【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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ささやかな嘘の始末

 

 二人は前日と同じように並んで食堂に向かい、一緒に朝食を取った。使用人はいつもと変わらぬ態度で仕え、二人も普段通りの会話をした。庇護する者とされる者の関係が、教える者と教わる者に変わったからといって、暮らしに大きな変化はなかった。

 

「俺、アルバフィカのところに行っていいんだよな? おっさんにも謝りたいんだけど」

 

と、少年はセージを窺った。

 

「駄目だ」

 

 そう返されるのを予想していたのか、少年は溜息一つで引き下がった。セージは理由を付け加えた。

 

「まだ毒が抜けきっておらぬだろう。今日は部屋で安静にしていろ」

 

「訓練は?」

 

「休め。明日からは行ってよい」

 

 それほど熱心に参加しているように見えなかったので、訓練のことを気にするとは意外だった。悪童が気にしていたのは別のことだった。

 

「あいつらに何て言おうかな。ルゴニスのおっさんが余計な気を回して変なこと言わなきゃいいんだけど」

 

「あいつらとは?」

 

「訓練の連中」

 

 悪童が倒れる羽目になった事の起こりは、彼が魚座の弟子だという証拠を候補生たちに示すためだった。教皇との繋がりを隠す意味をセージ自身は感じなくなっていたので、堂々と本当のことを言えばいい、と助言した。

 

「信じるかな」

 

「おまえは信じて欲しいのか、欲しくないのか?」

 

「どっちでも。嘘吐き呼ばわりされても構わねえよ」

 

「ある程度の推察をしていた者たちなのだろう。わざわざ吹聴することはないが、必要な相手には事実を伝えるべきだ」

 

「元々疑ってたのは一人だよ。他の奴らはそいつに引き摺られただけだな、ありゃ」

 

 その候補生が教皇と悪童の繋がりを疑ったきっかけは、聖域内を巡る二人の姿を目撃したことだった。二人が連れ立って墓場のある丘へ歩いて行った。それだけを手がかりに、悪童が魚座の黄金聖闘士ではなく教皇に近い存在だと、その候補生は考えた。

 

 力量や体格の差が大きいので、訓練で組んだことも話したことさえ一度もない。いかにも堅物そうで、正直、近づきたくない相手だった。相手も話しかけてくることはなかった。単に、同じ時間帯に同じ訓練場を使っているだけの仲だった。

 

 それが言葉が通じるようになった頃を見計らって、いきなり「おまえが魚座の弟子というのは違うだろう」と単刀直入に切り出されたのだ。悪童の動揺を相手は敏感に感じ取り、更に話を詰めてきた。周囲はそれに便乗したに過ぎない。

 

「わざわざ訓練初日にルゴニスがおまえについて行ったのに、無駄足になったのか」

 

「無口だけど切れるってもっぱらの話なんだよ、そいつ。教皇と一緒にいたのは単なる墓参りのお供だって言ってもちっとも信じなくて、困った」

 

 見込みがありそうな子供だ、と教皇は弟子の語る候補生に関心を持った。

 

「他はともかく、その者にはきちんと話せ」

 

 面倒そうに頷いた少年は、少なくとも翌日までその機会がないことに慰めを見出した。

 

 朝食の後、セージは自室に戻る少年と食堂を出た所で別れた。さすがにこの日は柱廊での講義も取り止めた。

 

「安静にしているのだぞ」

 

「分かってる」とおざなりな返事。

 

 セージは笑って癖の強い髪に手を置いた。「我が弟子ならば約束は違えるなよ」

 

 少年は身を固くして、けれど置かれた手を振り払うことはなかった。

 

          ◇

 

 ギリシャの日差しは強い。こまめに手入れをしないと植物はすぐに日に負けてしまう。

 

 庭で薔薇の手入れをしていた魚座の園丁は、遠くから自分を呼ぶ声に腰を伸ばした。近くで手伝っていた弟子もすでに立ち上がっている。手にした鋏を胸に抱いて、祈るように彼を見ている。ルゴニスは手に付いた土を払い、弟子を伴い声の主を出迎えに行った。

 

 待っていたのは教皇に庇護されている少年だった。候補生と同じ訓練用の服を着て、怒ったような顔で突っ立っている。毒に倒れた日から丸一日以上経ち、すっかり具合は良いようだ。

 

「よう、おっさん」

 

「黄金聖闘士に出迎えさせるとは大物だな、マニゴルド」と苦笑し、ルゴニスは歩みを止めた。

 

 彼と弟子が立つ場所は、庭へ続くアプローチ。魚座の住まいの一部である。翻って悪童の立つのは門の手前。道から住まいへ続く石畳の上とはいえ、魚座の世界の外側だった。

 

「体調はどうだ」

 

「もう平気さ」

 

「それは良かった。二人で心配していた」

 

 ルゴニスとマニゴルドは距離を置いて会話した。今までは訓練の行き帰りの挨拶のために平気で踏み込んできた門の内側へ、少年は一歩も近づこうとしない。男も招こうとしない。もう悪童が来ることはないだろうと思うと寂しくなり、アルバフィカは師の陰で俯いた。

 

「俺、今日は謝りに来たんだ。魚座の薔薇園がどうして立ち入り禁止になっているのか考えなかったから、あんたたちに迷惑を掛けた。ルゴニスのおっさんが優しいから、何かしくじっても大目に見てもらえるって図に乗ってたんだと思う。もう薔薇には近づかないから、それで勘弁してくれ」

 

 卑屈になるでもなく、同情を誘うでもなく、むしろ開き直って謝る。すでに教皇から事の経緯を聞いていたルゴニスは、少年がなぜ魚座の証とも言うべき薔薇に近づいたのかを知っていたが、あえて尋ねた。

 

「私の薔薇を使って何をしようとした?」

 

「俺が魚座の弟子だってことを、他の連中に示さなきゃならなかったから、その証拠に持って行こうとした。誰かに毒を盛りたかったわけじゃないんだ。あんたの責任問題になると思わなくて、それで勝手に……。悪かった」

 

「まだその証明が必要なのか」

 

「いや。もうおっさんの弟子のふりは無しだ」少年はうんざりしたように頬を掻いた。「俺、ジジイの弟子になっちまったから」

 

「爺?」

 

 不敬極まる呼びかたが教皇とつながらずに、一瞬ルゴニスは面食らった。

 

「そこは猊下とお呼びすべきだろう。この聖域を治められる方だぞ。周りへの示しが付かない。おまえたち二人の間でどう呼び合おうが勝手だが、周囲にどう映るかは重要だ。弟子になったのなら、己をもって師が評価されるということも弁えなさい」

 

「ん、気をつける」

 

 予想外に素直に頷くと、マニゴルドは男を真っ直ぐに見た。「まあそういうわけで、ルゴニスのおっさんにはもう世話にならないようにするから、今までありがとな」

 

「ああ。これからのおまえの成長を祈っているよ」

 

 小さな微笑みを残して、ルゴニスはその場を立ち去った。弟子に「手伝いはもういい」と言い置いて。

 

 アルバフィカは師の後ろ姿を見送り、それからマニゴルドを見やった。悪童はにやりと笑って手招きした。和解といこうじゃないか。そう言いたげだった。

 

 ほっとしたアルバフィカが駆け寄ったところで、いきなり肩口を殴られた。突然の衝撃によろめき、肩を押さえて相手を睨み付ける。するとマニゴルドは自分の肩をちょいちょいと指差した。同じ所を殴れと言うのだろう。アルバフィカは拳を固め、待ち構える相手を思いきり殴ってやった。ただし鼻面を。

 

 顔を押さえて涙ぐむ姿を見て、やはり肩か腹にすれば良かったと思ったがアルバフィカは高らかに言った。

 

「これで清算してやる」

 

 顔を覆っていたマニゴルドの両手を掴み、開かせると、彼は笑っていた。

 

「チャラな」

 

「チャラだ」

 

 アルバフィカも笑った。

 

 ひとしきり門を境に小突き合いをし、それにも飽きた頃、マニゴルドは帯に挟んでいた袋を取り出した。アルバフィカに出させた手に、袋の中身をバラバラと落とす。殻の付いた木の実だった。割れた殻の隙間からは薄緑色の実が覗いている。

 

「これは何だ?」

 

「フィスティキア・エギニスだってさ」

 

 ピスタチオだと教えられても、質素な食生活を送ってきた子供は実物を見たことがなかった。どうすれば良いのか分からず悪童を見ると、殻を剥いて緑がかった中身だけを口に放り込んでいた。アルバフィカも真似をして殻を割る。パチンと乾いた音を立てて実が飛び出してきた。塩味が付けてあった。

 

 二人はその場に座り込んでおやつを楽しんだ。マニゴルドは門柱の外側、アルバフィカは門柱の内側に寄りかかって、ピスタチオを剥く。

 

「どうしたんだ、これ」

 

「ダチに詫びに行くって言ったら持たされたんだ。俺も食いかた分からなくて困ってたら、おばさん実演してくれてな」

 

「おばさん?」ダチという言葉の意味も気になったが、自分のことを指しているのは理解できた。

 

「まあ、そのおばさん自身、俺との仲直り用に持ってきたんだけど、こいつ硬い」

 

 殻に割れ目のほとんど入っていない実に苦戦している。アルバフィカはその実をもらうと石の上に置いて、手に持った小石で砕き割った。バラバラになった実を拾い食べる美少年を眺めて、悪童は感嘆した。

 

「豪快だな」

 

「何が」

 

 鷹揚に首を傾げるのを見てマニゴルドは笑った。そして「もう行く」と腰を上げた。慌ててアルバフィカも立ち上がった。不安げな目をするので、マニゴルドはこの前言いそびれたことを伝えた。

 

「またな」

 

 しばらくしてルゴニスが様子を見に来ると、弟子は石畳に散らばったピスタチオの殻を掃き集めていた。その顔がとても上機嫌だったので、彼は声を掛けずにそっと庭に戻った。

 

          ◇

 

 魚座の住まいを辞したマニゴルドが向かった先は訓練場だった。訓練が始まってから既にだいぶ経っており、少年たちの動きは活発なものになっていた。教官役に一日休んだことを詫びると、相手は腕組みをしたまま頷き、彼が訓練に加わることを許した。顔馴染みとなった同年代の候補生が、そっと話しかけてきた。

 

「昨日どうしたんだよ」

 

 前日は顔を見せず、この日も訓練開始の時刻に間に合わなかったから、誰もがもうマニゴルドは来ないものと諦めていた。後で話すと彼は答え、その場は受け流した。

 

 訓練の後、候補生たちはマニゴルドの周りに集まった。前日に休んだ時は、その理由について皆で憶測したものだ。魚座の弟子というのが嘘だから顔を出せないのだと嘲笑う者もいた。師である黄金聖闘士に叱られたのではと心配する者もいた。誰が正しかったのかがここで分かる。四の五の言う者もあったが、結局は彼らにとって謎の存在、雲の上の黄金聖闘士について知る絶好の機会だったのだ。

 

「それで、魚座様の弟子だっていう証拠は」

 

「無い」悪びれずにマニゴルドは答えた。「俺、魚座の弟子じゃないんだ」

 

 一瞬、沈黙が場を支配した。

 

「……なんだ。結局嘘吐いてたのかよ」

 

「余計な見栄張りやがって」

 

「期待させて悪かったな。途中から引っ込み付かなくて。本当は俺、教皇の弟子なんだよ」

 

 そう言ってへらへら笑う姿に候補生たちは失望した。こんな軽薄な嘘吐きが教皇と繋がりがあるはずがない。彼らは事実究明にも興味が失せて、訓練場を去っていった。去り際、腹立たしさに任せて突き飛ばす者があっても、マニゴルドは笑い続けていた。

 

 やがて訓練場には彼ともう一人だけが残った。マニゴルドは深く息を吐き出して、笑いを消した。「おまえは帰らねえの」とその候補生に向き直る。

 

 それは最初に彼と教皇との繋がりを疑った候補生だった。他の者が去るのを待っていたらしく、ぼそりと尋ねてきた。

 

「本当のことを聞いていない」

 

「おまえ、耳の穴詰まってんじゃねえ?」

 

 背の高い候補生を見上げて、マニゴルドは薄く笑った。相手は怒りも苛立ちもせず、ただじっと彼を見下ろしていた。

 

「さっき言ったこと、あれが事実だよ。俺が教皇に近いっていうのは本当。でもそれは隠すことになってて、外向きには魚座のおっさんに仮の師匠になってもらってた。だから一昨日の時点では、俺が魚座の弟子だっていうのも本当だったわけ。でも魚座の秘密を持ち出そうとして下手打って、結局仮の師弟関係はご破算。代わりに教皇が俺の師匠になって繋がりを隠すのも止めになった。それで本当のことを話したら、皆から嘘吐き呼ばわりされるようになりましたとさ。おしまい!」

 

 説明の間、黒髪の候補生は反応らしい反応を見せなかった。聞いているのかこいつ、とマニゴルドは不安になった。候補生は短い問いを発した。

 

「昨日は?」

 

「ああ、下手打ったって言っただろう。毒にやられて寝てた」

 

「毒」

 

 さすがに驚いて目を見張る。それに留まらずいきなりマニゴルドの腕や首を調べようとしたので、もう治っていると振り払った。候補生の顔に悔いが浮かんだ。自分が衆目の中で疑いを口にしたことで、マニゴルドを追い詰めたのだと理解したからだ。

 

「すまん」

 

 深々と頭を垂れて謝る律儀さに、マニゴルドはむしろ呆れた。どうしてどいつもこいつも、俺のしでかしたことに自分の責任を感じるのだろう。関係ないのに。そう思った時にふと頭をよぎったのは、セージに諭されたことだった。

 

『振る舞いの先には自分以外の誰かがいることを考えろ』

 

 これも、その一つなのだろうか。 

 

「べつにいいさ。おまえが切り出してくれたお陰で、ジジイは俺を弟子に認める羽目になった。でもさ、どう思う? 俺みたいな奴が教皇の弟子っていうのは、やっぱりおかしいか」

 

 候補生はまじまじと彼を見つめ、ようやく言った。「分からん」

 

 長々と考えた揚げ句にそれか、とマニゴルドは思ったが、否定的な答でなかっただけで気分が良かった。

 

「まあいいや。ところで、謝らなくてもいいけど、おまえのせいで俺はこれから嘘吐き小僧扱いされるんだから、何かあった時はよろしく頼むぜ」

 

 じゃあな、と片手を上げて帰ろうとすると、

 

「おまえは嘘吐きじゃない」

 

と無愛想な声が背中に掛かった。やっぱりよく分からない奴だと悪童は思った。嘘吐き呼ばわりされるのは自分のせいではないから助けないという予防線か。だが帰ってそれをセージに話したら、溜息を吐かれて懇々と諭されてしまった。

 

 

 マニゴルドが魚座の黄金聖闘士の弟子だという噂は、本人の告白によって完全に打ち消された。代わりに広まったのは、教皇の弟子という事実ではなく、とんでもない嘘吐きという悪評だった。当人は覚悟していたことで、訓練で孤立しても平然としていた。そしてその評判も、マニゴルドの帰り道を尾けた子供たちによって、数日で曖昧なものになった。黄金聖闘士の従者でもないのに毎日十二宮に出入りしているのだから、少なくとも黄金聖闘士以上の者に縁があると考えるのが自然だった。

 

 けれど彼には、教皇に師事する者として期待される要素があまりに少ないように見えた。体は小さく、小宇宙には未だ目覚めず、彼の異能を知らない者たちの目にはただの子供にしか映らなかった。

 

「あれはただの嘘吐きさ」

 

と、ある者は嘲った。そうすることで己の知る無謬の教皇像を守ろうとした。

 

「あれは弟子じゃなくて従者見習いだろう」

 

と、ある者は事実を捻じ曲げた。そうすることで己が公正なところを見せようとした。

 

「あれが弟子なら俺だって猊下の弟子だ」

 

と、ある者は茶化した。そうすることで全てをひっくり返そうとした。

 

「あれは幸運を掴み取った」

 

と、ある者は呟いた。その声には嫉妬と羨望と、教皇への落胆が入り混じっていた。

 

 結局のところ、教皇自身が声明でも出さない限り、確かなことは彼らには分からないままだった。

 

 マニゴルドに対する風当たりがそれから強くなった。けれど当人は飄々としたもので、理不尽な仕打ちを受けても、決してセージに泣きついたりしなかった。訓練にも欠かさず参加した。

 

 彼にしてみれば、悩んだり他人を貶めようとする余裕があるのは、毎度の食事にありつけて、屋根のある所で眠れる者だけに許された特権だった。まして生死を見つめて諦観している身には、加害者を憐れむ余裕さえあった。

 

 要するに「こいつら暇だな」としか思わなかったのである。

 


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