「ハァ……ハァ……!」
闇の中を“真の神の使徒”であるノイントは飛んでいた。
エヒトルジュエの遣いとして作られた彼女は輝く白銀の鎧に身を包んだ美しい少女の姿をしており、背中から生やした翼を雄大に羽ばたかせて空を征く様は地を這う人間達に神への畏敬を知らしめただろう。
「ハァ……ハァ……!」
だが、今のノイントの様子は神聖さとは程遠い姿だった。彼女は何かに怯える様な表情で翼を必死に動かして逃げようとしていた。
————ズシン、ズシン。
背後から何か大きな物が動く足音がする。その音を聞いたノイントは、顔を青ざめさせながら更に翼を羽ばたかせて逃避行を試みた。
————ズシン、ズシン!
「ハァ、ハァ、ひっ……!」
背後から迫る足音が大きくなる。全速力で飛んでいる筈なのに、それ以上の速さで相手はこちらへ向かってくる気がした。息が上がり、とうとう身につけている鎧が邪魔に感じて脱ぎ捨てた。創造主であるエヒトルジュエから下賜された鎧を一顧だにせず、ノイントはただひたすら飛び続ける。
それなのに————背後から近付いて来る気配は全く消えない。
「いやっ……いやあぁぁああっ………!!」
恐怖の余りに涙がボロボロと出てくる。神の遣いとして作られた自分にはそんな
ズシン、ズシン、ズシン! ————ビュンッ!!
「ぎぃっ!?」
背後から迫る足音が大きくなったと思ったら、大きな風切り音が響く。それと同時に鋭い痛みと共にノイントの背中の翼が消失した。地面に落ち、墜落した衝撃で背中の痛みでノイントは顔を歪めながらも立ち上がろうとした。
そして————背後を振り返ってしまった。
ズシン、ズシン、ズシン!!
『メェェェェエエエエエエエエ!!』
それは山の様に大きな仔山羊の化け物だった。コールタールを思わせる黒々とした肉塊からは巨体を支える山羊の足が生え、身体には不揃いな歯が生え揃った口が無数にあった。まるで球根から生えた芽の様に黒い触手を無数に生やし、その内の一本が鞭の様に振るわれて自分の翼を消し飛ばしたのだとノイントは瞬時に理解した。
「あ……ああっ………!!」
すぐにでも走って逃げないといけないのに、ノイントの身体は言うことを聞かない。足はガタガタと震え、腰が抜けた様に下半身は力が入らなかった。黒い仔山羊は足音を響かせながら近寄り、恐怖で身動きが取れなくなったノイントを身体に生えた触手で掴み上げた。
「いや! 放しなさいっ! 放してっ!!」
ノイントは力の限り抵抗するが、自分を掴む触手はびくともしない。黒い仔山羊はノイントを掴んだまま、身体にある無数の口の一つを開いた。
「ひっ!? いやだいやだっ!! 助けてっ!! 誰かっ!!」
触手に掴まれたノイントは泣きながら“使徒”の能力————高周波による伝達で助けを求める。すると————。
『死にたくないのですか?』
高周波による伝達の声が響く。感情が一切篭らない声だが、ノイントは藁をも掴む思いで声の方向に目を向けた。
『私達は————エヒトルジュエ様に作られた
黒い仔山羊の口の中。自分と同じ顔をした大勢の姉妹達がいた。
ある者はバラバラな死体となり、ある者は姉妹の剣に貫かれて死んでいた。
生気の無い目が、自分と同じ顔をした少女の生首がこちらを見つめていて—————。
「いやああああああぁぁぁぁあああああああっ!!」
***
ガバッとノイントは勢いよく起き上がる。全身は汗だらけで、まるで何百キロと走らされたかの様に荒い呼吸が出た。
「ハァ、ハァ……! ここは……?」
一瞬、何処にいるか分からなくなって辺りを見回す。
そこはエヒトルジュエがいる神域でも、先程の闇の中でもなく、粗末な部屋の中だった。切妻の斜め天井がすぐ頭の上に見えて、屋根裏部屋というのがしっくりとくる。自分が寝ていたベッドも羽毛の代わりに藁を詰めていて、それを上から薄い毛布を被せただけの粗末に過ぎる物だ。
「夢、だったのですか……?」
先程まで見ていたものが悪夢だと分かり、ノイントは呆然と呟く。
よくよく見れば、自分の格好もいつもとは違っていた。いま着ているのは“使徒”としての白銀の鎧ではなく、粗末な布で作られた寝間着だ。背中に生えていた純白の翼もなく、無惨な傷跡の様な痕跡が服の裾から見えていた。
ノイントがどうして自分がここにいるのか思い出そうとしていると、ギシ……ギシ……と床が軋む様な音が聞こえてきた。ドアがガチャリと開かれ、ノイントはビクッと肩を震わせる。
「あ……起きてたんですね」
部屋に入って来たのは、イヤに存在感の無い少年だった。前髪は目元を隠すほどに長く、ハイリヒ王国ではあまり見ない黒髪であるという点を除けば没個性を絵に描いた様な少年だった。だが、その少年を見た瞬間にノイントは全てを思い出した。
「良かったです。その……ずっと横になっているとはいえ、何か食べた方が良いと思って食事を————」
「どうして………助けたのですか?」
湯気の立ったスープらしきものをトレイに乗せてきた少年————遠藤浩介に、ノイントはポツリと呟いた。それはどこか、恨みがましさを感じる響きだった。
「あなたに私を助ける理由なんて無かったのに」
「それは………だって、目の前で怪我をしていかたら」
「私なんかを助けたところで、何の意味もなかった………放っておけば良かった………死なせてくれれば良かったのです」
「そんなの出来るわけないだろ! 何があったかは知らないけど、死に掛けていた人を放って置く事なんか————」
「私にはもう生きてる意味がない!!」
突然大声を出したノイントに浩介はたじろいでしまう。ノイントはベッドの上で俯いたまま、拳を握り締めていた。
「生きてる意味なんて無いのです………恐怖の余りに偉大なる主の拝命から逃げ出し、死んでいく姉妹達すら置き去りにした私に生きてる意味なんて………!」
自分で言っている内に耐え切れなくなったのか、ノイントの目からポロポロと涙が溢れ始めた。
「え……? 何故、こんな………私には、こんな
自分の内から出てくる感情に戸惑いながら、ノイントは涙を拭おうとする。だが、涙は次々と溢れ出て止まらなかった。
エヒトルジュエから下賜された鎧も天の遣いを象徴する翼も失い、ヒステリックな感情をも顕にする自分はもはや“真の神の使徒”たり得ない。そう思えてしまって、ノイントは悲しくなってしまった。
「ノイントさん………」
浩介は何故ノイントが出会った時にあんな場所にいたのか、ノイント自身が口を閉ざしているので詳しくは知らなかった。ノイントが口にする数少ない断片的な情報から、誰かに仕える様な戦士や騎士だったのだろうと勝手に考えていた。恐らくは魔物との戦いで仲間を置いて自分だけ逃げてしまい、その時のショックから未だに立ち直れないのだろうとも考えていた。
「………食事、置いておきますね。その、一応はお腹に入れておいた方が良いですよ」
今は下手に慰めの言葉を掛けても逆効果だと悟り、浩介はベッド脇のテーブルにスープの乗ったトレイを置いた。そのまま部屋から出ようとしたが、戸口で思い直した様にノイントに振り返る。
「俺は………ノイントさんに生きてる意味が無いなんて思わないです。だって、あの時の貴方は必死で生きようとしていたと思うんです。だから俺は貴方を助けられて良かった、って思っています」
失礼しました、と言って浩介は今度こそ部屋を出て行く。遠ざかって行く足音を聞きながら、かつて“真の神の使徒"
***
ノイントがいる部屋から出た浩介は、階段を下りていく。歩く度にギシギシと木が軋む様な音がして、いつか床が抜けてしまうのでは? と少しだけ心配になってしまう。階段を下りた先のドアを開けると、部屋にいた複数の人間達が振り向いてきた。
「コースケさん。ノイントさんのご様子は?」
着古した尼僧服姿の女性が嗄れた声を掛けてきた。浩介の祖母より尚も高齢で、曲がった背中から背骨が浮き出る程の老婆の修道女だ。
「べレアさん………まだ、あまり良くないみたいです」
「そうですか………早く良くなってくれると良いのですけれど」
「すいません。べレアさん達だって余裕が無いのに、俺達を置いてもらって」
「いいえ、気になさらないで。困っている時はお互いに助け合うのは当然ですから」
すまなそうな顔をする浩介に対して、シスター・べレアは皺だらけの顔を微笑ませる。その表情は慈愛に満ちており、聖母とはこういう人の事を言うんだろうなと浩介は考えていた。
「マザー、今日もお姉ちゃんはお夕飯に来ないのー?」
長テーブルに座っている子供の一人が声を掛けてきた。テーブルを囲んでいるのは複数の人間は全員が十歳より下くらいの子供達で、ツギハギが目立つ部屋着を着ていた。
「ええ。まだ体調が良くなってないみたいね」
「そうなんだ。早く良くなるといいね」
「そうね………さあ、みんな。ノイントさんが元気になる事もお願いして、お食事前のお祈りをエヒト様に捧げましょう」
はーい! と子供達の元気な声が響く。浩介も食卓の席に着くと、べレア達は目を閉じて手を組み合わせる。
「天に在しますエヒト神様。あなたの慈しみに感謝して、この食事を頂きます。今日も我々にささやかな糧を与えて下さり————」
正直、浩介はエヒト神に対する信仰心など欠片も持ち合わせていなかった。地球で暮らしていた自分が異世界に迷い込む羽目になったのはエヒト神のせいだし、そもそも目の前の食卓に並んだ食事はパン一つと豆のスープだけという質素にも過ぎる食事だ。これで与えたのだから感謝しろ、というのはエヒト神に対して文句の一つも言いたくなる。とはいえ、さすがに真剣に祈りの言葉を口にしているべレア達の前でそれを言うわけにもいかないので静かに黙祷していた。
「ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧として下さい。私達の主エヒト様によって」
『いただきます!』
子供達が一斉に声を上げて、待ち切れなかった様に食器を手に取る。やはり食事の時間は楽しみだった様で、小学校の時の給食を思い出して浩介も微笑ましくなった。
浩介がここにいるのは怪我をしていたノイントの手当てが出来る場所を探して、偶然見つけたからだ。元は聖教教会の修道院だったそうで人里離れた辺鄙な場所にあり、修道女も高齢のシスター・べレア以外はいないという有様だった。その修道院もべレアが身寄りの無い子供達を拾って育てている孤児院と化しており、聖教教会の本部からは半ば忘れられた様に放置されていた。本来なら行き倒れの浩介達に宿を貸す余裕など無い筈なのだが、べレアは嫌な顔を一つもせずに浩介達を受け入れてくれたのだ。
ふと浩介が隣の席に目を向けると、既に自分の分を食べ終わってしまった少年がいた。彼は物足りなさそうな顔をしていたが、べレアの手前で言い出す事も出来ない様だ。浩介はまだ手を付けてないパンを子供の前に差し出した。
「ほら、やるよ」
「………いいの?」
「チビ助が遠慮するなよ。子供の内はちゃんと食っとけって」
「……うん! ありがとうな、コースケ兄ちゃん!」
「それに心配しなくてもお金ならまた稼いできてやるよ。そうしたら腹一杯に食えるからな」
「本当にありがとうございます、コースケさん」
横で二人のやり取りを見ていたべレアが浩介に頭を下げた。
「私達の為にお金を持って来てくれるなんて」
「いえいえ………宿を貸して貰っているのだから、このくらいは当然ですよ」
「でも、危険な事はしないで下さいね? 浩介さんの身が一番大事なのですから」
「………大丈夫ですよ、べレアさん。ちょっと割の良い仕事をやってるだけなんです。それにこう見えて、結構ステータスは高いんです。まあ、何かあっても大丈夫ですって」
べレアを心配させない様に浩介は笑顔を作った。
あまり他人様に誇れる仕事ではない、という事を悟られない様に。
>ノイント
すっかりと黒い仔山羊がトラウマになってしまいました。多分、山羊の鳴き声を聞いただけで怯えて蹲るんじゃないかな……。
毎夜の様に黒い仔山羊の悪夢を見て、エヒトルジュエから与えられた使命と姉妹達を捨てて逃げたという罪悪感から意気消沈しています。こうまでくるとキャラ改変が著しい……まあ、香織をアンデッドにしてるくらいだなら今更だわ(笑)
>遠藤
親切なシスターさんのお陰で、貧しいながらも人の温かさに触れています。それで恩返しの為に何の仕事をやっているかというと………。
>真の神の使徒
今になって、こういう事にしておけば良かったと考えている設定があります。時間があったら、何処かに加筆修正したいですね。
・元々の姿は、今は絶滅した鳥の魔物。それをエヒトルジュエが変成魔法で人間と組み合わせて作った為に天使の様な見た目になった。
・特に超音波器官が優れており、これによって仲間への伝達はもちろん獲物を誘き寄せる音を発したり、振動数を上げて敵を破壊する共振現象も起こせる。“魅了”や“分解”はこの能力が強化された事で使える様になった。
・使徒の象徴とも言える翼や超音波器官を失ったノイントは、ステータス以外は構造的に人間と大差ない存在である。