ヒストリアの兄でございます 作:宇宙最強
胸がキュッと苦しくなる。誰かに心臓を鷲掴みにされているような気さえする。
けれど、その原因たる兄さんは私を歯牙にもかけようとしない。まるで、いない存在であるかのように扱い、言葉すらも直接かけてこない。
——何か、私はいけないことでもしたの?
頭で何度もそう問いかけてみるが、答えなどありふれていて一向に定まらない。
私が妾の子だと知って幻滅したのか。
それとも、私のせいで開拓地に行ったのを恨んでいるのか。
あるいは、私がろく動けなかったことに腹を立てているのか。
どれもあり得そうな理由ばかりだ。私が兄さんに嫌われるには十分な判断材料が出揃っている。
『いい子にしてたら、すぐにお話しできるよ』
ふと、そんな言葉が私の中で沸いた。誰に言われたのかは分からないが、いつもそんな風なセリフを聞いていた気がする。
自分と仲の良かった人間は兄を除いていないため、きっとこれは兄が昔、口癖のように言っていた言葉なのだろう。ならば、私が良い子にすれば兄も振り向いてくれるのだろうか。
何かが壊れる音がする。
それがなんなのか分からない。大事なものが砕けてしまったような気さえする。
けれど、それは気のせいだと思った。だって一番大事なものを私は知っているから。
『頑張らないと』
兄さんともう一度、昔のように仲良くなるため、
そして、もう一度大好きな兄が自分に話しかけてくるようにするため、
私は、誰からも認められる良い人にならないといけないのだ。
「お前、良いことしようとしてるだろ」
そう。私は良いことをしようとする。
「それは他の誰かのためにやったのか?」
違う。他の誰かなんてどうでも良い。私は私のために良いことをし、良い人を演じる。
「お前の得たものは、その労力に見合ったか?」
見合うはずだ。私の存在価値など、とうの昔から決まっているのだから……。
#
次の日からは訓練が始まり出した。最初は立体機動装置の適性検査を兼ねた姿勢制御訓練であったが、フリーダは難なくクリアしていた。ブレなんてものは一切感じさせないほどの適正だ。教官連中をはじめ、同期の訓練兵もみんな一様に驚いていた。訓練兵になるまでの間、フリーダが行ってきたことを考えれば当たり前の結果でもある。
当然、することの無くなったフリーダは暇を持て余した。何かすることがないものかと思い、あたりを散策していたら、金髪でガタイがいい男が座っているのが見える。
「おう。お前も余裕組か? どうだった?」
金髪の男もどうやら暇をしていたらしく声を掛けてきた。
彼の名前はライナーというらしい。連れがまだ適正検査を受けていないため、一人で訓練風景を見守っていたとのことである。
「簡単だった」
愛想無い様子でフリーダが返すと、ライナーは笑い返した。
「確かに。あれはぶら下がるだけだからな。できる奴からすれば、何でできないのか分からないぐらいだ」
そう言って、ライナーが見るのは上体をひっくり返してぶら下がるエレンの姿である。「あれはダメだな。明日には開拓地送りだ」とライナーは頬を掻きながら言った。
男の言う通り、兵士になるには巨人と戦うため立体機動装置を扱えることが最低条件になってくる。その適性を図るための姿勢制御訓練で、あそこまでの体たらくを晒してしまったエレンは、早い段階で除隊する事になるだろう。力無きものは去るしかない。それが、この訓練兵団の掟である。
「お前上手かったらしいじゃ無いか。何かアドバイスでもしてやらないのか?」ライナーがそう言ってフリーダを見る。
「いや、あれは根本的問題だ」とフリーダはそう素っ気なく答えた。あそこまで大きく体勢を崩しているとなると、もはや適正の有無だけではないように感じる。
そんな風に考えていると、教官の叱責が遠くから聞こえてきた。どうやら、エレンの有様を目にしてしまったらしい。
ライナーはほんのり苦笑いを浮かべると、違う話題を振り始めた。
「そう言えば、お前の名前聞いてなかったな」
「フリーダだ」
「フリーダ、ね。家名は?」
ライナーの問いかけにフリーダは逡巡する。
開拓地では、一応フリーダ・レンズと名乗っていた。戸籍の登録も、中央憲兵にはそれでお願いしてある。
そのため、普通にフリーダ・レンズと名乗ってもいいのだが、如何せん、クリスタとの血縁者だと思われるのが面倒だと感じた。今の二人の間柄を周りが見てどう思うのか。それを分からないほどフリーダも鈍くはない。
けれど、ここで嘘を言うのも後々面倒になるのは目に見えている。クリスタは人目を憚らず、きっとフリーダのことを「兄さん」と呼ぶだろう。兄妹というのが露呈するのは、結局のところ遅いか早いかの違いしかなかった。
「……レンズだ」
そのため、フリーダは正直に教えることにした。ここで出し渋って、変に勘ぐられるのは望むところではない。
「フリーダ・レンズか。いい名前だな。なんだか呼びやすい」
「そうか」
「フリーダはどうして訓練兵になったんだ?」
単純な質問だった。
大半の若者は世論に押されて訓練兵になる。生産者に回ることは腰抜けだと言われるからだ。
だが、フリーダの纏う雰囲気は、そんな屁っ放り腰の奴らとは違うと感じたのだろう。凍てつく空気と言えばいいだろうか、周りの奴らとは一線画しているように思えてならないのだ。
フリーダは一瞬だけライナーと目を合わせると、すぐに訓練場へと視線を投げる。
「やりたいことがある」
「やりたいこと? それはあれか、巨人を殺すことか」
「ああ」
巨人を殺すこと。それはフリーダがフリーダになった時から心に決めた事項である。
ただ、少年が殺したいのはエレンのような無垢の巨人どもではなかった。知性のない獣なぞ、少年からしてみればただの前戯に過ぎないのである。少年が殺したいのは、知性ある巨人。自分の愛した姉を殺し、その家族を弄んだあの男である。少年はあの男を、惨めに殺すことだけ頭の中で何度も何度も想像していた。
「お前、変わってるな」
「そうか?」
「ああ。大抵の人間は巨人を見て殺してやろうなんて思わん」
「そうか」
「俺も憲兵団になるためにここに志望した。間違っても調査兵団には入りたくないね」
ライナーがそこまで告げると、じっとフリーダの顔を見つめる。
フリーダも別に調査兵団に入ろうなどとは思っていないため、ライナーの意見に対して、どうこう言うつもりは無かった。そもそも、フリーダが殺したいのは巨人になれる人間である。その他には興味すら湧かなかった。
そこからはライナーと談笑した。どこから来たのか、好きな食べ物とかあるのか、訓練兵で可愛い子は見つけたか、と言った世間話が中心であった。同年代とあまり話したことのないフリーダからすれば、どれも目新しい話題ばかりだったが、元々そこまで喋るのが苦手でもないため難なく受け答えする。これも姉の教育のおかげなのだろうと、フリーダは密かに思いを馳せた。
会話に一段落ついた頃には、いつの間にか姿勢制御訓練が終わっていたらしく、周りにいた人は少なくなっていた。ふと空を見上げれば、青い色だったはずの空が黄金色に変色しつつある。
フリーダは自分が割り振られている武器庫の整理を思い出し、ライナーにそれを告げた。彼は「手伝おうか」と聞いてくれたが、フリーダはそれを断る事にする。武器庫の整理は重い荷物の移動があるので、筋肉を鍛えるのに丁度良かったからだ。
ひとまず、ライナーと別れ武器庫へと向かう事にしたフリーダ。ふと姿勢制御装置の方を見てみれば、未だ教官から認められていない訓練兵が何人か自主練に励んでいた。そこには当然、エレンがいる。
「まだだ、俺は巨人どもを駆逐するために、力を得なければいけねえ!こんなところで挫けてられねーんだよ!」
「気持ちは分かるけど、これ以上は危険だよ。何度か頭を打ち掛けているし、今日はもう休むべきだ……」
「エレン。頭の損傷は下手をすれば後遺症が残る。ここで無理をしてはいけない」
「うるせー! そんなことにビビってたら、出来るもんも出来なくなる! 俺は、
周りを気にせず大きな声で喋る三人組。フリーダはそれをじっと眺めていた。自分が無茶をするとき、ああ言う風に、いつも二人の妹と姉が宥めてくれていたのを思い出す。
とても懐かしい記憶。もう何十年も昔のように感じる。
少しの間考えた後、エレンの失敗具合を思い出しながら、フリーダはエレン達の方に寄る事にした。
「あ、フリーダ」
アルミンがフリーダの接近に気がついたのか、声をかけてくる。エレンともう一人近くにいる女も、その声でフリーダに気がついたのか、一斉にそちらへ視線が向けられた。
「よ、よう。何の用だ、フリーダ」
姿勢制御ができ無い事に焦りを感じているのか、エレンの声は妙に上ずっていた。目は大きく開き、唇を忙しなく震わせているところを見ると、心此処にあらずと言った有様なのが見て取れる。
フリーダはそんなエレンの様子に構う事なく、アルミンが握る取手を見つめた。
「アルミン。あげてくれ」
フリーダの申し出に困惑を見せるアルミンは逡巡した。「え、でも。まだエレンの準備が……」
それに続くように、隣で見ていた女もアルミンに同調する。「これ以上は危険。少し休んでからの方が良い」
「エレンの失敗している原因が分かるかもしれん。できれば時間をかけずに教えたい」
フリーダは二人の意見を一笑に付すと、エレンの方を見る。結局のところ、やるかやらないかを決めるのはエレン自身でしかない。エレンがやりたくないと言うのであれば、フリーダはそのまま武器庫に行くだけであった。
「いや、構わない。オレはいつでもいける。アルミン上げてくれ!」
覚悟を決めていたのか、エレンはアルミンに吠える。
アルミンもエレンの覚悟が伝わり決心がついたのか、気前よく「分かった」と言って取手を回し始めた。
女の方はあたふたした様子でそれを見守っているが、フリーダは注意深く、ある一点の場所を見つめる。
二、三回取手を回せば、エレンの足が地面から離れ体が持ち上がり始める。
徐々に、徐々に。上へ、上へ。
一番高いところまで持ち上げられた上体は、姿勢を綺麗に保てたかと思うと、何の拍子もなく前傾に回転した。
すぐさま、地面にぶつかりそうになったエレンの頭をフリーダが足でキャッチする。
「エレン大丈夫!?」
女が回転したエレンを心配する。
フリーダはエレンをそのままゆっくり地面へと下ろし、エレンから装備を外させると、ベルト部分を見つめた。
「ベルトの点検不備ではない、か」
そもそも、ただぶら下がるだけの訓練で、エレンの反応は異常であった。エレンの体つきから言えば、相当な運動音痴でもない限り、前転するなんてことは起こり得ないはずである。となれば、必然的に他の部分がエレンの足を引っ張っているとしか思えない。
そのため、ベルトの点検項目をもう一度見直してみたのだが、どうやらどこにも異常は見つからない。となれば……
「点検項目以外も見てみたか?」
フリーダは眼光を鋭くさせながらエレンに問うた。
「え? いや、指定されたところだけを確認したけど」
「なら、そこ以外も隈なく見た方が良い。もしかしたら、というのがあるかもしれん」
「っ、まさかベルトの破損が!?」
「可能性の話だ。まだ分からん」
フリーダはそう言って、エレンにベルトを押し付ける。さっきまでのやりとりを聞いていたアルミンや女も、こぞってエレンの持つベルトの点検を始めた。
それにしても可笑しな話だ、とフリーダは思う。
整備不良にしても、点検項目以外の場所が壊れるなどフリーダは聞いたことがない。もし本当にベルトのどこかが破損していたとすれば、それは偶発的にではなく、故意的に行われた細工だろう。
——誰が、なんのために……。
そんな言葉がフリーダの頭の中で羅列されるが、そこで思考を止める。
ケニーの教えのせいで、思考力は大分伸ばされたものの、如何せんどうでも良いような場面でもそれが発揮されてしまう。メリハリをつけるのが大事だ、とフリーダは空を見上げながら再度思い直した。
すると、どうやらアルミンがベルトの破損部分を見つけたらしい。「あっ」と声を漏らした彼は、そのまま小枝のような細い人差し指で、ベルトのある部分を指し示した。
「本当だ。これが原因だったのかな。でも、こんな所破損するなんて聞いたことが……」
アルミンの言うとおり、この部分は誰かが故意に壊さない限り、破損しない場所であった。そのため、装備点検の欄からも外れており、この部分を点検する人間などほとんどいない。
エレンは心底恨めしそうな目でベルトを見つめると、誰にも聞こえないくらいの大きさで小さく舌打ちをした。
「まじかよ、そうだとしたら、何回やってもうまくいく訳ねえじゃねーか」
エレンはそう愚痴を溢すと、早速、「体格の似た誰かからベルトを借りてくる、フリーダ、アルミン、ありがとな!」と言って走り出した。
実に愚直な彼らしいと言えば彼らしい行動なのだが、その周りにいる人間からしたら迷惑極まりない。エレンの妙なせっかちさに思わずアルミンと女がため息を吐くと、フリーダに向かって深々とお辞儀をする。フリーダも、そんな事を望んでいたわけではないため、手を振ってそのお辞儀をやめさせた。
二人がエレンを追っていくのを見届ける際、ふと牧場でかけっこをする自分とヒストリア、姉の姿を少年は思い出した。
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武器庫に着くと、どうやら先客がいたらしく一人の女が椅子に座っていた。そばかすが特徴的な女である。
本日の作業は自分一人が担当のはずなので、フリーダは彼女のことを無視して武器の整理を始めようとする。最初は軽いものから運ぼうと考えた。
「なあ、あんたクリスタの兄貴だって?」
突然、女がそんなことを尋ねてくる。
クリスタとの関係をフリーダはまだ誰にも言っていないはずなので、女はクリスタの友達かなにかだろうと決めつけた。
「……そうだ」
フリーダがそう返すと、女は眉毛をぴくりと上げ、驚いた顔をする。
「へぇ、結構すんなりと認めるじゃねーか。確かにクリスタが言ってた通りの寡黙さではあるけどな」
女の言う通り、フリーダは開拓地に言ってからというもの確かに寡黙な男になった。自分から喜んで喋らないし、あんまり誰かと笑いあったりはしない。けれど、尋ねられれば喋るし、別に話すことが嫌いというわけでもなかった。その証拠に、今日の訓練時はライナーと談笑する程度のコミュニケーション能力はまだ存在している。
フリーダが喋らないようにしているのは、この世でただ一人の妹だけである。
「私はユミルだ。お前の妹と結婚する者と思ってくれよ」
一部変なセリフが聞こえたが、フリーダは彼女の名前を聞いて、目を細める。
ユミルという名前にとても聞き覚えがあったからだ。
「お前はユミルなのか?」
「何だ? 私のことを知ってたのか?」
「いや、知らん。だが、その名前はすごく聞き覚えがある」
「……まあ、別に変な名前ではないだろ?」
ユミルがそう言うので、確かに珍しくはないかとフリーダは思う事にした。それに、聞き覚えがあったとしても、それはただの偶然だと考える。
「で、話があってきたんだよ。お前さ、クリスタのこと嫌いだろ?」
ユミルがからかうような顔をしながら言った。
フリーダはそれに動じる事なく、頷いてみせる。
「あれ、あっさり認めるのか」
「他人に隠す事でもない」
「ふーん。何でまた妹を嫌ってるんだ?」
先ほどのような戯けた顔ではなく、真剣な顔つきでユミルが聞いてくるので、フリーダもため息を吐きながら己の心中を吐露した。
「……昔から俺は、あいつのことが苦手だった」
「あぁ? それはどういう意味だよ」
「そのままの意味だ。あいつは俺のことを好いていたが、俺はそれに対してどう返せば良いのか分からなかった。正直、どう扱ってやれば良いのか、どうするのが正解なのか微塵も分からなかったんだ」
それは、フリーダが牧場に住んでいた時、妹に覚えていた感情である。
「別に嫌いじゃねーって言うなら、なんでクリスタに話してやらない」
「……」
そう問いかけられたものの、フリーダはそれ以上話せない。
姉のことを知られるわけにもいかないし、かと言って、それ以外にクリスタと話さない理由は特にない。そのためフリーダは、自然と己の口を閉じるしかできなかった。
「……おい、急に黙るなよ」
「すまん」
「すまんって、お前なぁ」
ユミルは面倒くさそうに頭を掻いた。素直にフリーダが謝ると思っていなかったのだろう。目の前の唐変木は、思ったよりも素直なところがあるらしい、とユミルは気付いてしまったのだ。
「なあ、本当にクリスタと話す気はないのか」
「ない」と即答する。フリーダは今後一生クリスタと話す気がない。勿論、彼女がどう生きようとそれを止めるつもりもない。嫌悪感を抱いているというよりも、彼はクリスタに対して興味関心が持てなくなった、というのが正しいのかもしれない。
「それでも兄貴かよ」
「……」
ユミルから批判の声が聞こえるが、それでもフリーダはやめるつもりがなかった。
最早、兄として、一人の男として、自身が行っている行為が最低なことは自覚している。でも、姉を忘れてしまった妹に、今更どのような感情を向けろというのか。
少年にとって、死してもなお姉は偉大な存在である。彼の基準は全て姉であり、それから逸脱してしまった妹のことなど、思慮の範囲外としか言いようがなかった。
「ああ、そうかい。じゃあ良い。精々、妹を苦しめるんだな」
そんな言葉だけを残して、ユミルは乱雑に、けれど静かな立ち振る舞いで武器庫を後にした。
ユミルが立ち去った後も、苦しめる、という言葉だけがフリーダの中で引っかかる。
少年にとってクリスタとは——いやヒストリアとは姉を知っていて当然の存在なのだ。自分の知る妹などもうこの世にいないのかもしれない。
——ああ、なるほどな。
と少年はそこで悟る。
この二年間、あの問いかけから今日に至るまでの間。自分の中でずっと突っかかっていたもの。
それは、
「あいつも殺されていたのか……」
フリーダはそう寂しげにつぶやいた。