当代の獅子座の黄金聖闘士は名をレグルスという。
父イリアスの遺した聖衣と共に聖域に入った少年は、在任する黄金位の中で最も若い。
彼は今、処女宮で隣人と対面していた。正確に言えば、瞑想中の乙女座を正面からまじまじと見つめていた。
「ねえねえ」
いくら話しかけても相手は微動だにしない。目を閉じた面を僅かに俯かせ、足を組んで床に座している姿は石像のようだ。
「なんで無視するんだよ。寝てるの?」
目の前の床に寝転がって下から覗き込んでみても、相手は一向に反応しない。亡父に似た雰囲気を彼の佇まいに感じて、暇のある時に話をしてみたいと思っていた。しかし相手がこの様子では、話どころか存在を認めてもらうことから始めることになりそうだ。
「何してんだおまえ」
教皇宮からの戻りか、蟹座の黄金聖闘士が通りかかった。瞑想している処女宮の主の髪を若獅子が引っ張っているのを見て、素通りできずに立ち止まる。
レグルスは口を尖らせた。
「だってこの人が俺のこと無視するからさ。どこまでもつかなと思って」
「止めろ止めろ、そんな子供っぽい気の引き方。おまえがやったら髪の毛引っこ抜けるだろうが。第一、そいつは無視してるわけじゃねえよ」
首を傾げる彼に、蟹座は言う。
「今この男の魂は冥界にいる。おまえは主のいない留守宅の前で大騒ぎしているんだよ。大人しく家主が帰ってくるのを待ってろ」
「そんなことなんで分かるんだよ」
「見りゃ分かる」
冷徹なほどの素っ気なさで答えると、男は出口のほうへ去っていった。
見れば分かる。
それは、何事もよく見ろと、亡父から言われ続けてきた早熟の天才に火を付けた。レグルスは他人の技を見ることで我がものとしてきた。見るのは大得意だ。
乙女座を見た。じっと目を凝らした。しかしどれほど見つめても何も分からないまま時間だけが過ぎていった。
どれほど経ったのか、不意に石像が口を開いた。
「きみはそこで何を得ようとしているのかね」
「わ、喋った」
石像もとい乙女座は呆れたらしく、わずかに眉根を寄せた。レグルスはようやく話ができると思い、詰め寄った。
「あんたは今まで何してたんだ。ずっと瞑想してたってことでいいの? それとも寝てた?」
「その問いには沈黙をもって応えよう」
「冥界?」
盲目である彼の意識がこちらを向いたのを、獅子座は確かに感じた。そこで隣人の蟹座から「見れば分かる」と言われたことを伝えた。ああ、と乙女座は納得したようだった。
「確かに彼ならば」
「分かるの?」
「さて。彼が『見れば分かる』と言うことと、実際に分かるかどうかは別物だ。どちらにせよ彼が何を見たのかは君には分かるまい。君は彼の目を持っていないのだから。同じことは私にも言える。私には彼が何を見たのかを正しく理解することはできないから、君の問いに是と答える気にならない。故に君にできるのは、彼の言葉を信じるか否かだけだ」
「……分からない……」
こうした問答に慣れていない少年は意気消沈して退散した。
◇
獅子宮に戻ってからレグルスは考えた。
瞑想中に乙女座が魂を飛ばしていることを、蟹座は「見りゃ分かる」のだという。レグルスには一向に見えてこないし、乙女座は答をはぐらかすばかりだ(というより彼にも理解できる言葉で説明してくれない)。
そこでレグルスは見る対象を変えることにした。幸い、蟹座とも十二宮の隣同士である。観察はしやすい。
男の一日の行動を見る。朝起きて、気怠そうに出仕をし、定められた儀式を終えてまた億劫そうに十二宮を下りてくる姿を。彼の目が何を捉えているのか。彼に見えて己に見えないものなど、あるはずがない。見る。食事をする姿を。適当に訓練中の後輩たちを冷やかし、陰で指導役の聖闘士を夜遊びに誘うところを。洒落た私服に着替えて遊びに出かける様子を。彼の行動を邪魔しない所から、じっくりと見る。
その眼は獲物を狙う肉食獣のものだった。
◇
「保護者出てこい!」
青筋を立てて巨蟹宮の守護者は人馬宮へ怒鳴り込んできた。脇にはレグルス少年を抱えている。こんな大きな荷物を持って獅子宮からはるばる階段を上ってきたのだろうか。そう思って射手座の守護者が尋ねると、なんと聖域の外からだという。
「最近ずうっと付け回されて気が変になりそうだ。挙げ句の果てに娼館まで付いて来やがって、俺の楽しみを邪魔する気か、それとも相伴に与りたいのかって聞いてみりゃ『見てるだけ』だと? 何の嫌がらせだ。こいつに俺の行動を監視させて、おまえはどうしようってんだ」
「待て。何か誤解があるようだが」
「うるせえ。引き取れ!」
押しつけられた弟子を、射手座は見下ろした。少年は何も悪いことはしていないという自信を持って師を見返した。
「レグルス、おまえはずっとこの男を見ていたのか?」
「うん。ずっと見てた」
見る怪物とでも呼ぶべきこの少年にずっと粘着されていたならば、さぞや薄気味悪い思いをしただろう。私生活の素行がどうあれ、同情に値する。彼は被害者に深々と謝った。
「済まなかった。こいつにはよっく言い聞かせておくから」
「おう。詫びは要らねえから小遣いくれよ」
「ははは、射手座の矢で足りるか?」
「ははは」
「ははははは」
男が再び夜の街に繰り出しに行くのを見送り、射手座は弟子に向かい合った。事と次第によって叱らねばならない。
◇
乙女座は辺《ほとり》に佇んでいた。
彼が立つのは冥界と地上の狭間。亡者が身を投げる大穴の淵だ。この世界で動くのは、穴を目指してくる亡者と、揺れる鬼火と、彼のような異界の訪問者だけだ。
この穴の先に待つ世界を彼は知っているし、生者の身でありながら時折訪れることもある。しかし今はこの場所に留まっていた。
やがて一人の男が現れた。
穴を挟んで対岸に立つ男は黄金の気配を漂わせている。それを認識した乙女座は僅かに微笑む。初めて会った時を思い出した。
男は、亡者たちが自分の左右から穴へ落ちていくのには目もくれずに、彼のほうを真っ直ぐに見ている。見られている事を乙女座も感じる。二人はしばらく無言で対峙した。生でもなく死でもない、薄闇の岸辺で。
先に言葉を発したのは乙女座だった。
「レグルスの目に閉口させられているようだね」
普通ならば声の届かない距離にいる二人だが、彼らの間で距離はそれほど深い意味を持たない。手を伸ばせば届く所にいるのと変わりない調子で話しかけた。
「その件は片付いた」
男の声には、やや苦笑が混じっている。
「おまえが余計なことを唆したんじゃねえだろうな」
「責任転嫁をするな。きみが不用意なことを口にするからだ。見れば分かる、などと」
「事実だ」
「では大きさも重さも手触りも同じ二冊の書物があるとして、私がその二冊の違いが分からないと嘆いたら、やはりきみは『見れば分かる』と言うのかね」
盲目の乙女座に問われて、男は答に窮する。
「まあ私は気にしないがね。目が開いていても何も見えていない愚か者が多い世の中だ。しかもそういう輩に限って己だけはしっかり世間を見ていると思い込んでいる。目明きのめくらというやつだな」
「よく喋るな、おまえ」
空気が揺れた。男が穴の縁に沿って歩いている。亡者とは異なる気配がゆっくりと動いていく。
ヴィジュニャプティ・マートラタ、と乙女座は呟いた。
「あ? なに?」
「一切の存在は己の認識によって作り出されるという唯識論のことだよ。見れば分かる。つまり、見ることができない者には永遠に分からない。若獅子にきみが与えた言葉を、私なりに彼に説明してやったのだが、理解してもらえなかった」
「そりゃはなから無理な話だ。あいつはこの世界を知らない。俺やおまえとは違う」
男の足音が近づいてきた。
「あいつは『見る』ことに執着する。そうすることで他者を理解できると考えている。……まあ、世間的には間違いじゃねえだろうが。それがあいつの執着の真ん中だ」
「アートマ・グラーハ。我執か」
乙女座の言葉に男が明るい声を上げる。「それそれ。自分と他人が違うことから来る苦しみってやつ」
「それできみは、その我執の鎖から若獅子を解放してやろうとしたのかね?」
「そんなおこがましいことは考えてねえよ。煩悩そのものの俺がやることじゃねえ」
言い訳がましい言葉を受けて、乙女座は静かに微笑む。男は、地位に比して野卑だというもっぱらの評判らしい。実際、評判に違わない振る舞いが目立つが、他者の評判に無頓着な者にはどうでもいいことだ。
「煩悩は否定すべきものではないのだよ」
「へえ、そうかい」
「面倒見の良いきみのことだ。さぞや懐かれていることだろう」
「そりゃ考え違いだぜ。あいつはおまえのことが気になってるみたいだ。たまには相手してやれよ。お隣さんだろ」
「面倒事はご免被る」
ざりり、音を立てて男は足を止めた。乙女座の横で穴の縁を眺めやっている。
仏教における六つの根本煩悩。
すなわち、貪欲、瞋恚、愚癡、驕慢、疑、悪見。
見とは探求心や考え方に関わる煩悩のことである。若い獅子座はこの悪見の煩悩にとりつかれている、と乙女座はみている。そして己もまた。
「ところで私に何か用かね」
「いい加減肉体に戻って教皇宮に来い。招集が掛かってる」
「断る。顔を出しても私には利がない」
「おまえね」
「私が求めているのは理だ」
男は呆れたようだった。溜息が聞こえた。
「……ここは何も育たない不毛の通過点だ。一人で考えても諦は得られないぜ。おまえが求める理とやらがどの諦なのか知らねえが、俺の縄張りにいられると、そうそう見ないふりで放っておくこともできねえ。よそ行ってやってくれ」
「私の求めるのはもちろんパラマールタ・サティヤだ」
――パラマールタ・サティヤ。究極の世界の理。真諦。
男はふん、と鼻で笑った。「犬に食わせろ、そんなもん」
乙女座がゆっくりと振り返った先で、声が嗤う。
「聖戦が始まるぜ」
のんびり理を探してる暇はないと男は冷笑して、消えた。
◇
処女宮の肉体に戻ったアスミタは眉をしかめた。
髪を思いきり引っ張られている。
「止さないか」
「あ、起きた」
レグルスは悪気のない様子で、アスミタの髪を手放した。
「あのさ、アスミタは寝てて知らないかもしれないけど――」
「招集が掛かったことならば知っている」
と彼が答えると、レグルスは驚いたようだった。
「俺がずっと声掛けてたのを聞いてたの? 寝たふりしてた?」
「きみの声はあいにく届かなかったが、話は蟹座から聞いた」
「え?」
アスミタは立ち上がり、戸惑う若者を振り返った。
「聖戦の幕開け。黄金は教皇宮に集うと彼から聞いた」
行こうか、と彼はレグルスを促した。
長い階段を上りながら、若い獅子座は乙女座の顔を窺った。閉ざされている目によらずして、アスミタはその視線を正確に感じ取る。
「なにかね」
「招集がかかってすぐに俺は獅子宮から上がってきたんだ。それでずっとアスミタを起こしてたんだけど、あいつはその間にさっさと処女宮を通り抜けて、先に行っちゃった。こっちを見向きもしなかった。二人とも小宇宙を燃やしてなかったから念話もできないだろうし、いつ話したんだよ?」
「聞けば理解できるのかね」
アスミタを地上に呼び戻しに来た男は、今頃教皇宮で他の僚友と談笑でもしているだろう。生者の世界で二人が言葉を交わすことはなかった。二人の共通点はただ一つ。生きながらにして生死の境を越えられるということ。
生者の知らない世界を知っている二人は、そこで見たものを黙して語らない。言葉を尽くしても、見たことがないものを真に理解することは難しいからだ。
レグルスは口を引き結んだ。
おや、とアスミタは思った。好奇心の赴くままに問いをぶつけてくると予想していたのに、少年はそれを堪えている。
「シジフォスに言われたんだ」
と少年は自分に言い聞かせるように言った。
「俺があいつと同じものを見ることはできないって。いくら目を凝らしても見えないものもあるんだって。世界が違うんだって。同じように俺とアスミタの世界も違う。でも、アスミタたちの世界は、一部だけ重なるところがあるのかもしれないって、シジフォスは言ってた。それがあいつの言う『見れば分かる』ってことだったら、俺にはいくら頑張っても真似できないことだから」
乙女座は沈黙する。天賦の才に恵まれた者ならば、生死の境をも飛び越えられる日が来るかもしれないが――今ではない。
「私がいい例だが、目に頼らずに分かることもある。ただあるがままを感じればいい」
一拍置いて、「そうだね」と返ってきた。
「やっぱりあんたは俺の父さんに似てるな」
「父君?」
「うん。だから話がしたかったんだ」
六つしか歳の離れていない相手からの思わぬ告白に、アスミタは珍しく動揺した。どこからか冷やかすような笑い声が聞こえた気がして、彼は上方の教皇宮に顔を向けた。
苛酷な戦いが始まるというのに、静かな日だった。
余話「夏の若者たち」(了)