パカポコ、パカポコと蹄の音が鳴り響く。
内部には上質な絹のクッションが敷きつめられ、まるで御伽噺の世界から出てきた様な豪華な馬車の中で香織は南雲と向かい合って座っていた。
クラスの全員が戦争への参戦を表明した後、香織達はエヒト神を崇める聖教教会の麓にある――召喚された場所は雲海を見下ろせる高山の頂上だった――ハイリヒ王国へと向かっていた。
いくらこの世界の人間から見て超人的な能力があろうと、ただの高校生である香織達は戦いに関して素人だ。イシュタルもその辺の事情は予測しており、香織達が戦う術を学べる様にハイリヒ王国へ受け入れる準備を整えていた。
麓まで降りた香織達を何台もの豪華な馬車が待ち構えており、生徒達は何人かで分乗してハイリヒ王国の王城へ向かっていた。案の定、香織が南雲と同乗する事に光輝は力強く抗議したが、馬車の御者から「国王陛下がお待ちですので御急ぎを!」と急かされる形で雫と龍太郎が光輝と同乗する事で事なきを得ていた。
(ど、どうしよう!? 南雲くんと二人きりになるなんて思ってなかったから何を話せばいいか分からないよ!?)
自分から望んだ事だが、いざ南雲と二人きりの空間になると頭がテンパってしまう。当の南雲は香織には目もくれず、片手をコメカミに当てて目を閉じていた。まるで何かを念じてる様にも見える。
(南雲くん、すごく落ち着いてる……。みんな、異世界に来たなんて事態に混乱しているのに)
こうしてまじまじと見る機会なんて無かったので、香織はじっくりと南雲を観察する。体型は太り過ぎでもなく、痩せ過ぎでもない。髪も校則通りに切り揃えられており、町ですれ違えばあっという間に人混みに埋もれるだろう。
だが、その顔は理知的に引き締められ、こうして考え込んでいる姿はまるで深い叡智を携えた学者の様に見える。まだまだ子供っぽい所がある同年代の男子達に比べると何段も大人っぽく見えた。その姿に香織の胸に熱い鼓動が流れる。
(やっぱり、私達とは違うなぁ………)
南雲がクラスの人間と全く馴染む気がなく、むしろ他人を寄せ付けない態度を取っている事は香織も知っている。しかし香織にはそれが同年代にはない浮世離れした魅力に感じていた。学校の二大女神なんて持て囃されて数え切れない程に男子から告白を受けた香織にとって、南雲は今まで見た事のないタイプの異性だったのだ。
(南雲くんは覚えているかな? 二年前のあの日の事………)
「――何か?」
「ひゃいっ!?」
「先程から見てるから、何か用かと聞いている」
回想に耽ていた香織だが、気付けば南雲は目を開いて自分をまっすぐに見つめていた。ずっと見ていた事が気不味くなり、明後日の方向を見ながらとりあえずの話題を探す。
「え、ええと、そう! 大変な事になっちゃったね、と思って」
「………確かに。予想外の事態ではある」
何故か残念そうな響きで南雲は深い溜息をついた。その事を不思議に思いながらも、教室ではほとんど何も話さない南雲と話す好機と考えて香織はアプローチしていく。
「南雲くんは、その……随分と落ち着いてるよね? 私も皆もわけが分からなくて慌ててるのに」
「騒げば事態が好転するならそうしよう。そうでないなら、体力と時間の無駄だ」
「………やっぱり、南雲くんは凄いなぁ」
動揺を微塵も感じさせない平坦な声を聞き、香織は改めて同年代であるはずの目の前の少年との差を痛感した。
「うん、本当に凄い。私なんて未だに今起きてる事が現実なのかも自信がないのに………。さっきは戦争に参加するなんて威勢のいい事を言っちゃったけど、本当は雫ちゃんがやると言ったから一緒にやろうと思っただけなの。戦争なんて………怖いよ」
「僕は君の保護者ではない。君の選択に口を挟む気は無いが?」
「うん。そうだよね………」
ある意味予想通りな冷淡な返答だが、香織にとって今はその方がありがたかった。香織とて頭が悪い方ではない。下手に慰めの言葉を言われても何の助けにもならない事は理解できていた。
「私達、どうなるのかな? 本当に魔人族を倒したら日本に………家に帰れるのかな?」
「………その可能性は低いと判断する」
「え? だって、イシュタルさんは、」
「あの老人が言っていたのは、“エヒト神がそう望むならば"という仮定での話だ。確約はしてない。仮に魔人族とやらを殲滅したところで帰れるという保証などない」
「そんな………」
「あの老人が僕達を戦争に駆り立てたがっているのは一目瞭然だっただろう。そもそも異世界の神などという存在証明不確かな存在をどうして信じる気になるのか僕には疑問だ。僕達を異世界へ転移するという力があったとしても、ただ強大な力を持っただけの存在だろうに。仮に神を名乗る事を許されるのは、そう、至高の———」
「南雲くん?」
急に黙ってしまった南雲を怪訝に思って香織は見つめる。南雲は喋り過ぎた、とでも言いたげなバツの悪い顔をしていた。
「いや………とにかく、あの老人の戯言を真に受ける必要は無いとだけ言っておく」
「………私達、早まった選択をしちゃったのかな?」
「あの場で断った場合、エヒト神とやらの神託に背く異端者として捕らえられたとは思うがね。今は情報を集めるのが先決だろう。だから僕は特に異論を唱えなかった」
「南雲くんは………やっぱり家に帰りたい? 家族が恋しい?」
香織からすれば何気なく聞いた話題だったが、効果は覿面だった。南雲の鉄面皮が一瞬、沈痛に歪められた。
「………………僕は養護施設で暮らしているから、親兄弟と呼べる者はいない。施設の職員とは事務的な付き合いしかしてない」
「え? あ、あの、ごめ、」
「だが………戻りたい場所はある」
初耳である南雲の生活環境に軽率な事を聞いてしまったと思い、謝ろうとする香織。それより先に南雲は言葉を続けた。その顔はいつもの様な退屈そうな表情はなく、執念じみた物が浮かんでいた。
「そうだ、戻らなくてはならない。僕を不要と判断されて廃棄されたのならそれは仕方ない。だが、そうでないなら僕は必ず戻らなくてはならない。御方の為に僕は………!」
いつになく力の篭った口調になっていた南雲だが、またも喋り過ぎたという顔になる。フッと表情を即座に消した。
「いや、君に言っても関係ない事だった。どうやら僕も異常な事態に冷静ではない様だ」
それっきり口を閉ざした南雲に香織はなんとなく確信した。
ああ、きっと彼はどうしても戻りたい場所があるんだ。自分が思い浮かべられる様な事ではないかもしれないけど、どうしても会いたい人がいるのだろう。そして、それは香織が軽々しく入り込んでいい話では無い。
静かになった車内の窓から行く手に立派な尖塔がいくつも建った大きな建造物が見えて来た。あれがハイリヒ王国の王城なのだろう。
「南雲くん」
意を決して香織は南雲に話し掛ける。
「私、頑張るよ」
ピクンと南雲の眉が動く。
「確かに南雲くんの言う通り、戦争に駆り立てられてるだけかもしれない。でも、もしかしたら本当に戦争に勝てば帰れるかもしれない。今はそう信じて、頑張る」
むんっと両手の拳を握る香織。
「うん、大丈夫。雫ちゃんも、龍太郎くんも、光輝くんもいるし、頭の良い南雲くんだっているんだもん。きっと帰れるよ。だから、絶対に大丈夫。南雲くんが帰りたい家に帰れる様に私、頑張る」
その宣言は先程の光輝の様に何の保証も無いものではあったが、少女の精一杯の気迫を感じるものだった。その気迫に対して南雲はいつもの無表情を崩さなかった。何を感じるものがあったのか? あるいはそうでないのか? それを全く読み取る事は出来ない。だが――。
「………気持ちだけは受け取っておく」
しばらくして、南雲は一言だけ返した。
***
その後、召喚された生徒達は謁見の間でハイリヒ王国の国王エリヒド・S・B・ハイリヒをはじめとした王国の重鎮達から挨拶され、歓迎の宴に招待された。地球では見ないいくつかの料理に驚きながらも、舌が蕩ける様な美味に生徒達は酔いしれた。本格的な訓練は明日からという事で個室を一人一部屋与えられ、生徒達は与えられた部屋の豪華さに戸惑いながらも夢の中に落ちていった。
だが、一人だけ眠りに入らなかった者がいた。
「………」
南雲は天蓋付きのベッドに入らず、灯りも付けずにただ一人机に座っていた。机の上にはトータスに召喚される前から身につけていた腕時計が置かれていた。
時刻は深夜0時20分。トータスと地球の時刻が一致しているかは不明な為、トータスでの正しい時刻では無い可能性があるが、南雲にとってそれは重要では無かった。トータスに召喚されてから一時間おきに南雲はある事を試していた。
「………時間だ」
南雲はコメカミに手を当てる。そして――地球の人間ではあり得ない事象を起こした。
「………〈
瞬間、南雲の頭の中で不可視の糸が伸びる。糸は何かを探る様にどんどんと伸びていき、部屋から飛び出していった。地球の人間には不可能な事象――魔法を引き起こした南雲はまるで祈るかの様に目を閉じた。
(これで十二回目………今度こそ、今度こそ繋がってくれっ)
ギリっと奥歯を噛み砕くくらい南雲は強く魔力を込めた。その魔力に呼応して不可視の糸は王城の城壁はおろか、城下町すら飛び越えて四方八方へと伸びていく。
最初、何故か幼年児というべき姿で見覚えの無い場所――地球で目を覚ました時には絶望した。
次に、創造主から与えられた力は失われていない事に安堵して、必ず元いた場所に戻ると誓って現地の人間達に混ざって生活する事に嫌悪を感じながらも必死に耐えた。
そして、トータスという異世界に飛ばされ、ここならばあるいはと期待して――それは今、失望に変わりつつあった。
(ここまで反応は無い………この世界でも駄目だったと結論を下すべきかもしれない。だが、しかし――!)
諦められない。諦め切れない。魔法という物をまるで感じられなかった地球とは違う。南雲の知る魔法とは全く異なるもので、大神官を名乗るイシュタルや謁見の間で紹介された宮廷魔法師が南雲から見れば鼻で笑う様な魔力しか感じ取れなくてもこのトータスには魔法という文明が息づいている。ここならば。この世界ならあるいは――!
諦観と渇望。その二つが南雲の中でせめぎ合う。
『………誰だ?』
突如、頭の中の不可視の糸が繋がる感覚がした。ガタッ! と南雲は勢いよく立ち上がった。衝撃で椅子が後ろに倒れたが、そんな物は全く気にならなかった。
「まさか………モモンガ様? モモンガ様なのですか!?」
『………そうだが。お前は誰だ?』
人が寝静まった深夜という事を忘れ、思わず大声を出してしまう。まるでこちらを探る様に頭の中に響いた声。それこそ南雲がずっと探し求め、絶対に戻ると決めた主の声に他ならない――!
「っ、失礼いたしました。モモンガ様。僕はナザリック地下大墳墓
感嘆極まりながらも即座に冷静さを取り戻し、南雲――否、ナグモは仕えるべき主に名乗りを上げた。