聖闘士の一団が聖域に戻った。羽織っているのは黒い外套。背負っているのは一様に大きな箱。揃いの姿は、彼らが外地での任務を終えたばかりであることを表していた。
先頭を歩いていた者が言った。「女神像が見えると、やっと戻ってきたって感じがしますね」
確かに、と別の者も同意する。集団の一人が最後尾を振り返って尋ねた。「蟹座様、このまま報告に上がりますか」
全員が答を待った。
蟹座と呼ばれた男は、年の頃は二十歳を少し過ぎたばかりと見えた。一行の中には彼より年長の者もいる。しかし彼が集団の統率者ということは、周囲の態度で明らかだった。
蟹座は鷹揚に頷く。「そのつもりだ。一日は早く帰れたはずだからな」
休む間もなしか。そう思った部下たちが落胆する寸前、彼はにやりと笑った。途端に雰囲気が変わる。冷静な指揮官から陽気な若者へ。声さえも軽くなった。
「……でもまあ、おまえらも楽しめただろう?」
茶目っ気のある笑みにつられ、一行の雰囲気はぐっと砕けたものになった。
「そりゃあ、楽しませてもらいましたよ!」
「お陰様でいい女に当たりました」
命令を矢継ぎ早に出して任務を早々に終わらせた蟹座は、すぐには聖域に戻らなかった。浮いた時間を自由時間として部下たちに与えたからだ。若い聖闘士たちは身銭を切って女を抱かせてくれた上役を、良き兄貴分として慕うようになっていた。
「帰還を遅らせると聞いた時には、耳を疑いましたけどね」
年長の部下が苦笑しながら言うと、蟹座は彼にだけ聞こえるよう囁いた。
「聖戦が始まりゃ、こんな悠長なことはしてやれないからさ。若い連中には今のうちに生を謳歌させてやらねえと」
部下の肩を軽く叩き、自身もまだ若い蟹座は前方に向かって声を張り上げた。
「おまえら、女の話はまた後でな。さっさと上への挨拶済ませるぞ」
一行は任務の報告のために山の頂を目指す。山上に立つ女神像の足元では、聖闘士を統括する老人が待っている。
◇
十二宮で最初に訪問者を迎えるのは白羊宮である。
まだ正式な守護者ではないが、その候補者が入り口で待っていた。傷ついた聖衣があれば修復を行うためだ。少年の視線は一行を順に巡った。
「皆様の聖衣は無事ですか」
聖闘士の怪我より聖衣を先に気にするあたり、さすがに修復師見習いだった。近々牡羊座の称号を授かることが内定している、早熟の英才である。
蟹座が応えた。「牛飼座のが少し擦ったが、修復してもらうほどじゃねえ。他は無傷だ」
「擦った? 黄金がついていながら」
厳しい非難の目を向けられ、蟹座は「おお怖い」と肩を竦めた。牡羊座は火の気性が強い。おどけた仕草に少年は却って苛立った。他の聖闘士もいることを忘れて、物心が付く頃からの知り合いに詰め寄る。
「いつもそうやって茶化す。黄金たるもの、少しは目下の模範たるべく行動しろ!」
「その手の説教は聞き飽きてるの、俺。皆のお手本には他の黄金がいるからいいだろ。上が堅い奴ばっかりじゃ下も息が詰まるって。じゃあな」
昔遊んでやった洟垂れ小僧に説教されても、蟹座にとっては痛くも痒くもない。男は修復師見習いの肩を叩き、へらりと笑って立ち去った。
二番目は牡牛座の守る金牛宮。
守護者は大らかに一行の帰還を歓迎した。「全員無事で何よりだ」と一人一人の背中を叩く。丸太のように太い腕が叩くのだからさぞや痛いだろうと思いきや、繊細な動きにはむしろ包み込む優しさがある。
牡牛座は彼らを統率してきた若者にも同じようにした。そして温かい目を向けた。単身の任務と、今回のように集団を率いて臨む任務では、苦労の種類が異なることを牡牛座は知っている。
「ご苦労だったな。猊下もお喜びになるだろう」
「どうだか」
素っ気なく応えた蟹座に、牡牛座は微笑んだ。
行け、と示された出口へ聖闘士たちは足を向けた。
三番目は双児宮。
蟹座が見たところ、聖域で最も「聖闘士の規範となる男」の役が上手い守護者がいるところだ。
双子座は眉を顰めて一行を見やった。
「聖衣をまとわずに教皇の御前に出るのか?」
咎める側の一分の隙もない聖衣姿に、下位の聖闘士たちは姿勢を正した。任務の報告のために上がるとなれば、双子座の言う通り聖衣をまとうべきだった。蟹座だけは飄々としている。
「俺の宮で着替えるから大丈夫だって。荷物もそこに置いていけばいいし、手間がない」
「おまえがその態度だから下の者まで緩むんだ」
溜息を吐くと、双子座はつかつかと蟹座の前に立ち塞がった。蟹座は部下たちに目配せして先に行かせた。彼の守護宮はこのすぐ上だ。双子座はぞろぞろと出て行った者たちを無視して、蟹座の首回りを覆う布を引っ張った。
「ぐえっ」
わざとらしく悲鳴を上げても、相手はにこりともしなかった。
「統率すべき黄金がもっとも着崩しているとは嘆かわしい。なんだこのクラバットのだらしなさは。直せ」
「いいじゃん別に。おまえ小姑かよ」
「なんだと」双子座に冗談は通じない。
「何でもないです。もうすぐ着替えるから見逃してお願い首締めないで」
「直せ。猊下の寛大さにおまえは甘えすぎだ」
双子座の許可を得て蟹座が這々の体で双児宮を抜けたとき、巨蟹宮で待っていた部下たちはすでに聖闘士の正装たる聖衣を身に付けていた。
蟹座の守護宮たる巨蟹宮。守護者空位の獅子宮。その次は六番目の処女宮だ。
乙女座の地位にある者は、己の信仰を変えようとしない異端者として、腫れ物のように扱われていた。
「通るぞ、クソ坊主」
しんと静まりかえった建物内に蟹座の声が響いた。返事はない。彼は構わず歩を進めた。一行も彼について無言のまま歩いた。
処女宮を抜けた聖闘士たちはほっと息を吐いた。一人が蟹座に「大丈夫なんですか」と恐る恐る尋ねた。
「大丈夫って、何が」
「あのような……呼びかたをなさっても」
「別に声なんか掛けなくたっていいくらいさ」
敬虔な女神信仰者である牡牛座は、乙女座を背信者呼ばわりして憚らない。蟹座もそうなのか、と皆思った。だが理由は違った。
「今あいつの魂はここにいないからな。抜け殻に声掛けても聞こえやしないんだよ」
死の向こう側に通じる者の話である。誰にも理解できなかった。
守護者空位の天秤宮を抜ければ、八番目の天蝎宮。
素通りに近い宮ばかりの後に、十二宮で最も面倒な守護者が待ち受けている。
蟹座は深呼吸した。他の者も気合いを入れ直した。
宮に入った途端、先頭の蟹座を影が襲った。すばやく避ける。が、それは執拗に彼の首を狙った。蟹座は舌打ちし、加減せずに相手を蹴り飛ばした。
「遊んでる暇ねえんだよ、こっちは」
「つまんねえの」
けろりとして立ち上がった蠍座は、一行をじろじろと眺めた。皆、目を逸らした。外地での任務を命じられることのない蠍座は、常に刺激を求めている。そのために天蝎宮を通る者に片端から攻撃を仕掛ける時があるが、所用あって通過したいだけの者には迷惑でしかない。
「なあ、おまえらシチリア行ったんだって? てことは、あの怪物の様子を見に行ったんだろ。どうせなら封印解いてくれば面白かったのに」
とんでもないことを言う蠍座に、一同は血の気が引いた。蟹座が静かに言った。
「今のは聞かなかったことにする」
「ちっ、臆病者」
「臆病でも何でもいい。後で相手してやるからとりあえず通してくれ。教皇への謁見を済ませたい」
黄金聖闘士らしくないと評される蟹座も、奔放な蠍座に比べれば真っ当な常識人だった。
「いいよな、おまえは。上に行けば教皇に遊んでもらえるもんな」と蠍座は子供じみた表情でぼやいた。
「馬鹿言え。説教食らいたいなら一緒に連れて行ってやるよ」
「冗談!」
からからと笑う間に、蟹座は部下たちを追い立てて天蝎宮を去った。
十二宮九番目は人馬宮。守護者は留守だった。
射手座はイタリアの地から女神を見つけ出した功労者だ。そのためなのか、自覚の無いまま女神に奉られてしまった少女に対して、保護者めいた感情を抱いているようだ。留守にしているのも、おそらくは女神のお守り、もといご機嫌伺いに行っているためだろう。
十番目の磨羯宮。
守護者は宮の手前の階段に座ってぼんやりしていた。浮かべている厳しい表情と普段の訓練で見せる求道者ぶりから、思索に耽っていると思った者もいた。だがその実ぼんやりしていた。
蟹座が「よう」と声を掛けると、山羊座は「おう」と応えた。
長い付き合いだ。それで通じた。
十一番目の宝瓶宮まで来れば、頂上の教皇宮まであと僅か。
水瓶座は冷静沈着というより冷淡な目で、聖闘士たちの通過を受け入れた。土産があると蟹座は告げた。
「心遣いに感謝する。一体何だろうか」
水瓶座の生まれ年は蠍座と同じだという。落ち着きを少し分けてやれと周囲がいつも思っていることは、当人たちは知らない。
「読みたい本があるってこの前言ってただろ。偶々見つけた」
題名を伝えると、水瓶座の目がきらめいた。彼は読書を好む。両手でがっしり蟹座の腕を掴み、肉食獣の目でその顔を覗き込んだ。
「本当か。本当にあの書物を手に入れてくれたのか。いくらだ? いくら出せば譲ってくれる」
「落ち着けって。おまえへの土産だ。金は要らねえ」
蟹座は苦笑して、腕に掛かった水瓶座の手を外した。ここまで喜んでくれるなら、任務の後で骨董屋に寄った甲斐があった。骨董屋に寄る気になったのは、部下たちと同じ娼館に入ったものの外れを引いて時間が余ったから、という事実はこの際置いておく。
「ああ、本当に心から感謝する。ありがたい。しかし、あの稀覯本をただで貰うのは気が引ける」
水瓶座の真摯な申し出に蟹座は少し考え、代わりの案を出した。蠍座の相手をして欲しいと。
「用事が済んだら遊んでやるって言っちまった。だけど今日はこいつらとの約束があったんだ。だからあいつの気を逸らして、報告が終わって下りてくる時に顔合わせずに済むようにしておいてくれ」
「難しいが承知した。氷の柩に閉じ込めてでも成し遂げよう」
「頼むわ。本は巨蟹宮に置いてきたから、明日にでも届ける」
「承知した!」
弾んだ声で水瓶座は言い、蟹座を快く送り出した。
十二宮の最後。双魚宮。
守護者の魚座は姿を見せない。彼が人を避けて守護宮の奥に籠もっていることは、聖域でもよく知られている。蟹座が通路の奥に向かって怒鳴った。
「相棒が帰ってきたんだから、お出迎えくらいしてくれよな!」
「ふざけるな。私の相棒は薔薇だ」
と、同じくらいの大声が奥から返ってきた。魚座が正しい。謁見を済ませたい聖闘士たちは、蟹座を促して先を急いだ。
「あいつの恥ずかしがり屋にも困るよな」
蟹座の軽薄な呟きには、部下一同、誰も同意しなかった。孤高の魚座に交流を求めるほうがどうかしている。
◇
重い扉を開けて、聖闘士たちは教皇の間に入室した。
この広間は女神や教皇と聖闘士が対面する舞台だ。聖戦が始まれば実際的な軍議の場となるが、今はまだ平時。そこで繰り広げられるやり取りは、どこか儀式めいている。
玉座に相対する位置に蟹座が膝を付き、頭を垂れた。その後ろに四人の聖闘士。指揮官と同じ姿勢を取る。代表して前列にいる者が口を開いた。
「われら五名、拝命の務めを終えて今し御前に帰還せり。輝く目を持つ戦女神よ、汝が御前に勝利と賛歌と敵の血を捧げん。大地の輝きと喜びに感謝を捧げん。全地に満つ汝の栄光を、われら絶えることなく永久(とこしえ)に讃えん」
蟹座は淀みなく述べ終えた。厳粛な雰囲気にふさわしい、朗々たる声。堂々たる態度。
その口上を受け取るべき女神の姿は、玉座にない。
代わりに玉座の脇に控えている教皇が、老熟した深い声で返した。
「此度の働き大儀であった。汝らの働きは女神の知るところとなる。おお輝く目を持った者よ、槍を掲げる者よ。彼らの賛歌を聞きたまえ。彼ら戦女神の御名によって勝利せり。願わくば御手を上げて地に平和を与えたまえ、聖闘士に祝福を与えたまえ」
女神を讃える蟹座と教皇の口上が終わると、広間にぴりりとした沈黙が下りる。
教皇が言った。「此度の始末について申せ」
蟹座は簡潔に報告した。詳細はいずれ後で報告書として提出する。
「エトナ山における封印は有効に働いており、かの怪物は未だ眠りについております。念のため私の判断で封印に補強を施しました。故意に解く者がない限り、封印が十年以内に薄れる可能性は低いと申し上げます」
「では次の検分は十年後で良いか」
「御意にございます」
「相分かった」
黄金聖闘士の指揮の下に四人の聖闘士が動くという事態は、そうそうない。エトナ山には、オリンポスの神々すら完全には打ち負かすことの出来なかった古の怪物が封印されている。今回の聖闘士の任務は、その封印の状況を確かめるというものだった。それだけの内容に教皇は五人も派遣したのだ。怪物の力を抑えられる可能性のある聖衣、古来シチリアと縁のあった聖衣、封印の贄となった者と縁のある聖衣……。怪物が復活する最悪の事態に備えて、教皇と蟹座は布陣を敷いた。
そして彼らは怪物の顎を覗き込みながら働いた。
許しを得て、蟹座以外の四人は教皇の間を退出した。彼らが出て行くまで、蟹座は微動だにせず同じ姿勢をとり続けていた。
白亜の建物を出ると、乾いた風が彼らを撫でた。ようやく一仕事を終えた安心感に、四人は緊張を解す。
「ああ疲れた。蟹座様が立派すぎて、逆にいつふざけ出すかってハラハラしてた」
「おいおい、曲がりなりにも黄金だぞ。ああ見えて我々より儀式には慣れていらっしゃるよ。多分」
「帰ったら女神のご尊顔を拝めると思ったのに、今日もおいでにならなかったな。神殿のほうにおわすのか」
「小宇宙の気配なりとも感じられれば良かったが、残念だな」
彼らは主神を見たことがなかった。射手座に伴われて聖域に還御したという噂は伝わっていたが、それだけだった。任務に出発する前の謁見でも不在だったが、帰還した時には言葉の一つも掛けてもらえるだろうと期待していた。しかし期待は虚しく外れた。
「蟹座様が残られたのは、もしかして女神への我々の思いを猊下にお伝えするためじゃないか?」
「なるほど」
一人の思いつきに別の聖闘士が頷いた。聖闘士の不満、あるいは射手座が女神を連れ帰ったというのが狂言ではないかという懸念。
「それじゃあの人が戻ってくるまで、しばらく下で時間を潰そうか」
四人は階段を下っていった。
◇
蟹座の背後で教皇の間の扉が閉まった。
任務を共にした聖闘士たちが退出して、蟹座は顔を上げた。神妙な態度はあっさりと捨てて、飄々とした素の態度に戻る。
「教皇サマ、質問二ついいですかね」
教皇の指示で、書記を務めていた神官も退出した。広間から他の者が消えると、蟹座は玉座の手前の階段に腰を下ろした。
「あんたが用心しろって言うから四人も連れて行ったけど、この任務、俺一人でもやれたんじゃないですか。俺そんなに頼りねえかな」
「馬鹿者。用心してし過ぎることはない」
教皇は蟹座の不遜な態度を咎めず、玉座の脇に佇んだまま言葉をかけた。「もっとも、若い聖闘士に場数を踏ませる目的もあるにはあったがな」
「ほらやっぱり。それって俺のことじゃないですか」
後ろの床に手をついて、蟹座は天井を見上げた。
「そんじゃもう一つ。あいつらアテナに拝謁できなくて、相当がっかりしてますよ。小宇宙の制御云々は抜きにしても、お顔だけでも見せてやれないんですか」
「聖闘士の不満はそれほど高まっているのか」
「不満ってほどじゃねえけど、勘ぐる奴はどこにでもいるもんです」
「ふむ」
蟹座は下位の聖闘士との気安い交流が得意だ。そんな者の言葉とあって、教皇も真剣に受け止めた。
「べつに聖域にいないわけじゃねえんだから、お披露目もそろそろ考えとけば、とご注進申し上げますよ」
「わかった。考えておく」
その時、教皇宮の一角から大声が聞こえてきた。射手座の声だった。常に落ち着いている射手座が、なぜか珍しく慌てている。
「なんか騒いでますよ」
「ああ、あれは女神をお捜ししているのだ」
「かくれんぼですか」
「否。ご勉学の休憩中にお姿を隠された」
事も無げに言う教皇に、蟹座のほうが驚いた。
「ならあんたものんびり構えてないで、捜さないとまずいだろ」
「おまえの戻りを待っておった。案ずるな。聖域からはお出になっておられぬようだ。すでに巫女や射手座が捜索に当たっているから、おまえは彼らの見落としていそうな所を見てきてくれ」
「え、俺も捜すの? 人使い荒すぎねえか。任務帰りだぞ」
「億劫がるな。蛇の道は蛇であろう」
それはまあ、と苦笑しつつ蟹座は立ち上がった。
「まあ女神にはご同情申し上げますがね。いきなり故郷から離されて訳の分かんねえ所に放り込まれたかと思ったら、訳の分かんねえ連中に崇め奉られて。独りになりたい時もあるでしょうよ」
「おまえもそうだったか」
「俺はべつに。ほら、下積みが長かったから」
へらりと笑ったかと思うと、彼は表情を引き締めた。
「それでは教皇猊下。射手座に絡まれないうちに、私はお暇仕ります」
と、蟹座は流れるような見事な礼をとった。
その退出を見送ると、教皇は後方を見やった。女神を捜す射手座の声がだんだんと近づいてきた。
◇
青空を背にした巨大な女神の神像は、眼下の風景には目もくれず、いつもと変わらぬ無情さで遠くを見据えていた。
一人の若者が麓から女神像を仰いだ。
神像の足元には神殿も見える。神殿と神像が建っているのは断崖絶壁の山の上だ。そこから彼のいる麓の森までは建物一つ見えない。麓から神殿に至るには、彼のいる場所とは山を挟んで反対側にある十二宮を抜けていくしかない――というのが、建前である。隠し階段が麓から教皇宮まで通じていることを知る者は、聖域でも限られている。
「俺が冥王軍に寝返るなら、まずこのことを伝えるね」どうせ冥闘士は通れないけど、と独り言。
彼は森の中に分け入った。
獣道よりも細い茂みの隙間を縫って、がさがさと突き進む。と、行く手に人影を見つけた。古木の陰にしゃがみこんでいるのは幼い少女だ。華奢な体に纏うのは、ゆったりとした優雅な白い衣。巫女と同じ装いである。
(蟻の巣でも見てるのか)
若者は音を立てないようにして少女に近づいた。
「よう、お嬢ちゃん」
突然声を掛けられて少女は振り向いた。年の頃は八、九歳。濡れた頬、腫れぼったい目元。隠れて泣いていた少女は、見知らぬ大人に身じろいだ。何かを言おうとして口を開く。
けれどそれより先に、若者は笑ってみせた。
「驚かせて悪かったな。先客がいると思わなかったんだ。この場所のことは、他の連中に内緒にしといてもらえるか」
「あなたの場所なの?」
「そ。秘密の隠れ場所。お嬢ちゃんは独りでここに来たのか。迷子だったら送っていってやるぜ」
「……迷子じゃない」
「ふうん」
若者は呟いて木の根元に座り込んだ。まあ座れよ、と羽織っていた服を横の地面に広げる。少女はその上にそっと腰を下ろした。
「どうしてイタリア語で声を掛けてきたの? ここの人は皆ギリシャ語を話すのに」
「ああ、元々イタリア出身なんだ。ちょっと仕事で向こうに行っててな、慣れでギリシャ語より先に口から出ちまった。たとえ言葉が通じなくたって、可愛い子ちゃんが泣いているのを黙って見過ごしたら、男が廃るってもんだろ」
「生粋のイタリア人ね、あなた」
少女は赤く泣き腫らした目で笑った。
「私も最近イタリアから来たの。だから余計にびっくりしちゃった」
「よし、どこから来たか当てさせろ」と若者は少女に向けた人差し指をくるくると回しておどけた。「北のほうだろ。……トレント。どうだ」
「違うわ」
「お嬢ちゃんの番だ」
少女は戸惑いながらも、素直に若者の出身地を推量する。「えっと、ナポリ?」
「残念。それじゃ俺の番だな。コモ」
「外れ。北っていうのは当たってるけど。あなたはきっと南の人ね。私が育った所の人たちとは、喋りかたが違うもの。ローマ」
「外れ。ミラノでどうだ」
「それも外れ。えっと、ええっと……」少女は言い淀む。「私、小さな町で育ったから、あんまり他の土地のこと知らなくて、その……」
「そっか。まあ当たりっこねえけどな。俺はお嬢ちゃんが絶対に聞いたことねえような、小さな町の出身だ」
「ずるい!」と少女は若者を叩いて抗議した。
すっかり元気を取り戻したような反応に、若者もほっとした。一回りも年下の小娘とはいえ、ご機嫌取りをしてしまうのは男の悲しい性である。
「それなら詫び代わりにいい物やるよ、ほら」
持ってきていた袋から取り出したのは、果物を象った愛らしい菓子の数々。イチゴ、イチジク、洋梨、レモン……。色も鮮やかだ。
「わあ、可愛い!」
若者の予想通り、少女には大いに受けた。指でつまんで、ためつすがめつしている。
「これ何?」
「フルッタマルトラーナって菓子だよ。食べてみな」
「いいの? 誰か女の人にあげるんじゃないの」
「子供はそんなこと気にしなくていいんだよ。あ、そうだ。遠慮しなくていいから、代わりにお嬢ちゃんの名前教えてくれよ。将来とびっきりの美人になりそうだ」
少女はためらい、小声で「私は……サーシャっていうの」と囁いた。
「どうしてそんな小さな声なんだ。綺麗な名前じゃないか。ロシア系だからって苛められたことでもあるのか」
「この名前はもう捨てなさいって言われてるの」
そう言うと、少女は両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。「ここに連れて来られる時に、今までの生活は忘れなさいって言われた。でも……できないの。儀式の時に何していいかも覚えられないし、小宇宙の使い方も分からない。早く覚えなきゃいけないのに、だめなの。私、全然なにもできないの」
再び泣き出した少女の横で、若者は頭を掻いた。
「それが悔しくて、お嬢ちゃんはここで泣いてたってわけか」
若者の言葉に少女はこくりと頷いた。俯いたうなじは折れそうなほど細い。
「サーシャ。泣いた後はドルチェだ」
ほら、とレモンの形を模した菓子を掌に乗せて差し出す。少女はしゃくり上げながらそれを受け取り、囓った。
「甘い」と泣きながら笑った。
やがて落ち着いたサーシャは、傍らの名も知らぬ若者を見つめた。
「あなたは聖闘士なの?」
「ただの雑用さ。ここで怠けてることは秘密にしといてくれや」
「言えるわけない。だって私も勉強を抜け出してきたの。……私、頭が悪くて」
苦しそうに笑う少女を彼は慰めた。
「覚えることが多すぎて、頭が追いつかねえだけかも知れないぜ。でなけりゃ指南役が大勢で、言ってることが皆バラバラだとか」
「教えてくれる先生はいつも同じ」
「ふーん。どんな奴」と、若者は相槌程度といった具合に尋ねた。
「一人は……いつも私には難しすぎる課題を出すの。きっと私が何でもできると思ってるのね。できないなんて言ったら、きっと怒ると思う。今まで一度も叱られたことなくて、だから逆に怒られるのが怖いの」
「そいつ年寄りか」
「ええ」
「俺の知ってるジジイも厳しくてなあ。無理とかできないとか弱音を吐いたら、その程度の奴かって突き放されそうで、必死で食らいついていくしかなかったな。自分で決めた道だから、どうにか頑張ったけどよ。サーシャは違うんだから、少しくらい弱音を吐いてもいいと思うぜ」
「そうかな」
「そうさ。分かる奴が教える時は、相手がどこが分からないのかが分からないんだ。だから教わる側がちゃんと伝えないと。俺なんかしょっちゅうジジイに『説明が意味不明すぎる』って当たってたぜ。今度難問を出されたら、どこができないのか、なんで難しいと思うのか伝えてみな。怒られることはないから」
少女は「そうしてみる」と言い、少し明るくなった声で別の教師についても話した。
「もう一人はね、ギリシャ語とか作法を教えてくれるの。女の人。簡単なお喋りから始めてくれる優しい人なんだけど、やっぱり覚えることが多すぎて、頭がごちゃごちゃになるの。そうするとその人が苛々するのが分かるの」
「もしかしてデスピナっておばさんか」
「デナを知ってるの」
とサーシャが聞くと、若者は懐かしそうに頷いた。
「昔、俺も少し教わってたことがある。生徒が躓くとすぐに苛つく癖、直ってねえんだな」
「悪い人じゃないんだよ。イタリアの話もしてくれるし、ピスタチオもくれるの」
「知ってるよ。少し気が短いだけだ。ていうか今でもピスタチオなのかよ、あのおばさんの和解の証は」
サーシャは笑った。「昔からなのね」
「俺のときに味を占めたんだろうな」と若者は苦笑し、話を変えた。
「ところで勉強抜け出してくる時、よく誰にも見つからなかったな」
「うん。あのね、裏道があるって教えてくれた人がいるの」
「へえ、誰。あ、べつにそいつのことを上に密告しようとかじゃねえからな。こういう場所でばったり会った時に慌てたくないだけだ」
務めを怠けている者同士、若者に気を許したサーシャはあっさりと告白した。
「キクレーって人。でもあなたとばったり会うことなんて無いと思う。抜け道は知ってるけど自分は使わないって言ってたから」
「なるほどね。まあ分かってるとは思うが、そいつに抜け道を聞いたことは他の奴には秘密にしとけよ。そいつが怒られるからな。ところでお嬢ちゃん、そろそろ勉強に戻ったほうがいいんじゃないか。きっと先生が心配してるぞ」
力なく頷いた少女に、渡した袋を指差す。
「その菓子、実は女神への捧げ物なんだ。勉強を抜け出したことで怒られるのが嫌だったら、俺をだしに使え。捧げ物を預かりに席を外してたってな」
幼い少女は袋を両手で持ち上げ、再び下ろした。
「でもそれだとあなたが叱られちゃうかも」
「気にすんな。でも今回だけな。次抜け出す時には先に言い訳用意して、周りに心配かけないようにしろよ。ここを使え」と若者は頭を軽く叩いてみせる。「知ってるか? アテナは知恵の女神なんだぜ」
「悪知恵でも許してくれるかな」と少女は吹っ切れたように立ち上がった。「私、もう行くね」
途中まで送ろうかという申し出に、サーシャは大丈夫だと応えた。
「ねえ、あなたの名前を聞いてもいい? この捧げ物の送り主の名を女神に伝えたいの」
若者はにやりと笑みを浮かべた。「悪党、だよ」
「意地悪」と少女は一瞬むくれてみせた。それから短く礼を言うと、袋を胸に抱き締めてしっかりとした足取りで去っていった。
◇
蟹座の黄金聖闘士は、任務を共にした聖闘士と、ついでに声を掛けたら付いてきた者と一緒に、ロドリオ村で酒盛りを楽しんでいた。小宇宙抜きでの腕相撲大会は佳境に入り、蟹座は青銅聖闘士と肩を組んでやんやと野次を飛ばした。聖衣をまとわない彼らは、血気盛んなただの若者と変わらない。
蟹座のもとへ念話が飛んできた。
僅かに眉をひそめた彼は、酒場の外を一瞥して舌打ちした。
他の客も巻き込み盛り上がる輪を抜け出して、店内を見回す。どうにか酔いの浅い部下を見つけてその肩を叩いた。騒がしい店内の中、蟹座は声を張り上げる。
「おまえ、まだそれほど酔ってないな」
「酒には強いんです。私なりに楽しんでますから、大丈夫ですよ」
「それならいい。俺は上に呼ばれたから先に戻る。払いは気にしなくていいから、後は勝手にやってくれ」
「何事ですか」
わざわざ聖域に呼び戻される緊急事態が起きたのかと、その聖闘士は驚いた。腕相撲を見守っていた人だかりが騒がしくなった。どうやら名勝負が繰り広げられているらしい。
「分かんねえが深刻な用件じゃなさそうだ。まだ日暮れ前だからな。時間帯的に文句は言えねえ」
蟹座の言葉に彼も外を見た。確かにまだ明るい。日のあるうちに酒盛りをしているなど、おそらく聖域の上層部は考えもしていないだろう。上層というなら、目の前のこの蟹座もその一員であるのだが。
「すぐに終わる用だったら、また戻ってくる」
「分かりました。早く戻ってきてくださいよ」
一つ頷いてみせると、蟹座は酒場を出た。さすがに酒の匂いを撒き散らしながら聖域に顔を出すのは憚られるので、小宇宙を高めて酒気を払う。
酒場から歓声が上がった。腕相撲の一勝負に決着が着いたようだ。少しだけ微笑み、彼は姿を消した。
◇
聖衣を纏った蟹座は神妙な面持ちで教皇の間に入った。少し前まで酔って大騒ぎしていた名残はない。来る途中ですれ違った射手座が何かを言いたそうにしていたが、小言なら後で聞くことにしよう。
彼は鮮やかにケープを翻し、膝を折った。
「我らが女神に初めて御意を得ます。蟹座のマニゴルド、お召しにより参上いたしました」
「面を上げよ」
玉座の脇に佇む教皇から声がかかり、蟹座はゆっくりと顔を上げた。
段上にいるのは教皇だけではなかった。聖闘士の仕えるべき至高の存在。戦神アテナ。人の肉体を持って生まれた女神が、純白の衣を纏ってそこにいた。
玉座に在る女神と目を合わせ、蟹座は破顔した。
「よっ、お嬢ちゃん」
流暢なギリシャ語から母語のイタリア語に切り替えた途端、彼の口調は馴れ馴れしくなった。今生のアテナであるサーシャは、少しだけ不満そうだった。
「あなた、知ってて声を掛けてきたのね。雑用なんて嘘吐いて」
「嘘じゃねえよ。そこのジジイの雑用係だ、俺は」
「じゃあもしかして、セージが私を連れ戻すために、あなたを森に来させたの?」
「こら、秘密にしとけって言っただろ。なに喋ってんだよ」
「言葉遣いを改めよ、マニゴルド。不敬であろう」と見かねた教皇セージが咎めた。
「はっ、アテナ様のご尊顔を拝することのできた喜びの余り、謹みが欠けておりました。ご無礼の段、お許し下さい。先ほどお目に掛かったのは偶然、私には僥倖でございました。で、我がことを女神のお耳に入れたのはそこのジジイでございますか?」
なおも無礼な態度に、教皇は溜息を噛み殺して沈黙を保った。咎められてもなお蟹座がそうするのは、幼い女神のためであることは明らかだった。その証拠にサーシャの表情が柔らかくなる。
「勉強に戻ったときにデナに聞いたの。そしたらあなたの名前が出てきたの。私の前に唯一教えたことのある男の子。あなたの言ってたお爺さんもセージのことみたいだし、私たち、同じ先生に教わってるきょうだい弟子ね」
シジフォスあたりに聞かれたら嫉妬されそうだ、とマニゴルドは内心で肝を冷やす。しかしこの無邪気な発見には、教皇から「かように不出来な者を御身と並べるなど、滅相もない」と否定が入った。そうなればマニゴルドから言うべきことはない。
「それで? 呼び出したのは俺の立場を確かめるためか。知らん顔して声を掛けたことに文句の一つでも言おうってなら謝るよ」
「違うわ」
サーシャは玉座の隅に置いていた紙袋を膝の上に乗せた。先ほどマニゴルドが渡した菓子の袋だ。
「これはシチリアのお菓子だと教皇から聞きました。お仕事、じゃなかった、任務ご苦労でした」
精一杯の威厳を示そうとする少女に微笑ましいものを覚えながら、蟹座は頭を垂れた。
「女神より直々のお言葉を賜り、恐悦至極に存じます。これを伝え聞きましたなら、我が部下も喜ぶことでしょう」
「本当に?」
「マジマジ。嘘言ってどうすんですか。皆、女神に会いたがってるんですから」
とん、と床に降り立つ音がした。少女は階段を下りてきて、跪く蟹座の前にしゃがんだ。
「それじゃ皆に伝えて。私、立派な女神になるからもう少し待っててって」
「御心のままに、アテナ」
マニゴルドは囁いた。「また任務に出たら土産買ってきてやるよ」
少女は嬉しそうに頷いた。
サーシャが戦女神として覚醒するのは、それからまもなくのことである。その時に起きた騒動について、手引きしたのではないかと疑われ、マニゴルドが痛くもない腹を探られるのは、また別の話。
余話「少女と悪党」(了)