太陽が隠れ、あたりが暗くなり月が空の主役となる夜の時間。部屋から出た二人を見送った後も青馬白亜はテラスの柵に身を預けていた。空では雲が流水の上に浮かぶ葉のように流れると同時に、星が人では知覚できない程の速さでゆっくりと回転している。その様子をボンヤリと眺めながら、まるで他と私のようだと白亜は自嘲気味に苦笑いするのだ。
視界の端に木の実が映る。手の届く範囲に実っていたそれを捥ぎ取ると、毒のあるなしや熟れてるかを確認することもなく齧り付いた。余程渋かったのだろうか。白亜は僅かに眉を中央へ寄せた。
「行儀悪くないかしら?」
「白崎は寝たのか?」
「ええ、ぐっすりと。一応説明はしたけれど、『だとしても私は理解出来ない』だそうよ」
「それでいいさ。簡単に他の意見に流される者は見飽きた」
夜も深まった時間帯。フラフラと王宮内を揺れ動いていた火の玉も少なくなり始めたこの時間に、白亜のもとへ聞きなれた声色の持ち主がやってきた。地球では白亜の親友という立ち位置に居た少女、八重樫雫である。
到着後も果実に齧り付きながらボンヤリと空を眺める白亜の様子に、雫は小さくため息を吐き出した。地球に居た頃から苦労人であった雫の役割は、異世界に来ても変わらないらしい。果物をひょいと摘まんで没収した。
「だから、行儀が悪いから止めなさいって」
「雫が来るまで手持ち無沙汰だったんだ。畑山先生も来ないとなれば、何かに手を伸ばしたくなる。そういうものではないか?」
「畑山先生、ね。聞き間違いじゃなかったか。何があったかは白亜の反応でだいたい予想はつくけど、随分な呼び方じゃない。旅の途中で何かあった?」
「いいや」
「じゃあ、こっちに来てから直ぐか……」
よく理解している。伊達に白亜と長い時間を過ごしていないようだ。呆れが込められたため息を吐き出した雫は、かわいそうな者を見るような目でどこかへ思いを馳せる。きっとその視線の先には、つい先ほどまで白亜と旅を共にしていた畑山愛子の自室があるのだろう。
正面に視線を戻すと、顔の前に白亜から没収したナシともリンゴとも見分けが付かない果実をぶら下げた。廊下をうっすらと照らす灯りに照らされ、薄い赤色に染まった皮と齧りかけの白い果肉が視認できるようになる。手に持ちやすい僅かなくびれを持ったその果実は、白亜の反応通り熟していないのだろう。僅かに香ってくる青臭さに雫は眉を顰めた。
しかし、彼女は眉を顰めるだけで果実を鼻先から遠ざけようとはしなかった。雫の視界には月明かりを反射し銀色に輝くしっとりと濡れた噛み跡が入っている。簡潔に言えば、魅入られている状態。きっと、雫は否定するだろう。しかし、うっすらと開いた彼女の口元が声を発さずとも雄弁に陥っている状態を語っていた。
「……ぁ」
「何をするのかと様子を伺っていれば。雫の方こそ行儀が悪いのではないか?」
「……何もしてないじゃない」
「まだ、な」
横から伸びてきた手に果実が攫われる。視線をそちらに向ければ、年端もいかない子供を見るような表情をする白亜がいた。子ども扱いされていることに拗ねたのか、自分が次に何をしようとしていたかを理解したのか、雫は頬を僅かに膨らませてそっぽを向く。
「ねぇ、白亜……」
「ん?」
暫く会話のない時間が続き、廊下に鮮度ある音だけが響いていた。その静寂を破ったのは雫。絞るように吐き出された声は弱々しく、普段は常に気高くあろうとする彼女が白亜にだけは心を許していることを表しているかのようだった。
呼びかけに応える形で白亜は横を向く。視界に入ってきたのは、揺れる瞳で見上げてくる雫の姿。しかし、そんな彼女を目の前にしても、白亜は「大丈夫か?」なんて言葉を吐き出すそぶりは一切見せなかった。
「私が、南雲君と一緒に落ちていたら、白亜はどう思った?」
「……」
「私なら大丈夫だと笑った? 心配だって気をもんだ? 落ちる元凶になった檜山を強く恨んだ? 私、香織がいなかったらきっと南雲君と一緒に落ちていたわ。僅かな時間であったとしても、白亜が私のもとから離れてしまったことが怖くて、辛くて。もし、ここで弱い南雲君を助けようとしたら、白亜が他の誰かに振り向かないぐらい私のことを見てくれるんじゃないかって考えて……」
それは、ただの懺悔であった。白亜に尋ねるような言葉遣いをしながら答えなんて一切求めず、赦しすら求めない、ただの懺悔。だからか、白亜は口を挟むようなことはしない。弱々しく揺れる瞳の奥で燻ぶる炎を眺めながら、粛々と雫の言葉を聞き入れる。
「私は、弱かった。弱くなってた。地球で白亜と鍛錬し続けて強くなった気になっていた。もう同年代で私に敵う相手がいないからって天狗になってた。白亜の隣に立ちたいっていう夢があったのに。いつからか私は甘んじて白亜の後ろにいることを受け入れていた」
徐々に、燃え盛るように熱い炎に似た心が言葉からも見え始めるようになった。瞳の揺れは既に収まり、真っ直ぐに琥珀色の瞳を捉えている。
「私、強くなりたかったの。白亜に認めてもらえるぐらい、強く、強くなりたかった。だから私は甘んじた。私は心の強さだけを見てもらいたいわけじゃなかったのに。私は私の全てをあなたに見て欲しい。私だけを見て欲しい。ねえ、白亜……」
「……」
「私、強くなる。だから少しだけ時間を頂戴。薄皮一枚切り裂くだけじゃない。腕一本切り落としてみせるから。私は誰からも文句を言われない形であなたと一緒になりたいの」
最初の細々と蚊が鳴くような声音で語っていた様子はどこへいったのだろうか、彼女の瞳は闘志によりギラギラと輝いているように見えた。ゾクリとした快楽が腕を走り食指が動きそうになるのを白亜は必死になって耐えているようだった。白亜は笑った。今までの比ではない。畑山愛子の時に浮かべた笑みなど、白崎香織の時に浮かべた笑みなどかわいく見える程に口角を釣り上げ、恍惚ともいえる表情を作り、笑っていた。
雫の緊張していた肩が下がったことで、ようやく白亜の口が開く。
「ああ、そうだな。今までの雫が落ちたところで私の心なんぞ、『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』といった格言程度にしかならなかっただろう。今の雫からだったら離れるのを惜しく感じてしまうよ」
心に直結させた言葉は無意識を刺激する。想いを尊重するために伸ばさず止めていた両手が枷を外されたように動きだし、雫の頬に向かった。しかし、その両手は空を切ることになる。雫が後ろへ身を退いたためだ。
空を切った手が再び向かうことは無かったが、寂しそうに白亜は以前触れた雫の感触を思い出すように手を閉じたり開いたりする。何かを訴えるように雫の方へ視線を向けるも、彼女の方は何食わぬ顔であり、軽々と突っぱねられてしまった。
「でも、自分で言ったことでしょう。しばらくは畑山先生に付いていきなさい」
「はぁ……。仕方ない。ひとまずは愛子に付いていくとするか」
心底残念そうなため息の後に出た言葉を受けて雫は静かにほほ笑むのだった。
翌日。
そんな塩対応を受けた白亜であったが、雫の鬼気迫る鍛錬の様子を見るために訓練場へやってきていた。
ちなみに愛子はというと、護衛四人組を連れて国王や教皇と対談している。その報告の場に当事者である白亜がいない理由は「大人の汚いところを見せてしまうでしょうから」と愛子が口にしたから。既に大人の汚い部分なんて1から100まで知っているのではと護衛達は首を傾げたが、愛子がそれで満足しているのだから気にすることではないだろう。
訓練場には雫だけでなく、クラスメイトが何人も集まっていた。しかし、白亜がここを出立する前程の活気は見られない。暗い表情のまま惰性で鍛錬を続けている者、何かを忘れようと一心不乱に鍛錬に打ち込む者……。明確な目標に向かって突き進もうとする人物は少数しかいなかった。そのため白亜の目には活気が無いように見えたのだろう。
「白亜、見ているだけだとつまらないだろう? 少しだけ一緒に体を動かさないか? 体が弱くなったって言っても全く運動していないのも体に悪いだろうし」
形見の長刀を抱えながらジッとどこかを眺めたまま動かない白亜を心配したのだろうか、天之河光輝が話しかけてきた。しかし、そんな心遣いも白亜が反応を示さなければ無に帰す。
「……」
「えっと、白亜?」
別に無視したくて無視したというわけではない。今の白亜は、誰しもが体験したことがある「集中しすぎたあまり周りが見えていない」そんな状態に陥ってしまっているのだ。悪意があったわけではなく、ただ単純に光輝の声は白亜の耳に届いていなかった。
普通の人間であれば苛立ちを覚える状況だろう。しかし、光輝は違った。彼は思い込みの激しい人間である。自分を無視するような人間は絶対いないと考えているし、白亜は普段ふざけているように見えても人が本気で嫌がるようなことはしない人間と思い込んでいる。性善説を念頭に置く彼の思考は、病弱な白亜が体調不良を起こしたのではないか、という結論に至った。
「体調が悪いのか? だったら保健室……、はここには無いから自分の部屋で休んできたらどうだい」
「……」
「なあ、白亜? だいじょぅ……」
集中している者は得てしてパーソナルスペースが狭くなりがちだが、そこに侵入してきたモノには過剰に反応してしまう節がある。問いかけのために肩を叩こうと伸ばされた光輝の手は、白亜が急に立ち上がり身を退いたせいで空振る結果となった。
「天之河君でしたか。ごめんなさい、ボーっとしていました。何かありましたか?」
「……ああ、いや。呼びかけても反応が無かったから体調でも崩したんじゃないかと思って。体を動かす体力がまだあったら少しだけ運動しないか。全く動かないのも体に悪いだろうからさ」
「運動……。そうですね。久しぶりに体を動かすのもいいかもしれません」
そういうと、白亜は持っていた長刀を背に括りながら木製の武器が雑多に置かれてある訓練場の一角へ歩いていった。白亜が選んだのは木剣。現在背負っている長刀のように片刃のものではなく、両刃の俗に西洋剣と呼ばれる物を模した木剣だった。
光輝としては長刀を使って素振りをすると思っていたのだろう。もしかしたら、誘った理由の中に「もう一度あの美しい刀身を見たかった」という欲望も含まれていたのかもしれない。光輝は口元を苦く笑わせながら目を丸く見開いていた。
「ふぅ……」
元居た位置に戻ってきた白亜は、浅く息を吐き出した後に剣を振るい始める。雫の剣技を見た者が見ればまだ粗が目立つ舞い。しかし、雫のものと比べて力強さがあった。清らかな森のせせらぎが心地よい水の流れを雫の剣技と例えるなら、全てを押し流してしまう濁流が白亜の剣技の例えに相応しい。
一振りすれば並の者では出せない甲高い風切り音が鳴り、足元の砂が空中に舞う。踏み込みも力強く、地面が抉れている幻覚を見てしまう程。彼女の剣技はどう見ても病弱な人間が行えるものでは無い。
見るものを魅了するのではなく、畏縮させる。刃を向けられていないというのに、彼女の剣を初めて見た者は体の一部を切り裂かれたような錯覚を抱いてしまう。故に、無意識の内に彼女から遠ざかるように足を退いてしまっていた。
「違う」
彼女の舞いは、まるでゼンマイが切れた玩具のように唐突に終了を迎えた。
ピタリと、横一線に振るったままの姿勢で固まった白亜。次いで彼女の口から吐き出された言葉はそれだった。技が違うのか、剣が違うのか、何と重ねて違うと呟いたのかは当事者でなければ分からない。それに、周りの人間には聞こえてすらいない小さな声だった。聞こえていないのに周囲が考察を膨らませることが出来るわけもない。その言葉は彼女の中だけで吐き捨てられた。
「すごいな、地球に居た頃と全然変わらないじゃないか」
「そうですか?」
「ああ。まだ動く体力があればなんだけど、よかったら手合わせ願えないかな。ほら、地球では一度もやったことが無かっただろう?」
「訓練相手にはなると最初に言いましたからね。いいですよ」
光輝から賞賛の声を受け、いつも通りの微笑みを浮かべた白亜は試合のためにと距離を取ると正眼の構えを作った。その姿を見て待ったをかけようとする光輝。それもそのはずで、白亜は長刀を背負ったまま試合を始めようとしていたのである。しかし、光輝は指先が僅かに動くだけで言葉を出すことも行動を起こすことも出来なかった。
「……ぁ? なんだ、これは……」
口をパクパクとしている間に白亜が前傾姿勢になったことを目で捉える。踏み出してくると思ったのだろう。慌てて光輝は構えをとり、白亜の動きを注視した。が、それは幸いにも無駄に終わることとなった。本当に幸いだった。より詳細に言うなら不幸中の幸いというべきだろうか。光輝が思考の赴くままに白亜に近づいていたら、負傷は免れなかっただろうから。
白亜が前傾姿勢になったのは、体の平衡感覚を失ったからだった。
白亜が膝をつく。
先程まで自由自在かつ豪快に剣を振るっていた彼女が、なんの前触れもなく膝をついた。
その直後である。
白亜の周囲がいくつもの爆炎によって包まれたのは。
轟音が鳴り響き、周囲に人が立っていられない程の地響きが発生する。舞い上がった砂塵はもうもうとドーム状に彼女を包み込み、現在彼女がどんな状況に陥っているかを確認することが出来ない。
「白亜!?」
光輝は駆け出すことが出来なかった。なぜなら、砂塵の向こうに見える赤い煌めきが彼の恐怖心を刺激していたから。こんな状況であっても一番に彼女の名を叫び、彼女のもとに駆け付けたのは、やはり地球に居た頃から親友として多い時間を共に過ごしていた雫ただ一人だけであった。
後に訓練場にいてメルド騎士団長より事情を尋ねられた者達は皆口をそろえてこういう「青馬白亜の周りに火の粉のような、赤色の粉塵が漂っている光景を見た」と。
第9話を最後まで読んでいただきありがとうございました。
頬を触らせなかったのになぜ白亜を助けに行ったのか。明確には書いていないですが白亜が興奮しすぎていたせいですね。好きな人でもあまりにも酷い興奮状態にあったら近寄りづらくなりますよね。後は、自分に寂しい思いをさせた意趣返しが少々。
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