ゆっくり読み流してってくだちい
こんな人生って幸せ?
第一章 紅魔郷編
一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である……。
これは、外の世界で日本資本主義の父と呼ばれて崇め祭られている渋沢栄一の言葉だ。
立派で有能な彼曰くこれが幸福の定義らしい。
詳しい意味はよくわからないが、なんでも自分の使命を楽しめってことだそうだ。
……やっぱりよくわからん。
兎も角こういった、幸せとは何たるかを説く名言ってのはこの銀河の星の数にも負けぬほどに多い。
それだけ人は、皆誰しもが自分だけの幸福観を持っている。
だがしかし、だ。
私は今ひとつその現状に良い感情を抱くことが出来ない。
『幸せって一体全体何ですか?』という古来から続く未解決の問題。
その命題の解は上にあげたようなものが数多だが、どれも私にはあまり納得できないものがほとんどだ。
前述した渋沢栄一は、己の天命を楽しみながら全うすることこそが幸福なのだと結論付けたそうだが、それに則って考えると私にとっての幸福は自殺という事になる。
何故か。
理由は単純だ。
道行く民衆にこう聞いたとする。
「私のことをどう思うか」と。
それを聞いた人間が千人いたら、千人ともが口を揃えて言うだろう。
アイツはだらしない人間だ、立派とは真逆の低俗が服を着て歩いたような奴だと。
私は勤勉じゃないし、働き者でもない。
日々、少しの小銭を稼いではショボい博打に注ぎ込むだけのろくでなし。
勝てば良い気になって賭けが荒くなり、負けりゃ取り返そうと熱くなって賭けが大きくなる。
そうして一文無しになったら賭場に唾を吐きすてて、捨てるゴミすら無いような侘しい芒屋根の下に帰っていく。
皆は私をこう呼んだ。
オケラのクズ女と。
怠惰で自堕落な生活。
有るのはしょぼい酒としょぼい博打の毎日。
そんなダメ女にさて一体どんな天命が降りてこようか。
私が神なら即刻死を命じ雷を落とすし、閻魔なら無限地獄特別コースへご案内だ。
宗教には詳しくないが、きっと神も仏も仏陀もイエスもさぞお怒りのことだろう。
とどのつまり、死ぬ事がもっとも私の人生における幸福とされてしまうのだ。
なるほど、死ねば幸せになれるのか。
あえて言ってやる。
ふざけんな。
幸せになるために死ねなんて倒錯的すぎる。
自殺で幸せになどなれるもんか。
死をもって人が幸せになれる事など何一つとしてないのだ。
畢竟するに宇宙が誕生してから、私が厠でやたらめったら頑固な大便と格闘しているこの瞬間まで、私の捻くれた考えを唸らせ幸福へと導いてくれる方程式の解は証明されていない。
おそらくその答えは虚数解……即ち、i(愛)なのだろう……。
閑話休題。
初めての主人公なので言ってみたかっただけだ。
不可解なことといえばもう一つ、人はなぜ辛い時にどうでもいい事を考えてしまうのかって事がある。
その例の一つを私は今リアルタイムで現体験しているのだ。
私は今、手入れの行き届いていない薄汚い便器に跨りながら、赤子を生むときの様な切羽詰まった剣幕で必死にソフロロジー法を繰り返している。
そうしていると、耐え難い悪感の最中に渋沢栄一とかマザーテレサとかが有難〜い説法をベラベラ語り出してくるのは何故なのだろうか。
当人たちも、糞をされながら思い出されては嫌に決まってるだろうに。
というか誰だってウンコとは共演NGを出すのだ。
同じ事務所所属のオシッコだって、何故かウンコと同時には出てこない。
似た様なものなのに決まって出演時間をずらしてくるのは、きっとオシッコ側のチンケな自尊心の所為だろう。
あるいは周りのスタッフが気を遣っているのかもしれない。ダウンタ○ンと、とんねる○のように。
もっとも、大と小が同時にでてしまったらそれはそれで気持ちが悪いが。
人間は基本的にシングルタスクなのだ。
不幸にも我々は個体と液体を同時に制御できるほどに、高度な進化をしていない。
一つに集中だ。
今で言うならば大きい方に全集中、ソフロロジーの呼吸、便秘でバリ硬である。
そうやってぐぬぬ、と長時間気張っていると、あの有名な雪だるまをつくる歌の気持ちがよくわかるような気がする。
今すぐにでも「どうして、出てこないの」と歌い出したいくらいだ。
私の場合はアナルだが。
そんな一途で純情な私の気持ちに、この頑固で偏屈な大便はやっとこさ返事をしてくれた。
天岩戸に立て篭もった天照大神だって最後には祭りの喧騒に釣られて出てくるぐらいなんだから、下賤な私の糞がでない道理もないってことだ。
苦労して産んだ我が子は可愛いというが、苦労して出した糞もこれまた愛着が湧いてくるものなのかも知れない。
自分の贔屓目も入っているだろうが、水飛沫を立てながら便器の水面に着水する様はさながらプールの飛び込み選手を感じさせるものだった。
私が審査員だったら文句なく零点を差し上げる程だ。
偏屈な雪の女王は、やっと私の元から旅立ってくれた。
やはり頑固な便秘にはソフロロジー法と、あなただけ見つめてると言いきれるくらい大きな幼馴染ヒロイン並みの愛が不可欠である。
私が子供を産んだこともないし、どちらかと言えばオシッコ推しなのはここだけの秘密である。
いやはや、ここまで延々と講釈を垂れてしまった。
まるで下痢のように。
食事中の方、特に本日の献立がカレーだという方、毎週火曜日にカレーを食べなければいけない海兵の方には本当に申し訳ない。
下品で低俗な話から始めてしまった。
しかしトイレだけに水に流して欲しいものだ。
えっ?つまらない事を言うなって?
つまらない方が好都合ではないか。
だってトイレがつまったら困ってしまうでしょ?
くだらなくたっていいんだ。
腹が下ると辛いでしょ?
そういうことさ。
さて、尻を拭くためのちり紙は一回四寸までと決まっているので、なるべく綺麗に拭き取れるようにもっとも効率の良い吹き方を意識しないといけない。
厠の個室の壁に貼ってある忌々しい貼り紙。
『ちり紙は四寸まで』
これがまた厄介なのだ。
健康なバナナ型が出た時には無事に四寸で事足りるのだが、始末の悪いのは半分液体になっているのが出た時だ。
すべからくこの世界の資源不足を嘆くことになる。
幸いなことに今回は前者だったが、結構な割合でこのちり紙は四寸までという悪しき戒律を親の仇のごとく憎む事になってしまう。
私はソクラテスのように、無法も法だとは思えない。
したがって私は心の中で、いつかこの忌まわしい貼り紙で尻を拭いてやろうと決意している。
全くどこのどいつがこんな悪法を制定したのか。
煬帝もマリーアントワネットもビックリの暴君だ。
✳︎
ふう……。
厠から出ると、薄褐色の夕焼け空に燦然と輝く太陽が目に刺さるようなほどに眩しかった。
便意に耐えかねてここに駆け込む前にも視界には入っていたはずなのに、何故か入る前よりも何倍も美しく感じる。
きっと、厠の積み重なってこびりついた悪臭と滝のような腹の痛みの両方から解放されたからだろう。
良い爽快感だ……。
新鮮な外の空気は吸うたびに幸せを感じられるし、何処となく心も踊る。
なんとも良い気分だ。んっん〜、一つ歌でも歌いたい気分だ。
ここは一つ、私の十八番の津軽海峡冬景色でも……。
「おいそこの姉ちゃん!ちぃと面貸せやっ……!」
るーららー……そういや今日の晩ご飯は何にしようかな。
カレーは絶対に嫌だな。
視界の隅で強面のオッサンが何か叫んでいる。
どうせどこかの馬鹿が何かしたんだろう。
つくづくここらは騒ぎが絶えない。
「おい聞こえとるやろ!!お前やお前!!」
ったく、やかましい。疲れてんだから静かにしてくれ……くわばらくわばら……。
あ、今日は肉じゃがにしよう。
よし、そうと決まれば材料買って呑み屋へゴーだ。
自慢じゃないが私は全く自炊ができない。
だからいつも馴染みの酒屋へ行って材料を渡す。
そこで飯を作ってもらうのだ。
割高なのが玉に瑕だが、味は確かだ。
「おい!!聞こえてるやろ!!おい!!」
……マジでうるさい。
周りに私しかいないから良いものの……ん?
私だけ?
「……もしかして私に言ってます?」
「お前以外誰がおるんじゃ!」
うわマジか……私に言ってたのか。
こんな半グレヤー公の知り合いなんていないぞ。
「一体私に何の用ですか?」
「自分でわかっとるやろ!とぼけてんちゃうぞコラ!」
「……貴方とはお付き合いできません!ごめんなさい」
「ちゃうわ!誰があんなくっさいウンコした女に惚れるんじゃボケ!頭おかしいんとちゃうか!」
「失礼な人……じゃあ何なんですか。私も忙しいんですけど!」
「どこがじゃ!……まあええわ、お前そんなアホな事言ってられる余裕ないど」
「……え?」
「え?やあらへんがな」
「……ぬ?」
「ぬ?ともちゃうねん」
「じゃあなんですか!」
「何キレとんねんボケ。これやからフーテンは嫌いなんじゃ」
「むむ、これでも家はあるのに」
「あーそうけ。どうでもえーわ」
「ほいで、要件は」
「なんや偉そうやの。自分の立場分かっとんのか……まあええわ。なにも変な事とちゃう。貸したもん返してもらいましょかっちゅう話や」
「……ゲームボーイ?」
「……もう無視することにするわ。わかるやろ?金や金、耳揃えて返して貰おか。」
「金!あぁ、金ね!わかりました……返しますとも。えー、いくらでしたっけ?」
「おぉえらい物分かりええやないけ。人間、素直が肝心やな。せやなぁ……とりあえず事務所来てもらおか」
「……そんなに寒いですか?今夏ですけど」
「大人が二人で立ち話。それが良くない。目立ちたないねん」
「あぁなるほど。えぇわかりました……返します。コッキリ返しますとも……また今度!」
「あっおいゴラァ!どこ行くんじゃおぉ゛い!」
私は逃げ出した!
……しかし回り込まれた!!
何処かへ連れて行かれた!!
私は目の前が真っ暗になった!!!!
✳︎
「……いきなり逃げるってどういうつもりやねんえぇコラ!」
「本当にずびばべん……」
決死の逃亡も虚しくあっさりと確保された私は、裏路地にある怪しげな建物に連れてこられた。
その際にボコボコに殴られたのは言うまでもない。
私の住む里は人里に住めない溢れ者の寄り集まったスラムのようなところゆえ、犯罪は横行する。
ここも外見こそ薄汚れた民家だが、内装から見るにこの金貸しヤクザどもの事務所だろう。
みるからに高級そうな革製のソファや南蛮陶器製の灰皿なんかの細かな備品から、高級感が漂ってくる。
貧乏素人の私の目からでもわかる程にはなかなかにハイセンスな内装である。
目の前に深ーく眉間に青筋を立てたヤクザのオッサンがいなかったらの話だが。
強面のおっさんは部屋の内装のアクセントとしては強すぎる。
アクセントというか、悪セントというか。
ドスの効いた喋り方からしてもう堅気じゃない。
何でこんなのが幅を利かせてるんだか。
全く、ヤクザは街のタンコブだ。
「確認や。名前は貴子、職業は妖怪退治屋、博打やら生活費やらのためにうちから金を借りたのがちょうど二年前。間違い無いな?」
「はい……間違いないです」
「これがお前の返済額の明細じゃ」
檜仕立ての高級そうな机に、不似合いな安っぽい一枚の紙が出される。
知らないうちに借金の額は、上質な着物を十着ほど仕立てられるくらいに膨れ上がっていたのであった。
金利もよく見ずに金を借りて、その事自体を忘れてほったらかしにしておく。
その結果、到底返せないような借金を背負う。
典型的な底辺債務者の陥る泥沼ではないか。
こうはならないでおこうと思っていたのに。
……しかし、目を逸らしていられる事態ではない。
状況は絶望的だ。
一月の金利だけでも私の一年の稼ぎをはるかに上回ってしまう。
そんな大金、明日の食い扶持さえ危うい私には絶対に返せない。
となると、やはりベタに内臓を売られるのか?それとも渇望入り混じれる夜の世界に体を売られるのか?
どっちにせよ命はない。
「とはいえや、お前みたいなゴミクズにはこんな大金、三回死んでも払えへんやろ……?」
ドス黒い笑いを浮かべながらそう切り出すヤクザ。
ヤクザにゴミクズと言われるのは心外だが、その反抗心を言葉にして口には出すことはできない。
というかそれどころではない。
「こんな大金とてもとても……」
「お前がもっと小綺麗なんやったら、風俗に売り飛ばしとったんやけど……お前みたいな薄汚い女をもらってくれる店なんかあらへんねんわ」
安堵するべきか、それとも憤怒するべきか。
自分の容姿を貶されたものの、それによって純潔を守れたわけなので、二律背反の感情がメラメラ湧き上がる。
「あの……私、一体どうなるんでしょうか……」
……もしかしたら、いやもしかしなくとも命の保証すら危うい。
そこの所の答えを求めて恐る恐る聴く私は、客観的に見ても弱いのだなぁと少し自嘲してしまう。
そんな弱者に向けてヤクザは徐に三本の指を立てた。
天津飯に目潰しをする時はあの指の形なのだろうか、とカスみたいにどうでも良いことをこの期に及んで考えてしまう自分が少し……いやかなり嫌いである。
「選択肢は三つある。一つは真面目に働いて少しづつ返済していく道。もう一つは内蔵やらを売る道」
「内臓……ですか」
「正直これら二つはお前には期待してへん。そもそも真面目に働くような奴は借金すっぽかしたりなんかせえへんし。というよりお前の職業な、妖怪退治屋とか言ってるけどお前の元に依頼なんかあらへんやろ」
「そっすね……」
こう言った屑に向けての不満が溜まっているのか、それとも元々ある程度のセリフが決まっているのか、ヤクザはベラベラと捲し立てる。
「内臓を売るにしても、お前だけに限らずフーテンの奴らの内臓なんかゴミや。ろくにええもん食ってへんから大して値打ちがあらへん。無論それを買いたがる奴もおらん」
なるほど、ヤクザだけあってスジは通っている。
確かに私らの内臓は使い物にならないだろう。
酒や煙草で潰れているからな。
牛のホルモンの方が何倍も貴重だ。
働くのもダメ、内臓を売るのもダメ。
選択肢が消されていく。
「じゃあ、最後の一つっていうのは……?」
「……これがお互いにとって最善の選択肢や」
急に勿体ぶるように二の句を遅くした弁舌が焦ったい。
さっさと言えや。
「最善……というと?」
「お前も妖怪退治屋の端くれやったら、聞いたことがある名前や」
「名前……?」
「吸血鬼や」
ヤクザはタバコを取り出して煙を吐き出す。
名前を切り出すだけでもよほど勇気がいたのだろう。
吸血鬼か……。
その名を聞いたことこそあれど、退治したという話はただの一つも聞いたことがない。
仮に退治したと嘘を吐いても、有り得ない事だと茶化されてすぐにバレるからだ。
退治の噂すら立たぬ絶対的かつ圧倒的な強者。
その吸血鬼がどうかしたのだろうか。
「実はつい最近、とある吸血鬼の館から裏の業界に一通の手紙が届いた」
タバコの煙と共に吐き出されたその言葉を聞いて私は耳を疑った。
この世界にも吸血鬼がいたということ。
そして、その内容に。
「その内容は、人材募集……つまり求人や。なにやら自分の館に仕える従者を集うとの事で」
「吸血鬼の館……!?」
私が驚くのも無理はない。
吸血鬼といえば殺戮の権化であり、人類永遠の畏怖の対象だ。
そんな怪物界の大御所が何のために人間を雇うのだろうか?
畜産するの間違いでは?
……私の脳裏に、裸の人間が血みどろの檻の中で餌を貪っている光景が浮かんだ。
「その募集要項がまさにおあつらえ向きやねん」
「……というと?」
「日本の文化と日本語に堪能であり、給仕が出来るものを求む。定員一名、報酬は相談にて確定……との事らしいんやわ」
「なるほど……わかりました。じゃあ行ってきます」
「まあな、お前が嫌がるのもわかる……ん?なんて?」
「じゃあ行ってきます!」
呆気に取られたという言葉を作った人は、多分こんな顔を見たんだろうと思う。
黄色い歯を見せてあんぐりと固まるヤクザ。
「……普通はもうちょい嫌がるもんやないんか?わかってんのか?吸血鬼やぞ?」
確かに普通……大多数の一般論でいくと、正体もわからぬ、しかも吸血鬼の館に仕えるなど真冬の南極で全裸になるようなもんだ。
自殺行為。
愚行、軽挙妄動。
何があってもまずしない。
ただ、私には少しそうはいかない特殊事情がある。
つまり、普通じゃない理由。
それを聴いた人のほとんどが、口を閉めれぬほど呆れるか笑うかのどちらかであろうが私にとっては人生を左右するほどの事柄だ。
それは後々明らかになるので今は置いておくが。
まぁそもそも、嫌がってやめさせてもらえるような甘い世界ではないだろう。
「具体的な段取りを教えてください」
「……あぁ、この紙に書いてある」
「ありがとうございます」
「十時に来いって書いてあるけど、昼やなくて夜の十時らしいから注意する事」
「つまり二十二時ですか?何で夜に」
「吸血鬼は夜行性やろ」
「あぁ、なるほど」
私が要項を上から下まで熟読していると、不意にヤクザが口を開けた。
頭をポリポリと掻いてバツが悪そうに。
「……ほんまは言うつもりなかったんやけどなぁ」
「え?」
「募集要項の一番下見てみぃ」
「一番下?えーこの物語はフィクションであり」
「そんな事書いとらんわ。ここじゃここ」
んー?なになに。
『重要 命を失っても構わないモノ』
………???
「見事に絶句しとるがな。呆気に取られてんで。綺麗に」
「どーゆーこっちゃ」
「そのまんまの意味やわな」
命を失っても構わないモノ?
それはつまり死を伴う仕事確定か?
……当然と言えば当然だが、文言に記されると俄然恐ろしい。
何で館仕事でオホーツクのマグロ漁船みたいな事言われなきゃいけないんだ。
蟹工船にでも乗せられるのか?
「これって一体……」
「俺も知らん。ほんまは黙っとくつもりやったけど乗り気の奴に黙っとくんは心の後味が悪いやろ」
心の後味ってあーたねぇ。ヤのつく自由業向いてないよ。
ごくせんみたいに寺子屋の教師でも目指してみればどうだい……。
「止めはせん。そう言うわけやから、死んできな」
これは……マジに選択を誤ったのではないだろうか。
そう思ってももう遅いのであった。
✳︎
あれが、紅魔館っ……!
濃紅一色に彩られた巨大な外壁……。
厳かに時を刻む剛大な時計塔……。
それは中世のヴェルサイユを思わせるものだった。
まるで私……いや、この世の全ての人間を拒むような邪悪と、誇り高き栄光ある高貴を纏っている。
かなり離れたここから見てもなお言葉を飲むほどの圧倒的な存在感だ。
やっと見つけることができた……。
杖をつきながら歩いてきたってのに脚がガタガタ笑ってる。
今までならば、ただ凄いなぁと畏怖で終われていたのにもう他人事では無くなった。
私はこれからあの悪魔の巣で働かなくてはいけない。
笑えもしない無様な借金のせいで。
……といっても、別に不本意では無かった。
頭がおかしくなったかと思われるだろうか。
私は妖怪退治屋だ。
頭では危険だって分かってるし、怖くないわけじゃない。
むしろ、次の一歩を出すことすらすくみそうになるくらい怖いさ。
でも、身を売り飛ばされてもいいかなって思ってた。
何故かって言われると、別に大した理由でも無いんだけどさ。
……私は退屈だった。
酔えもしない酒、うまくも無い飯、勝てない博打。
平穏とは無縁な、虐殺と危険に満ちた妖怪退治屋という生業……。
そんな退廃的な人生はもう味わい飽きた。
味のしないガムみたいな煩わしさ。
そんなものに塗れて長生きするなら、誰にも出来なかった事をなし得て激しく華々しく散りたい。
それがたとえ切ない線香花火のようなものだとしても。
そう思ったからこそ、この仕事にも臆さず就けるのだ。
紅魔館には、それはそれはきっと退屈の対義語みたいな生活がまっているんだろう。
たとえ死んだって、面白かったらそれでいい。
……この時私は、正直言って舐めていた。
退屈とは無縁な世界に胸を躍らせて、この世界に相応しい、まさに幻想を抱いていたんだ。
結論から言おう。
私はこの物語の最後に死ぬ。
死にかけるとかじゃなく、確かに命を落とす。
けどもこの時は呑気に口笛なんか吹いていた。これから私に降りかかる幾多の艱難辛苦を知る由もなく……。
湖上の紅魔館は夕日に照らされ、妖しく燦然とした輝きを放つ。
見つかったのは良いが、ちとまずいな……もう日が沈みかけてる。
面接は夜の十時からだそうで、夕方までには到着したかったのだが……。
夜になったら人の時は終わりだ。妖の世界へと色を変えていってしまう。
無論、急がねば!
そう思って第一歩目を踏み締めた時に、後ろから間の抜けた声が飛んでくる。
「ねーちょっと待ってー」
急に声をかけられ少々驚くが、こんなことは日常チャメシ事なので冷静に振り向く。
「……誰だアンタ」
「貴方は食べても良い人類?」
「ご生憎、食べて良いのはラーメン。私はただのか弱いウーメン」
「食べても良い麺類なのか」
「アンタ、アホだろ」
声が近づき辺りが急に暗くなったと思ったら、そこに赤いリボンをつけた少女がいた。
金髪で小柄……タッパは私の胸元ぐらいしかない。
しかし、感じる。ゾクゾクと感じてしまう。
人ならざるものの殺気。妖気。
間違いない。こいつは妖怪だ。
話した感じは少し抜けてるようだが、口ぶりからして人喰い妖怪だろう。
よりにもよってこんな所で人喰い妖怪に出会うとは……。
緊張で、筋肉が強ばるのがわかる。
グッと拳を握り込む。
私は曲がりなりにも妖怪退治屋をやっていたわけで、妖怪との戦いにおいてのセオリーもある程度は知っている。
妖怪と対峙した時の人間側の鉄則、それは先手必勝、見敵必殺である。
「夜に出歩く馬鹿な人間は喰われてもしょうがないのさ」
「まだ夕方だ。それに私は喰われない」
「問答無用っ!」
グッと腰を落とし、半身に構えを取る。
飛びついてきたな。よほど肉に飢えていると見た。
飢えてる奴らはいの一番に頭を狙う。
そこを決して焦らず見定めなければならない。
――来た!
直線的な軌道。
ヨダレを垂らし牙をむき出しで飛来する物体。
大口を開けて飛びかかる様は獣以外のなんでもない。
こういった輩への護身に、有効な策が一つある。
お見せしよう。
「いただきまぁ……ふがぁ!」
「どうした?さっさと喰えよ」
「ふ、ふひほははひはひほいへはほはー!」
妖怪は口を閉じれず、顔に驚愕の二文字を浮かべて遠のく。
「口の中に何を入れたのかーってか?大口開けてるから、鉄の棒を縦にぶち込んでつっかえにしたんだよ」
大口を開けて人を喰うような意地の汚い不届き者への対策は結構単純で、棒を突っ込んでやるだけだ。
簡単に言うが結構シビアで私は慣れたもんだからできたが、素人がやればまず失敗、即ち死ぬ。
使用した棒は、ここにくるまで付いていた杖の先端だ。
あの杖には護身用の意味もあった。
「ふ、ふひはほひへはひー!(口が閉じれないー)」
「取れないだろ?先端が斜めになっててね、取ろうとすると口をより開けなくてはいけないようになってる」
「ふ、ふー!」
「しかし運が良かったな。私はもう妖怪退治屋を引退したから無闇に妖怪を倒したりはしないよ」
「ほーはほはー!」
「ちょうどいい。少し急いでるんだ。あそこの館まで運んでいってくれないか?」
「ふぇ?」
「その棒、私なら簡単に取れるし、連れてってくれたら取ってあげるわよ?」
「は、はへふはー!(な、舐めるなー!)」
飢えで頭が回らないのか妖怪としての本能か、爪を立てて殴りかかってきた。
これくらいは慣れっこなので軽ーくいなし、さらに棒を奥へと突っ込む。
顎が外れ、顎関節の軋む音と手応えがよーく伝わる。
「三度目は頼まないわよ?」
少女は涙目でコクリと頷いた。
……おー!流石に妖怪は早いなぁ!
背中に乗せてもらってる感じは、上質な飛脚って感じか?
最初からその辺の雑魚妖怪をぶん殴って運ばせれば良かったな。
まぁそんなのは気質に合わないのでやらないが。
グングンと館が大きくなってくるのは爽快だ。
もう着いたじゃないか!
よいしょっと……。
「ふー!ふー!」
少女が自分の口を指差して息巻く。
棒を取れってことだろう。
「よしよし、そうそう慌てるな慌てるな、手元が狂う」
っとその前に……迂闊に取ったら喰われそうだし、一応両手を切り落としておくか。
妖怪だし、ものの数時間で治るからな。
少し我慢しておくれよ。
……ザクっとな。
「ふ?ふぎぃ!?ひぐぅ!!!」
右腕はこれでよし、と。
返り血がつかないようにしないと……ふぅ。
次は左腕か。
切れ味の悪いノコギリだ。
横引きでやってんのになかなかどうして切り落とせない。
すまんが我慢してくれよ。
ギコギコっとな。
「ぎゃあぁぁぁあぁあぁあぁ!!!」
よし、これで安心だ。
余談だが、了という漢字は子から腕を切り落とす様を書いているらしい。
妖怪とて腕がなければ何もできまい。
さっさも棒を取ってやろう。
「ほら、これで喋れるだろ?」
「痛いぃ………うぅ……グスッ」
「今度人を食う時は、夜中にコソコソやってる奴を狙うといい」
「うぅ……」
「じゃあな。さいなら」
「グスッ……うぅ」
「……」
「う……うぇぇぇえん」
「……だぁぁ!いつまでも泣くな!罪悪感で死にそうだ!ほら、飴ちゃんあげるから泣きやんで」
「う……うぅ……」
パクリと飴玉を咥えて、まだ少しぐずりながらその妖怪は飛び去っていった。
妖怪退治ってのはこれだから嫌なんだ。
✳︎
さてと……これが噂に名高い紅魔館か。
まさか私がその門を潜ることになろうとは、人生って奴は分からないもんだ。
紅魔館なんて、自分とは一生無縁のものだと思っていた。
……今だってにわかに信じられない。
屋敷というものに触れることすら初めての経験だった。
何と言ってもクソでかい。
塀の果てが遠すぎて霞んでいる。
辺りの閑静な景色からとは異質の存在感だ。
その景観は禍々しいの一言に尽きる。
血で塗られたような濃紅の壁は、悪魔の館の名の通りの禍々しさだ。
静かな湖畔の雰囲気とは一線をかくしている。
何とも近寄り難いが、ここが私の新しい働きどころになると思うと、不思議と足取りは弾み胸が躍るものだ。
新生活、初めの第一歩は静かに始まった。
門の前に誰かいる……おそらく門番だろう。
館の名前にふさわしく、深紅の髪をたなびながら俯いている。
立ち振る舞いでわかる……この門番は武人だ。
それも、格違いに腕の立つ。
見た目こそ筋の通った顔をした美しい女だが、悪魔の館に仕えるのだ。
人間などいとも簡単に殺めてみせるのだろう。
私の心の危険を知らせるブザーは……もう壊れてるから鳴っててもわからないな。
とりあえず少し間合いを取って話しかけよう。
荒気を立てないように、慎重に……。
「あのー、すいません」
「……グゥー」
「あのー?」
「……は!寝てません!寝てませんよ!」
「はい?」
「……え?」
「「………」」
新生活に、少し暗雲が立ち込めた。
「あの、私この紙をもらって……」
「あぁ!なるほど!働きに来たんですね?」
「あ、そうです」
「名乗り遅れました、紅魔館の門番をやっている紅美鈴と言うものです」
「あ、私は貴子って言います」
「貴子さんですね。それでは身体検査をするので、あちらの方へどうぞ」
美鈴は館の右の隅に立っている、少し安っぽい掘立て小屋を指さした。
「身体検査?」
「銀製のナイフとか、そう言う類のものを持っていないかの検査です。知っての通りお嬢様は吸血鬼ゆえに、弱点も多いので……」
「あぁ、なるほど。あそこですね?」
「あ、ちょっと待ってください!」
美鈴が急に大きな声をあげる。
腹から出てるのがよくわかるいい声だ。
「なんですか?」
「……煙草、持ってませんか?」
「え?煙草はダメなんですか?」
「いえ、少し頂けないですか?」
「あぁ、どうぞ。安物ですけど」
「ありがとうございます!」
「案内ありがとうございました」
「いえいえ」
軽く会釈をして美鈴の後を去る。
真っ赤で長い髪がとても艶やかだった。
妖怪ならば少なからず妖気が出ているもんだが、美鈴は恐ろしいほど妖気を抑えていた。
それはただ闇雲に妖気をばらまくよりも何倍も難しい。
その一事を取ってもかなりの手練れであることは明らかだ。
ゾッと背筋に冷たいものが走る。
怖さもあるが、魅力もある。
悪魔の館の門番にしては少し……いやかなり容姿が整っていた。
人当たりの良い妖怪だったな……。
門番は、社交的な性格が向いてるのだろうか。
美鈴と喋った感じでは、この館はそれほどおどおどしなくても大丈夫かもしれない。
……っと、身体検査はここか。
ノックしてみよう。
「すいませーん」
ドアが空いた。
そこにいたのは――。
「……どちら様ですか?」
「あ、この紙を見て、それで身体検査をしにきました」
「あぁ、就職希望者ですね」
「はい、そうです」
「お名前は?」
「貴子って言います」
「貴子さんですね。私は小悪魔って言います。よろしくお願いします」
美鈴とはうってかわって、小悪魔からは落ち着いた印象を受けた。
悪魔ならばやはり人を破滅に導くのだろうが、目の前の存在からは微塵も悪意を感じない。
それは悪魔としてどうなのだろうかとも思うが。
「小悪魔さんですね。よろしくお願いします」
「さんなんて付けなくても良いですよー。それじゃ身体検査させてもらいますね」
「お願いします」
「はい、それじゃとりあえず鞄をおいて、服を全部脱いでください」
「はいわかりました。えっと、鞄をおいて、服を全部脱いで……えぇ!?」
「どうかしましたか?」
「服を脱ぐんですか!?」
「あー、大丈夫ですよ、あっち向いときますから」
「そう言う問題ですかね……」
「すぐ終わりますから、ほらほら。凶器を体に隠している可能性もありますので」
「うぅ……」
小悪魔が少し事務的に私のいない方を向く。
見られてようがなかろうが関係なく、裸になることに羞恥心がある。
とりあえず全部脱いだが……このまま食べられたりしないよな?
「鞄の方には特に問題無いようですね……それじゃあ体の方はっと……」
「ヒィ!?ちょっと小悪魔さん!?なんか手つきがいやらしいんですけど!?」
「小悪魔でいいですってば。すぐ終わりますから我慢してください」
「ちょっとそこは……いやぁ!?」
〜♡♡♡〜
「………体の方も問題は無しっと」
うっうっ……もうお嫁に行けない……。
悪魔じゃなくて、淫魔に改名しろ……。
「それでは館の中にいる、メイド長の十六夜咲夜の元へ行ってください。面接やらは彼女がやってくれるので」
「え、面接あるんですか?」
「形だけの物なので肩肘張らなくて大丈夫ですよ」
面接か……。
何も意識せず喋るなら良いんだけど、そういう上手に喋る事を求められるのは少し苦手なんだよな。
「上手いこと喋れるかなぁ」
「頑張ってください。応援してますよ」
「ありがとうございます」
「多分今の時間なら咲夜さんは厨房にいると思います。もし中でわからないことがあったら、遠慮なく周りにいる者に聞いてくださいね」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます……」
「いえいえ、それでは」
「失礼します……」
なにか、身体検査なのに人間としての尊厳を無くした気がする。
小悪魔さんか。
悪魔っていう割にはえらく親切な人だ。
……それとえらくテクニシャンだった。
✳︎
さてと、咲夜って人の元に向かえばいいんだな。
中に入ろう。
巨人でも入れそうな門を開け、ズカズカと中へ入る。
その瞬間、全身の毛がよだち汗が滲む。
奥歯の方がガタガタ震えて、止められない。
これが、強者のプレッシャーなのかっ……。
思わずゴクリと固唾を飲み込む。
しかしここで足は止められない。
半分ヤケクソで、臆せず中へ突っ込んでいった。
中も広いなぁ……。
玄関の高さが、私が住んでいた家の屋根より高いってのは少し……いや結構悲しいもんだ。
さて、咲夜さんは厨房にいるとのことだ。
あ、肝心の厨房の場所を聞き忘れた……。
しまったなぁ。
周りを飛んでいる従業員らしき妖精は来客にも慣れているのか、私を意に介さずあーだこーだと言っていて何やら忙しそうだし、わざわざ呼び止めるのも悪いだろう。
どうしたものか……。
私が居心地悪く彷徨っていると、目の前に暇そうな薄紫色の髪の毛の少女がいた。
あぁ、丁度いい。
厨房の場所を教えてもらおう。
「あのー……すいません」
「……?」
少女は困惑と懐疑を混ぜたような顔をしていた。
子供の姿をしているが、間違いなく人間ではあるまいし、言葉は話せると思うのだが……。
そう思っていたら、少女はゆっくりと口を開いた。
「……Tu chi sei?」
「……へ?」
これは想定外だ。
✳︎
「あー……ドゥーユースピークジャパニーズ?」
これは昔、ドブ川の高架下に住む薄汚いオヤジに聞いた、西国の言葉。
飲んだくれのだらしねぇ奴だったが、私は不思議とそのおっさんが嫌いになれなかった。
そのオヤジに、言葉が通じない時はこれを言えと教わったんだ。
いつの世も、教養は身を助けるのだ。
……しかし少女はなんのこっちゃと言った感じで、首を捻った。
教養は身を助けてはくれなかった。
あのクソオヤジは役立たずだった。
そういえば、盗みを働いたかで捕まってたなぁ、あのオヤジ。
信じた私が馬鹿だった。
とはいえまさか日本語が通じないようなところだとは。
首を捻りたいのは私も一緒だ。
そうだ、美鈴や小悪魔同様に、あの人員募集の用紙を見せればわかってくれるかもしれない。
「……?」
「私こーいう者です」
通じてない日本語を話しながら紙を渡す。
「……!Tu es un serviteur!」
何かをわかってくれたそうだ。
その少女は徐に腕を上げて、小さな手の可愛い指で指パッチンを鳴らした。
……いや、厳密に言うと鳴らそうとしたが、掠ったような乾いた音がしただけであった。
何に対して指を鳴らしたのだろうかと思った瞬間……文字通り、その瞬間に目の前に銀髪の女が現れた。
そのメイド服を着た女……おそらく私より年下であろう女の子が言う。
「Voulez-vous m'appeler?」
「Donnez-moi une interview!」
少女が指さした先にいた私を、少し怪訝な目でメイドが見た。
人を指さすのは異国だとOKなのだろうか。
薄紫の髪の少女は何かはしゃいでいたが、その横の銀髪メイドは少し険しい顔をしていた。
どことなく、歓迎されてない雰囲気を感じたのは気のせいでないと思う。
「Ah~……コホン、あなたは奉公人ですか?」
銀髪のメイドが、聴き慣れた言語で喋ってくれた。
少し発音が拙いが、聞き取りに不自由はしない。
「はい。訳あってここで働く事になりました」
「わたしについてきてください」
返事も待たずに歩き出すメイド。
頭に地図でも入っているのか、だだっ広い館を迷いもせずに歩んでいく。
五分程度歩いただろうか。
ついたのは、少し小さめの部屋であった。
内装から見るに従業員の部屋であろう。
メイドは椅子を指さしたので、少し会釈して腰掛ける。
「えー、それじゃ面接を始めます。申し遅れました。私の名前は十六夜咲夜と言います。私の役職はメイド長です」
「貴子って言います。炊事と洗濯くらいならできます」
「貴子さんですね。前は仕事なにをしていましたか」
「一応、妖怪退治屋をやってました。ほぼ依頼無かったですけど」
「わかりました……それでは労働に当たってのいくつかの規則を説明します……」
私は無事採用となった。
二、三問の質問で面接は終わり、直ぐに働きについての説明へと変わった。
小悪魔の言う通り、本当に形だけの面接だ。
人材に困っているのかも知れない。
その後いくつかの説明を少し早口で聞かされた。
咲夜さん曰く、この館にはいくつかの決まりがあるそうだ。
例えば目上の人に会ったら挨拶とか起床時間とか、たまに開かれる朝礼の絶対参加とか、まあ特筆すべき物があるわけでもない。
どこにでもある程度だ。
次に、服を渡された。
白と黒を基調としたフリル付きのエドワーディアン……要するにメイド服だ。
……私も若くないから、少しこれを着るのは気後れするが、まあそのうち慣れるだろう。
その他生活をする部屋とか、絶対に入ってはいけない部屋とかの説明をされた。
ちなみに私が最初に声をかけた小さな女の子は、なんとこの館の主人だったそうだ。
そのことを少し嫌味風に咲夜に指摘された。
どうやら、いきなりにも命の危機MAXだったそうだ。
機嫌の良い時で幸いだった。
「何か質問は?」
「一つだけいいですか?」
「どうぞ」
「咲夜さんは……というか、この館の人は日本語を喋らないんですか?」
「私たちはまだこっちにきてはやく、日本語は得意ではないです」
「じゃあ、求人票に書いてあった日本文化に堪能な奴ってのは……」
「この館の者に日本文化について教えること、それが当面のあなたの仕事です」
「日本文化……?」
紙にも書いてあった事だ。
おおよそ予想はつく。
日本語を喋れないような者が日本の文化なんて知ってるわけがない。
けどわからないのは……。
「なぜ、日本のことを知る必要があるのですか?」
「……すぐにわかることです。半分は暇つぶしですけど」
「暇つぶし……ですか」
すぐにわかる……今言う必要がないのか、それとも今は言えないのか。
少なくとも、それを知る術を私が持ち得ていないことは確かであった。
当面のところは、何も聞かず言う通りにしよう。
現在の時刻は夜の十一時。
人間の私には寝る時間だが、この妖怪館はこれから賑わっていく。
「明日の七時に朝礼がありますので、それまではこの館を見るなりしていてください」
そう言って咲夜は去っていった。
現れる時はまるで最初からそこにいたように、目の前の空間に急に現れた咲夜だが、出て行く時はノソノソと足を引きずった。
その小さな背中は、どことなく哀愁に満ちていた。
疲れてるんだろう。
目の下に濃いクマがあった。
咲夜は、どこか憂いを帯びた顔付きをしている。
少なくとも年頃の女子がしていい顔じゃない。
人生の折り返しを迎え酸いも甘いも知った中年がする顔だ。
人間でありながら妖怪に仕える事の負担とストレスは並大抵の事ではないのだろうな。
まぁ、私も同じ身空だが。
……ここが今日から私の部屋か。
デカイ。広い。
アンティーク調の洒落た部屋だ。
従業員用とは思えないふかふかベッドに遠慮なく体を沈めた。
ドッと体が重たくなる。
強張っていたのだろうか。
これだけ妖怪揃いの魔窟にいるんだから、体は反応してしまう。
でも心は別である。
やっぱりここが悪魔の館であり、人間はたちまちのうちに殺されてしまう場所だとは思えない。
まして、とても命を失う所には見えない。
時計を見れば、針は十一時を指していた。
明日の起床は七時らしいので、今夜はもう寝ることとする。
だらしなく全身を放り投げて、これからの事を考える。
しかし、横になってしまえば瞬く間に眠りに落ちる事は難くなかった……。
✳︎
「……さて、それじゃ日本文化を教えろとの事だったので、ささっと始めましょうか」
「Merci!」
この目の前で元気に挨拶をした少女はレミリア・スカーレットという名前で、この館の主人だそうだ。
咲夜曰く、早くに両親を亡くし、吸血鬼としては圧倒的に若い年齢にしてスカーレット家の当主の座についたらしい。
人間や悪魔、妖精など、さまざまな種族を垣根をつくらずに従えるそのカリスマは凄まじいそうだ。
また、力で従わされる者は少なく、あくまで絶大な崇信によって賊を統べているらしい。
若いのに立派な事だなぁと感心したが、よく考えたら私の二十倍くらいの年は重ねているのだから、若いと言うには少し長生きすぎる気もする。
長生きはすれど、この近辺に越してきたのは最近のことで(といっても十年は立っているらしい)長く欧州生活をしていたから日本語なんかはてんで話せないらしい。
メイド長こと咲夜は日常会話程度ならできるらしいが、それでもやっぱり拙い。
門番の紅美鈴さんが流暢に喋っていたのは、昔は日本に近い国に住む妖怪だったからだそうだ。
小悪魔さんは案外インテリらしく、日本語はもちろん日本の博打なんかも知っていた。
じゃあ小悪魔さんに教えて貰えば良かったのではとおもったが、悪魔の中のエリートである吸血鬼がただのペーペーの小悪魔に教えを乞う事は考えられないらしい。
じゃあ人間は良いのかとツッコミたくなったが、変なことを言うと職と命を失いそうなので押し黙った。
理由はわからんが、妖怪も色々大変なんだろう。
そんなこんなで、日本語を喋れる暇な人間……つまり私が日本語教育係に任命された。
給料は一年働いて借金返済できるくらい。
まずまず良心的だろう。
……表向きは。
これは私の推測だが、借金持ちを雇ったのは殺しても文句を言われないからではないだろうか。
仕事を果たさない無能な人間だったなら殺して明日の夕食の献立に乗せられる。
その際に帰る家があり、待ち侘びる家族がいる人間では都合が悪い。
だから私は、命懸けの職場であることを念頭に置いて働くことにしている。
しかし、だからといって特段臆病にはなれない。
妖怪退治屋の時からそうだが、こう言った仕事をしている奴は大抵命など惜しくない。
ふらふらと流れに身を任せて、死ぬ時は死ぬさと諦めを伴った達観をしている。
死なないようには頑張るが、死にたくないと言う気持ちは弱い。
だからこそ、天下の大妖怪の元で働けるのだ。
今日も、レミリアに日本語を教えることとしよう。
「それじゃまぁ簡単なことからはじめますか」
「je ferai de mon mieux」
日本語を理解できないって事は、多少言葉遣いが適当でもバレない。
上品でお淑やかな言葉など教えられない。
咲夜に汚い言葉は教えるなと釘を刺されたので、できる限り一般に近い会話感覚を教えられるようにしよう。
教え方にも色々だ。
カードに色々な絵を描いて、それの裏に日本語を書いたり……。
例えば、赤い果実の絵のカードの裏には「リンゴ」と書いてある。
物を教えることは簡単ではない。
だからそんな風にいろいろ工夫をしているのだ。
そして当然のことだが、私はフランス語など喋れない。
「それでは昨日の復習から……これは?」
「……ah〜、はなふだ、さいころ、おいちょかぶ?」
「だいぶ覚えられて来ましたね〜。じゃあこれは何でしょうか?」
「……てほんびき?」
「そうですそうです!だいぶ覚えられて来ましたねー」
「うふふふ」
可愛い。
お持ち帰りしたくなるほどにはかぁいい。
名誉のために言っておくと私は同性愛者でも小児愛者でもない。
ただ、我が子の成長を見守る母親のような微笑ましい愛を感じているだけだ。
目の前で無邪気に喜んでいるレミリアという少女。
人は彼女を悪魔と呼ぶ。
前述した通り、カリスマと名高いその立ち振る舞いに心酔する者も多いと聞く。
だが、私の抱いた印象はむしろ正反対だった。
この館に住む悪魔は少々抜けている所があるというか、端的にいうと少し幼い。
寝る時は絵本を読んでもらったり、野菜を絶対に食べなかったりエトセトラエトセトラ……。
カリスマってなんぞと少し悩んだ。
問題というか、不可解なのは咲夜達もそれらの行為を咎めるような気配がない事だ。
むしろ少し甘やかしすぎでは無いだろうかと心配になる。
メイドと言うよりかは保母さんのような印象を受ける。
要するに、レミリアのカリスマって……放って置けない庇護欲を掻き立てるこの幼さの事だったのだろうか。
悪魔に見染められた眷属とは、幼児を愛でたい母性に溢れた奴らの事なのかもしれない。
なかなかやるな。五百歳児。
さて、日本語を教えるだけが仕事ではない。
メイド仕事もさせてもらおうと思ったのだが……。
これ以上先は、鍋の中に入っているドスの効いた紫色の料理もどきと、粉々に割れ散らかした夥しい皿の破片の数々を見て察していただきたい……。
いや、練習はしてるんだよ。
元々包丁なんざ、妖怪の皮剥とかでしか使ったことない女子力(笑)なのに。
進展だってある。
妖精メイド達に笑われながらも必死に練習したお陰で、リンゴの皮むきはそこそこ出来るようにもなったし……指が三本ほど取れそうにはなったけど。
洗濯も生乾きしないようになってきたし……レミリアのベベを色落ちさして真っ白のワンピースにしちゃったけど。
掃除なんかは、一番熱心にやってると自負してるし……油拭きを先にしたせいで床の埃がカチカチに固まったけど。
ってさっきから心の中の私うるさい!
努力はしてるのだ。
ドゥーマイベスト、元々特別なオンリーワンだ。
そもそもこの館の仕事配分は、あまりにも歪だ。
詳しくは聞いてないが恐らく数百人はいるであろう妖精メイド。
しかし忙しそうにしているのは咲夜ただ一人であった。
メイド長という役職についている以上他の者とは違う働きをするのは分かるが、一人で何百枚の洗濯をして、何百人分の豪華な食事を作って、館中の掃除をして……。
やはりこんな館で仕事をする人間は命など惜しくないのだろうか。
そこに少しの力助けもできない自分が全くもって恨めしい。
まぁ、元々私の家事能力なんかに元々そこまで期待なんかしてなかっただろうし、気長に頑張っていこう。
✳︎
あー……憂鬱だ。
今、やっと最近覚えたリンゴの皮むき技術を嫌と言うほど存分に発揮させられている。
リンゴの皮むきを五時間くらいぶっ通しでやらされていると、リンゴと自分の手の境目がわからなくなってくるし、しかもボーッとしていたら絶対に指を切るから集中しないといけない。
大変だ あぁ大変だ 大変だ
ところで諸君。
語学の教師は、その仕事柄最低でも二つの言語を会得している必要性があることは明白だ。
ところが、私がフランス語などズブのオケラであることもまた当の然なのだ。
つまり、日本のことを教えろと言われてもそもそも私がフランス語を喋れないじゃねーかって言う問題があったのだが、これまた不思議な事というか、何というか。
聞くと、この館にはどうやらパチュリーという凄腕の魔法使いがいたそうで、その魔法使いが私に言語の壁を乗り越える魔法をかけてくれたそうだ。
よって、先ほどのレミリアの放った
「Merci!」
という発言も私の耳では、
「よろしくお願いするわ!」
と聞こえているわけだ。
私は今バイリンガルどころか、ありとあらゆる言語を操ることができるらしい。
呪文の効果範囲の関係上、館の中にいる時に限定されるが。
しかし流石は魔術というべきかその効果は絶大だ。
レミリアのフランス語だけでなく、試してみたところ美鈴の中国語や、なんと小悪魔の話す悪魔語なんてものも聞き取ることができた。
ドラえもんの翻訳こんにゃくを食べたらこんな感じなんだろう。
他の言語で聴こえているはずなのに、脳がキチンと意味を理解してくれる。
話す時も、日本語のようにスラスラと喋れる。
そんな便利魔法があるなら、レミリアにもその魔法をかければ済むじゃんとか思っちゃったそこの君。
残念だが明日にでも失恋するよ。
私達もそんな事は百も承知の上だ。
要は小悪魔の時と同様に、これまた友人の手を借りることはプライドなんかのお許しが出ないそうだ。
そもそも日本語を教わっている事すら、極秘裏に行われている事。
だから私も表面上はただの役立たず人間穀潰しメイドだし、この裏プロジェクトの事情を知っているものは限定されている。
……と、レミリアや咲夜は思っているそうだが、この前ここでジャガイモの皮むきをしていたら妖精メイドにコソッと「私達にも日本の事教えてよ」と言われた。
思いっきりバレてるじゃねぇか。
ザクッ……。
あ、指が……いっでぇぇええ!
✳︎
……うぅん、今日はいい天気だ。
お日様はご機嫌だし、朗らかな日差しが優しく降り注ぐ。
こんな日にはやっぱりゆっくり居眠りでもしたいものですが、私の仕事はご存知の通り門番。
門を守るという重大なの仕事中に居眠りなど、主人であるレミリア嬢への不忠義に他ならない。
だからこそバレないようにする必要があるのですが、今日はその必要は無さそうです。
この前ウチに雇われた貴子という人間が後輩門番としてあてがわれましたから。
見た感じ弱そうってわけでもなさそうですし、門番としての仕事は彼女に任して私はゆっくりと眠る事としましょう……。
しかしまぁ、形上は仕事を押し付ける事にもなりますから、一声もかけずに詰所に戻るのは良くないですよね。
という事で軽く挨拶くらいはしておきますか。
「お疲れ様です。新人さん」
「お疲れ様です」
「貴子さん……でしたよね?」
「覚えてて頂いてるなんて恐縮です」
「そんな堅くならなくてもいいですよ〜。立場は同じなんですから」
「生意気な口を叩くと食べられそうで」
「そうですねぇ……先月は三人くらいでしたか」
「私、結構味の評判いいもんですから」
「結構味にはうるさい方ですよ?私」
「美鈴さんにとっては吃でも私にとっては死ですから」
「なるほど。一本取られましたねぇ」
へぇ。そこそこ口の周る人間だ。
寝るのもいいが、たまには人間と話すのもいい暇つぶしかも知れませんね。
なんで門番にまわされたかは知りませんが話は通じそうですし、退屈しのぎにはなるでしょう。
ここに酒やツマミなんかがあってくれれば最高なんですがねぇ……。
「貴子さんはなんで紅魔館に来たんですか?」
「いやー、恥ずかしながら……借金の返済のためにでして」
「借金ですか?」
「なにせ学も品もない薄汚れた女ですから、身売りをしても買い手がいるわけ無いそうで」
「それで悪魔の館に売られてしまったと」
「思ってたよりは良いところですよ。ここ」
「それはそうですけど……それに何故門番にまわされたんです?」
「それが……いわゆる魂の料理って奴を作ったら、咲夜さんが味見をした瞬間にぶっ倒れてしまって……」
「それで館の中から追い出されたと」
「そんなところです」
私はこの人間を……貴子を、口の周る人間だと今さっき評したが……実はただの馬鹿ではないだろうか。
この人間はここが悪魔の館だと本当に理解しているのか?
聞けばレミリア嬢に教えを垂れているだの、メイド仕事で迷惑しかかけてないだの、妖精メイド達に博打を教えて風紀を乱しただの……噂に困らない人間だったが。
何も恐れず、堂々と、滑稽なほど自分らしく生きている。
もしかすると人間の持つ、命の惜しさを持ち合わせていないのかも知れない。
私はそうやって死んでいった者を数えきれぬほど見てきた。
そういう奴のことを、馬鹿っていうんだ。
けど、私はそう言った馬鹿が嫌いじゃない。
少なくとも、しばらくは退屈し無さそうだ。
「……暇ですねぇ」
貴子が飛車を進める。
「暇で何よりじゃないですか。門番が忙しい時なんてろくな時じゃないですよ」
私はそれを金で受けた。
「この館に攻めてくる馬鹿な妖怪なんているんですか?」
「そりゃあたまーに居ますよ……年に一回くらい」
「年に一回!?」
「平和な時代ですよ。本当に平和な時代です」
「妖怪の時間感覚にはついていけません……あ、王手です」
「参りましたねぇ」
「まだ詰んでないですよ?ほらここ」
「違いますよ……どうやら、今日は年に一回の日のようです」
この館に近づいてくる奴がいる。
気を張り巡らせているからわかる。
貴子も遅れながら気づいたそうで、顔が青ざめていた。
私からすれば所詮は雑魚の妖怪。
特別ヤバい奴が来たわけではない。
……問題はその数だ。
あまりにも多かった。
「敵襲です。敵は……二百ほど!」
「正確には、百九十六匹です」
どうやら徒党を組んで合戦を仕掛けるつもりらしい。
……面白い。
最近、運動不足で節々が硬くなってたところですからね。
「どうやら、大客御一行様ご来館です」
「……そうみたいですね」
「私が迎え撃つので門の後ろに隠れててください」
「私も戦えますよ!」
「貴方は肩書きこそ門番ですが、本当の仕事はそうじゃないんでしょう?」
「あの量を一人でなんて無茶ですよ!私も妖怪退治屋をやってたんで戦い方くらいは知ってます!」
「安心してください。私だけで十分ですから、それより『絶対に』門から出ないでください!」
「そんな……美鈴さん」
「これは指示です」
「……わかりました」
「いい子ですね」
貴子に門番の仕事をさせる事はできませんね……。
一匹一匹と比べれば、たしかに気の扱いからして貴子さんの方が上手です。
しかし、あの軍勢……せいぜい貴子一人で十匹が関の山か。
間違いなく骨も残さず喰らわれる。
けれど、それでもまだ危険とは言わないかもしれない。
貴子はなにやら、武器もたくさん仕込んでいるそうですから。
案外小細工なんかも含めれば、あの量でもいなすことぐらいならできるかもしれません。
あの雑魚妖怪達は危険には少し及ばない。
貴子さんを門のうちに入れた理由……。
本当に危険なのは……。
美鈴の戦闘は鬼気迫る物であった。
容赦や情けなど微塵もなし。
拳に当たる顔面の感触だけを楽しむ。
それは館の防衛よりも、大虐殺と言った方が正当かもしれない。
どちらが正義でどちらが悪かなど、そんなちっぽけな事は存在しない。
強い者が勝つ。
ただそれだけのごく自然な摂理がそこにあった。
全くもって、この館は奥が見えない。
すごいと思えばすごくないし、すごくないと思えばこうやって大妖怪の片鱗を垣間見せる。
人間の私にはわからない事だらけだが、たった一つ決めたことがある。
「ふぅ……一丁上がりですね」
「美鈴さん!」
「あ、ちょうど今終わりましたよ」
「美鈴さん!私に修行をつけてください!」
「……え?」
✳︎
美鈴の修行は日の下らない内から始まった。
門番の命を受けてから、私は門脇の詰所で寝泊まりしていた。
そこには美鈴もおり、時間交代制で門を守る事になっていた。
今は二人だからいいが、美鈴一人の時は一体どうしていたのだろうか。
まさか、不眠不休……?
とか考えていたら、ドタバタと足音が聞こえてきた。
「貴子さん!いつまで寝てるんですか!!」
中華鍋とお玉をカンカン鳴らしながら美鈴が部屋に入ってきて、無理矢理私を起こす。
カン高い金属音が寝ぼけた私の視界を揺らした。
「おはようございます……ってまだ明るいじゃないですか……」
「修行は早くからするのが相場ですよ!」
目を椎茸にしながら息巻く美鈴。
修行をつけてくれと頼んだ時から少し思っていたが、弟子ができてテンションが上がりすぎてはいないだろうか。
私ももちろん遊びで言ったわけではないが、流石に妖怪と同じ修行をしたら死んでしまうのでは?
その答えはすぐにわかるだろう。
軽い朝食を済まし、門の前へと赴いた。
「おはようございます!」
「……おはようございます」
「コラっ!シャキッとする!」
背中に強い衝撃が走る。
美鈴が背を叩いたのだ。
そうするとどういうわけか、背筋がピンと伸びた。
「はいもう一回!おはようございます!」
「……おはようございます!」
「よろしい!」
……こんな事を言いたかないが、私は若くない。
外の世界で言うと、アラサーとか言われる歳なんだとか。
自分的にはピチピチギャルだが、もう心身ともに着実に皺を刻んでいるのだ。
つまるところ……恥ずかしい!
早くから(紅魔館では昼夜逆転しているので昼の四時)起きて、大声で挨拶。
妖怪感覚で言うと美鈴はまだまだ若い子娘なのだろうが私はとっくに……これ以上はよそう。辛い。
それに、恥は捨てると決めた。
ここは悪魔の館だ。
人間の感覚で生きていてもしょうがない。
「それじゃまずは、軽くランニングをしましょう」
「どれくらい走るんですか?」
「そうですねぇ……ざっとこんなもんです」
美鈴がビシッと三本の指を立てる。
どうでも良いが、武闘家にしては綺麗な指だ。
「三……三里(約4.7km)ですか?」
「零が一つ足りませんよ」
「さ……三十里……」
「目標は三十分切りです!さぁ行きましょう!」
嬉々として話すその眼に偽りはないだろう。
だからこそ、性質が悪い……とほほほほ……。
✳︎
その後も数ヶ月に渡り美鈴の修行は続いた。
数ヶ月……本当によく死ななかった。
艱難辛苦、悪辣地獄の内容。
美鈴を、武の妖怪たらしめたる所以が痛烈に滲みる。
体に紐を括られ、その紐を引っ張られて強制的に走らされたり……だだっ広い館全ての窓拭き壁拭き床掃除もさせられた。
その際に着用する中華服はおっかなビックリの超合金製でバチくそに重たい。
体の十倍くらいの重さを背負って生活している様は海王星での修行さながらだ。
その後何度かの食事を挟みつつ瞑想、組み手、一万回の正拳突き……。
瞑想は、一本の蝋燭を立てそこに火を灯しながら行った。
この蝋燭は、どういうわけか精神の集中が乱れると鎮火してしまう代物らしい。
これをまず一時間灯すことから修行は始まった。
その瞑想を通じて私は東洋伝来の気を扱う技術……制気術を叩き込まれた。
制気獣の基本、それは大地に足を付けそこから全てを得ることだ。
周囲の状況を知ることができれば索敵は容易になり、相手の気を測れば力量を知れ、気を巧く拳に乗せられれば……攻撃の破壊力は大地を割る。
この制気術こそ美鈴の本尊……御金堂である。
以前の敵襲で美鈴が敵の数をぴたりと当てられたのも、この察気によるものらしい。
もっとも、この清流のように乱れやすい気というものを精巧に操るのは言うまでもなく非常に難儀だ。
ましてや戦闘の最中に気を練るのは果たしてどれほどの修練によるものなのか……。
先は途方もなく長く険しい。
気を収めると間髪入れずに組み手が始まる。
当初に比べれば格段に動きは洗練され、美鈴の動きを目で追い始めては来たが、それでも遅い。
私が一撃仕掛ける間に向こうから三発の返し技が飛んでくる。
それらを全て受け流しさらに一歩踏み込み間合いを狭めていく。
近づけば近づくほどに攻撃を喰らい易くなる中でどこまで間合いを無くせるかという修行だ。
今の限界は腕半分程度まで。
ちなみに美鈴が攻撃を流す側をやると、唇を奪われそうな距離まで接近される。
この壁を打ち破るには度胸も必要なのだろうか。
その後は正拳突き。
重い中華服が振り切れそうになるまでひたすら打ち、打ち。打ち続ける。
この修行の辛いところは回数による肉体的な負担ではなく、精神的な負担であった。
美鈴は何発打ったら終わりにするかと言うことを私に告げない。
何時間も打った後急に終わりを告げるのだ。
この苦しさがいつまで続くのか分からない不安。
それに耐えることが最も辛かった。
心を無にして、目の前に全細胞を集中する技術をそこで身につけた。
正拳突きが終わるとほどなくして、中国茶を淹れる時間になる。
中国茶というのはその名の通り中国の伝統的なパフォーマンスで、その内容は細長い注ぎ口を持つティーカップを華麗に扱い茶を注ぐというものだ。
あの注ぎ口が長い独特のティーカップを、軽やかに動かすのだがこれがずいぶん難しい。
中で茶葉が沈澱しないよう常に動かし続け、茶をこぼさぬよう繊細に扱う必要があるのだ。
その上で効率的に、かつ美しく……。
即ち、演舞に通づる物を学ばなければならない。
最初こそただのお湯になったり超特濃茶になったりと女子力皆無の己の不得手に苦労したが、最近は中々に腕前を上げたと思う。
まあ一日に千杯も二千杯も淹れてたらどんな俗物でも腕前を上げるだろう。
入れたお茶は全て私が飲まされるのだが、これも結構辛かった。
締めくくりは柔軟。
美鈴な私の体を、バキバキという体の悲鳴を聴きながらあらぬ角度へと曲げていく。
筋肉が断絶する半歩手前だ。
いっそ切れてくれた方が楽かもしれない。
結果として体は軟体のようになってはくれたが、もう二度とあの柔軟だけはやりたくないと今でも思っている。
そんなこんなで、私は修行に明け暮れた。
おぉ人間よ、生きてしまうとは情けない。
私はギャグ小説の主人公だから死なないが、これがシリアスだったら間違いなくシャーロックホームズのお世話になり、館は密使殺人のトリックの現場とされていただろう。
門番として、たまに紛れ込む妖怪だの妖精だのをいなしながら心技体を磨き上げていったおかげで歪だった腹筋は割れて、しなやかかつ強靭な肉体を得た。
少なくとも数ヶ月前の私とは格違いだろう。
体に流れゆく小川のせせらぎのような気の流転を、ハッキリと聞き取れる。
傲慢にさえ聞こえるがあえて言おう。
私は……強くなった!
そしてついに今日……とうとう私は、美鈴の唇を奪えるほどの間合いに到達したのだった……。
「ダージリンです。どうぞ」
「あぁ、ありがとう……うん、美味しいわ。また一つ腕を上げたね」
「お褒め預かり恐悦至極です」
「ところで咲夜……彼奴らは一体何をしているのかしら?」
「最近、貴子が美鈴と修行を始めたそうです」
「仕事しなさいよ……咲夜、顔が赤いわよ?大丈夫?」
「ご心配なさらず」
✳︎
「……いやはや恐れ入った!なかなかに筋が良いですねぇ。この短期間でここまで腕を上げるとは!」
「いやいや、美鈴さんの教えが良いんですよほほ」
「嬉しいことを言ってくれますねぇへへ」
ニコニコと笑いながらお互いを褒め合う。
これは奇怪な儀式でも修行でもなく、ただの日常の一部だ。
私はここ数ヶ月の修行で美鈴とかなり打ち解けた。
弟子と師匠の壁を、門番という仕事が超えてくれたのだ。
共に汗を流したなら、もうそこに絆はある。
やっぱり美鈴に教えを乞うて正解だった。
実は、美鈴は教え方が上手いのだ。
メニューこそ殺人的だが、その計算された鍛錬で得られる効果は絶大すぎる。
本当に強くなったと力の昂りを何度も何度も感じる。
しかしそれと同時に、まだまだ未熟であることをよく理解できるようになった。
そしてこんな屑の私にも、もっと高みに行きたいという向上心が芽生えた。
暗い曇天に光明が刺してきたし、明日に希望が持ててきた。
己を鍛えることが、ここまで素晴らしいとは思わなんだ。
私はここで後の人生に繋がる教訓を得る。
それは、幸せな時に限って不幸はやってくると言うことだ。
「いやー、やっぱりこの時の構えがですね……」
詰所で、私の淹れた中国茶を嗜みながら乙女トークよろしく戦闘術について語っていたときに、一匹の妖精メイドが血相を変えて飛んできた。
「美鈴さん!大変です!来てください!」
✳︎
「本当に不甲斐ないわ……ゴホッゴホッ!」
咲夜はベッドに横たわっていた。
あまりにも顔色が悪い。
元々血色のいい顔では無かったが、それよりもはるかに酷かった。
まるで生気の欠片も無いような青白い顔で一点だけ、頬が紅潮している。
妖精メイドがせっせと額の濡れたタオルを取り替えていた。
ここまで連れてきた妖精メイドが、泣きそうな声で病状を説明する。
「疲労から来る風邪を拗らせたみたいで……高熱があるんです……」
「少し失礼しますね」
そう言って美鈴が咲夜の手を優しく握った。
するとみるみるうちに、咲夜の顔から苦悶の色が薄まっていく。
「気を整えましたから、少し安静にして休んでいればすぐに良くなりますよ。しばらくは養生してください」
「そうもいかないわ……ゴホッ、私が抜けたら館の家事や洗濯はどうするのよ……」
吐血しそうなほどに枯れて乾いた咳をしながら咲夜がいう。
よっぽど疲れていたのか拗らせてしまったのか、ただの風邪とは思えない。
そんな状態で働く事は絶対に不可能だ。
下手をすれば命すら危ういだろう。
しかし、確かに咲夜がいなければこの館の生活は回らなくなってしまう。
本当に、全て任せっきりだったのだ。
どうするべきか……。
私が館の運営について頭から煙が出そうなくらい悩んでいると、美鈴が陰りもなく励ますように答えた。
「しばらくは、私が代理で指揮を取りますから、その点は安心してください……まずは自分の身ですよ」
「ゴホッゴホッ……迷惑をかけるわ……」
「いえいえ」
「……というわけなので、少しの間メイド長の職を代行させて戴きます」
どこからかメイド服を持ってきてそれを小脇に抱えた美鈴は、主人レミリアと喋っていた。
「咲夜は大丈夫なの?」
真っ先に咲夜のことを聞くあたり、カリスマ(おじょう)が伺える。
レミリアの声には心配の感情が多分に含まれていた。
咲夜のことをよっぽど気に病んでいるのだろう。
なるほど、カリスマだ。
「ひとまずは大丈夫ですが、仕事の割り当てはもう少し変えたほうがいいかもしれません」
「……そうね。あの子には色々任せすぎたわ」
「あと、久しぶりのメイド仕事なんで、粗相は多めに見てくださいね」
「……貴方がその服を着るのはいつぶりかしら?」
「咲夜さんがメイド長になってからは全く着てなかったものですから……サイズが少しキツくなっていて割とショックです」
「……美鈴」
「なんですか?お嬢様」
「……よろしく頼むわよ」
「なんなりと」
✳︎
私は……何者なの?
人智を超えた能力を持っている。
妖怪に育てられた……けど、妖怪じゃない。
私は……一体。
物心がついた時には、既にこの館に居た。
それより前の事は知らないし、美鈴達に聞いてもいつも誤魔化して教えてくれない。
それが少しだけ引っかかるが、別に対して自分の出自など気にしないしどうでもいい。
どこで生まれたかよりも、どう生きてきたかが大事だと教えられたからだ。
私は人間だ。
たった一つの点以外において、私は人間だ。
たった一つの点……それは私の力。
『時間を操る程度の能力』
昔から、時計を眺めるが好きだった。
カチッカチッと、一定のリズムを乱す事なく刻む秒針の音がたまらなく好きだった。
ある日、私の身体にある異変が起きた。
体はおろか、心すら病んでいないのに。
いつも通りの時間に目覚めたと思ったら、時刻はまだ五時前を指していた。
きちんといつも通り寝たはずなのに……。
不思議に思いながら、また飽きもせず時計を眺めていた。
その時はまだ、違和感など無かった。
ただ、いつもより時計の針の進みが少しだけ遅く感じた。
その次の日、また私は早くに覚醒した。
いつも通りのはずなのに……なのに時計を見ると、針は四時前を指していた。
カッチッ……カッチッ……。
ようやく気づいた。
遅い……時の進みが、遅すぎた。
慌てて窓の外を見ると、鳥が、ゆっくりと……ゆっくりと羽ばたいて宙を舞っていた。
スローモーションに動く世界は、どうにも不気味だ。
私は恐怖した。
隠れるように布団にくるまり、皆が目覚める時間になるまで、ゆっくり……ゆっくりと流れる時間をすごした。
体感で十五時間くらい、そうしてくるまっていた。
私はすぐさま館の頭脳であるパチュリー様に、この奇怪な出来事の一部始終を伝えた。
するとパチュリー様は少し驚いた後、大きめにため息をついて、
「咲夜……貴方には力があるわ。人間とは思えないほどの、強大な力が。それを、人は……呪いともいうわ」
と言った。
いつもは早口なパチュリー様が、その日はやたらと焦ったく喋っていた。
私の能力のせいだろう。
パチュリー様がいうには、私の中で目覚めた時間操作能力が暴走し、時間の流れを出鱈目にしてしまったそうだ。
それが深刻化すれば永遠に時が止まったり、あるいは加速度的に時が進み浦島効果に見舞われたりする恐れがあると。
私は当時メイド長をしていた美鈴に、修行を頼んだ。
お嬢様の意向とパチュリー様の口利きで、心身ともに鍛えれば能力を制御できるようになるとの事だった。
美鈴の修行はトンチキなものが多かった。
十秒きっかりで時計を止められるようにする修行とか、体内時計を正確にする訓練とか、その内容はどれも少しふざけているようで、どこか真面目な面もある。
まるで美鈴そのもののようだった。
そんな鍛錬をこなし、私は時の歯車を少しづつ掴み始めていた。
そしてある日、時と私が一つとなるのを感じた。
息を止めるように時を止め、歩みを進めるように時を進める。
それらがいとも容易く、まるで赤子の手を捻るように出来るようになった時、私は生まれて初めて笑った。
そして幾年か経ち、私はメイド長の座を頂いた。
いや、というよりなし崩しでその座になった。
美鈴が門番の仕事に行くと言ったのだ。
メイド長としての美鈴の働きは偉大で、従業員やお嬢様達からの信頼も厚かっただけにその引退発言は激震だった。
各方々から惜しまれ、メイド長を続けて欲しいとの声が大多数だった。
しかし何故か美鈴の決意は固く、結局はお嬢様が折れて美鈴は門番となった。
そして、二番目に仕事のできた私が繰り上がりでメイド長になったのであった。
メイド長としての日々は、とても辛いものだった。
美鈴の人徳によって言うことを聞いていた者も多く、若輩者の私の指示にしたがってくれる者は少なかった。
頼んだ仕事をしてくれず、走り回ったり遊び回ったり。
私は苦悩した。
美鈴に相談しようかと、何度も思った。
けれど出来なかった。
私を信頼し仕事を預けてくれた美鈴に無様な恰好は見せられなかった。
頼まれた仕事を出来なかったら、私の指示を聞かない妖精メイドと同じだとも思った。
だから私は、自分の能力を使って館の全ての仕事を自分でこなした。
自分一人でやればいいだけのことなのだから。
言うことを聞いてくれなくたって構わない。
そうやって、一日に七十二時間は働いていただろうか。
人間の体は軟弱だった。
私の身は次第に壊れていき、食欲は失せ、どんどんと痩身になっていった。
私はまた笑えなくなっていた。
でも全てが上手くいかない訳じゃ無かった。
一人で働く私に心を開いてくれたのか、何人かの妖精メイドが私と働いてくれるようになった。
ある日、朝の洗濯をしようと洗濯場に向かった時、何人かの妖精メイド達が仕事をしてくれていたのだ。
その時に見せられた笑顔は、私の心に巣食うドス黒い岩塊を簡単に打ち砕いてくれた。
そうして、私は不恰好ながらもメイド長として仕事を全う出来ていた。
けれど、やはり無理をすれば身体に返ってくる。
結局、人間の体は軟弱だった。
幾年分の疲労が、私の体から立ち上がる力すらをも奪っていった。
そうして、今高熱を出し寝込んでいるザマだ。
「……っ!!」
なんて……不甲斐ないのだろうか。
情けなすぎて、溢れる涙が止められない。
震える体を抑えられない。
私は何も出来なかった。
美鈴から受け継いだメイド仕事一つ満足にこなせない無能だ。
生きる価値のない化け物だ。
育ててもらった恩に報いることすら出来ない最低の生き物だ……。
どうして、上手くいかないのだろうか。
しばらくの嗚咽。
そして、咲夜は思い悩む。
彼女の心に、得体の知れぬ黒い芽が出た……。
最後主人公死にます