ヒストリアの兄でございます 作:宇宙最強
数日に渡って少年は、瓦礫から抜け出すことに成功していた。最後に男の巨人が飛び出した際、その衝撃でいくらか瓦礫の隙間が大きくなったおかげだった。
少年は覚束ない足取りで姉であるフリーダを探した。最後に見たのは、蒸気が地下空間を支配する前までだ。蒸気が晴れてからは、フリーダの姿を見ていない。つまり、あの男の巨人に、"フリーダ自身"が殺される瞬間は見ていないと言う事になる。
「……」
だが、頭の中ではとっくに理解できていた。
あの殺された女巨人こそが、最愛の姉であることは。
人が巨人になるなんて終ぞ聞いたことがなかったが、それでも目の前の現実は受け止めなくてはならない。そう、現実は受け止めなくてはならないのだ。
(——姉さんが死んだ)
鼻腔にくすぐる腐乱臭がとても不快な気持ちにさせる。青白い地下空間には、似つかわしくない真紅の液体が飛び散り凝固していた。辺りを見渡せば、姉さんの兄弟たちが醜い死体となって転がっている。
(殺された。殺された。……姉さんは、殺された)
何度も頭の中で呟いては心に沈めていく。
あの笑顔を見ることはもう叶わない。
あの声を聞くことはもう叶わない。
あの手を握ることはもう叶わない。
そう考えるだけで、少年の心は凍てついたように固まった。
これからどうやって生きていこう。
答えなんて見えない真っ暗闇に落とされて、少年は己のあり方すらも見えなくなった。気持ちの悪い味が口の中で広がり、そして無意識にえずきそうになる。
(——ああ、これが絶望か)
少年がそう吐露すれば、自然と納得した。
この世界は美しくもあり、だが時として残酷なものである、と。
「なん、で……なんで俺を殺さなかった……!」
ふつふつと湧き上がる怒りに歯を食いしばりながら、女の巨人があった場所で蹲る。
あの時、本当に死ぬべきだったのは姉ではなく自分のはずだ。最後の最後で姉を怒らせてしまった。
敵意を向けるような姉の瞳。あれが姉との最後の会話になってしまった。
柵を出てはいけない罪人。それが自分自身だと少年は思っている。
誰にも優しく、領民からも好かれていた姉。
物知りで、困った時は優しく撫でてくれた姉。
物心ついた時から姉にはよく世話になった。遊び相手になったこともあるし、文字の読み書きも教えてくれた。
それなのに——その姉がどうなったかを少年は最後まで見ていた。
なんの恨みがあってやったのかなんて知らない。あの男にどんな事情があるのかなど興味もない。
ただ姉がいなくなった深い絶望感だけが少年を襲った。最後まで見えていたはずなのに、何も出来なかった自分に深く絶望した。
(——ああ、もうどうでもいい。こんな世界、どうだっていい)
少年の心にぽっかりと空いた穴。無気力な彼の頭に今までの思い出が蘇る。
楽しかった。どれも楽しい日々が続いていた。
姉と……ヒストリアと、自分が牧場で過ごしている。それだけが彼の癒しだった。
「ヒス、トリア……?」
なぜか分からないが、少年の口からはたった一人の妹の名が紡がれていた。牧場で自分の帰りを待っている妹の顔が、鮮烈に脳内で過った。
「……帰ろう」
頭の中で煩雑に木霊する声が少年を突き動かす。ろくに力の入らない足腰で己を立たせれば、ふらつきながらもなんとか一歩を歩み出すことに成功した。
もうここに居る意味はない。少年が求めていたものは、どこまで言っても一人の姉なのだ。
だからこそ帰る。姉の記憶がまだ残るあの場所へ……姉の記憶がまだ残る妹の元へ。
ここにはもう、自分の知る姉はいないのだから……。
#
「お兄ちゃん、なんで帰ってこないの……」
ウォール・シーナの小さな牧場でヒストリアはそう呟いた。
最愛の兄が姿を消してからもう数日が経つ。どこに行ってしまったのかは祖父母ですらも知らないらしかった。
ただ、西側の柵を直そうとしていたのは確からしい。柵の近くには、いつも兄が愛用している工具箱が置かれていたからだ。祖父も兄に柵の修理を頼んでいたと、ヒストリアに教えてくれた。
消えた兄のことを考えるだけで、ろくに食事が喉を通らない。口に物を入れてみても、どれも質素な味がするだけ。いつも兄が料理をしてくれていたことを考えれば、全ての食事に味がないように感じてしまうのは仕方がないことだった。
そんなある日の晩、コンコンと玄関の扉がノックされる音がした。
ヒストリアは兄が帰ってきたのだと喜び、急いで藁のベッドから跳ね起きると、そのまま玄関へと直行する。ふと、窓から見えた外の景色に馬車が止められているのが見えた。兄は馬車に乗って帰ってきたのだろうか。そんな風に考える。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!!」
扉を壊す勢いで開け放てば、そこに居たのは最愛の兄などではなかった。高貴な服装を見に纏い、短髪で切り揃えられた黒髪が深い闇を表した男。
男は笑顔で飛び出てきたヒストリアの顔を見やり、帽子を取った。
「初めまして、ヒストリア。私はロッド・レイス……君の父親だ」
その男性はこの土地の領主の名前を名乗った。横をみれば、数年振りに見る母親の姿もある。この男性が言っている「父親」という言葉は、本当のことなのだと、ヒストリアは確信した。
けれど、今ではどうでもいい話だ。ヒストリアにとって母親は所詮、ただの生みの親でしかない。父親もまた、ただ産まれるために必要だった種馬と同義だ。ヒストリアにとって大切なのは、常に共に過ごしてきた兄であり、家族と言える存在は
「ヒストリア……これからは私と過ごそう」
レイス卿はそう言ってヒストリアの手を握った。
これから過ごす、と言うのはこの家から離れるということだろうか。そうなってしまっては、兄が帰ってくるのを待てなくなる。
それ故に、少女は男の提案を強く拒絶した。
「いや、です……! ごめんなさい……でも、私ここで待たなきゃいけないの……!」
ヒストリアの母親である女は、その言葉を聞いて目を見開く。
「何を言ってるの、お前はっ!? せっかく旦那様が一緒に暮らそうと言ってるのに、それを拒むんじゃないわよ!!」
唾を飛ばしながら汚らしく喚く母親に、ヒストリアは何も言えなかった。
これでも相手は産んでくれた母親だ。自分に愛情を教えてはくれなかったが、多少の恩義は感じている。
だがそれでも、少女にとって兄という存在は非常に大きなモノだった。
「……どうして私たちと過ごせないんだい?」
レイス卿は頭ごなしに否定してくる母親と違い、優しくヒストリアに語りかけた。
ヒストリアはそんな優しげな男の瞳に、意を決したように口を開く。
「私がここを離れたらお兄ちゃんを待てないんです。だから、私はここに居ます。……お兄ちゃんと離れたくありません」
「お兄ちゃん……か」
ヒストリアの言葉を噛み締めるようにレイス卿は呟いた。
そして少しの間、何か思い悩んだような表情を浮かべると、再度ヒストリアの手を取る。
「ヒストリア。君には悪いが、その兄はもういない。今頃、盗賊たちに殺されていることだろう」
「え?」
その言葉を聞いた瞬間、ヒストリアは自身の足場が崩落したような気持ちになった。
兄はもういない。兄は既に殺されている。
そんなバカな話があるのかと少女は思った。兄はいつも3人組の男の子を蹴散らすだけの力を持っていた。妹である己を守ってくれる力を十分に備えていた。そんな兄が誰かに殺されるだなんて信じられない。いや、信じたくなどなかった。
けれど、兄が数日間も帰ってきていないのは真実である。ウォール・マリアが陥落した日、その晩に兄の姿は忽然と消えたのだから。
「嘘、ですよね……お兄ちゃんが、いないなんて……」
「嘘じゃない。彼は数日前、私のところに訪れた折、不慮の事故が重なって殺された。死体は見ていないが、今もなお帰ってきてないところを見るに、そういうことだろう」
淡々と告げる男の声が、ひどく気味が悪いものに感じる。
ヒストリアは目頭に涙を溜めて、胸が強く締め付けられる感覚に苦しんだ。ずっと兄といたいと思っていた少女にとって、男の報せはまさに死刑宣告と変わり無い。
立っていることすらできなくなったヒストリアは、その場で蹲ってしまう。足に力が入らず、呼吸すらままならない。拍動は強く打ち続け血の流れが加速する。全身は熱を帯びたような感覚に陥り、最終的には大して入っていない胃の中の物が逆流しそうになった。
「いや、お兄ちゃん、いや、いや、いやっ!!」
頭を抱えて痛みに耐えるヒストリアを、男は可哀想な目で見つめた。少女にとってあの少年がどれだけ大きな存在だったのか、それを目の当たりにしてしまったからだ。
だがそれでも、今はやるべきことがある。
男は小さく丸まったヒストリアを抱えようと歩み寄り、そしてその足を止めた。
「誰だ?」
「困りますな、レイス卿。このようなマネはご容赦していただきたい。ウォール・マリアが破られたことで不安に襲われましたか」
「ヒィイぃぃ!!」
いつの間にかヒストリアたち3人は大勢の大人に囲まれていた。その中でも、一人のリーダー格らしき中年の男は、ヒストリアの母親を後ろ手に拘束している。あまりの恐怖心に、母親である女性は、涙を流して歯を食いしばっていた。
しかし、ヒストリアにとってはそんなこと些事でしかない。兄が死んだ世界で生きていこうとも思えない少女は、そんな阿鼻叫喚な状況下でも蹲ったまま動こうとはしなかった。
「レイス卿。一応聞きますがね、こいつらはあんたと何か関係があるので?」
問われたロッドはそれに対し、目線を幾らか彷徨わせる。
主に見えるのは、自身の壊れてしまった娘だった。ロッドからしてみれば、始祖の力を取り戻すためにも、王家の血族は必要不可欠である。その中、たった一人の娘となってしまったヒストリアを手放そうとは思えなかった。
が、仕方ない。ここで全てを話してしまっても、結局は目の前にいる男に殺されるだけなのだから。ロッドは渋々とした様子で、男の問いかけに否定で返した。
「……いや、この二人は私と何も関係がない」
「やはりそうでしたか」
男はそう言うと、容赦無くヒストリアの母親の喉元にナイフを押し当てる。
「なに、なにを!? 話が違うではありませんか、旦那様!」
そこでようやく、ヒストリアは自身の母が危険な立場であることを理解した。伏せていた顔を上に上げてみれば、そこには今にも殺されそうになっている母がいる。
ヒストリアの母親は、自身の娘の姿を見るなり一筋の涙を流した。
「あんたさえ、あんたさえ産まなけ——」
母親の命はそこで幕を落とした。
その呆気ない終わり方に、ヒストリアは何も言えずにいる。兄もこんな風に殺されたのだろうか。この場に不釣り合いな考えだけが、少女の頭を過った。
「さて、次はお前だ」
母を殺した男は血のついたナイフをヒストリアに向けた。
このまま男に抗わなければ、きっと兄のところへ行けるのだろう。この世界は辛いことばかりだから、あの世では兄と今度こそ幸せに過ごしたい。
二人で牧場を経営し、子供なんかに恵まれて、笑い合いながら年老いて、今日も平和だったねなんて言いながら、最後の時を共に過ごすのだ。
そんな密かな願いを抱きながら、少女はそっと目を閉じる。
が、そんな願いが叶うことは無かった。
「うおっ」
母を殺した男が、そんな剽軽な声を漏らしたのである。何事かと思い、ヒストリアが閉じていた瞼を開ければ、そこには己が欲して止まなかった存在が、静かに立っていた。
「お兄、ちゃん……?」
兄である。
死んだと言われていた兄がいた。
突然の少年の登場に、ヒストリアのみならず、その場にいる全員が驚きの声を漏らす。
「何しようとしてんだ、オッサン」
「あぁん? もしかしてお前……」
男は訝しげな目線で少年を舐め回した後、何かを察したように突如笑い声をあげた。
「フハハハ!! こいつは傑作だ! お前があれか、ウーリの隠し子か!」
「ウーリ?」
その言葉に眉を顰めたのは少年とロッドである。少年の出生については、ウーリとロッド以外は知らないため訝しんだのだろう。
だが、そんなロッドの反応も男からすればどうでもいいことだった。
「いやぁ、近くで見ると似てる、似てるぜお前! こいつは面白いものを見せてもらった。俺はケニーってんだ。テメーの父親の代であるウーリとは、これでも仲良くさせてもらってたぜぇ」
少年の肩を手加減も知らず叩く男——ケニー。さっきまでの畏まった雰囲気など微塵もない、型破りな風貌だけが顕になっている。それ故に、見ている者は何処か気持ち悪さを感じずにはいられなかった。兄の後ろに隠れているヒストリアですら、何故か分からない恐怖に固唾を飲んでいる。
「——だがまぁ、悲しいことにお前とはここでお別れだな」
「っ」
一頻り笑い終えた男が告げたその言葉。
ナイフを目にも止まらぬ速さで少年の首元へと走らせる。
けれど、それが届くことは無かった。少年は男の額を蹴り上げて、続け様にその足で首元へと強打を加えたからだ。まさか反撃すると思っていなかった中央憲兵は、唖然とした様子でそれらを見つめた。
「……痛ってぇな、おい。どチビの癖に動きが様になってんじゃねえか」
「なん——」
ギロリ、と殺意の籠った目線が少年を貫く。
華麗に全ての攻撃が入ったと思っていた少年は、男の威圧に押されて喉奥をキュッと締めた。
「こいつはちょっとだけ教えてやらねーとな。大人にはきちんと敬意を払ってよ」
そこからは一方的な暴力だった。ケニーは少年の頭を鷲掴みにして、そのまま地面に叩きつける。後は馬乗りになって抵抗する少年の顔面へと、拳の雨を降らした。
少年の口や鼻から血という血が噴き出る。唾液まじりに吐き出されたそれらを、ケニーはまるで汚物でも見るような目で見た。
「やめて、お兄ちゃんを殺さないで!!」
そんな凄惨な場面に立ち会ってもなお、ヒストリアは足を動かした。大好きな兄を殺させないために、絶対に立ち向かってはいけない男に拳を振り上げた。そうすれば、ケニーは脊髄反射とも言えるスピードで、ヒストリアの頬へと拳を突き立てる。あまりの威力にヒストリアの矮躯は易々と後方へと吹っ飛んだ。
「邪魔だ」
一言そう吐き捨てて、再度少年を殴り殺そうとする。
だけれど、その拳は小さな手のひらによって止められた。
「……ろす」
「チッ。まだ止める元気があったのかよ。しぶてえな」
「……ころ、す」
「ああぁ? 聞こえねぇなー? なんだってー!?」
そう言って彼は少年の口元へ耳をやる。
挑発行為も兼ねての行動なのだろう。男の顔には余裕の二文字がありありと浮かび上がっていた。
だが、その慢心がいけない。
「ぜったいに、ぶっころす——」
少年がそう叫ぶと同時、彼の左手に握られた石がケニーの頭に叩きつけられた。ケニーが耳を近づけていたため、少年の手の長さでも十分に届いたのだ。
こめかみ部分から血を垂らすケニー。それを無視して、少年は男の持っていたナイフを取りに腰部分へと手を掛ける。
「おっと、危ねえ危ねえ」
間一髪のところで意識を回復させたケニーは、少年の動きに気付き直様後ろへと逃げた。今し方まで馬乗りで殴られていた少年に、男の動きへ追いつく体力は残っていない。再び距離が開けられたことで、少年の逆転はほぼ不可能と化した。ケニーもそれを理解しているのか、くつくつと笑っている。
「なるほどな。このどチビ、根性だけはある」
ケニーが汚れた拳を真っ黒いコートで拭いながら、嬉しそうに言った。
その言葉の裏に何が眠っているのかは分からない。殴り飛ばされたヒストリアは重い体を引きずって、倒れている兄へと覆い被さる。
「許してください、許してください、許してください……」
見ていて痛ましいその光景に胸を痛めたのは誰だったのか。
レイス卿は二人の兄妹を見つめて、そして覚悟を決めたようにケニーを見た。
「この子達自身に罪はない。罪があるのは名前とこの土地に住んでいるからだ。……どうだろう、彼らに名を改めさせずっと遠くの土地で慎ましく生きてもらうというのは」
「……情でも移ったんですかい?」
「いや。そういうわけではない。ただ、私の兄であればこうすると思っただけだ」
ロッド・レイスはそれだけを告げると、ヒストリアに近づいた。
「今日から君はクリスタ・レンズだ。ヒストリアという名前ではない、新しく生まれ変わる。君の兄も新しい名前を名乗るように言っておくんだ」
そこからは目まぐるしい変化が、彼らを枚挙に暇がなく襲った。
ロッドは馬車に乗り邸宅へと帰り、ボロ雑巾のようになった少年と、それを抱きしめるクリスタは中央憲兵に連れられて開拓地へと送られた。開拓地へと放り出される際、少年はあのケニーという男と何事かを話していたが、その内容をクリスタが知ることはなかった。
数日経って、少年がまともに歩けるようになった頃、少年は突然クリスタにこう告げた。
「俺たちの姉さんが死んだ」と。
だけど、クリスタはその言葉の意味が理解できなかった。自分の家族は愛情を与えてくれない祖父母と母、そして目の前にいる兄だけである。少女は生まれてこの方一度も、姉と思える存在に出会したことなどなかった。
だから、クリスタは兄にこう返す。
「何を言っているのお兄ちゃん。私たちにお姉さんはいないよ」と。
それを聞いた少年の顔を、クリスタは一生忘れることができなかった。
あと一話でプロローグが終わりです。
次回は少年視点のこのお話。