ろくでなし東方   作:ほろ酔いちゃん

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赤のアサガオの花言葉は情熱的な儚い恋
青のアサガオの花言葉は短い愛


リザレクション

 

妹紅は走る。

靴を履き外れて自分が裸足なのに気づいたが、それでも止まらない。

小石で足の裏を擦りむいてはその傷が塞がった。

背中には、苦しそうな息を洩らす慧音が抱えられていた。

妹紅は走る。

脚は加速していきあっという間に人里を飛び出た。

慧音は件の流行病には罹らない。

アレは人間にしか発症しないのだと、自嘲するように笑ったその顔を妹紅は知っている。

それなのに、慧音は倒れた。

里の医者もアテにならない。

貴子が持ってきた薬草は、自分勝手な大人達が全て使い果たしてしまった。

そして仮に薬草があったとして、それが効くかどうかも分からない。

慧音が何故倒れたのか、妹紅には皆目見当もつかなかった。

 

人里を飛び出て、野原を駆け抜ける。

華奢な慧音の体でも、抱えて走ると息が上がった。

こんな事なら煙草など吸わなければ良かったと、妹紅は心の底から後悔した。

それでも立ち止まる事など出来なかった。

妹紅が目指す場所は一つである。

 

「妹紅!永遠亭ってのは何処だ!」

 

貴子が妹紅に並走しながら叫び聞いた。

慧音の護衛をする為について来たのだ。

着いてきたのには心配な気持ちもあった。

飛びかかってきた妖怪を右手で吹っ飛ばす。

妹紅は案外落ち着いた様子で、しかし声を上擦らせながら答えた。

 

「迷いの竹林に、八意永琳という奴が居る」

「誰だそいつは。医者か?」

「……輝夜の部下だ」

「輝夜!?確かそいつはお前の……」

「永琳は腕のいい医者だ!たとえ輝夜の仲間でも、病人を見捨てたりはしない!」

 

妹紅は、半ばそうあって欲しいと願うように叫んだ。

背中で慧音が息苦しそうに呻く。

いくばくもなく、迷いの竹林が見えて来た。

脚は更に回転を早め、竹を割るような勢いで二人は走る。

時刻は夕暮れ。

少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った。

 

 

永遠亭は、迷いの竹林へ入ってしばらく走った所にあった。

それを見た貴子はしばし絶句した。

見覚えのある建物であったからだ。

だが慧音の嬌声で我を取り戻し、すぐさま門へと駆け付けた。

妹紅が壊れそうなくらいの力で必死に戸を叩く。

 

「永琳!」

 

慧音を胸に抱えながら、何度も何度も門を叩いた。

その度に、永琳と言う名を叫んだ。

だが、その屋敷は廃墟かのように静かであった。

 

「おい永琳!居るんだろっ!慧音が!」

 

喉が枯れる。

門が軋む。

さりとて返事は無かった。

 

「っく!」

 

妹紅は歯を食いしばり、より一層強い力で門を叩いた。

拳輪は内出血を起こし赤く腫れ、慧音の顔は一層青くなる。

 

「輝夜!お前の差金か!慧音は部外者だろ!?」

 

悲痛な叫び。

反響音が遠のいていく。

静かな世界。

力を失う妹紅。

 

「開けてくれよ……」

 

もう何度叩いたか分からない門に、もたれる様にして地面へ崩れ落ちた。

その様があまりにも痛々しく、貴子は下唇を強く噛み締めた。

 

「頼む、頼むよ……」

 

妹紅は項垂れながら、ポロポロと大粒の涙を溢した。

 

「慧音を……慧音を助けてくれ!」

 

掠れた声でそう叫ぶ。

しんとしていた辺りの竹が、少し騒めく様な気がした。

未だ返事は無い。

門は依然閉じられたままである。

静寂から妹紅の泣き声だけが響く。

 

駄目か――そう思った時。

 

「どうしたのよ」

 

門が開いた。

 

 

 

私達は、待合室でずいぶんと長い時間を過ごした。

妹紅は背中を丸めて俯いている。

沈黙が嫌で何度か話しかけようとしたが、その余りの剣幕を和らげる話題がなかった。

妹紅が言う腕の良い医者に見せたのだ。

これで安心だろうと私は少し安堵していた。

しかし当の妹紅がずっとこの調子なのだ。

慧音の診察結果を待つ時間は、黙って過ごすにはあまりにも長かった。

実際には十分も待ってなかったと思う。

診察室から、白衣を纏った女が出てきた。

 

「妹紅、落ち着いて聞いて頂戴」

「慧音は!大丈夫か!?」

「妹紅、落ち着いて聞いて頂戴」

「どっちなんだよ!」

「妹紅、落ち着いて聞いて頂戴」

「だからどっちって――」

「落ち着け」

 

妹紅の肩を叩く。

不毛なやり取りを聞いてられるほど心の余裕は無い。

私は取り乱す妹紅をたしなめた。

永琳と言う女は一つ溜息をつき、深刻な表情でカルテらしき物を凝視しながら少し目を狭めて言う。

 

「自律神経の不調による気管系の衰弱があったわ。腸管ペプチドの分泌量が多く、インスリンも多量……それで心拍数が低下、血圧の減少」

「……つまり?」

 

私はそう聞いた。

そんな要領を得ない説明ばかりされても困るからだ。

今聞きたいのは、慧音は無事よの一言しかない。

永琳は口の前に手をやり、取り直すようにゴホンと咳払いをして言った。

 

「食べすぎよ」

「……は?」

 

私の間抜けな返事に永琳は少しだけ頬を緩め、それから医者らしい厳格な顔になる。

 

「睡眠不足と過労、それに暴食をして食後低血圧が起きたの」

「……すると慧音は?」

「至って健康よ。私が保証するわ」

 

食べすぎって……なんだそれ。

洒落にもなってない。

焦った私たちが馬鹿みたいだ。

……まあ、無事なら良いか。

疫病なんていう物騒な物よか、百倍マシだ。

 

「無事だってさ、良かったな妹紅」

 

妹紅を安心させるために、そう言いながら妹紅の方へ振り返った。

しかし、

 

「あれ、妹紅?」

 

妹紅は居なかった。

 

 

診察室に入ると、慧音は白いベッドの上で寝ていた。

そこへ顔を埋める様にして座っている妹紅。

鼻を啜る音ばかりが響いていた。

 

「慧音は?」

「寝てるだけよ」

 

永琳がそう言う。

それは本当のようで、青かった顔に色味が戻っていた。

 

「……ぅう」

 

慧音が苦しそうに呻く。

体をもぞもぞと這わせて、眉間に皺を寄せた。

妹紅が顔を上げる。

 

「慧音!」

「……妹紅?」

「目が覚めた?」

「ここは……っ!」

「慧音!?」

 

突然何かを思い出したかの様に起き上がり、診察室を飛び出していく慧音。

それを見た永琳が神妙な面持ちをしている。

 

「……変な薬を飲ましたりしてないだろうな」

 

私は隣で何かを書き込んでいる医者に聞いた。

永琳はカルテから目を離さず答えた。

 

「ちゃんと処方したわ」

「何をだ」

「下剤よ。強烈なのをね」

 

遠くから、ドアを叩き締める音が響いてくる。

大方、慧音が廁に飛び入ったのだろう。

やれやれだ。

とんだ肩透かしを喰らい、私は疲れと安堵の急降下で、肺の底から溜息を溢した。

 

 

「まさか食べ過ぎで倒れるなんて……恥ずかしい限りだ」

 

私たちは客間に上がり、屋敷の使いから出されたお茶を啜っていた。

妹紅と永遠亭について、色々な事情を聞いている私は緊張してしまう。

なのに慧音は呑気に笑っていた。

 

「一体何を食べたんだ?」

「八目鰻をな……食べ放題と言うものだからつい……」

 

バツが悪そうに顔をポリポリと掻く慧音。

永琳は、呆れたと言った感じで笑っている。

そして妹紅は……

 

「けーねぇ……うぅっ……」

 

正座している慧音の膝に顔を押し付けながらずっと泣いていた。

膝枕のような体制でかれこれ半刻くらいは泣き通しだ。

慧音は妹紅の頭をずっとさすってやっている。

 

「ここまで妹紅が運んできたんだ。急に倒れるからビックリしたが、まさかただの食べ過ぎなんてな」

「……そうか」

 

慧音は目を伏せて、薄く微笑んだ。

 

「うぅっ……けーねぇ」

「ほら妹紅、帰るぞ。そろそろ泣きやめって」

 

私は声をかけたが、妹紅は泣き止まない。

それどころか更に声は強くなった。

本音を言うと早く帰りたいのだ。

妹紅やらの因縁を差し引いても、ここは居心地が悪い。

 

「……すまないが、少し二人にしてくれないか?」

 

慧音がそう言うので、私は永琳の方を見る。

永琳は何も言わず立ち上がったので、私もそれに続いた。

 

永琳と二人きりになり、会話は弾む訳もない。

 

「煙草を吸ったら早死するわよ」

 

と言われたくらいだ。

私としては、早く妹紅に泣き止んでもらって家に帰りたかった。

そこから更に半刻ほど経った時、慧音と妹紅の二人がやっと部屋から出てきた。

妹紅も流石に泣き止んだ様で、目を真っ赤に腫らしつつもトボトボと歩いている。

私たちは、里へ帰ることにした。

 

 

 

その日の晩、私の家に一人の来客が有った。

玄関口に立っていたのは、慧音だ。

 

「今晩、一緒にどうだ?」

「……また話でも有るのか?」

「祝いの酒だよ」

「なら歓迎だ」

 

 

慧音に連れられてやって来たのは、ミスティアの屋台であった。

相変わらず、鰻のいい匂いがした。

ただいつ来ても伽藍堂なので、利潤が出ているのかと心配になる。

椅子に座り、とりあえずの乾杯をした。

 

「……あぁ、美味い」

 

慧音が呑み抜けにそう言う。

本当にその通りだった。

ミスティアの出す酒は頭一つ抜けて美味い。

 

「いくらでも飲めそうだよ」

「……また倒れるぞ」

「ははっそれもそうだな」

 

すでに酔っ払ってでもいるのか、慧音は陽気だった。

明るいのは良い事だが、こうも能天気だとあれだけ心配していた妹紅が少し気の毒だ。

 

「はい、お待ちどおさま」

「お、来たか」

 

出された焼きたての鰻を口いっぱいに頬張る慧音。

私は猫舌気味なので、少し冷ましてから食べる。

 

「食べすぎちゃダメだよ」

「分かってるさ」

 

ミスティアまで慧音をそう諌めた。

それくらい、今日の慧音はおかしかった。

いつもは私の一挙一動を目ざとく注意する慧音だが、今日この時だけは逆だ。

慧音ばっかりはしゃいで、私は静かに酒を飲む。

前来た時、妹紅はこう言う気持ちだったのかも知れない。

 

「……貴子、有難うな」

「何だよ藪から棒に」

「里を救ったのはお前だ」

 

慧音は何気なく言った。

普段からよく有難うと口にする慧音だが、今日のそれは殊更真剣だった。

改まって言われると、なんだか恥ずかしい。

それに……

 

「私は何もしていない」

 

薬は店に置いてあった物だし、看病の手際も悪かった。

特別な事なんて何一つ出来てない。

里を救ったのは慧音たちだ。

 

「お前は十分立派だ。お前が里に来てくれて、本当に良かった」

 

そう言って、慧音が深く頭を下げた。

せっかくの酒を呑む場なのに、そう言う事をされると些か反応に困った。

何も言えず二回か三回、ぎこちない愛想笑いを返したと思う。

慧音は面を上げて、また一つ盃を傾けた。

 

「一つ、話をしておきたくてな」

 

結局それかよ、と思った。

しかし、別に聞きたくない訳でも無かった。

思えば慧音が無駄な話をして来た事なんて、ほとんど無い。

面倒だったのは靴下の柄と禁煙の話くらいだ。

今からされる話も、きっと大事な事。

私は体を傾け、話を聞く体制を取った。

 

「妹紅についてなんだがな……」

 

明るく陽気だった慧音は、いつものように落ち着き、いつになく自嘲的に言った。

宵が深まっていく。

月明かりがぼんやりとしていた。

 

 

「私は人間とは呼べない」

「あぁ、聞いたよ」

「その事について詳しく話しておこう」

 

慧音が急に懐から紙と筆を出す。

それを私に手渡し、こう言った。

 

「ここに、私の名前を書いてみてくれ」

「名前?」

「あぁ」

 

何でそんなものを。

酔っ払っているかどうかのテストか?

言っておくが私は断じて酔ってない。

これでも結構酒は呑める方なのだ。

名前を書くぐらい雑作もない。

上白沢……っと。

 

「これでいいのか?」

「あぁ。そしたらその紙を良く見てくれ」

「紙?何で紙を……っ!?」

 

目が飛び出たんじゃ無いだろうか。

そう思うくらい仰天した。

何が起こったんだ。

今、確かに私は慧音の名前を書いた。

深酒で思考が朦朧としていた訳じゃない。

一筆一筆を克明に覚えている。

なのに、ハッキリとその紙には……

 

『上白沢けね』

 

と書かれていた。

 

「け、けね?な、何でだ。私はちゃんと書いたはずだぞ?」

「あぁ。お前はキチンと書いていた」

「なら、けねって……」

「私がそうした」

 

慧音が?

どう言う事だ。

新手の催眠術か?

それとも子供達に話題のマインドコントロールって奴か?

 

「歴史を食べる能力……それが私の力だ」

「……つまり?」

「お前が私の名前を間違えるよう、歴史を食った」

「そんな事ができるのか?」

 

慧音はうなづく。

どうやら、本当らしい。

疑おうにも証拠があるのだから。

歴史を食べる能力……。

なるほど、とりあえずこの能力については分かった。

しかし、何故そこに妹紅が出てくるんだ?

私が黙っていると、慧音はじっと私のことを見つめてきた。

まるで私から、何かを待っている様に。

二人して黙ってしまう。

その沈黙を破ったのは私だ。

 

「……慧音?どうかしたか」

「あ、あぁすまない」

「凄い力だな。なんだか、慧音らしい」

「……驚かないのか?」

「え?」

 

そう言うと慧音は悲しそうに目を伏せた。

目の光が濁る。

不安そうな横顔が煙の奥にあった。

 

「こんな力を持っているんだ。不気味ではないか?」

 

……確かに。

普通、今みたいな現象を目の当たりにしたら驚くべきだろうし、事と次第によれば恐怖するかも知れない。

目の前で起きたのは間違いなく、怪奇現象なのだから。

 

「私は、人間じゃないんだ。こんな能力を持っているからな」

「これでも色々な奴を見てきた。時を止めるメイドとかさ」

「……そうか」

 

慧音は何処か安心した様な目をする。

もしかすると、秘密を打ち明ける事で私に拒絶されるかもしれないと、心配していたのかも知れない。

生憎そういう神経は焼き切れている。

吸血鬼の館とか亡霊の屋敷とかを見てきた事が、意外な形で役に立った。

 

「それで、だ」

「あぁ」

 

そこから慧音は勿体ぶって二の句を継がなかった。

焦らされると余計に気になる。

しばらく言い淀んで、やっと踏ん切りがついたように言った。

 

「私は長命だ。あと百数十年は生きるだろう。ただ、それでもいつか必ず死ぬ」

 

そして、と付けて慧音は続ける。

 

「……いずれ、妹紅を置いて逝くだろう」

 

いつか、妹紅を置いて逝く。

慧音はそう言った。

妹紅は不老不死だ。

百億年経ったって、ずっと生きている。

そしてそんな体に至るまでの経緯を私は知っている。

だからこそ、慧音の言う事が嫌なほどわかった。

慧音がどれだけ長生きをしても、絶対に別れの時が来る。

そして、どう足掻いても遺されるのは妹紅の方だ。

 

「私はな、貴子」

「あぁ」

「妹紅と私の歴史を消そうと思ってるんだ」

 

何処かの茂みで、牛蛙が鳴いた。

生温い風に吹かれて草が擦れる。

何の為に……そう聞こうとした時。

慧音は――悲しく笑っていた。

 

「私が死んだ時、妹紅は心の底から悲しんでくれるだろう」

「……あぁ」

 

不意に、今朝の妹紅が浮かんだ。

慧音が少し倒れただけであの取り乱しだ。

もし死んだ時は、どうなるのか。

全く想像もつかない。

なのに容易に、映像が浮かんだ。

 

「だから妹紅が悲しまないよう、少しずつ歴史を食べていく」

 

そうして、私の事なんて忘れてもらう。

慧音はそう言った。

 

「……一緒に居てやれないのか」

「私だって居てやりたいさ」

 

そんなの矛盾している。

妹紅は慧音と一緒にいたい。

慧音は妹紅と一緒にいたい。

それなのに……何故別れる必要があるんだ。

棘を吐くように慧音は続ける。

 

「いずれ力が作用して、妹紅と私は他人になる」

「何で……」

「少しずつ、記憶が変わって行くんだ」

 

そんなの、あんまりだ。

妹紅は孤独を待っている。

千年級のヘビーな奴を。

それを埋めてやれるのは、慧音。

お前だけなんじゃないのか。

 

「妹紅の気持ちはどうなる!」

「……こうするしか無いんだ」

 

慧音は、落ち着いていた。

酒の勢いでこんな事を言うような人じゃない。

それはよく分かってる。

だからこそ、やろうとしている事の意味もよく理解しているはずだ。

 

「迷っていたんだ。今日、決心がついたよ」

「な、なんで」

「ちょっとの事で倒れるような奴と一緒にいたら、アイツが疲れてしまうだろ?」

 

慧音は笑った。

何もかもが上手くいかない時に何故か出てしまうような、笑顔だった。

多分、慧音だって酷く葛藤してるんだろう。

何度も何度も迷って、色々な事を試行錯誤して、その上で出した結論なんだ。

妹紅の事を想っているからこその答えなんだろう。

それでも……私は、反対だ。

 

「理屈は分かった。確かにいつか妹紅は絶望するだろう。大切な人を失うってのは、そういうもんだ」

「……やはり、そうか」

「でもな、人間は好き嫌いで生きるもんだ。論法で生きるもんじゃない」

 

そうだ。

一緒にいたいから一緒にいる。

それ以外の何があろうか。

悲しむせたくないから一緒に居ないなんて、無茶だ。

たとえ辛い別れが待っていようとも、それを払って釣りが出るくらい大切な人と過ごす時間ってのは尊い。

 

「いつか悲しませるのが嫌でも、ずっと一緒に居てやれよ」

「……やっぱり辛いな。駄目だ。アイツを泣かすなんて、耐えられそうも無い」

「そんなの……」

 

切ないだろ。

そう言おうとして、店主――ミスティアに止められた。

 

「貴子、慧音先生も辛いの。分かってあげて……」

「ミスティア……」

 

ミスティアは……泣いていた。

眦から大粒の涙を何滴もこぼして、私を止めた。

ミスティアは妹紅について色々知っているだろうし、良き理解者だろう。

そして、その上で肯定した。

慧音が、まるで余命を悟った病人のように儚い表情をする。

 

「違う」

「え?」

 

違う。

慧音は辛い。

聞いてる私だって辛いし、ミスティアだって泣いている。

それでも……一番辛いのは、妹紅の奴だ。

 

「私は反対だ。お前は教師だろ。辛くても教えてやらなきゃいけない事があると、私は思う」

「……お前なら、そう言ってくれると思ったよ」

「ならっ」

「貴子……すまない」

 

慧音がそう言った瞬間、水と混ざる絵の具のように世界が歪む。

真っ直ぐなはずの串が渦を描く。

揺れる視界に吐き気がする。

でも、まだだ。

何かを言わなきゃならない気がする。

ここで言うべき台詞があるはず。

……しかし、それをついぞ発せなかった。

最後に慧音は、笑ったような気がして。

それなのに私には、悲しい気持ちが伝わってきた。

 

 

 

 

幸せってのは、脆いもんだと思う。

素朴な事で、生きてて良かったなぁと思う事が有れば、どんな贅沢をしても心が満たされない事が有る。

百年続いた愛が、明日冷めない保証は無い。

幸せになりたいと思ってしまったら、今あるモノを失ってしまうかもしれない。

だから私は、今ある素朴な幸せを細々と感じれればそれで良かった。

例えば、里にある甘味屋で下らない事を喋りながら団子を食べてるとか。

例えば、紅葉を見に山を登って栗や木の実を沢山拾ったりとか。

そう言うありふれた一幕が、何よりも大切だ。

平穏な日々こそが一番の宝物、なんて陳腐だけどさ、色々な人がそれぞれの経験を通して、やっぱりその結論に至ったんだと思う。

私もその一人だ。

慧音と過ごす時間が何より楽しいし、幸せだ。

慧音が泣いていたら、私もずんと悲しくなる。

慧音が笑っていたら、私もとんと嬉しくなる。

本当、自分でも参っちゃうぐらいだ。

夜、一人で居ると猛烈な寂しさに襲われる時がある。

以前だったら何とも無かったのに。

その度に心臓が止まるような思いがして、吐きそうになる。

その度に、私は酷く後悔する。

一緒に老いていきたかった。

同じ墓に入りたかった。

いつか絶対来るその時の事を考えるだけで、死んでしまいそうだった。

いっそ死んでしまいたかった。

 

 

 

今日は朝から大変だった。

寺子屋が休みだから慧音と一緒に出かける約束をしてたのに、思いっきり寝坊した。

昨日の晩にワクワクしすぎて全然眠れなかったせいだ。

やらかした。

待ち合わせの時間まであと少ししか無い。

慧音は遅刻に厳しいから、もし遅れたら不機嫌になっちゃうし。

あぁ、せっかく髪の毛も整えて行こうと思ったのに時間が足りない。

何で寝坊なんかしたんだ私。

……結局、いつもの格好で行く事になった。

待ち合わせの場所である広場に着くと慧音がいた。

慧音はいつも私より先に着いている。

 

「ごめん、待った?」

「いや、私も今来た所だ」

 

嘘。

本当はずっと前に来てるのに。

慧音は嘘が下手だ。

顔に全部出てる。

 

「今日、寝坊しちゃってさ……」

「奇遇だな。私もだ」

「え?慧音が?」

「あぁ。実は、今日の事が楽しみで眠れなくてな。急いで支度してきたよ」

 

そうやって笑う慧音は、安易な表現だけど本当に美人だった。

朝の日差しがやたら良く似合ってた。

 

「慧音せんせー」

 

見惚れていると、不意に遠くから呼びかけられる。

あれは確か、寺子屋に通っている子だ。

 

「お使いか?」

「うん。卵を買ってこいって」

「それなら今日は三丁目に行くといい。安売りをしているそうだ」

「分かった!それで、今から先生はデート?」

 

な、マセた質問を……。

今時の子供って奴は本当に。

慧音はこの手のからかいに滅法弱いからなぁ。

顔が真っ赤だ。

 

「あぁ、デートだ」

 

はにかみながら答える慧音。

そんな照れることも無いだろうに。

新婚さんじゃないんだから。

生徒はニヤけながらお使いの為三丁目の方向へ走って行き、私たちは二人きりになった。

まだ顔を赤くしてモジモジしている慧音は。

私は不意に悪戯心が湧いた。

 

「それじゃ、今日はどこに行きますか?慧音せんせー」

「そうですねー。今日はお買い物に行きましょうか」

 

……少しだけ経って、私たちは同時に笑った。

 

「何だよそれ」

「そっちこそ」

 

そんな事を言いながら、足並みを揃えて歩いていく。

今日は慧音が買い物をしたいと言った。

どうやら、教室の備品を買いたいらしい。

 

「すまないな、折角の日にまで付き合わせて」

「いいよいいよ。前見たけど、結構色々足りて無かったし」

 

前というのは、疫病が襲った時の事。

子供たちが相次いでパタリパタリと倒れるし。

何人も寺子屋に運ばれて来た時は血の気が引いた。

 

「まずは、花だな」

「花……ってことは」

「あぁ。あの店だ」

 

賑わいのある人里、その中でも更に心臓部分。

千客万来の往来に、狼の群れに放り込まれた羊のような建物が一軒。

ボロっちい玄関口に立てかけてある看板と、店先に並べてある花の数々。

色々と話題に事欠かぬこの店の名は、フラワーショップ風見。

実にセンスのない名前だと思う。

どうせ名付け親は……

 

「いらっしゃい……って、慧音か」

 

こいつだろう。

店に入るなり目に入ったのは大量の吸い殻。

どうやら本格的に禁煙へのレジスタンスを始めたみたいだ。

……まあ、慧音に頭突きされたんだけど。

つくづく懲りない奴だ。

 

「言っておいた物はあるか?」

「あぁ、そこに置いてある」

 

貴子が気だるそうに指さした先には、生命力に溢れた花があった。

花は売り手に似ないらしい。

 

「生徒たちに育ててもらおうと思ってな」

 

慧音がそう言いながらその花たちを掴む。

青色の花弁が優しく光った。

 

「アサガオ?」

「あぁ」

 

目があって、慧音が微笑む。

何度も見た事のある顔なのに、またドキッとしてしまった。

本当、慣れないなぁ。

すると不意に貴子が悪どい笑みを溢す。

 

「おい妹紅知ってるか?」

「なんだよ」

「アサガオの花言葉はな、儚い恋だ」

 

……だから何だよ。

安っぽい冷やかしだ。

残念だけど儚い恋なんて大層な物、私には出来やしないさ。

 

「……ん?貴子、これ一輪多いぞ?」

「あれ?」

 

慧音が指折り数えて貴子に指し示す。

花を数えるも危ういなんて。

全く、これが慧音と同じ教師なんて考えられないよ。

 

「……なら、これは妹紅の分で」

「えっ」

 

アサガオを一輪手渡してくる貴子。

私はギョッとした。

何となく、それを受け取りたくなかった。

貴子が儚い恋だなんて言うからだ。

神なんて信じてないし、験は担がない主義だ。

けど、これだけは嫌だ。

遠慮しようと思った。

なのに慧音が満足気に、

 

「それはいいな。妹紅、お前も育てるといい」

 

って言うもんだから、とうとう断れなかった。

何だか縁起が悪いような気がした。

多分、慧音はそんな事全く気にしてなくて、曇りのない善意で言ってるんだろう。

……花なんて育てられるかな。

 

「いくらだ?」

「植木鉢やらも込みで……えぇーっと」

 

貴子がおぼつかない手つきで算盤を弾く。

今時、算盤なんて小さい子供でも弾けるのに。

ぎこちない動きでゆっくりと玉を動かす貴子。

慧音は反対側からそれを見ていた。

あれは生徒を見る時とおんなじ目だ。

しばらく経って、

 

「いいや、まけとくよ」

 

めんどくさくなったのか、そう言った。

そんな事を教師が許すわけもない。

 

「待っているから、最後まで計算しなさい」

 

慧音それ、生徒相手の口調。

貴子もこうなった慧音はとことん頑固なのを知ってるのか、渋々算盤を弾き直した。

またしばらく経ってようやく終わった。

 

「毎度あり」

 

貴子にそう言われながら私たちは店を出た。

 

 

そこからしばらく歩き、様々なものを買った。

行く先々で慧音は持てなされる。

律儀に毎回顔を赤くするんだから、ほんと真面目だ。

まあ、里を二度救った人だもんな。

話題にならない方が無理だ。

それのついでか、私も散々揶揄われた。

皆、仲が良いとか言って微笑む。

慧音はその度に照れてはにかむ。

お決まりの風景だ。

 

夕方になって、慧音の家についた。

整理整頓のされた慧音らしい部屋だ。

座布団に座ると、慧音の匂いがしてくる。

その匂いが、私は好きだ。

それを慧音に言うと顔を真っ赤にして恥ずかしがるから言わないけど。

私はいつも他愛もない話をして時間を潰す。

 

「人里の皆、元気そうで何よりだね」

「あぁ、安心したよ」

 

向かい合って座りながらお茶を飲む。

昼に買った羊羹を、二切れづつ皿に盛った。

お砂糖多めの慧音が好きな羊羹だ。

元々甘い物は苦手だったんだけど、慧音に合わせて食べてたら、何だか好きになった。

家に着くと慧音は落ち着いた表情をして、外にいる時よりも静かになる。

本人曰くリラックスしているらしい。

この時、私は慧音を独占しているような気分になる。

誰にも見せない、教師や人里の有名人としてじゃないありのままの慧音。

それを私の前で見せてくれることに、変な優越感がある。

 

「……今日は、有り難うな。妹紅」

 

慧音の口癖だ。

家に着くと慧音はいっつもこう言う。

その度、私はぶっきらぼうに「いいよ」なんて言う。

本当は、礼を言いたいのは私の方だ。

 

「今晩は、鮎を焼こうか」

「うん」

 

慧音は立ち上がって、エプロンをつける。

こっちで食べる時は慧音が、私の家で食べるなら私がご飯を用意する。

長年の間で培った暗黙の了解みたいな奴だ。

慧音は台所に向かった。

私は暇つぶしに、もらったアサガオを見た。

私のは赤い花をつけている。

慧音は、青色を育てるそうだ。

生徒に育てさせるなら、種を買えばよかったのに。

育った状態で買ったら、後は枯れるだけだと思うんだけど。

まあ、慧音の事だからきっと理由があるんだろう。

 

「もこー、すまないがちょっと来てくれー」

 

台所から慧音に呼ばれる。

焼き鮎のいい匂いがした。

私が向かうと、背伸びして高いところに置いてある皿を取ろうとしている慧音がいた。

 

「あそこの皿を取ってくれ」

「……ん」

 

お皿を二枚取って慧音に渡した。

有り難うの言葉も待たずに居間へと戻る。

慧音は少し背が低いのだ。

普段はあの変な(慧音に言ったら怒るけど)帽子とかで目立たないが、隣に並ぶと結構下に頭がある。

普段あんなにしっかりしている慧音の、一つの弱点だ。

 

 

「さ、出来たぞ」

 

鮎の塩焼きだ。

魚屋の主人が、慧音のためにオマケしてくれた。

程よく油の乗った身だ。

 

「いただきます」

 

慧音が合掌してそう言う。

私もそれに合わせて小さく呟く。

 

 

晩食を終え、風呂に入る。

私はいっつも慧音の後だ。

別に深い意味はない。

そして一段落つくと、二人でダラダラと喋る。

夜の女子会だ。

私も慧音も子供ではないが、女子会だ。

あそこの家に子供ができただの、生徒のテストの点数が伸びないだのっていう、取り止めのない会話。

いっつも下らない内容だけど、この時間は唯一無二だ。

そこで酒を呑むかは日によって違う。

今日は、呑む日らしい。

そういう時は焼酎を持ってきて、チビチビやるのがお決まりだ。

二人して雑談を肴に盃を煽る。

それで程よく盛り上がって一通り話が終わると、私は一旦帰ろうとするんだ。

そこでいっつも慧音は、暗いとか危ないとか言って引き止めるんだけど、それでも一回は帰る意志を見せる。

すると酔った慧音は寂しそうな顔をするので、やっぱり

今日は泊まる事にすると言う。

そして慧音が嬉しそうな顔をするまでが流れだ。

今日もそうなると思って、帰ると言った。

 

「……そうか。分かった。気をつけるんだぞ」

 

……あれ?

引き止めは?

寂しそうな顔は?

 

「今日は楽しかったよ……うん。楽しかった」

 

いや、止めてよ!

いつもはそこで止めるじゃん!

……まさか、いっつも反応を楽しんでるのバレた?

 

 

そこから引き返す理由を探し続けたが、最後まで見つからずとうとう竹林にある私の方の家についてしまった。

もっと、喋りたかったのに。

……寂しい顔をするのは私の方か。

 

「あ、そうだ」

 

アサガオ、植えておこう。

忘れぬうちにやっておくのは、大事だから。

……儚い、恋。

どうやら私にぴったりだ。

死ぬ事のない私。

墓無い、恋。

……慧音。

 

 

 

 

曇り空の日だった。

何だか、頭が痛かった。

気圧のせいだろうか。

それにしては、痛みが鈍い。

何だかやっておかないといけない事を忘れているような、そういう妙に釈然としない不安がする。

今日は人里で竹を売りに行く日だ。

……あぁそうだ、思い出した。

その帰りに、何処かへ寄って行こうと思ってたんだ。

……あれ?

どこに行こうとしてたんだっけ。

うーん。

思い出せない。

肝心な所のはずなのに。

……まあ良いか。

忘れるって事はそれほど重要でもないんだろう。

 

家を出ると、烏が低く飛んでいた。

明日は雨だな。

まあどうせ家から出ないし関係ないか。

竹を売って適当に酒でも買おう。

今年の竹は質が悪い。

冬が長かったおかげで竹炭は飛ぶように売れたが、別に出来が良かった訳じゃない。

むしろ最悪の質だった。

それは二度起きた異変のせいだ。

どうやら貴子はその二度の異変、両方に関わっているらしい。

活力のない奴に見えるけど、本当なんだろうか。

しかも里に起きた飢饉や疫病なんかまでアイツが一枚噛んでいるって言う噂だ。

そのせいで大人たちは貴子をよく思ってない。

けど本人は必死に看病してたし、私にはそこまで悪い奴には見えなかった。

評判は最悪だろうけど。

 

 

里に着き、問屋のオヤジさんに竹を卸した。

店を構えて売るのもめんどくさいし、さっさとまとめて売っ払った方が楽だ。

 

「あれ、今日は一人なの?」

 

世間話の延長で、問屋がそう言った。

今日は一人?

私はいつも一人だ。

誰かと行動を共にすることなど殆どない。

 

「いつも一人だよ」

「ん?あぁ、そうだったか」

 

不思議そうな表情で顔を傾ける。

とうとうボケたのか。

人間ボケると長話をする様になる。

話の長い人は苦手だ。

代金を受け取ったので、適当に話を切り上げ人里を散歩する事にした。

 

里をぶらぶらと歩く。

ポケットに両手を突っ込んでると、何だか心が落ち着かなかった。

何だろうか。

誰かに怒られるような気がする。

そんな事で注意をしてくる奴なんて知らないのに。

 

「おはようございます」

 

そんな事を考えていたら、不意に後ろから声をかけられた。

咄嗟のことで反応できず、無視する形になってしまう。

流石にシカトはできないので適当に会釈だけを返しておいた。

挨拶の主は少しだけ笑って、寺子屋の中へと入っていった。

あの人は、上白沢慧音だ。

人里の教師をしているらしい。

私も何度か喋った事がある。

話を聞いた感じは真面目な印象だった。

聞くところによると、里を二度救ったらしい。

お年寄りたちの人気者だ。

人里に住まない私には関係のない事だが。

 

 

日が傾いてきて、烏が律儀にカーカー鳴く。

今日一日は、ずっと漠然とした不安に駆られていた。

それを言葉にして説明することはできない。

でも、靴擦れのように拭えない違和感がずっとある。

それは深刻で、取り返しのつかないような間違いを犯しているような。

あぁ、イライラする。

もういい。

深く考えたって無駄なんだ。

どうせ時間はいくらでもある。

忘れるか思い出すかのどっちかなのだから。

寝よう。

明日がある。

 

 

 

雨だ。

しとしと降りの。

頭が痛い。

中をぐちゃぐちゃにされたみたいだ。

昨日よりもずっと痛い。

違和感はもっと強くなった。

これは気のせいで済むのか。

それとも……心まで妖怪になってしまったのか。

嫌だ。

もう動きたくない。

このまま消え去りたい。

雨音がうるさい。

 

朝飯を食べよう。

昨日人里で買った材料がある。

適当に塩焼きすれば完成だ。

さあ食べよう。

 

「……あれ?」

 

私、疲れてるのかな。

一人で食べるってのに。

何でお箸を……四本持ってきたんだろう。

二本しか使わないのに。

……まあ良いや。

さっさと食べて、それから考えれば良いや。

 

「…………」

 

また、違和感。

いつも一人で食べてるはずだ。

なのに、何でこんなに静かなんだろう。

いつも何一つ音なんてしないのに。

物足りない気持ちになるのは何故だろう。

こんなに寂しいのは……どうして。

……何で私、泣いてるんだろう。

 

 

気がつくと、人里にいた。

ここに来る意味なんてないのに。

行く場所なんて無い。

けど、脚が勝手に進む。

まるで操られてるみたいだ。

傘を忘れた。

雨が降ってるのに。

 

「……ここは」

 

気がつくと、あまり行ったことのない場所に着いた。

小さな子供が何人もそこへ入っていく。

傘をさして蠢いていると、小さなキノコのようだ。

 

「…………」

 

そこで一人の人間と目があった。

蒼い髪。

変な帽子。

確か寺子屋の教師だ。

名前は知らないが。

会ったこともほとんどない。

 

「……っ!」

 

頭痛が増す。

雨のせいで、体が震える。

あぁ、面倒くさい。

一回死ぬか……。

 

「……傘、持って行くと良い」

 

急に寺子屋の教師が傘を差し出してきた。

突然すぎてびっくりした。

見ると何だか泣きそうな顔をしている。

何でそんな表情をしているんだろう。

私まで辛い気持ちになった。

会ったことないはずなのに。

聞き覚えのない声なのに。

 

 

傘をさして、私は家へ帰った。

道中ずっと、嫌な気持ちがした。

雨音がやたらとうるさいのに、世界は静かだった。

 

「……花?」

 

何でこんな所に。

家の前に一輪のアサガオが植えられていた。

そうだ、私が植えたんだ。

何で……こんなものを植えたんだったか。

もう、なんでもいいや。

何をする気にもならない。

このまま死ねるんじゃないだろうか。

寝よう。

もう二度と目覚めないくらい。

 

 

何なんだ今日は。

こんな悲しいのは。

私は孤独だ。

ずっとそうして生きてきたはずなのに。

――こんなに寂しいのは、何なんだ。

 

 

動けない。

動きたくない。

このまま床に横たわって野垂れ死ねたら……あぁ幸せだ。

でも、意識はむしろハッキリしてくる。

何なんだよ、もう。

アイツに殺された時だって……こんなに悲しくなかった。

何がなんだってんだよ。

死にたいよ……死にたいよ、けーね。

……けーね?

誰だよそいつ。

聞いたこともない。

何だ?

 

その瞬間、何かに呼ばれた気がした。

まるで知らない誰かが私の体に乗りうつって、悪さをしてるような感覚だった。

気がつくと、部屋が無茶苦茶に荒らされていた。

やったのは、私だ。

机をひっくり返して、壁をどれだけ蹴ったって、心に雲はかかったままだ。

心に降り注ぐ雨は止まない。

もう……いい加減にしてくれよ!

 

「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」

 

そうやって、押し入れの引き戸をぶっ潰した時。

 

「……これは」

 

一冊の本が落ちてきた。

何処にでもあるような書物だ。

そこには走り書きのようなぶっきらぼうな文字で

 

『日記』

 

とだけ、書かれていた。

何だこれ?

私は日記なんてつけないぞ?

つけたって毎日同じような事を書くだけのはずだから――

 

『良いか妹紅。日記を書くと言うのは、ただの暇つぶしなんかじゃないんだ。こうして文字に残す事で思い出が歴史として残る。そうして、いつかの自分の支えになるんだよ』

 

唐突に、誰かの声がする。

心へ直接語りかけるような優しい声。

まるで包み込まれるようだ。

その声を……私は知っているのか?

私はその日記を恐る恐る開いた。

そこには確かに私の文字で、あまりにも沢山の事が書いてあった。

 

 

夏 対雨時行

 

今日から日記を書く。

日記なんて書いた事も無いし、書く内容も無い。

けど、――が書けとしつこい。

――は頑固だから、一度言い出したら仕方がない。

面倒だけど、気が向いたら書く。

 

今日の天気は晴れだった。

何の予定も無かったので、輝夜を殺しに行く。

結果は惨敗。

この所ずっとだ。

殺しても気持ちが晴れない。

むしろ暗くなる。

血塗れで帰ったら――に怒られた。

そんなに怒らなくていいだろうと言ったら、また怒られた。

私のために言ってるんだとか、そんな恩着せがましい事を――は絶対に言わない。

私にはむしろその方が、ずっと私の為に怒ってくれている気がする。

ひとしきり怒られた後、ご飯を食べて二人で喋った。

私の言い間違いがツボにハマって、――がずっと笑っていた。

 

 

今日は寒かった。

朝冷えで霜が降りてたから雨の匂いがした。

烏が低く飛んでいる。

それを見た――が、明日は雨だと言った。

烏が低く飛ぶと、雨が降るらしい。

結果はとんでもない晴天で――が気恥ずかしそうな顔をしていた。

過去の事が分かっても未来はわからないらしい。

何だか面白かった。

折角の晴れだから二人で遊びに行った。

色々なものを見て、その度に――が話をする。

役に立つ内容なんだろうけど、あんまり長いからその事を指摘した。

――は焦って、生徒にもそう言われたと言った。

私はその長話も嫌いじゃないけどね、と言うと、顔を赤くしていた。

私も――を上手くあしらえるようになったらしい。

 

 

今日は――と喧嘩した。

私が――を泣かせた。

一緒に死ねないなんていって私が困らせてしまった。

家に帰って、私も泣いた。

明日、謝ろう。

この日記の中でも謝っておく。

ごめんね、――。

 

 

 

読んでる内に、前が見えなくなった。

私は……大馬鹿野郎だ。

何で忘れてたんだろう。

出会った日のことを。

一緒に笑った日を。

泣いた日、泣かせた日。

怒った事と怒られた事。

楽しかった事を。

私はその名前を知ってる。

 

「上白沢……慧音」

 

――全てを思い出した。

深い靄が晴れるような感覚だ。

私は、何度もその名前を呼んだ。

 

「慧音……慧音っ!」

 

日記が、びしょ濡れになった。

頭痛は止んだ。

 

 

「慧音!」

 

雨の中、寺子屋の前に走った。

裸足で、傘もささずに。

会いたくてしょうがなかった。

人里の教師、人里の英士。

そんなんじゃない。

私の大切な人――

 

「慧音だ!」

 

やっと会えた。

その名前を私は知ってる。

その顔を、声を。

 

「……どうして」

 

私のことを見つめるその瞳。

あぁ、思い出した。

そうだ。

違和感は、これだったのか。

毎日見ていた顔を忘れるなんて、できるわけない。

 

「何で……思い出したんだ、もこぉ……」

 

土砂降りの雨のなか、慧音は泣き崩れた。

篠突く雨と同じくらい、多くの涙を流した。

 

「お前といてしまったら……悲しませるだろ。一緒にいて辛いのは、お前だけだ。だから私のことなど忘れて幸せに――」

「嫌だ!」

 

慧音のいない世界なんて……。

 

「そんなの、嫌だ!慧音が死んだら悲しいよ!でもそれは不幸なんかじゃない、幸せなんだ!」

「妹紅……」

「一人で幸せに生きていくよりも、私は慧音と過ごす辛さが良い!」

 

それが、幸せだったから。

だから……。

 

「だから……ずっと一緒に居てよ、慧音」

 

泣き腫らす慧音を、そっと抱擁した。

そうだ。

慧音が泣いた時は、いつもこうしてた。

胸に顔を埋めながら、慧音は泣いた。

 

「……っ済まなかった」

「会いたかった、ずっと」

「お前を悲しませたくなかった……」

「ごめんね。私のために。辛かったね」

 

慧音の肩をぎゅっと抱きしめる。

小さな慧音の肩は、あまりにも弱々しかった。

ずっとこうしていたかった。

時が流れて行く。

一切は過ぎて行く。

辛いことも多いだろう。

幸せなんて些細なものだろう。

それでも。

どんな雨が降ってようが、関係ない。

慧音が居れば。

 

「大好きだよ、慧音」

 

ずっと、一緒にいよう。

 

 

 

 

日記 夏 温風至

 

私は不幸だった。

親や友人、この国までが私の事を化物と呼ぶ。

でも、たった一人だけ、私を妹紅と呼ぶ人がいた。

その人は、人も妖も殺し尽くしてその両方の道を踏み外した私を、受け止めてくれる人だった。

その人といる事が幸せだった。

ご飯を食べて風呂に入って、たまに遊んだりして。

そんな事がこんなに楽しい事だなんて、知らなかった。

私の事を、人間に甦らせてくれた。

泣かしたりした事もある。

その度に仲直りをした。

愛するってことを知った。

人間になった。

 

ありがとう、慧音。

 




アサガオの花言葉には、もう一つあります。
それは、安らぎに満ち足りた気分。
それと、明日も爽やかに。
妹紅は人間になれました。
慧音先生もまた、人間です。
もこけーねに朝顔を。
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