【完結】師弟 ―蟹座の黄金聖闘士の話―   作:駱駝倉

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教皇宮の人々

 

 セージの教えは体術中心に切り替わった。自分の置かれた状況を肌で理解しているマニゴルドは、よくそれに付いていった。

 

 教皇自らが手ほどきをしていると聞いて、神官たちはあまりいい顔をしなかった。そこを、自らの拳で女神に仕えるのが聖域にある者の本分であるとセージは押し切った。聖闘士の正論には神官も従うしかない。けれど引き下がることと納得することは別物だ。表面上はともかく不満を抱えたままの神官たちに、弟子を取って教皇は腑抜けになったなどと陰口を叩かせる気はなかったので、セージはより一層執務に励んだ。言うまでもなく弟子との時間も確保しなければならない。お陰で息つく間もなくなかったが、覚悟の上だった。

 

 二人にとって幸いだったのは、教皇宮の使用人が積極的な味方でなかったにせよ、静観していてくれたことだ。彼らまで敵に回せばさすがにセージも頭を抱えていただろう。

 

 

【従者・一】

 

 夜も更けて、マニゴルドが自室に引き上げる時のこと。いつもなら椅子で見送るだけのセージは、思い立って弟子の後をついていった。

 

 元々は教皇の従者のために作られた小部屋は、今は少年の私室として使われていた。セージがこの部屋を覗くのは久しぶりだった。

 

「この部屋はどうだ」

 

「どうって、べつに。雨風を凌げる所でありがたいよ」

 

「寝台の寝心地は」

 

「おかげさまで朝までぐっすりさ」

 

 この頃になると、マニゴルドは誰かが起こしに来る前に身支度を済ませるようになっていた。だから寝ているところをセージが知らないと思っての発言だろう。浅はかというものだった。

 

「それは良かった。では、お休み」

 

 セージは部屋の隅に作られた毛布の巣に横になった。あっとマニゴルドが声を上げた。慌てて走り寄ってきて、師の服を引っ張る。

 

「そこは駄目だ、お師匠」

 

「何が駄目なのだ。おまえは朝までぐっすりその寝台で眠れば良いだろう。私はここで寝る」

 

 梃子でも動かない師の体を、巣から追い出すのを諦めて、少年は床に座り込んだ。セージは身を起こして彼と向き合った。

 

「嘘を吐きおって」

 

 マニゴルドのギリシャ語は上達した。文字の読み書きも進んだ。食卓での振る舞いも、見逃せる程度にはましになった。だが獣のように床で眠るくせだけは、聖域に来た当初から一向に直る気配がなかった。

 

 何度かその理由を尋ねたが、返ってくるのはいつも沈黙だった。そこでセージは塒(ねぐら)を乗っ取るという実力行使に出たのだ。

 

「なぜ寝台を使わない」

 

「……落ち着かないから」

 

 初めて沈黙以外の答が返ってきた。

 

「なぜ落ち着かない」

 

「柔らかくて気持ちがいい」

 

「寝るための場所だ。当たり前だろう。それの何がいけない」

 

「いざって時にすぐに起きて逃げられない」

 

「私は寝台で寝ているが、いざという時はいつでも起きられるぞ。それにおまえがどこで眠ろうが、起こさないで捕まえることもできる」

 

「無理だね。俺は気配ってやつに敏いんだ」

 

 せせら笑う少年に、試してみるかと持ちかけた。否やはなかった。

 

 翌朝、早速セージは気配を絶って隣室の戸を開けた。塒となっている棚と壁の隙間で、マニゴルドは寝息を立てている。いくら勘がいいとはいえ、所詮は常人。気づかれずに寝首を掻くことは容易い。

 

 寝息に合わせて規則正しく上下するその小さな体や髪に、青白い燐光がいくつか揺らいでいた。蝶が憩うようだ。死者の霊を寝ずの番に立てるとは器用な奴だとセージは感心した。誰かが近づけば、この霊たちが騒いで少年に知らせるのだろう。

 

 しかしここにいるのは、少年よりも霊魂を操るのに長けた者である。当人に気づかれないうちに番の霊を遠ざけ、そっと弟子の体を抱き上げた。

 

「起きろ、マニゴルド」

 

 すぐ近くから囁く声に、少年ははっと目を覚ました。その瞬間、己が負けたことを悟った。今いるのが寝台の上で、しかもすぐ脇に腰掛けている老人によって運ばれたのだと、確かめなくても分かった。

 

「お師匠狡いぞ。俺の見張りを消しやがったな」

 

「気配がどうとか偉そうに言ったのはどの口だ。他人任せで眠りこけるのが悪い」

 

 枕に顔を埋めて、少年は己の不覚を悔しがった。寝癖の付いた髪を撫でて、セージは、

 

「何度やっても同じだ。おまえごときが警戒しなくても、ここでは誰もおまえを追い払ったりしない。先に私が気づくからな。観念して今夜からは寝台を使いなさい」

 

と諭した。

 

 マニゴルドは沈黙した。師の気配に気づかなかったことは認めるが、逆はどうだろう。こっそり近づかれれば師だって気づきはしないはずだ。

 

 そう考えているのがありありと見て取れたが、セージは「ちなみに年寄りは眠りが浅いからな」とだけ忠告した。

 

 少年は師の寝首を掻くべく行動を始めた。

 

 セージの就寝は遅い。彼が寝付くまで夜更かししているのは、昼の訓練で疲れている子供には無理だった。そこで起きる前を狙うことにしたのだが、夜明け前から始める朝の勤行のために、セージは起床も早い。

 

「いつ寝てるんだよ、あのジジイは」

 

「瞑想のお時間じゃあないかね」

 

 苛々と爪を噛むマニゴルドの横でのんびりと答えたのは、教皇の身の回りの世話をしている従者だった。若い頃は聖闘士を目指して修行していたという話だが、今は腰の曲がりかけた只の年寄りである。

 

「瞑想って、いつやってんの」

 

「たしか昼下がりだったような。まあ俺はお見かけしたことがない」禿げ上がった頭をつるりと撫でて、従者は言う。「教皇宮の表のことはよう知らん」

 

 教皇が日中を過ごすのは教皇宮の公的な場所だ。マニゴルドも近づけない。

 

「仕方ねえな。ナーゼルのじいさんが起こしに行く時って、お師匠はまだ寝てる?」

 

「もうお目覚めされとるが、横になったままだよ。俺の仕事を残しておいてくださるのさ」

 

 ナーゼルというこの従者は、主人の連れてきた浮浪児に対して負の感情を抱かなかった。もちろん当初は少年の不遜な態度に怒りを覚えたが、主人がそれを許しているので諦めた。

 

 肩を並べて柱廊に座り、弟子に話しかける時の穏やかな小宇宙。弟子の他愛ない話に見せる微笑み。法衣を着て教皇の兜を被っていても、セージは寛いでいた。

 

 そんな主人を見てナーゼルは思ったのだ。ああ良かった、と。

 

「それじゃ明日は、俺がいいって合図するまでお師匠の部屋に近づくなよ。あんたの足音で目を覚ましてるのかもしれないからな」

 

「分かった、分かった」

 

 主人の寝首を掻こうという不埒者に彼が協力する気になった理由は二つ。一つは教皇の暮らしを最も知っているのが彼だと少年が評価してくれたから。そしてもう一つは、この試みが失敗に終わると確信しているからだった。

 

 夜明け前の、朝よりもまだ夜が近い時刻にマニゴルドは塒から起き出した。音を立てずに戸を開けて、闇の中を慎重に歩いていく。寝台に横たわる人影にそっと近づき、枕許に立った瞬間。

 

「どうした」

 

 腕を掴まれた。思わず叫びそうになるのを寝台に押さえこまれて必死にもがく。が、押さえ込む力は強い。

 

「音を立てすぎだ、マニゴルド。足音、衣擦れ、呼吸、意識の配りかた。忍び込むつもりなら、何もかもなっていない」

 

 後頭部を押さえつけていた手が離れ、ようやく頭を上げられた。慌てて息を吸う。師は半身を起こして彼を見下ろしていた。部屋は暗くてその表情は見えない。

 

 少年は寝台に顎を乗せたまま、怖々と尋ねた。「お師匠、いつから」いつもの起床時間よりだいぶ早いのに、もう目を覚ましているとは誤算だった。

 

「戸を開ける前に深呼吸しただろう。その後も騒々しくするから目が覚めた。こんな早くに何の用だ。寝小便でもしたか」

 

「しねえよ!」小声で叫び、急いで理由を探す。「ええっと、その、弟子たる者、師匠より早く起きて朝の支度を手伝うものだって聞いたから」

 

「ほう」

 

 アルバフィカの受け売りだったが、セージの声が柔らかくなった。「気持ちはありがたいが、まだ寝ていなさい」そう言って頭を撫でようとする手を逃れ、マニゴルドは立ち上がった。

 

「じゃあ寝る。お休み」

 

「ああ、もう諦めてお休み。今のおまえに私の寝込みを襲うのは不可能だ」

 

「やってみなきゃ分からねえだろうが」

 

 もうやってみた後ではないか、とセージが苦笑するのを背中に聞いて、マニゴルドは自室に退散した。

 

 空の端が白み始めてからやって来た従者を、少年は廊下で待ち伏せていた。少年の恨めしそうな顔で、予想通りの結果に終わったことを従者は知る。

 

「先に言っとくが、俺は何もお伝えしとらん」

 

「いや、あんたがちくったとしか思えねえ」

 

「いやいや。お気づきになったのは猊下ご自身よ。俺は何も言っとらん」

 

 少年は彼を睨み付けると、くるりと背を向けて廊下を走っていった。ナーゼルは肩を竦め、いつも通り主人に起床時間を知らせに向かった。

 

 教皇は少し楽しそうな顔で「おまえが共犯か」と従者に声を掛けた。廊下のやりとりを耳にしたらしい。従者は「何のことでございましょう」ととぼけた。

 

 マニゴルドはセージの寝首を掻こうとしてそれが不可能だと散々に思い知らされ、逆に寝ている間に寝台に運ばれること数日に及んでから、ようやく観念した。

 

 

【料理人】

 

 教皇宮には専任の料理人がいる。女神に捧げる神饌(しんせん)と、女神の代理人である教皇が口にするものを作るのが役割だ。豪華な宴席のために腕を振るうことはないが、そのことに料理人の不満はない。ここは貴族の屋敷ではなく神の砦。己の役目を果たすことが、女神への供物となる。彼にとっては厨房こそが聖域だ。

 

 だから、目ばかりギラギラさせた子供が厨房の入り口でじっとしているのを初めて見た時は、すりこぎ棒を振るって追い払った。

 

「どこの野良犬だろうね」

 

「腹を空かせた命知らずの候補生さ」

 

 助手と笑い合った。そしてその少年が教皇に庇護された者だと後から知らされて、二人して青ざめた(教皇宮の使用人たちに少年が紹介された時、二人は忙しくて顔を出せなかったのだ)。殴らなくて良かったと心から思った。

 

 少年は数日後にまた厨房の入り口に現れた。助手が話しかけてもギリシャ語が通じない。何か盗み食いに来たに違いないとしばらく警戒していたが、ただ彼らの働く様子をつまらなそうに眺めていただけだった。

 

 次に現れたのは随分日にちが経ってから、昼過ぎに一息入れていた時だった。相変わらず痩せてひねた感じの子供で、愛想がなかった。睨まれているのも構わずに厨房に入ってきて、作業台や水甕を見ていく。竈に置いた鍋を覗こうとしたので、触るなと声を掛けた。鍋には鶏肉を仕込んである。少年は振り返った。

 

「これ、今夜の?」

 

 拙いギリシャ語で聞くので、頷いてやった。

 

「何ていう?」

 

「卵とレモン(アヴゴレモノ)のスープだ」鶏肉は出汁に使う。

 

「この前飲んだやつ? 鶏が骨ごと入った」

 

「タブック・チョルバスのことか?」

 

「あれがいい」

 

「てめえの好みなんか知るか、ガキ」

 

 己の言葉になぜか無性に怒りを掻き立てられた。料理人は椅子を蹴倒した。「こっちは教皇の御膳を作ってるんだ。陪食するのが嫌なら、てめえは残飯でも漁ってろ。でなきゃ教皇のありがたい聖水でも啜ってろ」

 

 助手がぎょっとして料理人を見やった。

 

「おい」

 

「構うもんか。どうせ通じてねえんだ。その証拠に、見ろあのツラ」

 

 料理人の見たところ、少年は平然としていた。その醒めた目が気に入らない。入り口を指差し、言った。

 

「出てけ。ガキの手がベタベタ触ったらヘスティアの竈が汚れる」

 

 竈は家庭の中心、そして犠牲を捧げる祭壇でもある。オリンポスの十二神の中では印象の薄いヘスティアであるが、この女神が司る竈は、古代ギリシアでは神聖なものとされていた。戦神アテナを奉じる聖域にあって別の神を崇める場所があるとすれば、それはここ厨房だった。

 

 少年は一度鍋を振り返り、涼しい顔で厨房を出て行った。

 

「どうしたんだよ急に。怒ることないだろう」と助手が気遣わしげに尋ねる。

 

「怒ってはいない」と料理人は答えた。ただ、教皇の威を借りて聖域を我が物顔に歩く者たちへの反感が、思わぬところで噴きこぼれた。それだけだ。「俺の献立をまともに知らないくせに、と思ってな」

 

 助手は曖昧な表情で竈の前に立った。「どうする、これ」

 

「……卵とレモンは無しだ」

 

「つまりタブック(丸鶏)だけだな」

 

 少年には悪いことをしたと、料理人は冷えてきた頭で思った。もしまた厨房にやってきたら、好きな料理を聞いて、それを作ってやろうと決めた。

 

 しかし何日経っても少年は現れなかった。

 

 

【下働き】

 

 教皇宮は女神の神殿に次いで重要な場所である。床は常に掃き清められ、柱は常に磨き上げられている。その入り口に立つ者は建物の荘厳さ、厳粛さに身を引き締める。足を踏み入れる前から、聖闘士を束ねる者がどこにいるかを思い知らされるのだ。

 

「掃除が大事なのは分かったよ。でもさあ」

 

 箒の柄に寄りかかるようにしてマニゴルドは口を尖らせた。「こんな中庭なんか誰も来ねえよ。もう少し掃除の間隔空けても怒られないんじゃねえかな」

 

「馬鹿か、小僧」

 

 石段に溜まった塵を集める手を止めず、その使用人はマニゴルドの言葉を切り捨てた。「見る人の少ない場所こそ綺麗にするんだ。顔が別嬪でも背中が汚い女だったら興醒めだろう? 股の所に赤黒い発疹があったら、本当はナポリ病じゃなくてもぎょっとするだろう?」

 

「そこはフランス病って言えよ。大体ガキ相手に何て例え話だよ」と少年は苦笑した。ナポリ病もフランス病も、ともに梅毒を指す。「教皇宮でこんな話してるって知られたら、お師匠が目を白黒させるぜ、きっと」

 

 名前の書きかたを教わったのが嬉しくて、あちこちの地面に練習する内につい興に乗って描いた落書きが下品だとマニゴルドが叱られたのは、少し過去のことになる。罰として命じられた庭掃除を実際に監督したのが、今マニゴルドと話している男だった。使用人の中では最も年若い。

 

「そうかな。教皇様は寛大な方だから」

 

 あのとき落書きを見て思わず笑いたくなったのを、男は覚えている。処女神の降臨する聖なる場所に、なんと卑俗でなんと馬鹿げたものを描いたことか。小さな反逆とさえ言えた。使用人に過ぎない男にはとても考えつかないことだった。

 

 もし聖闘士が同じものを描けば、聖闘士への怒りを覚えただろう。神官が描いたものならば、神官への不信を抱いただろう。だが犯人は、そのどちらでもなかった。だからおかしかった。そして女神の代理人は犯人を庭掃除で許した。それがまた愉快で、男は悪童を歓迎した。

 

 今やマニゴルドは教皇の弟子だという。けれど艶笑ものの話を好み、悪態を吐く姿は悪童のままだ。師の言いつけに従わなかった罰として、こうして庭掃除もさせられている。けれど教皇と一介の使用人の両方に同じ調子で喋りかけることを誰も止めさせられない。神話めいた世界にある聖域と猥雑な地上との両方が、彼のいる場所だ。聖と俗。貴と卑。違う世界に同時にいる。

 

 掃除が終わった。使用人の見ている前で、少年は綺麗に掃き均したばかりの地面にまた署名を刻んだ。マニゴルドとはどういう意味かと以前から気になっていたことを尋ねた。少年は適当なギリシャ語を探して考え込み、ああ、と顔を上げた。

 

「死を与える者」

 

 そう呟いた声には一切の感情がない。ただ世界の狭間に落ち込む余韻だけがあった。

 

 けれど続けて「いい名前だろ」と笑ったのは、いつもと変わらぬ悪童の顔だった。使用人もなんとか笑って頷けた。

 

 

【神官】

 

 聖闘士と教皇が対面する場は「教皇の間」と決まっている。その場に控えて対面内容を逐一記録していく書記の役目は、神官の地味ながら重要な務めだった。

 

 この日の書記を務める神官は、特に抱えている仕事もなく、かといって同僚の仕事を手伝う気にもなれなかったので、教皇の間の片隅でしばらく休憩することにした。次の謁見が行われるまでは小一時間。その場所を選んだのは、休憩を終えても移動しなくて済むからだった。

 

 彼が通用口から教皇の間に入ろうとした時だった。扉を開けた途端、声が飛んできた。

 

「やみくもに動くな!」

 

 思わず硬直した。

 

「腕を振り回せばいいというものではないぞ、マニゴルド」

 

「分かってるよ」

 

 やけくそ気味の子供の声と、それを指導する深い声。教皇とその養い子のものだと分かって、神官はそっと教皇の間に入った。玉座の後方にある通用口付近からは、広間の様子を窺うことが出来る。

 

 広間にいたのは二人きり。教皇は法衣の長い袖や裾をものともせず、少年の動きを受け止めている。候補生に交じって指導を受けている少年の動きはそれなりに鋭い。それを、癇癪を起こした子供をあやしているかのような調子であしらっている。

 

 ぴしゃりと音がして、少年が腕を押さえ込む。教皇が打ったのだと想像はできたが、全く見えなかった。

 

「痛ってえ」

 

「違うと言っておろうが。私の動きを見ろ」

 

「お師匠の動きなんかずるずるの服で何も見えねえ」

 

「まったく口の減らぬ……」

 

 教皇は弟子の背に回り、膝を付いた。背後から弟子の両腕を取り、ゆっくりと動かす。「おまえの動きかたはこう。正しくはこうだ」

 

 少年は不機嫌そうに頬を膨らませているが、おとなしく動きを追っている。「分かったか?」と肩越しに確かめられて、こくりと頷く。教皇はすらりと立ち上がった。

 

「よし。それではもう一度」

 

 二人は手合わせを始めた。

 

 教皇といえば、玉座にあるか、神殿で祈りを捧げている姿しか見たことのなかった神官には、目の前の光景が信じられなかった。教皇もまた聖闘士だという事実を思い出す頃には、二人の手合わせは終わろうとしていた。

 

 疲れて声もないまま床に大の字になった少年と違い、教皇は髪の毛一筋も乱れた様子はなかった。

 

「起きろ、マニゴルド」

 

 その声に甘さはない。謁見や評議のときと同じ、威厳のあるものだ。少年は荒い息をしたまま、教皇を見上げていた。だが不意に、バネ仕掛けのように跳ね起きて師に飛びかかった。教皇はなんなく受け止める。

 

「不意打ちか?」

 

 教皇の声に笑いが滲んだ。少年は抱きついていた法衣から顔を上げ、「うるせえ」と一歩引いた。

 

「ではそろそろお行き。途中で聖闘士とすれ違う時は挨拶するのだぞ」

 

「謁見に来るの? やだよ。そいつらがここに来るまで隠れてるもんね、俺」

 

「マニゴルド!」

 

「行ってきます!」

 

 逃げ出した弟子を見送り、教皇は一つ溜息を吐いた。そして玉座のほうを振り返った。「待たせたな。して、何用だ」

 

 神官は帳の陰から進み出た。

 

「恐れながら申し上げます。ここ教皇の間は女神を遙拝するに等しい、聖闘士にとっての特別な場所。猊下がご寵愛されているとはいえ、女神に身を捧げていない者が立ち入るのは、いささか好ましからぬ点があるかと――」

 

「女神か」

 

 柔らかいが重い響きに神官は口を閉ざした。教皇は玉座の上を仰ぎ見た。

 

「アテナは人を愛される。聖闘士であろうとなかろうと、良き道を歩もうとする限り、アテナの御許に集う資格はあると思うが」

 

「女神の御心は代理人たる猊下がもっともお詳しいということは存じております。されどご無礼を承知で申し上げます。これから謁見に参る聖闘士たちが、猊下があの者とここでお戯れになっていたと知って喜ぶでしょうか? あの者もそれを承知しているから、身を隠すことを選んだのではありますまいか」

 

 この神官にとり、教皇の間とそれを含む教皇宮はあくまで神聖な仕事場である。先の聖戦で教皇の間のすぐ近くまで敵が攻め込んできたことを知っているが、あくまで記録の中の出来事としてだった。

 

 聖戦を生き残った若いセージとその兄が、仲間たちの遺体を床に並べながら涙したこと。復興期には当時の聖闘士や神官が床一面に復興計画を広げて夜中まで作業し、そのまま皆で雑魚寝したこと。それら記録に残らないことがあったとは神官は想像もしない。生きてきた時代が違う。長さが違う。彼が生まれた時には、すでに教皇の間は厳粛な儀式の場だった。

 

 だから教皇にとっては、教皇の間も生活空間の一部であることなど、考えもしない。

 

 教皇は玉座に腰掛け、ゆっくりと裾を捌いた。

 

「そなたの言葉は、神官の総意か」

 

「我が愚見にございますれば、お怒りはどうぞ私のみに」

 

 低く頭を垂れた神官に言葉は掛からなかった。

 

 そのうちに聖闘士が到着した。神官は広間の隅に退いて、彼らのやりとりに耳を澄ませた。教皇の声や態度はいつもと変わらず、泰然としたものだった。

 

 謁見の後、教皇が神官に目をくれた。

 

「先ほどの件はそなたの言う通りだ。これからは控えよう」

 

「御意に」

 

 神官は満足して石筆を置いた。開け放たれた窓からは涼しい風が吹いてくる。彼はそれを清々しい気分で吸い込んだ。

 

 

【従者・二】

 

 当然のことながら「星見」は夜に行われる。

 

 教皇が星見を行うときは、従者はその足元を照らすカンテラを持ってスターヒルの麓まで同行する。そして教皇が下りてくるまでじっと麓で待機している。

 

 ナーゼルはセージの戻りを待ちわびていた。老いた身に夜の空気が冷たく凍みる。油が勿体ないから、カンテラの火は落としてあった。できることなら今すぐ部屋に戻りたいが、彼がここを離れることは許されない。従者がスターヒルの麓にいるということで、教皇の所在を明らかにする意味があったからだ。

 

 彼は上着をきつく身に巻き付けて、ただ寒さを耐えていた。そこへ軽い足音が聞こえてきた。教皇宮からの使い番かと見やると、暗闇の中から青い火が近づいてくる。ぎょっとして腰を浮かせた。

 

「よお、じいさん」

 

 生きてるか、と軽口を叩きながら現れたのは、教皇の弟子だった。青い火がすっと遠ざかって消えた。

 

「差し入れ」

 

「ありがてえ」

 

 少年から渡されたワインを瓶から直接呑み、美味い、と従者は呟いた。だろうよ、とマニゴルドは応えた。

 

「この酒どこから持ってきた」

 

「教皇宮の台所に決まってるだろ」

 

「そうか。料理人と話したんだな」聖域に来て間もない頃に彼が料理人と諍いを起こしたという話は、教皇宮の使用人は皆それとなく知っている。

 

「まさか」とマニゴルドは頭を振った。「俺が行った時、もう誰も台所にはいなかったからさ。ワインは黙って失敬してきた。まあいいじゃねえか。どうせ料理酒だって」

 

 盗み元が貯蔵庫でないのなら、盗みにはあたらないだろう。従者は酒瓶を呷った。

 

「ところで何しに来た坊主。まさか俺に差し入れ持ってきただけじゃねえだろう。猊下が下りてこられる時間なんて、俺には分かんねえぞ」

 

「でも今はこの上にいるんだろ」

 

 少年はスターヒルの切り立った崖を見上げた。丘《ヒル》とは随分控えめに呼んだものだ。崖の表面に削った石段のような筋があるのは見えるが、とても上まで登れそうにない。あの裾の長い服で老人がどうやって頂上までよじ登るのかと少年は目を細めた。

 

「おまえは登っちゃなんねえぞ」

 

 従者が念を押すと、少年はゆっくりと彼を見つめた。理由を問うその視線に彼は答えた。スターヒルに立ち入ることが出来るのは教皇のみというしきたりがあるからだと。

 

「つまり俺が聖闘士じゃないからとかそういうのじゃなくて、上に登れるのは教皇だけなんだな」

 

「そうそう。早い話が禁区よ」

 

 少年は息を吐いた。そして、別に何しに来たってわけじゃない、と呟いた。

 

「用が無いなら帰れ坊主。ここにいたせいでおまえが風邪引いたって猊下のお叱りを受けるのはご免だ」

 

「つれない事言うなよじいさん。俺、あんたの代わりにここで待ってようかって言おうとしたのに」

 

「代わりに?」

 

「俺の部屋からは星の丘が見えない。お師匠が嘘吐いて盛り場で楽しんでたらずるいと思って、本当に仕事してるのか確かめに来たんだ。そのついでにあんたを労ってやってるんだよ。年寄りにこの寒さはしんどいだろ」

 

「ありがとうな。でも俺は猊下の従者だからなあ。お側にいたほうが良い時もある」

 

「俺だってあのジジイの弟子だ。近くにいてもいいじゃねえか」

 

 なるほど、師に会いたくなって来たのか。合点がいくと、彼は子供のいじらしさに思わず笑った。「そうかそうか。それじゃあ二人で猊下をお待ちしてような」

 

 寒くないかと尋ねると、寒くないと少年は答えた。

 

 二人は喋るのを止めた。満天の星空が地上の影を仄かに浮かび上がらせている。青みを帯びた滑らかな天蓋に、無数の煌めきを散りばめて。

 

「じいさんは糸杉って知ってるか」

 

 唐突に少年が沈黙を破った。

 

「知っているとも。太陽神アポロンに愛された美少年が身を変えた木だそうな」

 

「…………他に何かない?」

 

「よく墓に植わってる」

 

 それは知ってる、と少年は不満そうな声を上げた。「星に届くとかそういう話はないのかよ」

 

「知らんな」

 

「なんだ、そっか」

 

 始まった時と同じように唐突に終わった会話に、従者は心許なさを覚えた。急いで付け加えた。

 

「とても背の高い木だ。槍みたいに真っ直ぐ空を目指して伸びる木だ」

 

 少年が地面に下りる物音がした。「いいね」という声の後に、足音がその辺りをうろつき始める。彼が何を思ってこの話題を持ち出したのか、従者は知らない。どうせ子供の好奇心だろう。だから黙ってワインを呷った。

 

 星がそれほど移動しないうちに、教皇がスターヒルから下りてきた。従者はカンテラに火を入れた。低く頭を垂れた彼の後ろに、部屋で寝ているはずの弟子がいるのを見ても、教皇は動じなかった。

 

「おいで、マニゴルド」

 

 寄ってきた子供の頬を己の手で挟み「冷えておるな」とセージは言った。マニゴルドは黙って、少しだけ笑った。教皇は溜息を吐いて、従者に「酒瓶はこの馬鹿者に持って帰らせろ」と指示を出した。教皇の戻る前に酒瓶は隠して匂いも散らしておいたのに、ワインのことは全てお見通しらしい。弟子と従者は顔を見合わせて俯いてしまった。

 

 カンテラに足元を照らされながら教皇は歩き始めた。瓶を両腕に抱えるようにして持った弟子が、それに遅れないように付いていく。

 

「お師匠、糸杉ってどんな木か知ってるか」

 

「殺してしまった鹿を永遠に悼むためにキュパリッソスという少年が身を変えた姿だと神話にはある。棺を飾るのにも使われるし、キリストの十字架も糸杉で作られたそうだ。神聖な木だ」

 

「前にイリアスのおっさんが俺を糸杉と呼んだ。星を目指せって」

 

「……おまえはそれを聞いてどう思ったのだ」

 

「やっぱり俺は墓場向きだなって」それから、と溜息混じりに言葉を継ぐ。「なれるなら聖闘士になりたい」

 

 教皇は立ち止まるだろうと従者は思った。だがセージは足を止めることなく、後ろを付いてくる弟子を振り返ることもなく、歩み続けた。

 

 

 

注:十字架の材木については糸杉ではなくレバノン杉の説もある。


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