ヒストリアの兄でございます 作:宇宙最強
845年
ウォール・シーナ北部の牧場にて——
「おはよ、おにいちゃん」
朝一番、いつもその声で少年は目を覚ます。
重い瞼を開けてみれば、見慣れた妹の顔がぐっと近づけられていた。なにが可笑しいのか、妹は少年の眠そうな顔を眺めて、にこにこと笑っている。
誰が見ても見惚れてしまうような可愛らしい笑み。
だが少年は、そんな妹の表情とは対照的に、少しだけ眉間に縦皺を畳んだ。
「また勝手に入ってきたのか、ヒストリア」
「だって……夜は冷えるんだよ?」
妹——ヒストリア・レイスは決まって夜中に少年の布団へと潜り込む癖があった。
最初は何かと理由をつけて同衾を強請っていたのだが、今では黙って入り込んでくる始末である。年頃の娘とまではいかないものの、妹はそれなりに性について知るべき年齢だ。そんな彼女に、少年は兄としてどう言うべきなのか決めあぐねていた。
「はぁ……」
実のところ、少年は妹が苦手である。
別に嫌いというわけではない。 一緒にいても嫌悪感はないし、彼女が困っていれば、それとなく手を差し出してやろうとすら思える。一般的に見れば、少年のそれは十分好意的とも取れることだろう。
けれど時々――いや、それとない頻度で、少年は妹と接しているだけで胸の奥がむず痒くなってしまうことがあった。
それがなんなのかは分からない。言葉にできそうもない感情は、蟠りのようなものを生んでしまっている。
故に少年は、妹に対し複雑な心境を向けてしまうのだ。
「いい加減、一人で寝れるようになれって言ったろ」
「えー、だって一人で寝るの寂しいし……」
「いいから。お前も、もう10歳だろ。一人でも大丈夫だ」
「まだ10歳だもん……」
そう言って、しゅん、と萎れるヒストリア。
少年もそうであるが、ヒストリアも愛を知らずに育った子供だ。夜中になると、その喪失感がより一層大きくなるのだろうことは少年も理解できていた。
「……姉さんが聞いたら呆れるな」
「そんなことでお姉ちゃんは呆れないよーだ」
「どうだか」
強く言い返す気にもなれない少年は、後頭部を掻いて誤魔化す。
——全くもってやり辛い。
いつも妹が萎れると、少年は途端に言葉の出し方を忘れてしまう。こういうところも、少年が妹に苦手意識をもつ要因だった。
少年の腹回りをヒストリアが抱きつきながら、二人で気怠げにベッドで座ったままでいると、突然、腹の虫が鳴く。
「あっ、今お兄ちゃんのお腹が鳴った」
「……朝だからな。腹は減る」
「えへへ、だね。私もお腹へったもん」
毎日毎日、牧場の仕事をさせられているのだから、朝は腹が減って仕方ない。しかも、育ち盛りの子供が二人。当然、朝から小腹が空かないわけもなく、目が覚めてくるのと同時、しだいに空腹感も強まってきた。
「朝餉、作るか」
少年がボソリと独り言のように言った。
決して妹のために作ろうと思ったわけではない、とここに明記しておく。
「手伝おっか?」
「……いや、いい。この前みたいにシチューを焦がすかもしれないし」
妹の尋ねにそう返せば、少女は不機嫌そうに頬を膨らませ「今度はうまくやるもん!」と言う。
別に少年からしてみれば、ヒストリアが朝食作りに失敗しようがどうだっていいことだ。食べられれば味などどうだっていいとすら、本人は思っている。
けれど、ヒストリアの実の祖父母だけはそうは思わないだろう。彼女らはヒストリアという存在自体を、目の上の瘤として扱っている。少年とは違い、ヒストリアは本当の孫娘だというのに随分とひどい待遇だ。きっと、ヒストリアが不味い飯を作れば、それだけで老夫婦の目は冷めたものになるに違いない。少年にとってそれは、あまり快いものではなかった。
「お兄ちゃん?」
ヒストリアは金髪を垂らしながら小首を傾げた。少年が黙り込んだせいだろう。くりっと見開かられた大きな瞳に己の姿が映り込む。
少年は出てき始めた太陽を透かし見ながら、「……腹、減ったな」とだけ告げるのだった。
#
少年たちの1日は、書き起こしてみると実に慌ただしいものだ。
朝に朝餉作りと飼付。昼までに納屋と古屋の清掃。昼食を作ってたべれば、放牧と調教訓練。日が沈み出す前に馬体の手入れと飼付を再び行う。
基本的にはこれが全てである。時期によって業務量も異なるが(特に夏場の草地管理なんかは仕事の手間が増えて地獄だ)、家業を主だってしているのが老父婦ということもあり、重労働は基本的に少年たちが行なっている。
そんな大人でも厳しく感じる仕事のはずなのに、当の本人たちである少年とその妹は、いつも何食わない顔で進めていた。
「馬に飲ませる水はこれくらいでいいか」
「うん、それで十分だよ。ありがと、お兄ちゃん」
水の入っている木桶を眺めたヒストリアは、快活にうなずく。そのまま腰に力を入れ、木樽を持ち上げれば、えっちらほっちらと馬のところへ運んでいった。
少年はそんな妹の後ろ姿を眺めながら、新しく手元に用意した木桶に水を汲み始める。
(本当は俺の方が水を持ち運びした方がいいんだろうな)
ふと、そんなことを少年は考える。
妹が全身の筋肉を使ってようやく持ち上げられる木桶。どう考えたって、筋肉量が多い少年が馬のところまで持ち運んだ方がいい。
だが、それができない理由というのもある。
少年はどういう訳か動物に好かれない体質をしていた。例えそれが犬であろうと、猫であろうと、馬だろうと関係ない。馬は彼を見れば嘶きと前掻きを始め、犬と猫が少年を視界に入れれば一目散に逃げ去ってしまう。その体質故に少年は牧場の家業のうち、ほとんど裏方仕事しか出来ないのだった。
「お兄ちゃーん! やっぱり、もう少し水多めにしてー! 日差しが強いせいか、みんな思ったより飲むみたーい!」
厩舎で給水していたヒストリアがいつもと違うことに気が付いたらしい。少年はその言葉を受けて、素直に水の量を増やした。
とは言っても、少年は先ほどもヒストリアが持てるギリギリの量を攻めていたつもりだ。さっきよりも多いとなると、ヒストリアが一人で運搬できない重さになってしまう。
少年は給水場の近くを、きょろきょろと見渡し、使っていない荷車を引っ張り出してくる。その荷台に水の入った木樽を置いて、運びやすいように工夫してやった。
「ただいまー。あっ、わざわざ荷車用意してくれたんだ」
一回目の水やりを終えたヒストリアが、兄の様子を見て目を丸くした。いつも少年はぶっきらぼうのため、ここまで気の利いたことをするとは思わなかったのだろう。
「運べないだろうからな。要らなかったか?」
「ううん、すごく助かる。ありがと、お兄ちゃん」
驚きも僅か、すぐに笑顔の花を咲かせたヒストリアは、鼻歌まじりにそれを押して厩舎へと戻っていった。彼女の足音から、軽やかなリズムが鳴りそうである。
そんな時だ。
「おい、あれ見てみろよ」
遠くの方から、敵意を孕んだ声が聞こえた。
少年はそれに対し面倒臭そうな表情を浮かべ、視線を柵の外へと放り投げる。視線の先には案の定、この村に住んでいる同年代の男の子三人組が、少年を指さして笑っていた。
「やーい、
虚仮——というのは少年のことを指した蔑称である。
なぜそう呼ばれているのかは、少年本人ですら分かっていない。ただ、婢女娘という言葉が何故ヒストリアに指されているのかは知っていた。
「懲りずにまた来たのか」
少年は柵の外で騒ぐ三人組に向かって告げる。
この場は無視することが正しいのだろうが、放っておけば目障りになるため仕方なしの対応だった。彼ら3人組は、この歳特有の蛮勇さだけを一丁前に持ち合わせているのだ。
「うっ、お前には用ねーし」
「さっき俺のことを呼んだだろ? それともあいつに会いにきたのか?」
「ちげーよ!!」
3人組のうちの一人が、慌てた様子で柵に乗り上がって言った。
小さいながらも彼の右拳が硬く握りしめられている。このまま引くわけにもいかないのだろうと少年は悟った。彼の沽券に関わる的な意味で。
何故、先ほどの問いかけでそこまで熱くなるのか分からないが、とりあえず少年はいつ喧嘩が始まってもいいように拳だけは握っておく。
「かかってくるなら早めに来てくれ。俺も暇じゃないんだ」
ちらっと後ろを横目で見れば厩舎がある。そこそこの量の木桶を運んでいたことだし、ヒストリアは当分出てこないだろう。つまり自分が次の仕事に移るのには少しだけ余裕があるということ。
だからと言って、時間をかけ過ぎれば家業の手伝いが疎かになってしまうのも事実。少年からしてみれば、彼らに時間を1分でも割くほうが無駄だった。
「く、クソッタレがああああああああ!」
少年に走りかかったのは、3人組のうち柵に乗り上がっていた男の子だけだった。どうやら他の二人は前回少年にやられたのを体が覚えているらしい。一人だけ立ち向かった男の子は、そんなこと気にもせず柵を飛び越え少年に襲いかかる。だが、少年はそれをいとも容易く躱すと、男の子の頬へ見事に拳を突き刺した。
「ぶフゥ!」
豚の鳴き声かと勘違いするような声を漏らす男の子。
少年はそれを呆れた目で見下ろしながら、優しく手を差し出す。普通こんな対応する必要ないのだが、大好きな姉から喧嘩した後はこうしろと言われていた。
少年にとって姉の教えは神の教えと同等の価値を持っている。姉が言うのなら間違いはない。そう思えるほど、少年は姉へと心酔していた。
「立てるか?」
「う、うるせぇ! いっつも人を馬鹿にしやがって!」
少年の態度が気に食わなかったらしい男の子は、差し出された手を払い除けた。
これも毎度のこと。だから少年も男の子の態度には何も感じない。
「次は負けねぇ……」
ぎりっ、とした目で男の子が少年を睨み立ち上がる。アホらしいと思いながらも、少年は何も言わずにいた。
「お兄ちゃん?」
すると、厩舎からヒストリアが出てきた。
さっきから男の子が大声をあげていたせいだろう。外の喧騒に気付いたヒストリアは、何事かと心配して顔を出したのだ。
「なに、してるの?」
敵を見るような目で、ヒストリアは牧場に入ってきていた男の子を睨んだ。少女からすれば彼ら3人組は石を投げ打ってくる野蛮人である。
そんな危険な男の子が牧場に入ってきている。ヒストリアの心情は決して穏やかじゃないであろうことは少年も理解できた。
「早く帰れ。俺たちはまだ仕事があるから」
少年は男の子の背中を押して、そう言った。
別に少年だって好きで暴力を振るいたい人間じゃない。さっさと相手が帰ってくれるなら、話し合いで事を済ませたいと考えている。
「う、うるせー! お前に言われなくてもな、こんなドブ臭い場所なんていられるか!」
三流以下の捨て台詞を吐きながら去っていく男の子。あんなことを言っておきながら、次の日になればケロッとした態度で喧嘩を売りに来るのだ。
自分たちのことが嫌いなのか好きなのか、分かったものじゃない。
少年は少しだけ、あの意味のわからない男の子へと笑みを溢す。
「お兄ちゃん、どうして笑ってるの?」
ヒストリアはそんな少年を見て、怪訝そうな声を出した。
「さあ、俺も分からん。ただ少し、可笑しい奴だと思っただけだ」
「可笑しい?」
「ああ。あいつは意味が分からなくて可笑しい」
それだけ言って厩舎に戻ろうとする少年だったが、ふとある人物が目に付いた。
「姉さん?」
喜色に満ちた表情が少年から出る。彼からこうした顔が出るのは、姉が目の前にいる時だけであろう。
ヒストリアはそれを知っているせいか、隣で「むぅ〜」と頬を膨らませ、腕に絡まった。誰にも渡さない、渡したくない、といった主張が行動だけで聞こえてくる。
しかし、そんなことなど少年からしてみればどうでもよかった。
牧場に近づいてくる姉へと、少年は手を振りながら声をあげる。
「おーい、今日は来ないんじゃなかったのー?」
麦わら帽子を被った姉は、そんな少年に気がついたのか手を振り返し、
「ちょっと時間が出来たから寄りに来たのよー!」
と声を上げた。
そして、そのまま彼女は駆け出せば、柵を越え、少年とヒストリアを力一杯に抱きしめる。幸福に満たされるように、愛情を分け与えるように。
少年も、その妹も、姉のそんな行動が好きだった。
「あー、会いたかったよ二人ともー」
姉——フリーダ・レイスは今日も快活な笑顔を浮かべてそう言った。