【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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星と糸杉

 

 獅子座の黄金聖闘士をマニゴルドが見かけたのは、まだ周囲の風当たりが強まる前のことだった。

 

 日が傾きかけ、砂っぽい訓練場を黄色く照らしていた。組み手の終わった候補生の一人が、ふと訓練場の外を歩く男に気づいて「イリアス様だ」と声を上げた。その呟きに他の候補生も一斉に反応した。

 

 獅子座の黄金聖闘士は、仁・智・勇を兼ね備えた最強の戦士として名を轟かせていた。もう一人の黄金聖闘士が隠者のような暮らしをしているので、評判はより一層イリアスに集中した。外部任務で各地を飛び回っているという話で、聖域に滞在していることは滅多になかった。そんな、聖闘士の理想像として名を挙げられる幻の人物がすぐそこにいる。少年たちの興奮ぶりは尋常ではなかった。

 

 どんな奴が来たのかと、マニゴルドも彼らの後ろから窺ってみた。だが遠目に見えたのは普通の男だった。興味を失いかけた時、横に黒髪の候補生が佇んでいたことに気づいた。魚座の弟子ではないと白状してからというもの、マニゴルドとまともに口をきいてくれるのは、事情を打ち明けたこの候補生だけとなってしまった。その候補生にあれは誰だと尋ねた。

 

「獅子座のイリアス様だ」

 

 その声が聞こえたかのように、イリアスが少年たちの騒ぐ訓練場のほうを振り向いた。

 

 ぐんと引っ張られた。

 

 否、そのような感覚を覚え、マニゴルドは身構えた。イリアスとの距離が縮んだ気がした。

 

(こちらを見ている)

 

 殺気ではない。ただ見ているだけだ。それなのに腹の奥がざわつくような居心地の悪さを感じた。目力とでも呼ぶものだろうか。隠れる所はないから、代わりにいつでも逃げ出せるように足に力を込めた。隣では黒髪の候補生が深く一礼したまま動かない。

 

 イリアスはすぐに目を逸らし、どこかへ歩いて行った。マニゴルドは緊張を解き、隣の候補生は頭を上げた。他の少年たちと比べると、彼ら二人だけが異質の反応を取っていた。

 

「獅子座……今まで聖域にいなかった人か?」

 

 今の男をセージから紹介されていないことを思い出し、マニゴルドは尋ねた。黒髪の候補生は頷いた。

 

「数日前にお戻りになったとは耳にしていた。きっとシジフォス様が射手座を継がれるのに合わせて戻られたのだろう」

 

 この少年にしては珍しく、熱を帯びた声だった。

 

「シジフォスってのは?」

 

「俺の尊敬する人だ。イリアス様はシジフォス様の兄君だ。兄弟揃って黄金聖衣を拝領するのは、とても凄いことなのだそうだ」

 

「へえ」

 

 教官役が少年たちを呼び戻したので、その話はそこで打ち切りとなった。

 

 訓練を終えると、近くの宿舎に戻るだけの候補生たちと違い、マニゴルドは山の上まで続く長い階段をひたすら上らなければならない。空腹を抱えた子供にはなかなかの苦行であった。

 

 十二宮の中盤に差し掛かった頃、名を呼ばれた。顔を上げると見間違えるはずも無い、教皇の兜を被ったセージが佇んでいた。

 

「お師匠」

 

と呼ぶのは実はまだ少し照れが残る。けれどセージがいつも穏やかに受け止めてくれるのでだいぶ慣れた。この時もセージは手を広げて弟子を迎えてくれた。

 

「何でこんな所に?」

 

「おまえがまた途中で眠り込まぬようにだ」

 

「もう無えよ」

 

 訓練に参加し始めた頃のことを蒸し返され、悪童は口を尖らせた。そういえば、ここは休憩がてら居眠りをして、セージに連れて帰られた、正にその場所だった。

 

「まあそれは冗談よ。この上の宮に守護者が戻ったから、おまえを紹介しようと思うてな」

 

「イリアスって人のことか」

 

「知っておったか」

 

「さっき候補生の連中が騒いでた」

 

「数日前に聖域に戻ったのだが、その後も出たり入ったりの風のような男でな。いつまた出て行くかも分からぬ。急ぐぞ」

 

「すぐ出て行くなら挨拶しなくても良いんじゃ」

 

「馬鹿者」

 

 二人は古代の建築様式をそのままに残す神殿を抜けた。空っぽの建物はただの通路でしかない。そしてその先の階段を上ると、主の戻った獅子宮が待ち構えていた。

 

 ルゴニスがそうしたように、イリアスもまた守護者として宮の入口で教皇を出迎えた(実のところ、上から下りてきた教皇の通過を見送って、そのまま待機していたのだが、マニゴルドが知る由も無い)。その服装は質素だったが、揺るぎない堂々とした態度にはセージとは異なる威厳があった。

 

 イリアスは少年を見下ろした。視線に引き寄せられる恐怖を予想し、マニゴルドは身構えた。だが何も感じなかった。男の視線は彼に寄り添う教皇に移った。

 

「こちらが猊下の」

 

「我が弟子、マニゴルドだ」

 

「どうも」と会釈をしたら、背中を師に叩かれた。真面目に挨拶しろということだ。しかし教皇の弟子として堂々と名乗るのは照れ臭いし、丁寧な挨拶の仕方は分からない。「初めまして」そう言うのが精一杯だった。

 

 イリアスはふっと微笑んだ。

 

「下で会っただろう」

 

「なんだ。やっぱり見てたんだ」マニゴルドもニヤリと笑い返した。

 

「目に付いた。麦穂の中に糸杉の若苗が二本」

 

 意味が分からず瞬きしている弟子には構わず、セージは「糸杉か」と唸った。

 

 若い成長力を喩えるにしても、死の象徴とされる樹木をイリアスほどの男が偶然に選んだとは考えにくかった。なにしろマニゴルドは死者と語らい、魂と戯れることができる。それを仄めかしているとも取れた。

 

「これはともかく」と弟子の肩に手を置いて「もう一本は何ゆえに糸杉か」と尋ねた。

 

「星に届くほど高く育ちますゆえに、二本とも」

 

「ならば重畳」

 

 禅問答のような会話をする大人たちを、少年は間抜けな顔をして見上げるしかなかった。

 

 次にイリアスを見かけた時には、マニゴルドを取り巻く環境はすでに変わっていた。

 

 マニゴルドは墓場にいた。

 

 たまに誰もいない所で一息つきたくなると、墓が立ち並ぶ静かな丘に寄って時を過ごすのだった。どこまでも続く無言の墓標の中に座り込んでじっとしていると、自分までその一つになった気がする。さて、誰の墓だろう。

 

 沈んでいく夕日を眺めるのにも飽きて、マニゴルドはぐるりと首を回した。視界の端に人影が見えた。人影は丘を抜け、聖域の外れへと歩いていく。その横顔には見覚えがあった。変わり者の獅子座だ。少年は立ち上がって男の後を追った。どこに行くのか知りたいだけの、単純な好奇心だった。

 

          ◇

 

 イリアスも、墓場からついてくる者がいることに気づいていた。それが教皇の弟子だと思い出したのはだいぶ後になってからだったが、彼は追う者の好きなようにさせた。行き先を隠す必要は感じなかった。彼は聖域の外れまで行き、その先に広がる荒野へと出て行った。

 

 少年が立ち止まった。聖域の境界には、目に見える柵や塀が巡らされているわけではない。けれど確かに境目が存在する。イリアスはそれを越えた。同じ事を他の者がすれば聖域脱走の罪に問われかねない行為だ。

 

 もうついて来ないだろうというイリアスの予想に反して、少年もあっさりと境を通り越してきた。教皇の弟子にしては規範や慣習といったものに頓着しない少年に、彼は初めて興味を持った。ただ無鉄砲なのかも知れないが。

 

 日の名残が消える前に、ようやくイリアスは足を止めた。焚き火の跡が地面に黒く残っているのは、彼が以前にもここで野宿したことがあるからだ。彼は時々こうして聖域の外に休息を求めた。

 

 野宿の準備をしている間に少年も追いついてきて、彼のすることを遠巻きに眺めていた。手伝うでもなく何かを喋るでもなく、しゃがみこんでじっと見ている。

 

 火打石を取り出したイリアスは荷物を手探った。火口(ほくち)がない。いつも使っている襤褸を切らしているのを忘れていた。火を起こすには、薪よりも先に火口で火種を作る必要がある。

 

 服の切れ端を解そうか、それとも獣毛でも探しに行こうかと思案していると、少年が寄ってきた。どこで拾ったのか古い鳥の巣を持っていて、それを差し出した。イリアスは巣の内側に残っていた羽毛を使って火を熾した。

 

 小さな焚火が燃え上がると、少年は当然のようにその場に腰を落ち着けた。遅ればせながら、彼が聖域外にまでついてきたことを教皇に念話で伝えると、好きにさせておけと返ってきた。教皇が放任主義である恩恵を一番受けているのは、誰あろうイリアスだ。異議を唱えられる立場にない。

 

 胡麻をまぶしたパンを半分にして分け与えると、少年は少し迷ってから受け取った。塩味の強い、堅めのパンだった。

 

 簡単な、食事とさえ呼べない時間が終わると、二人は火を囲む石と化した。

 

 崩した鳥の巣を時折火にくべる。その時だけは火の粉がちらちらと舞い上がった。

 

 少年が服の間から何かを取り出した。小石に似たそれを火に投げ入れようとするのを横から取り上げた。小さく丸められた紙だった。広げて皺を伸ばしてみると、走り書きが書き殴ってある。目を通してそのまま燃やした。粗悪な紙はすぐに灰になって消えた。二人はじっとそれを見ていた。

 

「なぜついて来た」

 

 不意に話しかけられ、少年は夢から覚めたように顔を上げた。

 

「聖域に愛想が尽きたか」

 

 燃やした紙には少年を非難する言葉が連ねられていた。己に向けられた言葉を少年がどこまで読めたかは、分からない。ただその表情からイリアスが想像するだけだ。

 

 聖域は聖人や賢者の集う場所ではない。女神や教皇や聖闘士といった燦然たる上澄みの下には、無名の人間たちが泥にまみれて喘いでいる。

 

 少年が不思議そうな顔をしたので、もう一度繰り返した。すると軽く頭を振って「愛想尽かすほど期待してない」と答えた。そして問い返した。「おっさんこそ、聖域と関わるのはうんざりだって顔してるけど」

 

 イリアスは無言で応えた。

 

 実を言えば、今回の帰還で彼は聖衣の返上を、つまり聖闘士としての引退を申し出るつもりだった。彼がいなくても、これからは弟のシジフォスが代わって教皇と聖域を支えるだろう。シジフォスだけではなく、それに続く若者たちもいる。彼らを見守る年長者のルゴニスもいる。

 

 彼は話を変えた。

 

「猊下がすぐにおまえを弟子としなかった理由を知っているか」

 

「面倒が起きるからって」

 

「そうだ。聖域は力が物を言う。それでおまえの身を案じられた。あらゆる可能性を考えて、それに囚われておいでだった」

 

「心配性ってこと?」

 

 少年は膝を抱えて火を見つめた。火がはぜた。

 

 弟子のいないイリアスは、この件に関して口を挟むつもりはなかった。それでもこうして言葉を掛けたのは、教皇の人としての孤独を垣間見たからだった。教皇を支える者は多い。けれどセージと繋がりを持つ者は何人いるだろう? それを考えるとき、この少年は大きな意味を持っていた。

 

「守られる我が身を不甲斐ないと思うなら、真っ直ぐに星を目指せ、糸杉よ」

 

 イリアスが空を指差すと、それを追って少年も頭上を仰いだ。

 

 月が地上を照らしている。

 

 星はその光に遠慮して、密やかに空を彩っていた。

 

「帰るよ」

 

 唐突に言うと少年は腰を上げた。

 

「一人で帰れるか」

 

「大丈夫。夜は俺の世界だ」

 

 そう言って少年は薄く笑った。

 

「聖域はあちらだ。月がおまえの背を押してくれる」

 

 分かったと頷いて、少年はイリアスの示した方角へ歩き始めた。こうして話す機会はおそらくもう無い。それを思い出したイリアスは、小さな背中に声を掛けた。

 

「セージ様を頼むぞ」

 

「それ、俺みたいなガキに言うことかよ」

 

 ケラケラと笑いながら、少年は淡い月明かりの果てに姿を消した。

 

          ◇

 

 荒れ野を抜け、墓の広がる丘に戻ってきたマニゴルドは、宙を舞う魂の光を見た。

 

 鬼火は少年の側をくるくると回った後、ついと離れて彼の行く先へと飛んでいった。その光に導かれて彼は丘の上に佇む師の姿を見つけた。舞い遊ぶいくつもの魂が特徴的な兜を青く照らしている。

 

「ただいま」

 

 悪びれない弟子を、セージは黙って受け入れた。

 

 青い光を灯火代わりに二人は丘を歩いた。彼らの足元で留まったり先に飛んでいったりするそれらは、子犬がじゃれるようだった。

 

 教皇宮に戻ると、マニゴルドのために食事が用意されていた。この食卓にも胡麻を表面にまぶした環状のパンが置いてあった。塩の利いたパンは、イリアスが分けてくれたものと同じ味がした。

 

 少年は少し考えてからパンを半分に割った。片割れをセージに差し出すと、老人は穏やかに微笑んだ。捧げ持つように受け取って、

 

「ではイリアスの代わりに」

 

と一口食べた。

 

 食事の時間までに帰らなかったのになぜ叱らないのか。どうして墓場で彼を待っていたのか。どこへ行っていたのか聞かないのか。マニゴルドは師匠に確かめたいことがいくつもあった。

 

 けれど今の笑みと言葉で彼は悟った。師は全て知っているのだ。誰と一緒にいて、何を話したのかを。その証拠に彼が「俺、強くなりたい」と言い出した時にも少しも驚かなかった。

 

「では明日からの鍛錬は少し厳しくなるぞ」

 

「望むところだ」

 

 セージは嬉しそうだった。それを、弟子が弱いままでは困るからだろうとマニゴルドは思った。だが老人は、彼が何かを求めたことこそが嬉しかった。

 

 獅子座の黄金聖闘士と教皇の弟子が言葉を交わしたのは、この夜が最後だった。イリアスは弟が射手座の黄金聖衣を拝領したのを見届けると聖域を離れ、二度と戻らなかった。

 

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