日本の七十二節気における大暑の一つです。
前回の異変から数ヶ月、森の中を歩く貴子から物語は始まります。
大雨時行
恥の多い生涯を送って来ました。
桜もぽろぽろと散ってきて、一抹の寂しさを覚え始めたとある日の事。
私は、鬱蒼とした森の中をただひたすらに歩いていた。
木漏れ日は時折私のことを照らし、明るいはずの光はより一層私の孤独を際立てた。
風が吹くたびに、樹木が揺れてわしゃわしゃと不安になる音を立てる。
道とも言えないような狭い木と木の隙間を縫うように足を動かすが、それもただただ虚しいだけだった。
なぜなら私は、目的地を持っていないからだ。
何処に行こうと言うわけでもなく、ただ屍のように、歩き、歩き、歩く。
何故私はこんな獣道を歩いているんだ?
事の発端は、レミリアから言われたある一言であった。
「貴子。貴方もう出て行っていいわよ」
何気なく、たわいもない会話のように放たれた言葉。
その言葉は別れを告げる発端。
終わりの始まり。
しばらくの間、私はどんなに間抜けな面をしてた事だろうか。
そうやって短く結論だけを言ったレミリアに、隣で座っていたパチュリーが補足をつけた。
「貴方は分かってないだろうけれど、その肉体はまだまだ貴方に馴染んでいないの。長生きしたいなら館の中ばかりに居るのではなく、外に出て体を動かしてきなさい」
本を読む片手間に滔滔とパチュリーは述べた。
パチュリーもレミリアも悪意がある訳ではない。
私を厄介者として追い出そうとしてる訳では無いのだ。
むしろ、私の体の事を気遣ってくれているからこその退館命令なのだ。
それをわかっているからこそ、私には何も言い返す事が出来なかった。
そこからの記憶は曖昧だ。
飲みすぎた次の日みたいに、景色が混乱している。
気がつけば、私は少ない荷物を纏めて、メイドやらから餞別の品をいくつかもらい、館を後にしていた。
去り際に咲夜が、
「今日までご苦労様」
と言ってくる。
本音を言えば。明日からもご苦労したかった。
いつまでも、覚めない夢を見ていたかった。
あろう事が美鈴まで、
「寂しくなりますねぇ……」
と私の手を強く握りしめながら溢していたのだ。
そんな事を言われてはまるで今生の別れではないか。
もう帰ってこなくても良いと言う事を、理解させられる。
せめてもの救いは、美鈴が目に涙を浮かべていてくれた事だろうか。
そういう訳で、急遽館から外に出てきた。
無論、いく宛など無い。
元々住んでいた家に戻ろうにも、あの家は館に行く際にさっさと売っ払ってしまったのだ。
勿論白玉楼には行けない。
幽々子は私を守る為にこの世へと戻したのだから。
そもそも行き方がわからないし。
現状、前方行き止まり後方行き止まり。
つまり八方塞がりなのだ。
パチュリーは、私の体が馴染んでいないと言っていたが、どうにも私にはまるでその感覚がない。
なんなら、死ぬ前よりもイキイキしてる気さえする。
どんなに飛び跳ねても、走り抜けても、体力は翳りを見せないのだ。
どういうカラクリで木っ端微塵に爆散したこの体が復活したのかは分からないが、間違いなく死ぬ前より健康体で複製されている。
それなのに馴染んでいないとは、一体全体どう言う事だ。
馴染みまくっているではないか。
また、パチュリーは外に出れば馴染むとも言った。
日光の下で体を動かせと言う意味だろうか。
そうだとすると、館の中ですでに人間の域を超えて動いていたのだが。
少なくとも運動不足を責められるような生活はしていない。
日光、と言うのがキーワードなのか。
パチュリーは太陽に当たると言う事を強調していた。
もしかすると、日光から出る波長のような物を浴びないといけないのかも知れない。
……そうだとしても、出ていかなくたって――
そこまで考えて、私は自分がどうしようもない思考の袋小路に陥っている事を悟った。
いつかはこうなる。
いつか出て行かなければならない時が来ると言うのは、私だって理解していた事だ。
ただ、たった一つ。
最後の贅沢を言わせてもらえるなら、別れの理由は納得のいくものであって欲しかった。
……フランも、少しぐらい止めてくれたって良かったのに。
去り際、あろうことか顔すら見せてくれなかった。
もしかして……私フランに嫌われちゃったのか。
確かに嫌われても……納得のいく行動はしたけど。
いや、そうなるとフランだけじゃない。
下手をすれば館の全員から総スカンを喰らっていたのかもしれない。
優しく振る舞ってくれた美鈴や咲夜がお人好しなだけで、内心は疎ましがられていたのかも知れない。
上手く馴染んで無いってのはそう言う意味だったのか?
客観的に見れば私は周りと上手く馴染めて無かったのだろうか。
……そんな事を言っても、今更わかりようが無いんだよな。
ともかく、事実上私は本日限りでクビって事になる。
それだけがれっきとした確かな事。
あーだこーだと未練を垂れたって気分は良くならない。
別れ際に、湿っぽいのは慣れないからな。
さらだば、紅魔館。
……やっぱり一人はさみしい枯草。
そんな訳で、フラフラと行く宛もないのに歩き続けるのだ。
まるで鉛のように軋む体を、精一杯踏ん張って。
これからどうするか。
それの一事が最も懸念すべき事柄だ。
歩いたって良い答えが出る訳でもないが、ともかく進む。
そうすると、森の中で少し開けた所に出た。
日光が遮られる事なく差し込んでいて、土ではなく柔らかい草のカーペットが敷かれている。
久しぶりの直射日光が体に染み込んでいく。
同時に、どっと膝から疲れが噴き出してきた。
「一休みするか」
「一生休ませてやるわ!」
木に持たれて座ろうとしたら、後ろから喧しい声が飛んできた。
幼なげで、エネルギーに満ち溢れた声色。
「……妖精か」
「ここであったが百年目!死ねい!」
振り返って声の出所を見やると、そこには妖精がいた。
見たまんま冷たい印象を感じる青を基調とした配色の妖精。
私の方を指差し大声で前口上を述べている。
そして、もう一匹。
緑の髪をぽっちりで止めている大人しそうな顔。
まるで鬼でも見たかのような必死の形相で青い方の服の裾を掴んでいる。
妖精は二匹いた。
これは……かなり面倒な事になった。
できれば軽くあしらいたい。
「人を殺すときは名を名乗れ」
「アタイの名前はチルノ!そして!」
「だ、大妖精です」
ハキハキと喋るうるさい方に、無理やり前に出されてオドオドと自己紹介を始める緑。
その一幕で、二匹の関係性が窺える。
普通は、これから殺す相手に名前など名乗らないが、そんな事に気づける奴はそもそも人を殺したりはしないだろう。
それに、チルノと大妖精か。
私もどこかで聞いた事がある名前だ。
確かこの前、咲夜が笑いながら対処法を教えてくれてたような。
薄らとした記憶だが、咲夜曰くチルノって妖精は少し頭が足りていないようで、わざわざ相手取るまでも無いと。
そう言ってた気がする。
馬鹿は嫌いじゃないが、喧嘩を売られたら話は別だ。
「よしチルノ。私を殺したくばこの問題に答えろ」
「な、なんだって!?」
「三尺の鎖に虎が繋がれていた。そいつは、一体どれだけの草を食える?」
「え、えーっと」
私に言われるなりすぐにうずくまって指で何かを計算し始めるチルノ。
どうやら噂に違わず筋金入りのトンチキらしい。
かかったなアホが!
青い髪に、どんどん赤くなっていく顔。
計算ではこの問題の答えは出ないと言うのに。
一心不乱で計算に夢中となっているチルノ、その横で「頑張れチルノちゃん!」と応援している大妖精。
どうやら策はピタリと命中し、私から意識が外されたようなのでこの間にさよならさせてもらおう。
三十六計逃げるに如かずってな。
そうしてまた馬鹿のひとつ覚えみたいに何処かへ向かい歩き続ける。
すると、ふと差し込んでいた日光が無いことに気がついた。
気がつかなかったが、辺りが薄暗い。
まだ火が沈むには早い時間なはずなのだが。
空を見ると、薄灰色の雲が立ち込めていた。
もうじき、雨が降りそうだ。
どこか、雨宿りをする場所を探さないと。
ずっと、歩き続けた果てに私はある平地に出た。
まるで境界が引かれているかのように、そこから先がまるで異世界であるかのようにくっきりと開けた場所だった。
超然とした空気が漂っている。
それまでの鬱蒼とした雰囲気が、まるで干潮のように引いて行った。
穏やかな雰囲気の中をすうっと爽やかな風が吹き抜け、私の髪をふわりと揺らす。
その風に乗って、どこからか上品な花の香りが鼻先をくすぐった。
ぼうっとしながら顔を向ける。
そこにあったのは、辺り一面に咲く向日葵の花であった。
花たちは、一つの方向をむきただひたすらに咲いている。
太陽の恵みをこれでもかと花に乗せて、この灰色の世界を彩っている。
燦然と輝く黄金色の大地に、私は目を奪われて動く事が出来なかった。
なんて、綺麗なのだろうか。
この汚れた世界にもって、なお見劣りしない鮮やかさ。
私はずっと苦痛だった歩きの疲れも全て忘れて、向日葵畑の方へと駆け出した。
無我夢中、そこに行かなければならないとまで思えるような、一種の使命感に乗せられていた。
あの花を、もっと近くで見たい。
目的はそれだけであった。
そうして広い平野をまっすぐ走り抜ける。
走ってみれば数秒もしないうちに、難なくそこまでたどり着いた。
もう手で触れられる距離に、黄金の花弁がある。
花なんぞ愛でる趣味は無かったはずなのに、その花を前にしてみると思わず温い唾を飲み込んでしまう。
もう少しで、あと一寸で……。
しかし、その手を出す事が出来ない。
触れてはいけない。
この完成された黄金比には、一滴の泥水さえ溢す事は許されないのだ。
ましてや私など。
右手を差し出し、しかしそこから微塵も動けず、アホのような格好で止まる。
……思えば私の目的地は、この場所だったのかもしれない。
一心不乱に歩き続けて、その果てがここならもう一度三途の川を渡ったって良いかも知れない。
それを見た者たちに馬鹿だ恩知らずだと言われたとしても、私はある種の優越感さえ覚えるだろう。
私が此処へ近づけば近づくほどに、この花たちは私の事を誘惑し、外道へと指を曲げる。
そして、此処へ近付けば近づくほどに、この完成された世界を壊したく無い、壊してはならないと言う思念が私にのしかかる。
私には、相反する二つの衝動をどうする事も出来ず、ただ茫然としてタバコを咥えるのであった。
「ねえ」
火をつけて煙を吸ったその背中から、声がかけられた。
優しく問いかけるような声だった。
たった二文字、口にすれば一音のその言葉だけで、
……私はゲロを吐きそうになった。
上手く息が吸えない。
口からタバコを取れない。
屠殺される豚のように、私は恐る恐る振り返った。
「私の花たちに、何か御用かしら?」
決して怒鳴られた訳ではないのに、体は萎縮し、頭は真っ白に染められて行く。
死ぬ。
その言葉だけが脳幹を支配する。
そこにいたのは、一匹の妖怪であった。
赤色の日傘をさして、不思議そうに私の事を見つめている。
萎縮し、その存在から目を逸らそうとする本能に抗い、じっとその瞳を睨み返す。
赤色の、チェック柄が描かれた服。
緑色の、すこし癖のある肩ぐらいまで伸びた髪。
そして……恐ろしい程に整ったその顔立ち。
鼓動がテンポを上げる。
自分の頬を、汗が伝っているのが分かった。
妖怪から発せられているのは、隠す気もない殺気。
カリスマやミステリーなど一片も含まれない、純粋な暴力のみを成分とした恐怖。
レミリアのような憧憬もない。
幽々子のような未知もない。
生物に刻まれた本能からの恐怖。
今まで生きていて、一度死んだ事だってあるのに……ここまで恐ろしい思いは無かった。
たった一つ確かな事があるとするのならば……私は殺される。
この妖怪の名は……
「風見幽香っ……!」
「気安く名前を呼ぶな」
優しい声から、冷徹で抑揚のない音声に変わる
ひゅうっと冷たい風が吹いた。
かまいたちの様に、私の頬を切り裂く様な風。
気を失いそうな緊張に耐え、持てる限りの力で睨む。
風見幽香。
辞書でその言葉を引いても意味は出てこない。
その言葉の意味を知ったものは皆……殺されているから。
「ここは私の庭よ」
「……それは済まない事をした」
「ええ、もう済まないの」
そう言うと、あろう事かこの状況にもっとも遠い表情を妖怪は浮かべていた。
目を細め、口角を上げて。
花のように美しい満面の笑みが、そこに浮かんでいた。
次の瞬間、私の視界は唐突に暗転する。
顔に、硬い感触を感じ、痛烈な痛みが体を駆け巡る。
地面に顔を叩きつけられたのだ。
悲鳴をあげる間もなく、今度は後頭部を中心に全身に鈍い痛みが走った。
後ろから頭を蹴られたのだ。
揺れる視界は、赤い液体が飛び散っているのを捉える。
あれは……血?
体が宙を舞った。
骨が砕けたような痛みを伴って。
受け身も取れず、硬い地面に叩きつけられた。
抉る様に地面に3メートルほど滑り込む。
死ぬほど、痛い。
というより、死ぬ。
かなり吹っ飛ばされたはずなのに、何故か悪魔は近くに立っていた。
しゃがみ込み、私の髪の毛を鷲掴む。
髪の毛ごと、顔面をグイッと持ち上げられた。
その視界が捉えていたのは……鋭い目。
高い鼻。
そして……恍惚した頬。
三秒間、目があった。
私の殺し方を吟味しているような顔。
次の瞬間。
硬い地面に、勢いよく顔面が押し付けられる。
ズリズリと摺鉢で胡麻を擦るように前へ後ろへと擦られる。
顔の皮が剥がされて行くのを、薄皮一枚一枚克明に感じる。
地獄のような激痛。
パッと髪から手を離され、ドサリと地面に倒れた。
痙攣する私の体。
次の一撃は分かっている。
蹴りだ。
足を上げているのをハッキリと目で捉えた。
顔面を目掛けて放たれる殺人の蹴り。
圧倒的な威力に、鼻の骨が折られた。
何度も、何度も、何度も蹴られた。
顔、腹、指。
飽きもせず、懲りもせずに執拗に繰り返される拷問。
ぼやけて行く世界の中で、一発一発毎に体から吹き出す赤い鮮血が、やたら目に刺さった。
どれほど蹴られたか。
もう折れる骨が残って無いくらい、蹴られた。
この妖怪は……甚振っているのだ。
死なない程度に加減し、弱き物が悶え苦しむ様を堪能している。
嬲り、甚振り、半殺しにする。
そして、最後には呆気なく殺すのだ。
目障りな蚊を叩き潰すように、戸惑いも罪悪感もなく。
「来世で覚えとくと良いわ。長生きしたいなら、私と出会わない方が良いと言う事を」
「残……念だが……っ私に……来世は無いんだ」
顎の骨もヒビが入り、右頬は抉れている。
それでも無理矢理口を動かした。
そこで私は、自分の顔が濡れているのに気づく。
体も、痛みで感覚が鈍くなっていて分からなかったがが、全身がびしょ濡れだ。
血とは違うサラリとした液体。
これは……水。
その正体に気づくと、耳がザァザァと言う音を捕らえた。
雨が、降っているのだ。
死に際に雨が降るなんて……いや。
そこまで考えて、自分を叱咤するように土を握りしめる。
せっかく貰った命。
こんな無駄な死に方を、してたまるか。
「っぐ!」
「這いつくばるのね。まるでミミズの様」
はるか高みから、見下ろされる。
血塗れで雨に濡れている顔を目掛けて、ピッと唾を吐かれた。
そして這いつくばっている体に、ドスンと衝撃が走る。
いきなりすぎて、口から吐瀉物が溢れそうになった。
私の上で座っているのだ。
しかも、勢いをつけて。
グッと歯を食いしばる。
何か……何かを起こすんだ。
こんな無様な死に方じゃあ、誰にも見せる顔が無い。
何かを。
悪魔を殺しうる何か。
雨……暗雲……。
「さようなら」
ダメだ……何も浮かばない。
死ぬのか?レミリアの80年は?幽々子の想いは?
長生きする為と銘打ってここまで来たのに。
こんな理不尽な死に目を見るのか?
薄暗い曇天が空を覆っていた。
その下で、立ち上がった大妖怪は傘を天に突き上げ今にも空を貫かんとしている。
激しく打ちつける雨。
世界が、スローモーションになって行く。
悪魔のような笑みを浮かべて、私の首に傘を振り下ろしている幽香。
落ちてゆく雨の一粒一粒が、地面に当たって、ピチュンと弾けるのを、紙芝居の様にゆっくり、ゆっくりと見つめた。
あぁ、死ぬんだな、私。
振り下ろされた傘。
メリメリと首を裂き、この日一番鋭い痛みが走った。
胴体と頭が離れて行く感覚。
皮が引き裂かれ、頸動脈に触れ、あと少しで骨が途絶える。
ゆっくりと、ゆっくりと流れる時間。
傘が今まさに私の首を切断しようとしたその瞬間。
その瞬間!
爆裂する閃光、轟く空の雄叫び。
空から、10億ボルトの怒りが降った。
一筋の稲光が、龍の咆哮が如く幽香に落ちた。
しばらくの反響。
より一層強く打ちつける大雨の滴。
生傷だらけの体。
傘が、止まった。
数秒経って、私はまだ繋がっている自分の首をさする。
文字通り、首の皮一枚繋がっていた。
そして立ったまま、微動だにしない幽香を見る。
「……生きてる」
私は、死ななかった。
全く動かない幽香。
こびりついた恐怖は雨で洗い流され、無数の傷口に雨水が染みる。
ともかく溢れた言葉はそれだけであった。
風見幽香は、唐突に目を覚ました。
そして、自分がベッドで横たわっている事に気づいた。
体にかけられていた馴染みのある毛布は、そこが自分の家の中である事を示唆していた。
「これは……」
ゆっくりと体を起こすと、全身に纏わりついてくる違和感。
何かが、全身に巻かれていた。
これは……
「包帯?」
体に巻き付けられた白い布は、幽香の体を覆い薬品特有の強い匂いを放っている。
それを一枚、腕に巻かれていた所を剥がすと真っ黒に焦げた火傷の跡が映った。
空気に触れ、傷跡がヒリヒリと痛む。
その痛みから体を守るために、全身に包帯が巻かれているのだ。
誰がこんな事を。
幽香にはそれが気になった。
「っ!」
立ち上がろうとしたらズキンと頭が痛んだ。
少しよろけそうになるも、ぐっと踏ん張って耐える。
頭痛など普段の幽香なら何とも無い。
たとえ腕を切られたって平気で立ち上がる妖怪なのだ。
ただ、火傷で炭になりかけている体では軽く風に触れるだけで顔を顰めてしまう。
ドアを開け部屋を出ると、ふわっと何かの匂いがした。
いつもは花の香りで満たされているはずの家に、全く似合わない味噌麹の匂い。
出どころは、階段を降りて右にある厨房。
階段を降り、そこに近づくと厨房からトントンと言う音が聞こえた。
幽香は知っている。
たまに料理もするから、その音に馴染みがあるのだ。
あの音は、包丁とまな板の……。
「私の家で何をやっているのかしら?」
「っ!」
目の前の人間は、私の声に気づくと動揺したのか包丁を手から滑らし、落ちた包丁が足に刺さりかけていた。
間一髪で回避し、間抜けな悲鳴をあげている。
わかりやすいくらい恐怖と動揺に満ちた顔をしていた。
眉間に皺がより、眉は吊り上がり、汗が滴っている。
どうやら、ご飯を作っていたらしい。
鍋に火がかけられていて、まな板では人参が歪に切られている。
ここが私の家だと言う事を、まさか知らない訳でも無いだろうと幽香は思った。
貴子は、幽香の方から目を離さずにドギマギしながら落とした包丁を拾う。
出された手には、幽香の倍以上分厚いの包帯が巻かれていた。
所々が血で滲み、赤く染まっている。
「何の真似?」
「……飯を作っている」
「見たらわかるわ。何故ここで作っているのかと聞いているの」
「……腹が減ったから」
「ここは私の家よ?」
「……お邪魔してます?」
言葉の端々を震わせながら会話をする人間。
小刻みに震えている様子はまるで小鹿の様だ。
その姿はどことなく滑稽で、殺伐とした雰囲気の中思わず少し笑ってしまった。
「逃げないの?」
「足が動かない」
「そう。残念ね」
ほんの少し間が空いて、貴子が言う。
「殺すのか?」
貴子の発言を聞いて、どうしようかしらと幽香は思慮する。
確かに今すぐ殺しても良いが、それにしては少し気になる事が多いのであった。
「そうねぇ。ご飯を作ってからでいいわよ」
「……一緒に食うのか?」
「えぇ」
幽香はそう言ってリビングにある椅子へと腰掛けた。
考えるのは、今目の前で起きている現象。
(不思議ね。今まで数知れない程の人間を殺してきたけど、逃げ出そうとしない者は……まして、私に包帯を巻きご飯を用意している者など一人もいなかった。
あれほど恐怖していたのに何故ここに居られるの?
殺す前に、その事だけを確かめたい……。
あと、少しお腹が空いたわね)
「味噌汁と、ご飯……あと野菜炒めだ」
しばらくして、人間はリビングへとご飯を運んできた。
キチンと幽香の分も用意したようで、彼女の目の前にも幾つかの皿が運ばれてくる。
カチャリカチャリと小気味良い音を立てながら並べられていく食器。
乱雑に見えて、箸の置き方や配膳の順番など、細かい作法はしっかりしていた。
人間特有の習性だろうか。
配膳が終わり、二人は向かい合うように腰掛けた。
幽香は手を合わし、小さくいただきますと呟く。
こう言う場では、作法に則るのが幽香のポリシーである。
片や人間は、何も言わずに食事を始めていたようでそそくさと味噌汁に口をつけていた。
「………………」
食事の間、二者に会話は交わされなかった。
しかしそれは当然の事である。
妖怪と人間。
殺そうとした者と殺されかけた者。
幽香と貴子。
それが同じテーブルで同じ飯を食うと言う事がそもそも考えられないイレギュラーなのだ。
目の前の人間は作法もなければ、全くもって行儀も悪い。
嫌い箸こそしないが、まるで乞食のようにご飯にありつく。
かきこむ、という表現がピッタリな食べ方であった。
だが、そんな一つ一つの挙動を幽香は何故か目から離せなかった。
味噌汁を啜って、ご飯をかきこみ、水をゴクゴクと飲む。
なんとも美味しそうに食べるものだ。
しばらくの間箸を止めて、貴子に釘付けになっていた幽香。
野菜炒めを食べようとしたところで幽香の視線に気づいたのか、貴子は眉を顰めて怪訝そうな顔をしながら幽香を睨む。
目があった幽香は、首をかしげ、優しく微笑んで返した。
その表情に面食らった貴子は、飯を喉に詰まらせたのか胸の辺りを手でドンドンと叩き、水を口一杯含んで飲みこむ。
水によって溜飲が降り、大きな声で苦しそうに咳をする。
全くもって、一挙一動が騒がしい。
流れている雰囲気は秋空のように色を返る。
殺伐とした空気かと思えば呑気な雰囲気になって。
本当に不思議な事だ。
……あと、この人間の味噌汁はそこそこ美味しい。
野菜炒めも切り方こそアバウトだが、その味付けは中々繊細な物だ。
悪くない出来ね、と幽香は内心で評価するのであった。
食事を終え、自然な流れで食器を片付ける人間。
手慣れた所作で皿を重ね、よっこらせっと言いながら厨房に向かう。
見ていた幽香は辛抱たまらず、とうとう秘めたる疑問を口にしてしまった。
「貴方、正気?」
「え?」
急に話しかけられた事で驚いたのか、目を見開いて声を裏返す貴子。
先程のような体の震えは止まっている。
それどころか落ち着きすぎている程だった。
腹を括ったのだろうか。
正気の沙汰とは思えないが。
「殺すわよ?私は貴方を」
「……」
意味深な沈黙。
呻き声も笑い声もあげない。
貴子は険しい顔だけを浮かべていた。
しばしの無言により、焦らされるような気持ちになる。
幽香は抱いたことのない様な歯痒さを感じた。
難しい顔をして、黙りこくる人間。
しばらくたって人間が返した返答は、これまた不思議な内容だった。
「煙草、いいか?」
「……えぇ、窓は開けて頂戴」
「あぁ」
煙草が吸いたいのか。
死ぬ前に寿命を縮めておくとは、妖怪の幽香からすれば見苦しい事に思える。
貴子は厨房の窓を開け、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
ゆっくりと大きく吸って、深く長く吐いた。
「咲け……」
「……え?」
険しい顔が柔らかくなったのかと思えば、帰ってきたのは主語も目的語もない文であった。
急で曖昧な返答に、少し理解が及ばない。
困る幽香を、人間は追い討ちの様にさらに困らせる。
「私は咲けず木なんだ」
「咲けず木?……咲けないという事?」
「あぁ……咲けない」
ますます理解不能だ。
咲くのは、花の仕事。
人間が咲くとは一体どう言う事なのだろうかと幽香は考える。
もしや、素っ頓狂な事を言って困らせるつもりなのだろうか。
しかし、嘘をつこうとしているというのにはあまりにも真っ直ぐな瞳だった。
何人も殺してきたから、嘘をついていないかどうかぐらい分かる。
三秒開けて、遺言を残すような口ぶりで貴子は言った。
「だから……最後の頼みだ」
「何かしら」
「咲いていなくても良い。刈ってきて欲しい」
言い切ると、人間は膝から崩れるように頭を下げた。
急所である頭を、今この場で下げる事がどれ程の意味を持つか。
それほどまでに花を刈ってきて欲しいのか。
全く酔狂な人間だ。
妖怪に、死ぬ前のたむけとして花を頼むなんて。
そんな美しい死に際をお望みなのだろうか。
先程の食事のあり方との差が、どことなく愉快だった。
幽香は、少しだけ口角を上げて返す。
「……刈ってくる必要はないわ」
「え?」
そう言って幽香はパチンと指を鳴らす。
すると、どこからか辺りに無数の花びらが舞い、人間の頭にポンっと花を模した髪飾りがついた。
可愛らしく装飾されたひまわりのコサージュである。
「これで、いいのかしら」
「あ、あぁ」
「最後に聞くわ。貴方、名前は?」
「……貴子。私の名前は貴子だ」
「っ!」
その名を聞いた瞬間に幽香は勢いよく吹き出した。
数秒呆気に取られて呆然としたのち、徐々に笑いが込み上げてきて、腹を抱え、涙を零しながら大笑いしている。
騒がしい夜明けであった。
全く、私は運が良いのか悪いのか。
歩き疲れて判断が鈍ったのか向日葵に気を取られ、あろう事か最悪の庭へと足を踏み入れてしまった。
そこからは不幸の連鎖。
縄張りを荒らされたと知った狂犬は、私の事を嬲り、甚振り、そして弄ぶ。
殴られ、蹴られ、皮をズルズルと削られ、顔に唾を吐かれた。
私はあの世への片道切符を持って、快速特急へとご案内だ。
しかし、あの世の人とこの世の人、双方に手間暇かけてもらったのだ。
こうもすぐに逝ってしまっては面子が立たない。
その、死んではいけないと言う強い願いが成就したのか。
今まさに殺されようと言うところで、風見幽香が振り上げた傘が避雷針となりその身に雷が落ちたのだ。
聞こえたのは、雷の轟音か、それとも悪魔の悲鳴か。
幽香は気を失った。
恐ろしきは、気を失ってなお地面に臥さない有様。
立ったまま意識を絶たれていた。
かたや私は、辛うじて生き残ってしまった。
満身創痍で、血塗れで傷だらけで。
地面に伏して泥になりかけた雨水を舐めさせられている。
ズタボロながら生き残った。
これは運が良いのか。
否、間違いなく悪い。
そもそも、フラフラと歩いてるだけの所を、全身ボコボコに殴られ蹴られ、骨も粉々にされているのだから。
よく、落雷の命中率は宝くじに当たるのと同じ確率だとか言う輩もいるが、それで生き残ったからラッキーとは思えない。
言うならば、運は悪いがやたらとしぶといって所だろうか。
ゴキブリのような有様だ。
もしくは、花に群がる害虫の類。
100歩譲って仮に生き残ったのが僥倖だとしても、現状は不幸の極みだ。
せっかく死ななかった体は、骨が折れ筋肉は絶たれ全く言う事を聞かない。
それはもう、反抗期の娘とか自我だけ肥えた年寄りぐらい私の声を受け入れない。
そうやって動けずに曝け出された無防備な肉体を、冷たい雨がドンドンと冷やしている。
それに緊張で麻痺していて気がつかなかったが、大量出血で頭もクラクラしてきた。
不味い。
このままではゆっくりと、しかし確実に緩慢に死んでいく。
ともかく今は、この場から離れる事が最優先だろう。
しかしそうもいかない。
立ち上がろうとすると膝から血が噴き出る。
……足が、折られていたのだ。
これでは、遠くまでは逃げられないだろう。
せいぜい先程チルノと出会った場所くらいが関の山だ。
そうやって森の中へ私のような動けない者が入って仕舞えば……。
もしそれで何も起こらないのなら、私のような妖怪退治屋なんて仕事は無いんだ。
今、この体で森の中へ入るのは自殺行為だ。
普段ならなんとも無い妖怪も今会えば死ぬのは私だろう。
それより、何処かで暖をとって手当を。
どこか屋根のある場所は無いだろうか。
這いつくばりながら、辺りを見回す。
何も無い平原を、静かな風がそよそよと吹いた。
思えばここは、風見幽香の庭。
そんな所に、民家などある訳が無い。
万事休すだ。
しかし、その予想はあらぬ方向で裏切られる事となる。
それは希望か絶望か。
向日葵畑の奥に、レンガで作られたお洒落な家が建っていたのだ。
アレは誰の家だ?
考えるまでも無い。
ひまわり畑に住める者など、この世に一人しか居ないのだから。
隣で気を失っている妖怪に、視界のピントが合う。
雨に濡れて服が透けそうになっている。
びしょ濡れなのは私も同じ。
手を打たないと、死ぬ。
しかしあの家は、危険すぎる。
……あそこに、入るのか?
今まさに私の命を絶とうとした者の住処に、自ら上がっていくと言うのか?
そんな馬鹿な事を。
普段ならそうも言えただろうが、今は普段ではない。
血液も体温も、恐ろしいほどに失われている。
私の意識は死の淵をケンケンパしていた。
馬鹿な事をしないと、まもなくもってあの世行き。
「行くしか、ない」
勢いをつけて決心し、気持ちが揺らいでしまう前に動く。
血塗れで傷だらけの体は、一寸動かすたびに悲鳴をあげる。
電撃が走るような痛みに耐えながら上体を起こしていき、なんとか倒立二足歩行まで持っていった。
折られた足で、砕けた手で。
よろよろと、曇天の下、目測200メートル先の幽香の家を目指す。
一歩踏みしめるごとに体は軋み、膝から血が吹き出す。
走る痛みは崩れる山のように。
土砂降りの中を、雨で滑って何度も転げながら進んだ。
ゆらゆらとナメクジのように進んでいく。
そして私を殺そうとした者とのすれ違い様にある事を懸念する。
……コイツも、連れて行くべきだろうか。
これは大問題であった。
仮にも家に上がるわけだから、目覚めて家に帰ったら私が居たのではあまりに拙いか。
その場合、今度は生き残る事は叶わないだろう。
しかし……連れて行こうとしても運んでいる時に目が覚めたら?
間違いなく殺される。
なら、今この場でトドメを刺すか?
……この妖怪を殺す手段など、この世に無い。
しかし連れて帰って、目を覚ました時、どうなる?
……わからない。
ただ私には連れて帰るのが、一番違和感のない行動のような気がした。
どっちみち殺されるなら……運ぶしか無いのか。
腹を括り、見た目相応に軽い風見幽香を背負って私は更に進む。
上にのし掛かられた時は巨人の足にでも踏み潰されたのかと思ったが、背負ってみればその体は小さく、儚く、柔らかい。
雨が私たちを不作法に叩いた。
衣服が雨水を吸ってどんどんと重くなっていき、体の傷跡は膿になりかけていた。
血の回らない頭で途絶え途絶えに考える。
……なんでコイツを助けなきゃいけないんだ。
今コイツが目覚めたら、頭が消し飛ぶ。
どうか目覚めないでくれよ。
雷に打たれたんだから、妖怪とて死んでてもおかしくない。
なら、置いていっても良かったのでは?
そう思ったものの、私の足は最後の一歩を踏んでいた。
家の前までついてしまった以上、あげるしかない。
外壁が赤いレンガで作られている、モダンとでもいうのか、そう言う洋風な雰囲気の家であった。
恐る恐るドアを開ける。
軋むような音が鳴った。
中に誰もいないのを確認し、倒れるように中へと入る。
濡れたまま家に上がるのは気が引けたが、どうしようもない事だ。
床を濡らしつつ、洗面所らしき所から大きめのタオルを何枚か持ってきた。
幽香にはそれを巻いておき、私もそれを使って体を拭いた。
乾かす為に服を絞ると、赤色の液体がボトボトと溢れでる。
裸になった体は、ほぼハンバーグになりかけていた。
ここまで来れば、何周まわって笑えてくる。
そして唐突に虚しさと震えに襲われるのだ。
そうならないように無心で真っ白だったタオルを薄紅色に染めて、体を拭いた。
幽香を引きずりながら部屋を進むと、暖炉のある部屋にたどり着いた。
火はパチパチと憩っており、ドアを開けた瞬間から熱風が体を包み込んだ。
血液が巡り、体温が上昇して行く。
暖かい。
近くにより、手のひらをかざして暖をとる。
冷たい体が解凍されていく。
どうやら体温は無事に回復しそうだ。
後は傷の手当て。
私は持っていたカバンから、包帯を何巻きも出す。
こういう時の為に咲夜がカバンに忍ばせてくれたのだろう。
備えあれば嬉しいなだ。
まずは足から。
腓骨が折れかけているので、添木をしてぐるぐると巻く。
生傷が腐らないように、簡易的な消毒もした。
カバンに入れていた酒でだ。
後でヤケ酒しようと思ってたのだが、思わぬ形で役に立った。
そこから同様に腕、首、胴体と包帯を巻いていく。
橈骨、上腕骨ともに、折れぬよう保護しておいた。
洗い治療だが、ともかくこれでひとまずと言った所か。
包帯を巻き終わり、ようやく生き残った実感が湧いてきたのか、大きなため息が出た。
はあ……。
「……コイツもか」
包帯でぐるぐる巻になった私の横で、タオルに包まれながら気を失っている幽香。
背負ってて分かったが、息が荒い。
意識が混迷している中、体が傷だらけなのは拙いだろう。
……コイツの治療もやっておくべきだろうか。
どうやって?何故?
私を殺そうとした奴。
人類の敵。
悪魔、サディスト、鬼畜。
助ける義理も道理もない。
放っておいたって死にはしないだろうし。
……どうせ死なぬなら、このまま置いておくのも精神衛生的に良くないか。
目覚めるのがいつかは知らないが、ずっとこんな傷だらけの者がいては心持ち悪い。
とはいえ。
どうやって処置を施す?
服を脱がす?
……ええい、ままよ!
勢いに任せて、巻いてあったタオルを剥ぎ、水で肌に張り付いた服を強引に脱がす。
現れるは、艶に濡れた豊満な肉体。
所々に火傷の跡が見られるが概ね健康体だ。
雷に打たれてダメージはたったのこれだけか。
妖怪とは、末恐ろしいものである。
背筋がゾクっとした。
……ただ、今私の目の前にいるのは、頬を赫らめて気を失っている冷たい顔をした絶世の美人なのだ。
まじまじとよく見れば、鋭い目、発色の良いポテっとした紅い唇。
少し苦しそうに聞こえる息遣い。
……優れた武人の中には、組み手が終わると極度の緊張からの反動で性に盛る者が居たそうだ。
私は優れた武人では無いが……思わず唾を飲んでしまう。
これは……。
治療の為、そう治療の為だ。
ちっとばかし、失敬して……。
そう自分に言い聞かせてさりげなくその乳房に触ろうとすると、気を失っているはずなのに幽香に睨まれた気がした。
……うん。やめておこう。
無心で包帯を巻き、二階にあったベッドへと寝かせておいた。
目を覚ました時に、何を思い、何を行動するかは不明だが、できれば殺さない方向であって欲しい。
だってここまで背負って包帯巻いて、超良い奴じゃん私。
……今思うと、自分の事を殺そうとした奴にここまで施しを与えるなんて、気が違ってるな。
血液不足で思考判断能力が鈍ったと思っておこう。
それに妖怪は気まぐれだ。
風見幽香はその最たる例と言って良い。
もしかすると、見逃してくれるかもしれない。
もしくは、私の足が治って逃げ出せるようになるまでは、ずっと気を失っていて欲しい。
こうして、人妖の奇妙な共同生活が始まった。
翌朝目が覚めると、ボヤけた意識の中で私は自分の腹が空いていることに気がついた。
気がついてしまうと厄介な腹の虫はぐうぐうと鳴き声をあげる。
……飯でも作るか。
暖炉の前で眠っていたらしく、体はぽかぽかしていた。
降りかかった暴力もポカポカぐらいで済めば良かったのだが。
厨房に向かい、包丁やまな板があるのを確認する。
一通りの材料もあったのでその中から野菜をいくつか拝借した。
もしここに材料がなければ、途端にこの出刃包丁は人殺しの道具へ早変わりだ。
人間を捌くなど想像したくもないが、あの女ならやりかね無い。
その不安は幸いにも外れ、どうやら普通に料理に使っていたらしいと言う事が発覚した。
熱した出汁に具を入れて、少しずつ味噌を溶かす。
この際、鍋の下の方で溶かしてはいけない。
米を炊き、野菜を炒める為に大まかに切る。
米を炊く時に蜂蜜をほんの僅かだけ入れておくと、ふっくらとした炊き上がりになる。
米が立つと言う表現がぴったりだ。
不器用で飯の炊き方も知らなかった私が、こうして料理を出来るようになったのは妖夢の熱心な指導のお陰だ。
ありがたやありがたや。
そう思うとなんだか楽しくなってきて、私は呑気にもふんふんと鼻歌を歌いながら人参を切っていた。
そう言うときに限って事は起こる。
「私の家で何をやっているのかしら?」
「っ!」
後ろから、冷たい、しかし色のある声。
もう目覚めたのか!
なんていう速さだ。
背後にいたのに全く気づかなかった。
驚きで包丁が手から滑り、自由落下のまま足に刺さりかけてしまった。
っ危ね!
金属音を立てながら地面を滑る包丁。
間一髪で折れた足を動かし、なんとか避けることができた。
その一連の間抜けな行いを、風見幽香は神妙な顔で見ている。
そう見つめないでおくれよベイビー。
……本気で怖いから。
アホな事を考えながら包丁を拾おうとすると、まさかの声をかけられた。
問答無用で殺されるかとも思っていたから、意外な展開だ。
「何の真似?」
ええ。自分でもわからないです。
多分現在完了進行形で血迷って人生を棒に振ってると思います。
表面上は、米を炊いているだけです。
「……飯を作っている」
「見たらわかるわ。何故ここで作っているのかと聞いているの」
「……お腹が空いたから」
「ここは、私の家よ?」
「……お邪魔してます?」
あぁ、もう何が何だかわからない。
何を訊問されているんだ?
立ち止まって会話をしているはずなのに、一歩ずつ幽香に壁際へと追いやられているような幻覚に陥る。
そして、ずっと睨まれているのはよく分かる。
「逃げないの?」
「足が動かない」
お前のせいでな、と心の中で毒づく。
「そう。残念ね」
残念だと。
何がどう残念なんだ。
何一つ念が残っている事なんざ無いだろう。
一応問いただす。
「殺すのか?」
「そうねぇ。ご飯を作ってからでいいわよ」
「……一緒に食うのか?」
「えぇ」
……最悪の展開になってしまった。
最後の晩餐が、手作りの野菜炒めなのか。
いや、晩餐でもないから……最後の朝食?
レオナルドもセンスの無い題名にさぞお怒りだろう。
どっちにしろ、もっと豪勢に肉でもぶち込めておけば良かった。
朝から肉は辛いとか、枯れた年増の常套句みたいな事言わなきゃよかった。
というより、一緒に食べるのか?
この妖怪と?
……無理!
幽香は私の意見など聞くわけもなく言いたい事を言うだけ言ってリビングへと向かっていった。
自己中の権化だな。
「味噌汁と、ご飯と……あと野菜炒めだ」
なるべく粗相のないように、ゆっくりと皿を差し出す。
下手して気を立てたら野菜炒めに人肉トッピングは免れ無い。
まずまずの出来栄えだが、これで大丈夫だろうか。
何せ、妖夢や幽々子以外にご飯を提供したことはあまり無い。
まして、殺害予告を受けた相手など。
とは言え自分用に作ったから見た目も悪いが、食わせてやってるのはこっちなのだから。
文句があるなら食べなければ良い。
そう思いつつ妖夢に習った通りに皿を配膳した。
ご飯は左手、味噌汁は右手。
これだけの事を覚えるのに苦労したものだ。しみじみ。
配膳を終え、向かい合うように坐る私たち。
……気まずい。
居心地悪く、たまらず味噌汁に口をつけたら、妖怪は両手を合わせ小さく「いただきます」と呟いていた。
そう言うことするタイプかよ。
とことん噛み合わない。
そこからは食器が立てるカチャカチャという音以外無音。
黙々と進む食事。
ある意味、死ぬより辛い。
もう、飯の味が一つもしない。
……なんかめっちゃ私の事見てるんだけど。
え、こわ。
何その表情。
やたら嫌な予感がして幽香の方を見たら、思わず目があってしまった。
心持ちは蛇に睨まれた蛙。
すると幽香は首を傾げ、愛嬌のある美しい笑顔を浮かべた。
それを見て、驚きで喉を詰まらせてしまう。
っ水!水!
ふぅ……あぁ、もう生きてる心地がしない。
私が食べてるのは紙粘土か?
味付けはかなり気を使ったはずだが。
不幸は蜂蜜味というが、私の蜂は全員辛口の蜂蜜を出すそうだ。
あぁ、早くこの場から逃げ出したい……。
そう思いながらもなんとか食事を終える事ができた。
食べ終わる時も、小さな声で「ごちそうさま」と呟いていたので、こっちもこっそり「お粗末様」と言っといてやった。
食後、その場にいられず、逃げるように食器を片付けに行こうとしたところで、とうとう幽香から声をかけられてしまった。
「貴方、正気?」
「え?」
そんなの当然だ。
正気な訳無い。
遠目に見ても気が狂ってる。
「殺すわよ?私は貴方を」
「……」
……やっぱり、包帯巻いたぐらいじゃ気は変わらないよなぁ。
断言されると、より一層恐ろしい。
今度は雷も嵐もない。
気まぐれは起きず。
悪魔は悪魔。
天使にはなれないのだ。
とうとう年貢の納め時……か。
覚悟は(無理矢理)していたが、死ぬ前ってのはどうも落ち着いてしまうらしい。
何故か冷静になってきて、頭が回転を取り戻す。
死ぬ前に、やっておきたい事がいくつか。
一つ。
「煙草、いいか?」
「……えぇ、窓は開けて頂戴」
「あぁ」
良いのか。
ダメ元で聞いたんだが、喫煙OKなんだな。
今時珍しい。
世間はもっぱら禁煙ブームで嫌煙ラッシュ。
言われたように窓を開け、タバコにマッチで火をつけた。
溜息のように煙を吐くと、色々な事が頭をよぎる。
どうせ死ぬなら、最後ぐらい楽しく死にたい。
フランの為に死んだ時とは違う。
あの時は言ってしまえば頭がおかしくなってたし、死ぬ事なんざ二の次三の次だった。
今は違う。
今は、死にたい訳でも何でもない。
生きたいという欲求が薄い性なのは事実だが、別に特別進んで死にたい訳ではない。
しかし……これは自然災害に見舞われたようなものだろうか。
死んでも良いと思えば生きて、生きたいと思えばこの様。
理不尽に、唐突に死神はやってくる。
今度死んだら、向こう側ではどんな扱いを受けるのだろうか。
……あぁ。
今は、全て忘れて酔っ払いたい。
「酒……」
「……え?」
酒を飲みたい。
死ぬ前に、好きなだけ。
幽香は驚きと困惑の混ざった顔をしていた。
それもそうだろう。
説明が必要だ。
「私は酒好きなんだ」
「酒好き?……酒無いという事?」
「あぁ……酒無い」
さっき気づいたがこの家には酒が無い。
味噌や米があってどうして吟醸がどこにも無いのだ。
妖怪は、酔うかい?
あ、死にたい。
ともかく、酒が無いなら……。
全くもって間抜けで、トンチキな頼みだとは思うんだが一つだけ聞いてほしい。
「だから……最後の頼みだ」
「何かしら」
「最低無くても良い。買ってきて欲しい」
酒が無いのはそう言う家もあるのだろう。
しかし今から私を殺さんとする妖怪に、酒を買ってこいと命ずるなんてどこまでも不思議な話だ。
そんなのは全身全霊理解しながら、頭をさげ、哀れに懇願する。
ヘベレケに酔ってから死にたい。
ちっぽけな人間の最後の願いを、どうか聞き入れてはくれないか。
足が折れてるのだから逃げ出す余力なんて無い。
私はここから動けないのだから。
それすら疑うのなら、足の一本くらい折っていっても構わない。
その辺の椅子に縛り付けていってくれても良い。
ともかく、酒を……。
するとしばらくして、幽香は不敵な笑みを浮かべた。
最初に見た時とは違う、意地の悪さがありありと伝わってくる悪どい微笑。
「……買ってくる必要はないわ」
「え?」
それはつまり酒なんか飲ませずに殺します、という事か。
……所詮、悪魔は悪魔だ。
妖怪は妖怪だ。
その気まぐれに願いを乞うなど、全くもって無理な話だったのだ……。
すまない。
レミリア、そして紅魔館のみんな。
幽々子、妖夢……。
馴染まない体に気を遣って暇を出してくれたのに、どうやらここまでらしい。
全く、恥の多い生涯であった。
涙がこぼれないよう覚悟を決めて幽香を見る。
覚悟を受け取ったのか幽香はにっこりと笑って指を鳴らした。
その瞬間、何処から出てきたのか辺りに大量の花びらが舞い散り、私の頭に違和感が乗っかる。
指で確かめると、何かが乗っけられていた。
これは……コサージュ?
「これで、いいのかしら」
「あ、あぁ」
何が良いのか分からない。
どう見てもこのブローチはノンアルコールだ。
何故酒を買ってきてと頼んでこれが頭につく?
わからない。
困った私に追い討ちのように幽香はたたみかけてくる。
「最期に聞くわ。貴方、名前は?」
「……貴子。私の名前は貴子だ」
最期、と言う言葉に引っ張られて気分が沈む。
名前か。
今世で覚えておくと良い。
私の名前……貴子という名前を。
私が名乗った瞬間、幽香は数秒呆然として、そして声高らかに笑い始めた。
悶えるように、見たことのないような可愛らしい笑顔で。
……私の名前、そんなに面白いか?
騒がしい夜明けであった。
幽香が登場。
永夜抄編が本格的に始まります。
長々とくどい様な駄文にならぬ様頑張りますので、応援や感想を頂けると嬉しいなです。