【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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師匠と弟子

 

 ルゴニスが住まいに戻ってきたとき、弟子は夕食の支度をしていた。訓練はとうに終わっている時間だったから、悪童が顔を出したかどうかを聞くと、たったいま帰ったところですとアルバフィカは答えた。

 

 道ですれ違わなかったことに、ルゴニスは小さな違和感を覚えた。

 

 ――薔薇園から物音がした。

 

 何かが地面に落ちる微かな音だった。アルバフィカには聞こえなかったようだ。ルゴニスは何食わぬ顔で表へ出た。

 

 夕方の空気に馥郁たる花の香りが溶けていく。

 

 世界各地から集められた様々な種。歴代の魚座の黄金聖闘士が改良を重ねてきた種。それらが織りなす薔薇園が、彼の世界だった。

 

 その中心に位置するのは、魔宮薔薇《デモンローズ》と名付けられた種だった。根でも棘でもなく、花の香気に毒があり、その香気を吸った者は死に至る。警戒線に張る罠として用いると絶大な効果があり、風向きによっては近づくことさえ命取りだ。

 

 例外はこの庭の主とその弟子だけだった。十二宮最後の防衛を担う者は、この毒薔薇と生活を共にすることになる。毒死した生き物を片付けるのも、二人の日常のうちだった。だからこの時も、迷い込んだ渡り鳥が犠牲になったのだろうと考えていた。

 

 ルゴニスは毒薔薇の生い茂る美しい庭に足を向け、その手前、毒の香気が外に漏れないようにしてある境目に、倒れている人影を見つけた。

 

「……マニゴルド」

 

 肝が冷えた。

 

 辺りには薔薇の香りが満ちている。

 

 ルゴニスは急いで少年を抱き起こした。力を失った体を衣に抱えて住まいに急ぐ。同時に小宇宙《コスモ》を用いて教皇宮の主へ念話を送った。

 

(猊下、火急の用件につき念話で失礼いたします)

 

(魚座か。いかがした)

 

 セージの平静な「声」で、ルゴニスも冷静さを取り戻した。端的に事実を伝える。

 

(マニゴルドが我が薔薇園で倒れているのを見つけました)

 

(すぐに行く)

 

 防衛に使う魔宮薔薇のことは、教皇もよく知っている。魚座の薔薇園で倒れたということは、その毒を吸い込んだ可能性が高いということも。

 

 住まいに飛び込んだルゴニスは、手近にあった作業台に少年の体を横たえた。その様子にアルバフィカが不安げに声を上げた。

 

「一体どうしたんですか」

 

「魔宮薔薇だ」

 

「具合が悪くなったんですか?」

 

 今ひとつ状況を飲み込めていない弟子に、入り口に立っているよう言いつける。

 

「もうすぐ教皇がおいでになるから、おまえはお迎えを」

 

「それには及ばぬ」

 

 深みのある声が遮った。ルゴニスとアルバフィカは同時に部屋の中を振り返った。そこには教皇の兜と法衣を身に付けた老人が立っていた。声の主は、間違いなく教皇セージだった。

 

「猊下……」

 

 いくら何でも早すぎる。ルゴニスは戸惑った。教皇宮からここまで来るには、十二宮を通る長い道を抜けてこなければならない。まして広くもない室内にいつ入られたのかも気づかないなど、あり得ない。

 

 恐らく思った以上に気が動転しているのだと己に言い聞かせ、ルゴニスは状況を説明した。

 

「当時の風向きは?」

 

「私が駆けつけた時には無風でございました」

 

 教皇は台の上の少年の容態を調べた。呼びかけても応じない。吸い込んだ毒が少なかったことを祈るばかりだ。魔宮薔薇に解毒法はない。

 

 ルゴニスはセージの前に膝を折った。「私が園の管理を怠ったばかりにこのような事態になりましたこと、申し開きのしようもございません。どのような処分であろうとお受け致します」

 

 本来、彼がそこまで謝る必要はない。彼は教皇の次に地位が高く、翻って少年はただの子供に過ぎないのだから。ただ少年がセージ個人にとって特別な存在であることを、ルゴニスは知っていた。

 

「そなたが謝ることではない。管理に問題があったのではなく、大方この者が好奇心で薔薇園に忍び込んだのが原因だろう」

 

 突き放したように言ったかと思うと、教皇は少年に向き直った。そして「この愚か者が」と呟いて、少年の額に手を置いた。

 

 子の熱を測る親のような教皇の姿に、訝しんでアルバフィカが師を見上げた。小宇宙を送り込んで少年の体力を高めるのだと説明し、ルゴニスはセージの気が散らないように弟子と共に部屋の隅に引き下がった。

 

「先生、あいつはどうして倒れたのですか」

 

「薔薇の香気を吸ってしまったらしい」

 

「魔宮薔薇の毒ですか? でも、私も小さい頃は気分が悪くなったり頭がクラクラしたりしましたけど、あんな風になったことはないですよ」

 

「おまえは毒に耐性がある。赤ん坊の頃からここで育ったからその程度で済んだのだ。普通の人間は死ぬほどの猛毒だ。小鳥や虫だけが死ぬと思うな」

 

 人を殺すための種として存在するのだから、弟子も当然知っていることだと思っていた。けれど薔薇と共に育ってきた子供には、当たり前ではなかった。

 

「死ぬ?」

 

 血の気が引いて美しい顔はますます人形めいた。「どうしよう」と震える声で呟くと、アルバフィカは教皇の裾に縋り付いて告白した。「ごめんなさい、教皇様。私のせいです。私が止めなかったからいけないんです」

 

「どういうことだアルバフィカ」

 

 師匠の止める暇もあればこそ。ごめんなさいと何度も繰り返すアルバフィカの前に、セージも腰を屈めて視線を合わせた。

 

「こやつには薔薇園に近づくなと言い渡してあった。それを無視して園内に入り込んだ時点で、自業自得というものだろう。そなたが気に病むことはない」

 

 微笑みこそないが、悲しみと慈しみに満ちた老人の眼差しに、アルバフィカの胸が苦しくなった。

 

「違うんです。マニゴルドに、弟子しか知らない魚座の秘密があるだろうと言われて、代々世話をしている毒薔薇があると答えたんです。場所を聞かれて、部外者には教えられないと言ったら、自分だって表向きには魚座の弟子だって……」

 

「それで教えたのか」

 

 いいえ、と小さな園丁は首を横に振った。「でも探しに行くのを止めなかった。毒を吸って具合が悪くなれば、もう懲りて薔薇園にも先生にも近づかないだろうと思って知らん顔したんです。ごめんなさい、魔宮薔薇が死ぬほどの毒だったなんて思わなかったんです。マニゴルドは面白いことを色々教えてくれるのに、痛い目を見ればいいと思ったから、私が先生を独り占めしたがったから、だから全部悪いのは私なんです」

 

 大人たちは顔を見合わせた。物言いたげなルゴニスを目で制して、セージはアルバフィカの頬に手を当てた。柔らかな頬は涙で濡れていた。

 

「すまぬ。そなたに妬みを抱かせたのは、私の曖昧な態度のせいだな。……泣いているのは、人殺しの咎を恐れるためか?」

 

 アルバフィカは「違います」と喘いだ。「マニゴルドが死んだら嫌だから」

 

 死なねえよ、と弱い掠り声が空気を揺らした。

 

 三人の視線が一気に作業台の上に注がれた。そこに横たえられた少年が、億劫そうに目を閉じたり開けたりしている。

 

 教皇は立ち上がり、少年の上に屈み込んだ。

 

「マニゴルド、私の顔が見えるか」

 

「……兜の陰で見えねえ」

 

 セージは苦笑した。目に毒は回っていないと分かって一安心だった。とはいえ、喉の痛みと締め付けられる胸の圧迫感を訴えるので、毒の香気を吸い込んでしまったことは間違いない。早々に教皇宮へ戻すことになった。

 

 ぐったりしている少年は、まだ自分の足で立つこともままならない。しばらくは安静にしていなければならないだろう。事情によりルゴニスが抱きかかえていくことはできず、代わりに誰か運ばせる者を呼びにやろうとした横で、教皇が動いた。

 

「猊下?」

 

 セージは少年を抱き上げた。まさか教皇自ら少年を背負って十二宮を登った経験があるとも知らず、ルゴニスは慌てた。

 

「なにとぞ猊下、マニゴルドを運ぶ役目は他の者にお任せください。下々の目がございます。少しお待ちいただければイリアスでも呼んで参りますので」

 

 同輩を足代わりにしようとするのを断り、教皇は小さく笑った。

 

「案ずるな。人目には付かぬ道を行く」

 

 近道を使うというので、ルゴニスは引き下がった。来た時もその道を使ったから到着が異様に早かったのだろうと彼は推測した。

 

 教皇はアルバフィカを見下ろした。安堵と罪悪感で泣きじゃくる子供に、静かに語りかける。

 

「この者が死ぬのを望まぬなら、もっと強くあれ、アルバフィカ。魚座の子よ。ルゴニスの弟子はそなたしかないのだから」

 

「はい……はい、教皇様」

 

 頷く子供の後ろで、ルゴニスは床に額ずいた。

 

「魚座よ」

 

 頭上から降ってくる穏やかな声に「はい、猊下」と答える。顔を上げられなかった。

 

「そなたを咎めるつもりはない。此度のことは全て私の不徳の致すところだ」アルバフィカの嫉妬の原因も、悪童が薔薇園に入り込む余地を作ったのも、ルゴニスの好意に甘えた己の責任だと教皇は言うのだった。「弟子アルバフィカの認識不足については不問に処す。本来は禁足地であるこの花園に悪童を近づけさせたのが過ちだった。マニゴルドの師として借りたそなたの名は返す。今まで面倒を掛けた」

 

「猊下のご寛恕に心より感謝申し上げます。力及ばず誠に申し訳ございませんでした」

 

 アルバフィカは目を見張った。師と二人きりの世界が戻ってくるはずなのに、願いが叶って良かったとはとても思えなかった。だが師が受け入れたものを、弟子が覆すわけにもいかない。唇を噛んだ。

 

 帰ると宣言した老人の腕の中で、少年が身動きした。アルバフィカを見て、何かを言おうとする。アルバフィカはどんなに小さな声でも聞き漏らすまいと、目と耳を澄ませた。教皇が一歩引いた。

 

 と、教皇と少年の姿が消えた。

 

 帰る瞬間を見逃したという意味ではない。彼らはこの世界に初めからいなかったかのように、存在の痕跡すら残さずに消えていた。

 

 ルゴニスは呆気にとられている弟子を呼んだ。説教だ。アルバフィカがいくら猛省しても、嫉妬で他人を害しようとしたことは、未熟の一言で済ませられるものではなかった。ましてその道具に魚座の象徴たる薔薇を使うなど、もってのほかだ。

 

 そういえば、とルゴニスは思った。あの少年はなぜ魔宮薔薇に――というより魚座の秘密とやらに興味を持ったのだろう。

 

          ◇

 

 泣いているアルバフィカに向けたはずの言葉は、生温い闇に吸い込まれていった。夜道のような、暗い、暗い、寂しい世界。アルバフィカもルゴニスの姿もなく、部屋の壁も天井も消えて、あるのは厚い雲に閉ざされた薄暗い道。

 

 周囲の風景が一変したことに驚き、少年は目を擦った。そして目を開けると今度は教皇宮の自室にいた。白い壁、石の床、木枠の窓。質素な寝台と棚。瞬きしても目を擦っても、見慣れた風景のまま、もう何も変わらなかった。清涼な風が頬を撫でた。

 

 何が起きたのか。

 

 ずっと共にあったと確信できたのは自分を抱くセージの肉体だけで、少年はうろたえて彼を見上げるしかなかった。ところが老人が平然としているので、毒のせいで幻を見たのだと少年は思うことにした。物を考えようにも意識がバラバラでまとまらない。それほど今の体験は奇妙だった。

 

          ◇

 

 セージは抱いていた体を寝台に下ろした。少年はごろりと横になった。

 

「水は飲めるか」

 

 小さく頷く様子に、普段の生意気さはなかった。隣の自室から水を持ってきてやったついでに、セージは寝台の端に腰を下ろした。

 

「魚座の花園には猛毒の種があると言ったはずだな。おまえの行為のせいでルゴニスは多大な迷惑を被った。ルゴニスだけでなく、アルバフィカもだ」

 

「あいつらは関係ない。全部俺が勝手にやったんだ」

 

 少年はのろのろと反論した。いくら聞いてもアルバフィカは薔薇の場所を吐かなかった。だから代わりに亡霊に聞いた。毒薔薇の所に道案内してくれたのは、かつて魚座の庭に入ったことのある亡者たちだ。そう話して、老人を反抗的に見上げる。

 

「仮にそうだとしても、二人に累が及ぶと想像できなかったのか」

 

「だってあいつもルゴニスのおっさんも悪くねえ」

 

「おまえは誰も巻き込まずに一人で動いたから迷惑は掛けていないと言いたいのかも知れんが違う。もしルゴニスが気づくのが遅れておまえが死んでいたら、ルゴニスは庭の管理責任を問われることになっただろう。薔薇のことを教えた自分のせいだとアルバフィカは苦しむだろう。何より、世話をしている薔薇のせいで誰かが傷つくことを二人が気にしないと思うか?」

 

 静かに諭すと、少年は手の中のグラスを転がした。一人で生きてきたという自負はおまえにもあろうが、と前置きしてセージは静かに話を続けた。

 

「池に石を投げ込むと、どうなると思う」

 

「水がはねる」

 

「そうだな。そして波紋が立つ。では投げずに水面間近から静かに落とせば、波紋は立たずに済むか」

 

「…………」

 

「石でなくてもいい。葉が落ちようと羽虫が留まろうと、水面の一点に動きがあれば必ず周りに影響を及ぼす。人も同じことだ。おまえの行動は、必ず誰かに影響を及ぼす。それは近くにいる私かもしれないし、世界の裏側の誰かかもしれない。近くにいるほど速やかに影響を受けるから、今のところ私が一番の受け手だろう」

 

「俺は生きているだけで迷惑になるってか」

 

「勘違いするでない。振る舞いの先には自分以外の誰かがいることを考えろと言っているのだ」彼は深く息を吐いた。「おまえに大事無くてよかった」

 

 額に手を当ててやると、少年は送り込まれる小宇宙に身を委ねて目を閉じた。小さく唇を動かす。ごめん、と声のない呟きが生まれた。

 

 セージは「ああ」と応えた。

 

 少しすると、少年の顔色がだいぶ良くなってきた。まだ話していられそうだったので、教皇は事の真相を確かめるべく、寝台横の椅子に座り直した。悪童は眠ったふりをしようとしたが、それには乗らずに問いかける。

 

「さて、このまま有耶無耶にするわけにはいかぬぞ、マニゴルド。正直に答えよ。魚座の秘密を探り、何をしようとしていた?」

 

 グラスを取り上げられてしまったので、少年は代わりに毛布の端を弄っている。しばらく黙っていたが、老人が一向に諦めないので、いかにも気乗りしない態度で渋々答えた。

 

「俺が魚座の弟子だっていう証拠を見せなきゃならなかったんだよ」

 

 訓練で顔を合わせる候補生たちに、教皇との繋がりを疑われ、それを払拭するために魚座の弟子だという証拠が欲しかったのだという。ルゴニス本人を訓練場に連れて行って証言してもらうことは気が引けたので、弟子の知る魚座の秘密を一つ見せるということで、候補生たちと話をつけた。そしてアルバフィカに聞いて毒薔薇のことを知った。まさか薔薇の毒が香気にあるとは露知らず、棘に触らなければ大丈夫だろうと高をくくっていた。

 

「でもこのざまだ。ちょっと他の作戦考えないと駄目だな」

 

「他か」セージはさりげなく言った。「ではもう師をルゴニスと偽るのは止めてしまえ」

 

 その意図を探る無言の問いに、彼は答えた。――私の弟子になればいい、と。

 

 セージの言葉に少年は押し黙る。ややあって「何で」とぶっきらぼうに吐き捨てた。「俺はべつにあんたを先生と呼びたいわけじゃない」

 

「私もそう呼ばれたいわけではない」

 

「だったら何でだよ。あんだけ人を教える立場にないって言っておいて、何を今更。お偉いさんの気紛れか」

 

「気紛れでもなんでもない。出会った時から私はおまえに生を伝えたいと思ってきた。友が言うには、それは教えたいということなのだそうだ。師弟とは聖闘士に留まらず、教えたいこと、教わりたいことがある二人の関係を指すのだと指摘されてな。だから正しくは、我らはすでに師弟ということになるが」

 

 ただの言葉に価値はなく、在りかたが重要なのだと獅子座は言った。生の意味を教える以上の師弟関係はないと魚座は言った。対外的に面倒のない関係性だと兄は言った。他人に指摘されるまでもなく、この幼い者を導くのは己の役目だと、セージは悟っていた。

 

「ただ、私の弟子だと知れれば余計な気苦労を背負うことになるだろうから、それは先に詫びておく」

 

 少年は彼を見つめていた。

 

「友って誰」

 

「若い連中よ」

 

 ふうん、と気の入らない相槌を打って、少年は「疲れた」と目を閉じた。セージも「おやすみ」と一声掛けて腰を上げた。

 

 戸を閉めかけた時、少年に呼び止められた。

 

「どうした」

 

「俺さ」

 

 廊下から差す明かりが、子供の顔をおぼろげに照らしている。しばらく待っていると、少年は「俺さ」と繰り返した。

 

「自分が可愛げのないガキってのは分かってるけど、ガキ相手だから何をしてもいいと思われるのは、嫌なわけ。駄目なら駄目って先に言ってほしいんだ」

 

 拙いながらも一所懸命言葉を探して、伝えたいことを伝えようとする姿を、セージは見つめた。

 

「だからさ、明日、俺がもし先生って呼んでも『気が変わった。馴れ馴れしく呼ぶな』って言って殴るなよ」

 

 彼は束の間言葉を失った。そんな理由で殴られたことが、この子供はあるのだろうか。誰かを頼り、突然裏切られた経験が、世間を警戒する一匹の獣を生み出したのだろうか。

 

 彼は部屋に戻り、枕元に近づいた。少年の目がじっとその姿を追いかける。

 

「私はそんなことをする人間だと思われているのか」

 

 少年はゆっくりと首を横に振った。

 

「でもあんたは警戒してる。弟子になれって言いながら、それを面倒だと思ってる」

 

 自覚していたはずなのに、改めて指摘されてセージは焦った。

 

 彼は指揮官として他人の生死を握る立場にある。その地位を怖いと思うのと同じくらい、怖いのだ。生まれて初めての教え子となる存在が。常人より長く生きてきても、否、長く生きてきたからこそ、未知のものへの恐れがある。

 

 ゆっくりと「大丈夫だ」と声に出した。そう、大丈夫。なにも難しく考えることはない。むしろこの歳で初めてのことを経験できるなど、僥倖ではないか。

 

「明日も私はおまえの師でいる。だから明日を疑わずに眠るがいい」

 

 瞼の上に手を翳そうとすると、察した少年は毛布を素早く頭まで被ってしまった。

 

「おやすみ、マニゴルド」

 

 もう一度声を掛けてから、セージは静かに廊下へ出た。仕事に戻るつもりだった。ルゴニスからの知らせを受けて、書類を放り出してきたままだ。そんなに慌てて飛び出すことはなかったな、と思ったが、結果論である。しばらく使っていなかった「近道」を開いてまで少年のもとへ駆けつけた。その事実は取り繕えなかったし、後悔もしていなかった。

 

 途中で見かけた用人を捕まえて、少年の具合が悪いことを伝えた。

 

「もしや猊下が世話をされたのですか」

 

 いくら慈悲深い教皇とはいえ、自らの手で他人を看病することはない。驚く用人に、セージは笑って返した。

 

「あれの面倒を見るのに何ら不思議はない。マニゴルドは、私の弟子だ」

 

 目を剥いて仰天するかと思ったのに、相手は「ようやくご決心なさいましたか」と感心するのみだった。拍子抜けしたまま、教皇は執務室に向かった。

 

 一人の夕食で、何となく思い立ってワインを空けた。イタリア視察の折に買ってきた、兄への土産の残りだった。

 

 結局兄の言う通りになった。

 

 兄だけでなく、周囲の誰もが、セージたちが師弟関係になることを予想していたらしい。つまりはきっと自然な流れなのだろう。考えてみれば、里子に出すでもなく、候補生の宿舎に放り込むでもなく、使用人として使うでもなく、ただ側に置いていたのだから、当然だった。抵抗があったのは当人だけというわけだ。

 

 

 翌朝、彼は従者を伴わずに一人で少年の使う部屋に入った。

 

 戸が開いた瞬間に身を起こした少年は、近づいてくる老人の姿を、部屋の隅から見据えていた。ちなみに床で獣のように眠る習慣は未だに直っていない。

 

「おはよう」

 

 相手は恐る恐る「おはよう」と返した。セージは微笑み、その正面にしゃがんだ。

 

「さて、問おう。我が弟子は私をなんと呼んでくれる?」

 

 少年の目に喜びが浮かんだ。

 

 秘密を打ち明けるよりもそっと囁かれた答に、セージは満足して頷いた。

 

 ――こうして無名の浮浪児は教皇セージの弟子として、セージを「お師匠」と呼ぶ唯一の存在になった。マニゴルドという彼の名が聖闘士の歴史に登場する日は、まだ遠い。

 

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