夜道を行く老人のために、その足元が橙色の火で照らされ続ける。決して老人の歩みを妨げず、逆に先を行きすぎることもない。従者のように遠慮することもなく、カンテラを掲げた青年はごく自然にセージの隣を歩いていた。
そのマニゴルドが口を尖らせる。「回りくどいことしなくても、用があるなら教皇宮まで呼び出せばよかったのに」
「少し歩きたかったのだ」
就任前に師弟で語らう時間を作るべきだ、というアスプロスの進言を聞き入れて良かった。こうして肩を並べて歩く機会は、あと何回残されているだろう。教皇宮へと至る山道の階段を上がりながら、セージは感傷に浸った。するといつの間にか足元が疎かになっていたらしい。
「お師匠さあ、歩くの遅くなったんじゃねえか。やっぱり年なんだから杖とか持っとけよ。なんなら背負ってやろうか」
「失礼な。まだそこまで足腰は弱っておらぬ。おまえを背負っていようと余裕で登りきれるわ」
彼が憤慨してみせると弟子は、
「昔みたいにか」
と、明るく笑った。まだ青年が少年だった頃に、セージが背負って十二宮の階段を上がったことがあった。やはり夜だった。
主なき獅子宮を抜けた後の階段で、セージは次の処女宮について語った。夜間は守護者も退出する十二宮が多い中で、現在の処女宮の主は、昼夜を問わず一日中そこで瞑想して過ごしている。
「そも乙女座の守護者のことは聞き及んでおるか」
「ハスガードに聞いた。なんか『あんな不誠実な奴が居座っているのは気に食わん』とか言ってたけど。あ、これ俺が言ったって内緒な」
隔意を示すのは気さくな牡牛座にしては珍しい。セージは苦笑した。
「たしかに教皇宮が呼び出しをかけても、何のかのと理由を付けて引きこもっている。そのせいで誤解を受けているが、あの者は己の動くべき時を見据えておる」
「教皇がそう言うならそうなんだろうけど、偏屈な奴だったら嫌だなあ」
二人は処女宮に入り、守護者アスミタの前を通った。床に足を組んでいる姿は、セージが先ほど教皇宮から下りてきた時と比べて少しも動いていない。老人はそのまま通り過ぎたが、弟子は立ち止まった。室内で唯一の明かりであるカンテラの灯が、アスミタの影を壁に浮かび上がらせる。
瞑想者は俯き気味だった面を上げた。中性的な面立ちとほっそりした体格。そして大判の布を巻き付けただけのような修行者の衣。闘士らしからぬ若者は瞼を閉ざしたまま、静かに口を切った。
「……あなたか。やはりこの道を歩むと思っていた」
見た目を裏切らない柔らかな声。それに対してマニゴルドはもどかしそうに尋ねた。
「どこで会ったんだっけ」
「涅槃の辺」
ああ、とマニゴルドは声を上げてから、嬉しそうに顎を撫でた。
「そうか。あの時の坊主か。分かんなかったわ。ひょろかったのが大きくなってるし、髪も伸びてるし」
「目明きはとかく見た目に囚われる」
違いない、とマニゴルドは喉の奥で笑った。それから不意に表情を改めた。
「探してたのは見つかったか」
「未だ遠い。そちらは求めるものを得られたようだな」
「いやいや。俺もまだだ。でもあの時あんたに会ったお陰で前には進めた。感謝してる」
「礼には及ばない」
アスミタは淡々と応え、瞑想に潜っていった。マニゴルドは挨拶代わりに「ありがとな」と告げて、セージに追いついた。セージは若者たちが既に面識があったことをここで初めて知った。しかし不思議には思わなかった。
やがて教皇宮に着いた。
居住区間に入るなり、人の気配が濃くなる。まず用人が主人とその連れを待ち構えていた。「お帰りなさいませ、猊下。そしてマニゴルド様」
頷くセージの横で、マニゴルドは「違う」と用人の言葉を否定した。「もうここは俺の住む所じゃねえ」
「さようですか。私はただ、聖域へ帰還された方へのご挨拶を申し上げただけでございますよ」
「え。……あ、そうか。それなら、うん。戻った」
結構、と用人は表情を崩した。「お元気そうで何よりです。しばらく見ない間にご立派になられて」
マニゴルドは頬を掻いた。
そのやり取りを機に使用人たちがわらわらと現れて、若者の帰還と聖闘士就任を祝った。感涙を浮かべた女官が「勘当が解かれて本当に良かった」と口走る。下働きの男が「おまえのせいでまた俺の賭け金が」と嬉しそうにぼやく。待っていてもきりがなさそうなので、セージは弟子を促した。
使用人たちから解放された師弟は、ようやく教皇の私室へ向かった。弟子はやや気遣わしげに従者の所在を尋ねた。集った使用人たちの中に、教皇の従者を務めていた老人がいなかったからだ。老僕は半年前に引退したことをセージは伝えた。
「近くに隠居したそうだから、暇な時にでも顔を見せに行くといい。最後までおまえの身を案じていたぞ」
「爺さんの後の従者は誰がやってんだ」
「新しく入った者だが、法衣の畳み方が未だに下手で困る。折を見て教えてやってくれ」
「俺は従者じゃねえっての」口を尖らせながらも若者はセージのために戸を開け、彼の後から部屋に入った。そしてその場に立ち尽くした。
部屋の中央には大きな箱がある。聖衣を収める櫃だということは、聖闘士の修行をした者には一目瞭然だった。箱の側面に浮かし彫りにされた意匠が、中の聖衣の称号と合致することも常識だ。この部屋にある箱に刻まれていたのは、巨蟹カルキノスの意匠。
「何で蟹座の聖衣が」
「不思議はなかろう。前の主がここにいて」とセージは己の胸に当てた手を、「新しい主がそこにいる」と弟子に向けた。
「着けてみろ」
「ここで?」
セージの予想通りマニゴルドは戸惑った。
「ハスガードからも聞いたが、おまえは己の生を探しに市井へ戻るつもりでいたな。いや、責めているのではない。己の未熟さを自覚しているのは良いことだ。しかし私が公衆の面前で宣言したせいで、覚悟の無いまま継承を受け入れることになったのではないか。聖衣は己の主人を見定める。聖衣を纏うことができて初めて、人は名実共に聖闘士になれる。迷いを捨てるためにも、皆の前で恥を掻かぬためにも、今ここで纏ってみよ」
弟子は苛立った様子で頭を掻いた。
「……確かに聖闘士になるって言い出したのは、ここで暮らしやすくするためだった。早く聖衣を継承したかったのも、周りの連中に置いてかれるのが惨めだったから。そんな根性のガキに聖衣を譲ろうとしなかったのは正しかったと思うぜ。でも聖闘士になりたくなかったなんて俺は一言も言っていない。これからも言わない。聖域に戻ってくる以上は覚悟してた、ってほどじゃねえけど決まったことに文句はねえ。迷ってるのはお師匠のほうだろうが」
そう言って勢いよく櫃の蓋を開けた。
日光を濃縮した輝きが現れた。心なしか室内まで明るくなった。苛烈で厳正な死の側面を形にしたような、蟹座の黄金聖衣。たった今完成したばかりと言われても信じられるほど無垢な表面には、往年の激戦を経験した曇りはどこにも見当たらない。
若者は息を詰め、ゆっくりとその縁を指でなぞった。憧憬の仕草をセージは見守った。
――セージとその兄ハクレイは、同じ守護星座を持つ。
兄弟で同じ称号を目指した時期もある。闊達な兄が黄金位を得て、大人しい弟が輔佐に回るだろうと周囲には予想されていた。ところがハクレイはその勝負からあっさりと身を引き、白銀位を選んでしまった。兄によれば、自分より弟のほうが教皇の後継者に相応しかったからだというが、セージにはそう思えなかった。
以来、彼の心には「兄に蟹座と教皇位を譲られた」という思いが巣食っている。
時を経てもその思いは胸の底に沈むだけで消えず、一人の少年が彼の前に現れてからは再び水面に浮き上がることが多くなった。拾った子供を弟子とすることに戸惑い、聖闘士の道を歩ませることを恐れ、称号を譲ることに二の足を踏んだ。無論、それぞれの躊躇には理詰めで説明できる理由がそれぞれ存在している。けれど影に潜むのは、おそらく同じ。兄への遠慮。後継者に聖衣を着けさせようとするのも、セージ自身の未練と負い目を断ち切るためだろうと言われれば、否定はできない。
反論しない彼を一瞥して、マニゴルドは聖衣を身に着け始めた。
聖衣は、候補生や雑兵が着ける簡素な皮鎧とは構造が違う。時代遅れになり調度品に変化した甲冑とも違う。初めて体に合わせる若者にとっては、装着も一苦労だった。
四苦八苦する様子を見かねて、セージも途中から手伝いだした。この聖衣は、共に何度も死線をくぐり抜けてきた相棒だ。着けかたは誰よりも知っている。
足覆い、脛当て、腿当て、膝当て。腰回りは動きを邪魔しない垂れのようになっている。下半身の支度を終えたら上半身へ。背甲と厚い胸甲をしっかりと胴体に合わせる。首回りを守る襟立て。籠手を嵌める。小さな楯の付属した腕甲。特徴的な形の肩甲。
ところで称号を問わず、聖衣は時として意志あるもののように自ら聖闘士の体を包むことがある。称号を授かったばかりの聖闘士は、大抵その恩恵に与るものだ。
蟹座の聖衣はこの時、ただの甲冑のように黙していた。マニゴルドを拒んだのではなく、新旧の主人のためにそうしてくれたのだろうとセージは感じた。その証拠に着け心地を尋ねると、弟子は動きを確かめて、むしろ身軽になったと答えた。
最後にセージの手元には頭部の防具が残った。額から頬にかけてを守る面のようなものである。
それを両手で掲げる。若者は軽く身を屈め、戴冠する者のように神妙な面持ちで待った。セージは額当てと無言の祝福を与えた。マニゴルドは一瞬目を伏せて、それからゆっくりと背を伸ばした。
視線が合う。
堂々たる装いである。聖衣の存在感に負けない骨太の風格と軽妙な雰囲気が調和している。初めて見る姿だというのに、もう何年も見続けてきたような。そんな錯覚を起こすほど、しっくりと馴染んでいた。
目の前の若者はまさしくその称号に相応しかった。廃墟から連れて来られた名も無き子供がここまで育ってくれると、誰が想像できただろう。
己は良い師ではなかった。他人がどう言おうとセージはそう自覚している。教皇としての経験と知見は、弟子との関わりにおいて何の役にも立たなかった。むしろ弟子にまつわることで、思い通りに運んだことのほうが少ないのではないか。
セージはしみじみと感謝した。
不出来な師を慕って付いてきてくれた弟子に。
師弟を見守り、彼の至らない部分を補ってくれた周囲の者たちに。
愛弟子に歴史を引き継げる幸運に。
(そうか)
兄ではなく弟が蟹座になったのは、きっとこの日のためだったに違いない。やがて弟子とするマニゴルドが蟹座になるためには、兄ハクレイではなくセージが蟹座になる必要があったのだ。
「そうだったのか」長年の蟠りが一気に氷解した。世界が明るくなった。
「子よ、汝既に一時の火と永久の火とを見て、わが自から知らざるところに來れるなり。われ智と術をもて汝をこゝにみちびけり、今より汝は好む所を導者となすべし、汝嶮しき路を出で狹き路をはなる」
「また『神曲』?」
怪訝そうな若者に微笑む。
「なに。おまえが弟子でいてくれて良かったと思っただけよ。今までよく頑張ったな」
弟子がいなければ、セージは負い目を抱えたまま死ぬまで暗い森の中に留まり続けていただろう。森から抜け出せたのはマニゴルドのお陰だった。明るい場所まで導くつもりが、逆に導かれていたのはセージのほうだった。
『神曲』の主人公ダンテは、私淑するウェルギリウスに連れられて地獄と煉獄を抜けた。ウェルギリウスからみると、ダンテを案内する役目を負って初めて、自身の置かれた辺獄を離れることができた。ダンテが現れなければ、ウェルギリウスは永遠に薄闇の辺獄にいるしかなかった。
マニゴルドに言わせると、危険から守り、安全な地まで導いてくれたウェルギリウスに対して、ダンテは薄情すぎるだそうだ。しかしウェルギリウスこそダンテに感謝すべきだと、今のセージは思う。ダンテこそが導き手なのだから。
「マニゴルド。これからはおまえがその聖衣の主だ。迷える魂をあるべき場所へ導け。おまえならできる。私の自慢の弟子なのだから。
……泣くことはあるまい。今までいくら叱っても叩きのめしても、涙一つ見せなかった小僧がこれしきの言葉で。嬉し泣きだと。分かっておる。おまえの涙を見るのは出会った夜以来だからな。少し驚いただけだ。よい。謝らなくて良いから存分に泣け。
私は良い師ではなかったし、兄上の所へ行かせればもっと平坦な道を歩ませてやれた。それでも私と共に歩んだ日々に意味があったと思ってくれるなら、こんな嬉しいことはない。ああ、無理に喋ろうとするな。これからおまえには苦労をさせるだろうから、今はまだ言うな。私の臨終の床で聞かせてもらう。もっともまともな死に方ができればの話だがな。これ、笑いどころではないぞ。まったく、泣いたり笑ったり忙しい奴よ。
そうだな。ああそうだ、おまえの言う通りだ。落ち着いたらこれまでの話を聞かせてくれ。酒もある。当たり前だろう。弟子の晴れ姿を誰よりも先に拝むことができた嬉しい宵だぞ。用意せぬわけがなかろう。のう、マニゴルド……」
◇
十二宮四番目、巨蟹宮の新しい守護者が誕生した。
諸々の儀式と手続きを終えて落ち着いた頃、マニゴルドは魚座の住まいに向かった。呼びかけに応じて現れた私服姿の魚座は、男の聖衣姿にやや目を見張った。
「一体何事だ。ここに来ないという約束を忘れたのか」
「そりゃお互いが黄金聖闘士になるまではって話だ。何事かなきゃ来ちゃいけねえのかよ。見ろこのケープ。なんと巫女が用意してくれたんだぜ」
と、男は聖衣の背に羽織った布の裾をひらひら振った。
「女に好かれて結構なことだな。帰れ」
「そう僻むなって」
アルバフィカが止める間もなく、男は魚座の管理する敷地に押し入った。
「本当に何しに来たんだ」
「ルゴニスのおっさんに会いたかったんだ」
当代の魚座の顔から表情が消えた。
「先生はもう亡くなられた」
「聞いてる。おっさんをどこに葬ったって?」
「あちらだ」と、アルバフィカは毒薔薇園のほうを示した。「墓参の気持ちはありがたいが、昔のようなことになりたくなければ近づくな。黄金聖衣を着けていても魔宮薔薇の香気は防げない」
マニゴルドは先代魚座の眠る方向を眺めた。
「死人に用はねえ。あのおっさんには色々世話になったから、聖闘士になったら堂々と挨拶に来ようと思ってたんだけどよ。もういないなら仕方ねえ。ってことで代わりにおまえに会いに来た」
「それならもう済んだだろう」
かすれた声でアルバフィカは言った。
「おまえはまだ知らないだろうから、改めて言っておく。私に触れるな。私の身体を流れる血は、今や猛毒に変化している。その毒が先生を殺した。私が先生を殺したんだ。先生の命を奪い、魚座の聖衣を奪った。分かったら帰れ」
「へえ、やるじゃん」
マニゴルドは口笛を吹き、相手に一歩近づいた。対してアルバフィカは一歩遠ざかった。
「殺したって、どうやって。酒か食事に混ぜて飲ませたのか。刃物に塗って刺したのか。膏薬と偽って皮膚に塗り込んだのか」
違う、と生ける毒は低く否定した。
「ああ秘密か。そうだよな。ここで話したら、二度と他の奴に同じ手を使えなくなっちまうもんな。便利な殺しかたは秘密にしとくのが一番だ」
「おまえに何が解る!」
アルバフィカは激昂した。傷を抉る嫌な男の胸倉を掴みかける。けれど唐突に我に返り、相手に触れる前に握り拳を作って耐えた。そしてゆっくりと引き下がった。
その様子をマニゴルドは静かに見つめていた。血が毒に染まろうと、触られるだけの相手が毒に冒されることはないだろうに。
「ルゴニスのおっさんは自分が死ぬと知ってたんだろ。そのせいでおまえが苦しむことも承知の上で」
「適当なことを抜かすな」
「今のおまえを見てりゃ分かる。殺したくて殺したんじゃねえなら、おっさんの側がそう仕向けたんだろうさ。おまえならきっちり殺ってくれるって信じてたんだな。その後も一人で大丈夫だろうと思ってたんだ。大した信頼だ」
ああ、とアルバフィカは喘いだ。「そんなこと、言われなくても……」それから溢れ出す激情を抑えるように口元を手で覆った。
マニゴルドは視線を逸らした。
やがて、アルバフィカが鼻を啜りながら呟いた。「先生はおまえの話をしなかったんだ」
話の繋がりが分からず、マニゴルドは聞き返した。
「おまえが無位のまま聖域を去ったと私は知らなかった。魚座の聖衣を授かった時、教皇宮に黄金聖闘士が集まったんだ。その中におまえもいると思っていた」
その頃の彼は俗世を放浪中である。帰還が遅くなって悪かったとマニゴルドは謝った。
「もういいさ。代わりに教皇猊下が気を遣って下さったから。でも無性におまえと馬鹿話をしたかったよ。先生が元気で、私も遠慮なく他人と触れ合えた頃の思い出を肴にして」
「今からすればいいじゃん」
事も無げに言うマニゴルドに、アルバフィカは「そうだな」と笑って同意した。
魚座の住まいを出てまもなく、マニゴルドを発見したアスプロスが「いたいた」と駆け寄ってきた。彼を探していたようだ。
「おまえにも手伝ってもらうぞ」
「何を?」
「アテナ捜索だ。ハスガードが、獅子座の聖衣とイリアス殿の息子を探すと怪気炎を上げている。あれは抑えられん」
ははあ、とマニゴルドは顎を撫でた。アスプロスの意図は分かる。
任務を失敗したハスガードに、改めて聖衣とレグルスを探しに行く許しはおりないだろう。調査はできても、表向きは他の者に行かせることになる。居所を突き止めた後は、イリアスの縁者であるシジフォスに保護させるというのが無難なところだ。しかしシジフォスは真面目な男。身内より先にアテナを見つけるのが最優先だと主張するに決まっている。ならばその課題を解決して、後顧の憂いなくレグルス捜索に取りかかれるようにすべきだ――と、ハスガードを誘導したのだろう。
「角を矯めて牛を殺さないようにするのも大変だねえ」
「真面目な話、これだけ黄金聖闘士が揃っているのに主神が不在では、下の者を不安がらせる。聖域は、シジフォスだけに任せていないで全力を挙げてアテナをお救いする時期にきている。手始めに俺たちはシジフォスの足跡を再検討する」
「たちって誰だよ」
薄々気付いているが尋ねてみる。アスプロスはにやりと笑った。人前では決して見せないような表情だ。
「俺とハスガードと神官数名、それからおまえな。教皇の密命とやらで各地を経巡っていた者の意見が欲しい。今まで遊んでいた分、せいぜい役に立てよ」
「遊んでねえって。それより教皇はそれ知ってんのか」
双子座はやや関係ない話から入った。
「……マニゴルドが聖域に戻ってきた日、俺は教皇宮に出仕していた」
「うん。だからジジイと一緒に下りてきたんだろ」
「ハスガードから受けた報せをお耳に入れた後の、猊下の様子をおまえにも見せたかったぞ。興味のない素振りをなさっておいでで、俺が何度かお誘いしてようやく腰を上げられた。本当はすぐにでも飛んでいきたいという顔をなさっていたのにな。十二宮を抜ける速さは驚異的だった」
顔の下半分をごしごしと擦って、マニゴルドは照れ臭さをごまかした。「つまり何が言いたいんだよ」
「つまりあの方は教皇だ。一度決定を下されたことを容易に翻すわけにはいかない。黙認とか追認とか、やりようはいくらでもあるが、俺たちの側から働きかけなければ、あの方は動けないんだ」
「強情なのは年寄りだからだろ」
「教皇位にそれだけの力があるということだ。ご自身は柔軟な方だから、多少の先走りは容認頂ける。心配ならおまえからお伝えしてほしい。弟子の経験が人の役に立つとなれば、猊下も否とは言われまい」
「そうかねえ」
アスプロスは彼の肩を小突き、マニゴルドも同じようにやり返した。途中でハスガードも合流した。
「なんだ、おまえたち一緒にいたのか。ということはマニゴルドも話は聞いているな。地道な突き合わせ作業だが、頼むぞ新人」
「へっ。伊達にジジイの手伝いしてねえよ。俺に掛かればそんなのあっという間だ」
「それはいい。いっそシジフォスが帰ってくるまでに片付けてしまうか」
盛り上がるハスガードとマニゴルドに、アスプロスが水を差す。
「言っておくが彼は今週には帰還するぞ」
「まじか。じゃ無理だ」
「おい諦めるなマニゴルド」
彼らと行き違う一人の青銅聖闘士がいた。これから外地に赴くのだろう。旅装である。目下からの挨拶に、アスプロスとハスガードは軽く返して通り過ぎていく。旅装の青銅位もそのまま去りかけたが、「アンサー」と名を呼ばれて振り返った。
そこに佇むマニゴルドと彼は、同じ時期を候補生仲間として過ごした。称号持ちと候補生という差が出来た時期もある。今や立場が逆転した。
黄金位が「気い付けてな」と声を掛け、青銅位は「お言葉ありがたく頂戴します」と微笑んだ。そしてかつての修行仲間はそれぞれの道を歩き始めた。
マニゴルドは先で待っていた二人に追いついた。三人の若者は十二宮の連なる山を目指して、明るい道を歩んでいった。
――アテナの化身である少女が、シジフォスに見つけ出されるのはこの半年後。獅子座の聖衣とイリアスの遺児が保護されるのも、同時期のことである。
◇
それから同じ季節を迎えること五回。青空はいつもと変わらない――何も知らない無辜の民にとっては。
無数の墓碑が建ち並ぶ緑の丘。柔らかな草が風に靡き、生まれたばかりの銀色の波は丘の向こうへ越えていく。
一つの墓碑の前に二人の若い候補生がいた。墓碑に刻まれた名は彼らの師のもの。前日に命を落としたばかりだった。
それを遠目に見つめている別の少年は、憂いに顔を曇らせている。背負われている箱から、彼が称号を得た正式な聖闘士であることが見てとれる。箱に刻まれた浮かし彫りは翼もつ馬。天馬星座《ペガサス》の少年が、人知れず聖域を離れようとしていた。
高処から見下ろしていたマニゴルドは、酷薄に見える笑顔を浮かべた。
(悲劇の英雄みたいな面しやがって。それを捕まえようってんだから、さしずめ俺は悪役だよな)
彼は教皇の命を受けて、これから天馬星座の青銅聖闘士を拘束するところだ。
アスプロスがいれば、初志貫徹して天馬星座に成り代わるのか、と昔のことを持ち出してからかっただろう。しかしアスプロスはもういない。二年前、天馬星座が現れる前に彼は死んだ。双子の兄の死後、弟のデフテロスも姿を消した。
聖戦が始まり、命を落とした聖闘士は日に日に増えている。少年時代のマニゴルドの勘違いをからかうような者たちも、多くが戦死者の列に加わった。黄金聖闘士に限っても然り。魚座が死んだ。乙女座が死んだ。牡牛座が死んだ。射手座は冥王の攻撃を受けて昏睡状態。マニゴルドは今や山羊座に次ぐ黄金聖闘士の年長者として、聖闘士を指揮していく覚悟をしなければならない。先任順ではマニゴルドより上の水瓶座と蠍座もいるが、彼らは指揮官向きではない。
幸いなことに、真の指導者である教皇とジャミールの長老が健在だった。お陰でマニゴルドも、こうして憎まれ仕事に駆り出されている。
(汚い仕事とか厄介な仕事は全部こっちに回してくんだもんな、あのジジイ。まあ性に合ってるっちゃあ、合ってるけど)
やがて天馬星座が迷いを振り切るように歩き出した。マニゴルドは機を見計らってその前に姿を現す。唐突に現れた初対面の男に戸惑い、少年は問いの声を上げた。曲がりなりにも聖闘士なら黄金聖衣から見当を付けろと言いたいところだが、勉強不足はこの際許してやろう。
彼は黄金の聖衣を煌めかせ、堂々と答えた。
「俺か? 俺は蟹座《キャンサー》のマニゴルド――」
「蟹座の黄金聖闘士の話」(完)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。本編はこれにて完結です。このあとは年表といくつかの番外編を掲載予定です。