訴えだした。マニゴルドが立ち上がった。
「よし。それじゃ俺が調達してきてやるか。シュルマ、デラス、一緒に行こうぜ」
「どこからかっぱらって来るつもりだ。教皇宮はさすがに止めとけ」
「遠すぎるわ。そこまで行かねえよ」
酔った勢いで神官の宿舎に乗り込んだマニゴルドたちは、貯蔵庫から勝手に酒を持ち出した。神官の制止を無視して引き上げると拍手で迎えられた。
その拍手が唐突に止む。不思議に思った共犯者たちが振り返った。出発した時にはいなかった顔が増えていた。手には隣の宿舎から強奪してきた酒の樽。
「蠍座様!」
「楽しそうなことやってたから交ざってみた」
雑兵たちの悲鳴(歓声ではない)に、カルディアはからからと笑った。マニゴルドが遠慮しろと言っても、酒を運んだ自分にも飲む権利はあると屁理屈を捏ねる。そうして強引にカルディアも宴会に加わったが、マニゴルドが次に見た時には酔い潰れていた。
やがてお開きという空気になった頃。水瓶座が、酔漢を引き取りに来たといって宿舎を訪れた。軟体動物と化したカルディアを抱えて、デジェルは宿舎の出口に向かった。通りやすいように戸を押さえていたマニゴルドと目が合う。手を貸そうかとマニゴルドが尋ね、デジェルはぜひにと答えた。二人は左右から支える形で、カルディアの体を運び出した。運ばれている当の本人は酒臭い寝息を立てていた。
外は青い月光に沈んでいた。宿舎から漏れる明かりは、仄かに窓の縁を照らすだけである。
「デジェル、だったか。今はおまえがこいつの世話係か」
「そういう言い方は好きではないな」
「だったらお目付役、後見人。好きなの選べ。こいつが騒ぎを起こす度に巻き込まれて尻拭いする羽目になったりしてないか」
デジェルは押し黙った。
「まあいいや。昼はアルバフィカとも一緒にいたよな。あいつとも仲良いんだな」
「魚座? いいや、それほどは」
思わずマニゴルドは声を上げた。「なんだよ。水瓶座なら守護宮お隣さんだろ」
「確かにそうだが、先代の魚座も今の魚座も私はあまりよく知らない。魚座は人前には出てこないから」
「……へえ」
マニゴルドは荷物から身を引いた。
「それじゃ聞こうか。わざわざ口実作ってまで俺に会いに来たのはどういう用事だ」
「用件というほどではないが、早めに伝えておきたいことがある」
デジェルは生真面目に言うと、支えの半分を失ったカルディアの体を地面に下ろした。
「私はあなたに含むところがあって聖域への進入を拒んだのではない。教皇の密命が真実あったのなら、衆人環視の中でその証拠を見せろと無理難題を言って悪かった。正直あなたがどういう人柄なのかまだ解らないが、猊下がお認めになったのなら私はそれに従う。あなたが蟹座になるなら、共に十二宮を守る同胞だ。下手な蟠りは残したくない」
「そりゃどうも」とマニゴルドは拍子抜けした。その程度のことならわざわざ蒸し返さなくてもいいものを。
「実は私は、猊下が星見をされる際の助手を務めている。とても光栄に思っている。しかしその役目が本来、あなたのものであったなら――」
マニゴルドは若者の話を遮った。
「確かに教皇から教わったことはあるよ。でも俺には才能がなかった。向いてる奴、できる奴が手伝えばいいだろ」
「しかし星見の丘の上の小屋で、あなたの覚え書きを見つけた」
それも一つや二つではなかった。その足跡を見つけてデジェルが伝える度、捨ててもいいと教皇は言う。しかし決して自分では捨てようとしなかった。大事な物だからだろうとデジェルは考える。弟子の残した物だから、弟子が戻ってきた時のために取ってあるのだろうと。
そんな見解を教皇の弟子は一蹴した。
「いやいや。単にあのジジイの癖だ。古い書き付けでもなんでも溜め込むんだよ。本当に捨ててくれていいから。弟子は弟子。助手は助手。星見はあんたがやってくれ」
「弟子を差し置いていいのだろうか」
「誰に何を吹き込まれたんだか知らねえが、教皇の仕事まで丸ごと引き継ぐ気は俺はねえぞ。むしろあの口やかましい年寄りの相手をしてくれるなら大歓迎だ」
喋りながらも、少年時代の自分ならデジェルの存在に嫉妬しただろうとマニゴルドは思う。そうして一方的に相手に張り合って、師の歓心を得ようと無理にでも星見に取り組んだに違いない。
「猊下はうるさくなどないぞ。叡智と慈愛に満ちた素晴らしい方ではないか」
「外面がいいからな。あのジジイは」
デジェルは反応に窮した。男は小さく笑い、それから別の話題を切り出した。
「あんたの師匠はあのクレストの爺さんだろう。どうだった、偉大な師の後を継ぐってのは。面倒じゃなかったか」
デジェルは瞬きしてから、ゆっくりと空を見上げた。その面も月光に照らされ、まるで水中の人のように青ざめている。
「……正直に言えば怖かった。私などが継いでいいのかと思う一方で、継いで当然と思っている傲慢さを我が師に見透かされている気もした。修行地で師から聖衣を譲られてからこの地にやって来るまでの間に、何度か修行地に引き返そうとした。私に師の代わりが務まるとは思えなかったから。まだまだ修行が足りないと言われるほうがよほど楽だった。けれど、教皇猊下も誰も、我が師の役目を私に求めては来なかった。新米の一聖闘士として扱ってくれた。だから私も開き直ることにした。守護星座が同じでも、最初から我が師と同じ事はできない。新米の私にもできるくらいのことしかできないなら、師がそんなに偉大なはずがない」
「そんなもんか」
マニゴルドが相槌を打つと、デジェルはぎこちなく微笑んだ。
「我ながらこういう事を吐露するのは初めてで、うまく伝わらなかったら申し訳ない」
「いや。十分に分かった。と思う。少なくとも参考にはなった」
「お互い似たような苦労を抱えているのだな。あなたとは良い隣人になれそうだ」
「おいおい。ちょっと共感したくらいで油断するなよ。俺が敵方の間者で、あんたを油断させようって魂胆だったらどうする」
「だとしたら、既に教皇と雑兵と一部の聖闘士が懐柔されているな。内部崩壊を狙う手強い敵だ」
二人は声を立てずに笑った。
「となると、そこの酔っ払いが最後の砦かな。俺を殺す殺すってうるさかったから」
「カルディアならもう陥落していると思うが。あなたと和解するために雑兵たちの宿舎に乗り込んでいったくらいだ」
「まさかあ。俺に絡んでこないで勝手に酔い潰れてたぜ。単に騒ぎたかっただけだろ」
デジェルは一瞬黙り込み、足元の荷物を乱暴に揺り起こした。「おいカルディア。起きろ」
カルディアが目を開けた。「あれ、デジェルだ。おまえも飲みに来たのか」
「寝惚けるな。宴会はもう終わっている。おまえは『落とし前を付けてくる』と宣言していったじゃないか。相手に何も伝わっていないぞ。何をしに雑兵の所に行ったんだ」
「ただ酒を飲みに……」言いかけて酔漢はくしゃみを連発した。「寒みい」
デジェルは呆れて天を仰ぎ、マニゴルドは失笑した。カルディアは立ち上がって両頬を叩いた。よし、と気合いが入った様子だ。
「それじゃマニゴルド。覚悟しろ」
「昼間のあれじゃまだやり足りないってのか」
十二分に殴り合いを演じた相手の問いに、カルディアは獰猛な笑みを見せた。
「当たり前だろ。おまえには深紅の針を撃ち込んでやるって、ずっと前から決めてたんだ。無様に苦しむ姿を大勢の前で晒すなんて、てめえも避けたいだろ。だから今まで待っててやったんだよ」
避けたかったのは衆人環視の中で技を使うことだろう。マニゴルドはそう思ったが、指摘することはなかった。己の技を秘匿するのは聖闘士として当然の心構えだ。カルディアもまた聖闘士だった。
マニゴルドは改めて相手に向き直った。「いいぜ。おまえには後……えーっと、何発だったっけ、十三発か。それを撃ち込む権利がある」
「一発で十分だ」
「もう突き指するなよ」
「するか、馬鹿」
マニゴルドは深く息を吐いて、「よし、来い」と促した。
蠍座の一撃は躊躇うことなく彼の痛覚を貫いた。
息さえできない激痛。体の内側をバリバリと砕かれていくような異様な衝撃がいつまでも続いた。脂汗がどっと流れた。なるほど、拷問に最適の技と言われるだけのことはある。マニゴルドは身を以て納得した。
カルディアが言った。「な、一発で十分だろう」
痛みを堪えながらマニゴルドも応えた。「そうだな、大したもんだ」
カルディアはにんまり笑い、
「本当は泣き叫ぶのが見たかったけど、特別に許してやるよ。昔散々小突き回してくれた借りはこれで返した。おまえのせいで『カルディアに比べればマニゴルドのほうが全然まともだった』なんて腹の立つ貶し方されたのも、とりあえず忘れてやる。俺の腕前が上がってて良かったな。打ち所が悪けりゃ一発でおまえ死んでたかも知れねえからな。お互い成長してて良かった良かった」
と言いたいことを言って、意気揚々と去っていった。
デジェルはマニゴルドを気遣ってその場に残ったが、問題ないと伝えると、やはり去っていった。
◇
ジャミールでは、ハクレイの弟子たちが朝の挨拶のために師の許を訪れていた。老練の修復師は早くから大槌を振るって鋼を打っていた。その音がいかにも軽快である。
「師よ、何か良いことでもありましたか」
シオンに尋ねられ、ハクレイは手を止めた。
「うむ、昨日セージから報せがあっての。おまえも知っておる者が聖闘士になることが決まったそうじゃ」
「私が知っている人……。そうですか。ジャミールからまた聖闘士を輩出できるのは師の指導の賜物でしょう。おめでとうございます」
おめでとうございます、とシオンの後ろでユズリハとその弟トクサも声を揃える。
少年の言葉に老人は「ああ」と声を上げた。「なるほど、おまえの中ではもうあやつのことは無いも同然じゃったか。ジャミール出身の者ではない。マニゴルドじゃ。あの悪たれが蟹座を継ぐ」
シオンは驚いた。
風の噂に、かの若者は聖域を失踪したと聞いていた。それがいきなり聖闘士の中でも重要な、十二宮の守護者に叙されるとは。しかもその称号は長らく教皇が保持していたものである。教皇の存命中に譲られる者が現れるとさえ、シオンは思わなかった。
「決定してすぐに報せてきたくらいじゃ。セージの奴め、よほどわしに伝えたかったとみえる。不出来な弟子が一生分の幸運と努力を使い果たして辛うじて一人前になれたと、憎まれ口を叩いておったがの」
弟の喜びが移ったように、ハクレイもまた頬が緩んでいる。それを直視できずにシオンは俯いた。
マニゴルドが、教皇とジャミールの長老という二人から、積尸気の使い手として期待されていたことは知っていたつもりだった。その実力が年を追うごとに増していったのも、彼がジャミールを訪れる折のハクレイの態度から窺い知れた。
それなのにシオンは聖域の噂を鵜呑みにして、彼を落伍者だと信じ込んでしまった。そのことを恥じた。
ハクレイは、少年の俯いたのを別の理由からと思ったようだった。
「案ずるなシオン。おまえも牡羊座の候補じゃが、マニゴルドとは年齢も事情も才能も異なる。不安がっている暇があるなら、早う手伝わんか」
「は、はい!」
シオンは急いで道具箱に駆け寄った。
やがて修復師の師弟が奏でる二重奏が、朝の山間部に響き始めた。
◇
マニゴルドが起きてきた時には宿舎は閑散としていた。雑兵のほとんどは仕事場へ出払った後だ。残っていた者への挨拶もそこそこに、マニゴルドは空腹を訴えた。
「その辺にある物でも囓ってろ。そういやおまえが寝てる時に神官長が来たぜ。また出直すってさ」
食堂にパンが残っていた。厨房に行ってもハムもチーズも見つからなかったが、ヨーグルトがあったのでそれをもって戻る。
「何だろ、昨夜の件かな。どうせまたガミガミ言われんだ。面倒臭せえ」
「帰ってきたって実感湧くだろう、悪ガキ」
元悪童は顔をしかめた。ヨーグルトが腐っていた。
腹ごしらえの後も食堂でだらだら喋っていると、神官長が訪ねてきた。にこりともしない渋面だ。
「帰還早々、昨夜はよくもやってくれたな。マニゴルド殿といい蠍座様といい、最近の若い者は黄金位の品格を守る気はないのか」
「やっぱり説教か」気まずさと得意さを混ぜ合わせた表情でマニゴルドは笑った。「ここの連中は喜んでくれたぜ」
「ならばこうしよう。就任祝いとして巨蟹宮に届ける分の酒から、昨夜盗人どもが持って行った分を差し引かせてもらう」
神官長は卓上の食べかすを手で払い、重々しく書類を乗せた。
「さて、教皇猊下は速やかな継承を望まれている。日もないので、細かい話は抜きにして儀式の段取りについて説明する」
「ここで?」
「牡牛座様の預かりと聞いていたから、そちらで話すつもりだった。私も暇ではない。場を探す手間が惜しい。マニゴルド殿が理解すれば済む用件なのだから、打ち合わせなどどこでも良かろう」
もしマニゴルドが娼館に泊まっていても、堅苦しいこの髭男はそこまで乗り込んできたに違いない。
それから神官長は、マニゴルドが聖衣を得て守護宮に入るまでの流れについて話を進めた。身近に教皇と黄金聖闘士を見てきた若者にとって、聞き慣れないこと、想像も出来ないようなことはなかった。
「ところで巨蟹宮のことだが、宮付きの従者が掃除を怠っているようだ。務めを全うさせるなり、自分で手を動かすなりして、就任までに清めておくように。雑兵の機嫌を取るばかりでは上手くいかないこともあると理解する、良い機会になるだろう」
従者が巨蟹宮を嫌がる理由は想像が付いた。積尸気使いはとくに気負うことなく諒承した。
「ただしもし巨蟹宮に行くなら日が沈んでからにするようにと、猊下からお申し付けがあった。まだ聖衣を授かる前の者が十二宮を往来する姿を、下々に見られてはけじめが付かぬ」
子供の頃から通い続けている者に何を今更、とも思ったが、マニゴルドはこれも諒承した。聖域を空けていた数年の間に、教皇の弟子を知らない者が増えたのは事実だ。彼らを混乱させることもないだろう。
「随分と聞き分けが良いな」と、マニゴルドの素直さが不満だったのか、神官長は怪訝な顔をした。
「俺も大人なんでね。夜行きゃいいだけの話に、突っかかる理由がない。ところでそこのヨーグルト、この宿舎の特製なんだってさ。俺も思わず驚いた。あんたも試してみな」
神官長は少しだけ口に入れ、すぐに吐き出した。機嫌を悪くして立ち去るその背を見送りながら、マニゴルドはげらげら笑った。
隣でやり取りを聞いていた雑兵が話しかけてきた。
「さっきの巨蟹宮の話な。従者が怠けてるみたいな言い方だったけど、それだけじゃないらしいんだよ。前に巨蟹宮付きになった連中は皆あいつに同情してるんだ。様子を見に行く前に話を聞いてもいいと思うぜ」
そうする、とマニゴルドは頷いた。
彼はそのあと聖域をそぞろ歩いた。闘技場の近くでエルシドと鉢合わせた。
「よう」
「ああ」
そのまま擦れ違おうとすると、手合わせをしないかと誘われた。昨日の戦いぶりからして遠慮する必要はなさそうだと、鋭い目に見据えられる。マニゴルドは辟易した。
「やだよ。昨日の今日ので疲れてるって分かんねえかな。遠慮しろよ」連戦の影響ではなく蠍座の技のせいであるが、体がだるいことに違いはない。
「だらしない。あ、蟹座獲得おめでとう」
「人殺しみたいな目で睨まれながら祝われても困る」
「目つきが悪いのは元からだ」
「知ってる」
二人はとても善人には見えない笑いを交わした。候補生の少年たちが、怯えながら道の端を逃げていった。年の頃はちょうど、二人の男たちが聖域で肩を並べて修行していた頃と同じだった。
「昨夜水瓶座から聞いたんだけどよ、アルバフィカの奴あんまり表に出てこないんだってな。何でだ」
エルシドが簡潔に毒のことを説明する。それを聞いてマニゴルドは「ふうん」とだけ口にした。
闘技場のほうから修練中の気配が届く。屈託のない若い声。もう戻らない少年時代。
男二人が無言の海に浸っていると、横からハスガードに声を掛けられた。
「こんな所で何をしているんだ。暇なら手合わせしないか。今とても清々しい気分でな。今朝は二本も出た」
「知らねえよ」とマニゴルドは突き出された二本の指を叩き払った。
どうしてこいつら聖闘士は何かというと手合わせをしたがるのか。昔その疑問を師にぶつけたところ、言葉よりも小宇宙や拳筋のほうが相手の状態を量りやすいからだと説明された。単に体を動かすのが好きな者が多いというのもある、と暴れ者の兄を持つセージは苦笑していた。今のマニゴルドとしては後者の意見を支持するところだ。
「良い事があったようだな、ハスガード」と、エルシドが尋ねた。
「そうなんだ。昨日教皇宮に上がった時にな、猊下からお褒めの言葉を頂いた。良い時期にマニゴルドを連れ帰ってくれたと。新しい聖闘士の誕生は俺の功績だと仰った。それでもう、今までの俺の取るに足りない鬱屈は消えた。俺は行くぞ、マニゴルド。イリアス殿の聖衣と忘れ形見を探しに行く」
「お、おう。そうか」
エルシドが首を傾げた。「マニゴルドはハスガードの客分なんだろう。昨日そういう話はしなかったのか」
「昨夜は雑兵の所で騒いでた。あ、ハスガード、差し入れありがとな」
「ああ。今夜はどうする。荷物は俺が預かっているが」
「今日からはあんたの世話になるよ。でも今夜は、夜になったら巨蟹宮に行ってくる」
「あれか……。行くなら夜より昼のほうがまだいいぞ」
ハスガードがすぐに思い当たったのに対し、エルシドは不思議そうだった。
「通路部分の掃除はきちんとされているようだったが、奥は違うのか」
「掃除云々ではないんだが、もしかしてエルシドは何も感じないか」
「風通しが悪いとは思う」
ハスガードは首を振り、マニゴルドに言った。「こういう者もいるが、肝試しに行くならおまえたちだけで行ってきてくれ」
「人の守護宮を化け物屋敷みてえに言うな。失礼な。守護者は名目上うちのジジイだぞ」
「それはそうだが、実際に守護されているわけではないから」と、ハスガードは口ごもる。
「肝試しなら手前の双児宮もお薦めだ。誰もいないはずなのに、時々人の気配があるらしい」とエルシドが言った。
「それはアスプロスに言うなよ。双児宮はアレだ、駄目だ。つうか俺は肝試しに行くわけじゃねえよ」
「では何をしに行く」
掃除という返答は、二人に大層気味悪がられた。
夜。
マニゴルドは巨蟹宮に足を運んだ。
「なるほどなるほど」
中に一歩足を踏み入れた途端、地下墓地に入ったような感覚に包まれる。冷ややかで濃密な気配。空気を埋める無音のざわめき。死者の世界に縁のない普通の者たちにとっては、昼でも十分に不気味だろう。
カンテラを片手にマニゴルドは宮の奥へ進んだ。閉ざされた戸を開ける。
壁や天井に無数の人の顔が浮かび上がっていた。修行をしていた頃にも見たことがないほどの、夥しい数の死者の顔があった。虫の羽音より微かな呻き声も、数が増えれば耳に響く。予想していたとはいえ、さすがに気持ちの良い光景ではなかった。
聖域を出るまではマニゴルドがこまめに消していた。現状を見るに、それから今まで放置していたに違いない。
(俺がいなくなってから、ずっとそのまま)
彼は呆れて苦笑しようとした。けれど胸が苦しくなってできなかった。唇を引き結び、静かに積尸気冥界波を放った。
その指は亡者の想念を行くべき場所に導く。
多くの気配は水に流れるように消えていった。
呻き声と顔の消えた巨蟹宮は、呆気なくただの建物に戻った。掃除は翌日に宮付き従者に任せる手筈になっている。そしてその数日後にはここが彼の守る場所となる。カンテラの仄かな火に照らし出された天井を見上げた。
彼は振り返った。
法衣姿の白髪の老人が戸口に佇んでいた。
「……お師匠」
「送り終えたか」
彼が頷くと、セージは「上まで来い」と言って踵を返した。マニゴルドは後を追った。そして新旧の守護者が立ち去った巨蟹宮は、数年ぶりに無人となった。