――とある亡霊の愚痴
全裸になったのにまだ勝負をしようと言い出した時は、本当に可笑しくて仕方がなかったわ。
あんなに簡単な幻覚に引っかかっておいて、もう一度やろうなんて普通は思えないはずよ。
そもそも私は一度蝶を見せているはずなのに、それでもやろうなんて言うんだから、まともではないわ。
ただ、それ以上に勇気があったわね。
……私がお風呂に入っている所を覗こうとした事は、勇気と言っては失礼かしらね。
震える心を押さえつけて14月の札を出してきた時はまさかと思ったけれど……貴子がこの屋敷に来て本当に良かったわ。
死んだ魂は皆どれも未練たらしくて、臆病で、つまらないものなのに、死んでもなお未練も無く勇敢な人が現れるなんて、これが運命なのかしら。
輪廻転生出来なかったのも、妖忌と知り合いだったのもきっと全て運命の巡り合わせね。
……この屋敷も、それを受け取ったのかしら。
白玉楼は決して朽ちることのない屋敷。
たとえ1000年経ったって今と変わらぬ姿を維持しているの。
なのに貴子ったら、来てものの数日で勢いよく床板を踏み抜いたのよ。
きっと、生きていたのね。
止まっていた時が動き出すようだったわ。
……だけれど、その白昼夢に当てられたのかしら。
急に放たれたとしても西行妖の弾幕なんて、私からしたら何ともないのだけれど、あの博麗の巫女は不意をつかれて避けきれなかったのね。
あれを見捨てていれば私はきっと無事だっでしょうけど。
それこそ、貴子の力を借りずにアザを消せていたかもしれないわ。
けど貴子を見て、紫や藍ちゃんが大切に育てた子を見捨てるなんていう簡単な事が、出来なくなっちゃったのね。
本当、困った人だわ。
でも、手鏡を買ってきた時からきっと全部決まってた事なのね。
あの暗号を、見抜いてしまうなんて本当に面白い人だわ。
妖夢に変な事さえ教えなければ、の話だけどね。
――とある庭師の回想
貴子さんが来た時は、まるで葵風が通り抜けたような感じでしたね。
最初、お酒屋さんで見た時には、やたらうるさい変な人だと思ったんですけど。
というか、実際変な人ですし。
でも、何て言えばいいか、貴子さんってとっくに死んでるのに、どこか死ぬ気なんですよね。
それくらい何事にも必死で、一生懸命で。
きっと頭の中では色々不安とか恐怖とかあるんでしょうけど、それを全部乗り越えて一歩踏み出してしまう強さがあるんです。
だからこそ、幽々子様を救う事ができたんだと思います。
ところで、貴子さんの言っていた「くるみぽんちお」とは一体何のことなのでしょうか。
幽々子様に聞いても困った顔をして黙ってしまうし、藍さんに聞いても耳をピクッと立てて怒っちゃったんですよ。
そんなに悪い言葉なんでしょうか。
貴子さん曰く、大人に近づく為の言葉だそうなんです。
あの人は、私の方が遥かに年上である事をしばしば忘れたかのような物の言い方をします。
子供扱いはして欲しくないんですが。
こう見えてもお酒は結構飲めますし。
あと、平気で煙草の吸い殻を庭に捨てようとしたのも驚きました。
今までどんな環境で暮らしてたのか、少し不安になります。
もし、今度お家にお邪魔させてもらう機会があったら覚悟しておいて欲しいですね。
……もう会うことは無いんでしょうか。
今生の別れ……いや、もう生きてないから、今死の別れとでもいうんですかね。
一緒にいた時間は長くないですけど、居なくなったらなったで少し寂しかったりもします。
まあ、幽々子様の湯浴みを覗こうとする人がいなくなるのはいいことかもしれませんね。
――げんきげんきヤマタン
彼岸幽霊街極楽番地是非曲直庁断罪部転生課人間係所属四季映姫。
まるで説法でも綴られてるのかと思うような肩書きを映姫は持っていた。
彼岸 幽霊街 極楽番地
これは職場の所在地であり、
是非曲直庁 断罪部 転生課 人間係
これは映姫の所属と役職である。そして、
四季映姫。
これは映姫の名前である。
とかく目眩がしそうなほど漢字が多いその肩書きは、部下の死神から「思春期の少年がこういう詩を書きがち」と絶賛されていた。
そんな、筆と硯で書いていたら気が狂いそうなほどに長い役職名を持つ映姫には今、悩んでいる事柄があった。
原因は言うまでもなく貴子である。
貴子は一度死んで、映姫から来世の判決を受けた(転生不能という結果であったが)にも関わらず、あろう事か天下無法の蘇りを果たしてしまったのだ。
無論、死んだ者が生き返るなどという事があっては、死と生の調和が崩れ世界が崩壊するかも知れない。
まあ、それほどの危険度など、あの自堕落なだけの一般人にある訳もなく、今お上方が憂慮しているのは貴子を捕まえれなかったという面子の問題だが。
とはいえ、噂によれば紅魔館の連中によって貴子は復活したそうだ。
紅魔館と白玉楼。
幻想郷でもかなりの力を持つ二つの派閥と関わりを持っている事から、もはやただの一般人とはいえないかも知れない。
ただ、覆水は盆に帰ってはいけない。
それと同じように、死人は盆にしか帰ってはいけないのだ。
ただ、映姫が悩んでいたのはその事ではなかった。
出会い頭に貴子がチラッと言った「映姫はノンタン」という台詞。
映姫は、それが気になって仕方がなかったのだった。
「……ノンタンって、知っていますか?」
「は?」
閻魔室に呼び出した小町に、前振りもなく問いかける。
昨日酒を呑み散らかしていた事のお説教かと覚悟していた小町は、思わぬ質問に変な声が出てしまった。
「ノンタンとは、一体何者なんでしょう」
「……げんきげんきの奴ですか?」
「恐らく」
「それがどうかしたんですか?藪から棒に」
「どうやら、私はノンタンらしいんです」
「ええ……」
顔に手を当てて状況を理解しようとしたが、映姫の言っている事が全くわからない小町。
二日酔いも相まって鈍い頭痛がした。
「何で映姫様がノンタンに?」
「この前白玉楼に行ったら貴子さんに言われました。その意味が分からず悩んでいまして……」
「分からなくていいと思いますよ」
「なりません。閻魔たる者、無知を緩怠しておくなどあってはいけないのです」
厳粛な顔をして言い切る映姫。
ただならぬ物言いに、小町は少し姿勢を正して言った。
その凛然とした表情を見て小町もニヤつくのをやめる。
「……ノンタンっていうのは、子供向けの絵本の事です」
「え、絵本?」
厳粛な顔が壊れた。
小町は少々お待ちくださいと言って、どこかへと走って行く。
「何処へ行くのですか?」
「資料室です」
ほどなくして帰ってきた小町の腕の中には、一冊の本が抱えられていた。
映姫の机にそれを広げる。
「これがノンタンです」
「こ、これは……」
そこに描いてあったのは、悪戯好きの白猫が野原を駆け回るという物だった。
映姫は絶句し、ペラペラと何ページかめくっている。
開くたびに現れる白猫の奔放な振る舞い。
小町は、さすがに怒るだろうかと思い少し肩をすくめた。
「これが、ノンタンですか……」
「ええ。全く貴子の奴……」
「す、素晴らしい!」
映姫は急に勢いよく席を立ち上がり、小町に向かって振り立てた。
「ノンタンがこんなに教育的な物だったとは!このような道徳的な者と称されるとは冥利に尽きます!」
「は、はぁ」
目を輝かせながら力説し始める映姫。
予想外の反応に、小町は変な所が痛くなった。
「なるほど、なるほど」
「お気に召されましたか?」
「ええ、これは是非皆に広めるべきでしょう!」
「いや、それは……」
たしかに、映姫はノンタンかも知れないなと思う小町であった。
「それでは、仕事がありますんでこれで」
「ちょっと待ちなさい」
部屋からこっそり出ようとした所で食い止められる小町。
「もう一つ話があります」
「な、なんでしょう」
「私の元に、酒屋からいくつか領収書が届きまして。宛名が私の物になっていました」
「……それは大変ですね」
「その金額分、来月の給料から減額しておきます」
「そ、そんなの酷い!」
「昨日お酒を呑んでいた罰です」
「やっぱりバレてたんですか……」
膝から崩れ落ちる小町。
映姫は、現金現金なノンタンなのであった。
――霧雨魔理沙の災難
紅魔館で、魔理沙はいつものようにパチュリーから魔法の指南を受けていた。
今はその休憩中、魔理沙の細やかな楽しみでもあるティータイムであった。
「やっぱりここの紅茶は美味しいぜ」
「紅茶好きな従者がいるのよ」
「そりゃえらく殊勝なこった」
「ところで魔理沙、貴方最近アリスと仲が良いのね」
飲んでいた紅茶を少し吹き出して蒸せる魔理沙。
「アリスを知ってるのか?」
「ええ。少し付き合いがあるわ」
「なら仲が良いなんて言うなよ」
異変の時、雪に降られながら涙を流しているアリスの顔が魔理沙の頭に浮かんだ。
「あの子……少し変わってるところがあるのよね」
「あぁ。少しどころじゃない」
「普段はいい子なんだけど……」
「毎日嫌味を言いに来る奴がか?」
「負けず嫌いなのよ」
「負けを認められないのは悪徳だぜ」
気を取り直して紅茶を飲むと魔理沙。
パチュリーは溜息をつく。
「悪い奴じゃ無いのは確かよ」
「迷惑な奴なのも間違い無いな」
「貴方も人の事言えるかしら?私の術式を勝手に引用したりしてるそうじゃない」
「参考にはしてるが引用なんてしてないぜ」
「同じことよ」
「……今は確かに受け売りだが、近々すごい技ができる」
「へぇ。今度は誰の真似?」
「真似じゃない!私だけの魔法だ」
「あまり成果は芳しくないようね」
「そ、そんな事……」
「不完全燃焼の魔力が服に滲みてるのよ。魔法の失敗がありありと伝わってくるわ」
「アリスみたいな事を言うなよ」
「誰だって言うわ。優しさで」
「……未完成なだけだ。今に完成する」
「魔理沙、ずっと言ってるはずよ。貴方は火力を上げる事よりも魔力の制御に重きを置くべきと。それ以上出力を上げ続ければ、いずれ人間を辞めなければなくてはいけないわよ?」
「聞きたかないぜ。そんなお説教」
そっぽを向いて口を尖らせる魔理沙。
聞く耳無しである。
「……あら、アリス。ご機嫌よう」
「な!」
すぐさま席を離れ、本棚の影に隠れようとする魔理沙。
パチュリーは黒い笑みを浮かべる。
「嘘よ」
「……何のつもりだ」
「よっぽどアリスが苦手なのね」
「苦手じゃないぜ。面倒なだけだ」
パチュリーの笑みが深くなる。
魔理沙は少し嫌な予感がした。
「面倒なのはお互い様ってことよ」
「お前も含めてな」
「魔女ってのは面倒な生き物なのよ」
「あーそうかい」
席に座って頬杖をつく魔理沙。
その顔は納得の色ではなかった。
「……魔理沙」
「なんだよ」
「あの子を、よろしく頼むわよ」
「なんだ急に。悪寒が走る」
「魔女っていうのはね、ガラスのようなモノなのよ。面倒だけど透き通っていて……そしてなによりも脆いわ」
「お前は曇ってるがな」
「ええ。でもあの子は透明なままなの。くれぐれも割らないでちょうだい」
「……お前さては私がアリスを泣かすとフォローが面倒なだけだろ?」
「…………」
「その反応!図星だな!」
「さ、再開しましょうか。言ってたモノは持ってきたわね?」
「露骨に話を逸らすなよ」
「例のキノコは持ってきたのかしら?」
「……あぁ。キノコなんていくらでもあるからな」
「それじゃあアグニシャインの式から……」
――暗号の真実
長閑な春のある日。
八雲紫は白玉楼にやってきて緑茶を啜っていた。
そして湯呑みを机に置いた時、茶菓子のそばに置いてある紙に気づく。
その紙を手元に寄せて、そして少し吹き出した。
「あら、懐かしいわねぇこれ」
「何?」
「この暗号よ」
「あぁ、それの事」
紙に書いてあったのは、幽々子が妖夢に出題した怪文であった。
その内容は、
『前略 憂き世の暇を明け、離せぬものあり。それが死。朽ちて各地、智学口身を求め、彼岸の華も枯れる折、後ろの正面、貴方はだぁれ? 草草』
というものだ。
紫は懐かしそうにその紙を何度も読み、幽々子は微笑んでいる。
「本当に懐かしいわねぇ。これでお使いを頼むなんて本当に意地の悪いこと」
「簡単な掛け言葉よ?」
「簡単ねぇ……」
「ええ。貴方もすぐ見破ってたじゃない」
「そうだったかしら?」
「それで妖忌に見せて、悩んでるのを見て笑ってたのよ」
「あぁ、あの時は愉快だったわねぇ」
紫は目を細めて遠い昔の思い出を懐かしむ。
あの時は、楽しかったものだ。
「それを妖夢にも出題したのよ」
「あら、可哀想な事をするのね」
「それが、たった3日で正解の手鏡を買ってきたのよ……貴子っていう付属品も込みだったけれど」
「そうなの。妖夢もやるわねぇ。あの子には少し難解すぎない?」
「それはそれは自信満々な顔をしていたわ」
「そう。見破られたのね」
紙をもう一度見て、ほんの一瞬だけ黙る紫。
そして顔を上げる。
「要は『憂き世の暇を明け離せぬ物あり』って言うのは、離せぬは話せぬ。つまり死人に口無しって事よね?」
「えぇそうよ」
「それが死は某、つまり自分。そして、その後に続く文から『く』と『ち』を無くせば、手鏡って訳ね」
「よく覚えてるじゃない」
「今解いたのよ。こんなのよく妖夢が解けたわね」
「妖夢は解けてないわ」
「え?」
紫は不思議そうな顔をして幽々子を見つめる。
解いていないのに買ってこれる訳がない。
どういう事だろうか。
賢者は少し悩んだ。
「解けていないとはどういう事?」
「妖夢にこれの意味を聞いたら、急に意気揚々と語り始めたのよ」
「何を?」
「聞いたことも無い昔話。内容はとても陳腐だったわ。なのに妖夢ったら、語りながら泣き始めるのよ」
「……どういう事かしら?」
「おおかた、貴子が吹き込んだのでしょうね。妖夢に手鏡を買わせる為に」
「あら、なら難問を解いたのは貴子?」
「貴子に解けると思う?」
「それもそうね。だとしたら誰が……」
「妖忌よ」
「え?」
聞き覚えのある名前が幽々子から聞こえた。
馴染みがあるのに、今その名前が出てくる事に違和感が拭えない。
なぜ妖忌が出てくるのだ?
「妖忌と出会ったの?」
「妖夢はね。顔を隠してたから気づいてないらしいけど。酒屋であったそうよ」
「あら、偶然の相席?」
「ええ。客と店としてね」
「……そう」
感動の再会は、利益関係としてだった。
不器用な関係性は相変わらずだ。
幽々子は滔滔と語り続ける。
「妖忌も、口ではなんだかんだ厳しい事を言っておきながら、結局妖夢が心配なのよ」
「……立派な孫煩悩よねぇ」
「きっと、自分の時のように何ヵ月も悩んで欲しくなかったのね」
「あの時、妖忌ったら悩んだ末に買ってきたのは赤ベコだったものね」
「妖忌も、あれで結局は妖夢の事が大好きなのよ」
「……あんなしみったれた所で店なんかやってるのも妖夢の為かしら」
「本当、歳をとっても変わらないわねぇ……そうだわ。今から行きましょう」
「何処へかしら?」
「決まってるじゃない!妖忌の店よ!」
立ち上がって幽々子の手を引く紫。
妖忌の店に、新しい女性の常連さんが増えるのは遠くない未来であった。
――被害者と加害者
「貴子!貴子なの!?」
とある日の紅魔館にて、閑静な雰囲気を断ち切るかのようにフランの大声が響き渡った。
音の出どころは一階右手にある大食堂。
貴子が昼飯のパスタを食べているところであった。
「あぁ、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。恥ずかしながら、帰ってきました」
パスタを巻いていたフォークを置き、汚れた口をナプキンで拭いてからフランに挨拶をする。
ここに戻ってきてからもまぁ色々とあり、フランとは顔を合わせれていなかったのだ。
フランはじっと貴子の顔を見つめて、そしていきなり大粒の涙を流した。
「貴子……っごめんね」
「え?」
そう呟く声は細く、肩は震えている。
スカートの裾をぎゅっと握りしめて、途切れ途切れながらフランは言った。
「私……貴子の事を……っ殺したの!」
「えっと……」
「それなのに、帰ってきて喜んじゃうなんて……図々しいよね……ごめんねっ……」
「……泣くのをおやめください。フラン様」
膝をかがめて顔の高さをフランと合わせる。
そして、頬を流れていた涙を人差し指で拭った。
「私は、またフラン様にお会いできて本当に嬉しいです。フラン様はどうですか?」
「っ私も……私も嬉しいよ!」
「でしたら、もう泣くのはおやめください。泣くのは哀しい時だけにしましょう。嬉しい時には、大きく笑うのですよ」
「怒って……ないの?」
「怒ってません」
「私の事……嫌いじゃないの?」
「ずっと大好きのままですよ。フラン様」
「……また、フランちゃんって呼んでくれる?」
「ええ。また会えて本当に嬉しいです。フランちゃん!」
フランは貴子の胸へと飛び込み、ワンワンと声をあげて泣いた。
顔を擦り付けて、泣いた。
周りの妖精たちも最初こそ野次馬で見ていたが、フランの切ない涙を茶化すものなどいなかった。
貴子は、フランの頭を優しく撫でる。
「もう、どこにも行きません」
「うん……うん!」
周りで高みの見物を決めていた連中たちもおいおいと涙を流している。
遠くでスープを飲んでいた美鈴も声をあげて泣いていた。
貴子は、何故かいい匂いのするサラサラの髪の毛をゆっくりと撫でながら、ゆっくりと安堵の溜息を吐いた。
(……危うく咲夜さんに殺されるところだった)
実は、フランが泣き出した時に貴子は見てしまったのだ。
とんでもない表情でナイフを構えている咲夜を。
鋭い光を放っている銀の刃を。
咲夜との距離は遠く、詳しい会話までは聞こえていない。
つまり咲夜視点では、貴子がフランを泣かしているようにしか見えないだろう。
その危険を察知した貴子は、フランを泣き止ませるべく行動したのであった。
無論、泣き出したフランにかけた言葉は嘘ではない。
誠正直、本心からの想いである。
その動機が、咲夜のナイフであることを貴子は心にしまっておくのであった。
しばらくして、フランが落ち着いて泣き止んだ後、貴子は洗濯室へフランの涙やら鼻水やらがのついた服を着替えに行った。
古い方をカゴに入れて、いそいそと新しい方に着替えていると、
「フラン様を泣かすとはね」
という声が後ろから聞こえてきた。
「やっぱり見てたんですか?咲夜さん」
「見られてたら嫌なのかしら?」
「もうお説教は懲り懲りですから」
「お説教なんてしないわよ。貴方はお客様なの。従業員では無いわ」
「その割には結構働かされてますけどね」
「そのセリフは役に立ててから言ってちょうだい」
「ところで……」
スカートのチャックを締め、咲夜の方を振り向きながら貴子は言う。
その顔は珍しく真剣であった。
「お嬢様はお風呂って入りませんよね」
「……ええ。水が駄目なのは知ってるでしょう」
「とすると、フラン様も入ってませんよね」
「……そうね。それがどうかしたの?」
咲夜の問いかけに、少しだけ間を置いて貴子は答えた。
重々しく、まるで世界の滅亡を告げるような雰囲気で。
「フラン様の髪の毛、なんであんないい匂いなんでしょうか」
「……はぁ?」
「あんな芳醇な香りを……そうすると、もしかしてお嬢様も!」
そう言って勢いよく駆け出そうとした所を、咲夜に持っていたお盆で思いっきり叩かれた貴子であった。
「変態は死んでも治らないのね」
――被害者と加害者 その2
「橙!そこで右足を出してどうする!相手が右手でこう突いてくるだけだぞ!」
藍が橙の顔を目掛けて拳を撃ち放ち、わずか数センチの所で止める。
「常に相手から目を離すな。死にたいのか?」
「そんな事言ったって……拳での戦いは禁止されてるって藍さまが教えてくれたじゃないですかぁ」
「馬鹿者!それは人間の話だ!我々妖怪は往々にして拳をぶつけ合う。弱い者が死ぬのが妖怪の世界だぞ!」
「そんなぁ……」
「今のだって実践なら殺されてる所だ」
「でもぉ……」
「口答えをするな!」
藍が橙の頭をゲンコツで殴る。
鈍い音が鳴り響き、橙はタンコブの出来た頭を押さえながら蹲った。
「さあ、続きをするぞ」
「……もう藍様なんて嫌い!」
「あ!待て橙!どこへ行く!」
「べー!」
黒猫に化け、藍から逃げようとする橙。
しかし、藍から逃げ切れる訳もなく、逃亡虚しくあっという間に捕まってしまった。
首根っこを捕まえながら橙はプイッとそっぽを向く。
「この大馬鹿者!」
「橙馬鹿じゃないもん!」
「弱ければ馬鹿にされる。お前は強くならなければいけないんだ」
「馬鹿は藍様の方だ!」
「な、なな、なんだと!?」
「私、貴子から聞いたもん!」
貴子という名前に少し動揺する藍。
奴には自分の恥を知られているのだ。
まさか……よりにもよって橙に言ってしまったのか!
「藍様が美鈴っていう人に負けたって、貴子言ってたもん!」
「な!」
「弱い者が馬鹿にされるなら、藍様も美鈴って人に馬鹿にされちゃえば良いんだ!」
「……聞いたのはそれだけか?」
「え?」
「私が美鈴に負けたと……それだけ聞いたんだな?」
「そ、そうですけど」
よかった。
どうやら気を使われたらしい。
あのような人間に気を使われたなど恥の極地だが、どうあれ感謝せねばならない。
だが、私に不信感を持っていては橙も修行に身が入らないだろう。
「いいか橙。アイツは大嘘つきなんだ。私が美鈴とやらに負けるはず無いだろう」
「でも……」
「アイツは教育に悪い。あまり近寄るなと言ったろう」
「だけど、藍様の方が教育に悪いって……」
「そんな訳無いだろう。ついてきなさい」
両袖に手を入れて、藍は踵を返した。
橙も慌ててついていく。
その行き先は紅魔館であった。
「あぁ……久しぶりですねぇ。何の御用ですか?」
「貴様に決闘を申し込みにきた」
「……なるほど」
中華服のポケットに手を突っ込みながら、門の前に立つ美鈴。
早くも気を溜め始めている。
それを受けて藍も妖気を溜め始めた。
橙には、遠くから見させている。
今、復讐を果たす時が来たのだ。
消えぬ傷跡をつけられたコイツに。
「久しぶりに燃えてきましたよ」
美鈴はポケットから手を出して、武人の構えを取る。
風の向きが美鈴を中心に変わる。
にじりよる両者の間合い。
先手を打ったのは藍だった。
空気を鋭く切り裂く右手。
美鈴は髪の毛スレスレでそれを躱した。
グッと屈んで、素早く足払いを返す。
それを飛び上がってよけ、空中で四発蹴りを放つ藍。
目にも止まらぬ攻防……だが、三度目の藍の突きを、美鈴は顔面でモロに受けてしまった。
響き渡る骨が折れるような不快な音。
後ろに吹っ飛んで倒れる美鈴。
「ぐぅあ!」
悶絶する美鈴。
しかし、苦悶の表情を浮かべていたのは拳を放った藍の方であった。
倒れた美鈴に向かって問いかける。
「貴様……どうして手を抜く」
「ぐぐぐ……やられたぁ」
「質問に答えろ!紅美鈴!」
声を荒げる藍。
今の拳は、明らかに避けられるものだった。
少なくとも一度目の決闘の時なら、あんな拳目を瞑ってでも避けられていたはずだ。
それに、返し技だってどれも陳腐なものばかり。
空手を習い始めたばかりの白帯が出すような拳だった。
「……子供が見てるんでしょう」
「だからわざと負けたとでも?舐めるな!いらぬ気遣いだ!」
美鈴の発言に激昂し、右手で顔を目掛けて突きを放つ藍。
先程の拳の数倍は鋭かった。
しかし美鈴は地面に座っていながら楽々それをいなす。
「確かに、全力でやったって勝負は五分でしょう。でも、そんな血生臭い戦いなんて子供にはまだ早い」
「橙は子供ではない!立派な妖怪だ!」
「私も、親ですから」
立ち上がり、膝についた土埃を払いながら美鈴は言う。
「見せたくないものは見せない。それくらいはさせてください」
「見せなければならない事もある。橙の為だ」
「もう、見てませんよ。ほら」
美鈴が指さした先には、蝶々を追いかけている橙の姿があった。
フワフワと舞うモンシロチョウを必死に捕まえようと、草むらを駆け巡っている。
「っあの馬鹿!あれほど見てろと……」
「子供というものは、親が何もかも決めちゃいけないんですよ。自分で世界を見つめて、好奇心を持ち、学んでいく事事が大事。それは人も妖も変わらない事です」
「……貴様に何がわかる!」
「私も、人間を一人育てた事がありますから。時間を止められるなんていう困った子供を」
「……だから教育に口出しできると?」
「教えて育むと書いて教育です。そして、成るまで長いと書いて成長と読むんです。慌ててはいけません。妖怪なんだから、焦らなくて良いじゃないですか」
「知ったような口を……」
門にもたれかかり、タバコを咥えようとしたところで、
「あぁ、子どもがいるんでしたね」と言って箱に戻す美鈴。
「とにかく、あまり厳しくしすぎないであげてください。押し付けた教育なんて辛いものですよ……親も子供も」
「……まるで覚えがあるような言い方だな」
「ええ。私も同じ過ちを犯しました。けれど、それではダメだと気づかされたんです。だから今、元気に育ってくれている事に感謝しています」
「……少々おてんばが過ぎるようだがな」
そう言って藍が指さした先には、野原を駆け回る橙……の後ろから、虫取り網を持って橙を追いかけ回している咲夜がいた。
四本足の橙と変わらない速度で駆け回っている。
「待て!化け猫!」
「待てば死ぬ!」
ぐるぐると円を描くように追いかけっこを続ける二人。
最後は、諦めたのか咲夜が時間停止をしてどこかへ消えた。
「……とまぁ、大らかに育ちました」
「ああ言うのを間抜けと呼ぶんだ。覚えておけ」
「魔が抜けてるなら喜ばしいことです」
「……蛙の子は蛙だな」
そう言って、相手にならないとばかりに門を後にする藍。
その後ろから声がかけられる。
「決闘なら、いつでも歓迎です。ただ、今度は二人っきりでお願いします」
「……ふん」
――逆さ水
「あら、花札なんか出して何をしてるの?妖夢」
「あ、幽々子様……実は」
妖夢は、貴子が出した14月の札が気になっていたのであった。
貴子が出した、蓮に龍。
それが、幽々子を討ち運命を変えたあの勝負以来、どこを探しても見当たらないのだ。
貴子が寝泊まりしていた桐壺は掃除したし、ありそうな場所はあらかた探した。
それこそ、箪笥の隙間なんかも。
そこからは、貴子が持っていたサイコロなんかはゴロゴロと見つかるのに、虎の札だけがどこを探しても見当たらないのだ。
妖夢には、何故かそれが気になってしょうがなかった。
「幽々子様、ご存知ありませんか?」
「そうねぇ……確かに言われてみればあの時、勝負が終わった後山札に戻していたし、無くなるのも変ねぇ」
「やっぱり、貴子さんがあっちに持っていったんでしょうか」
「いや、それは無いわね。死人が此岸に持っていける物は限られているわ。逆はそうでもないのだけれど」
「そうなんですか……ならどこへ?」
「うーん……もしかすると」
幽々子は何か思い当たる物があるのか急に立ち上がって何処かへ行った。
妖夢も後に続く。
「……やっぱり」
幽々子は、屋敷を出てある一本の桜の木の下へと歩いて行った。
件の、西行妖である。
その前で立ち止まり、笑ってるような驚いてるような顔をしていた。
「幽々子様〜何があったんですか?」
「妖夢。ご覧なさい」
「何がって……これは!」
目に入るのはバッサリと切られた西行妖。
しかし、驚く事にその木の幹は、3日ほどでほとんど元通りになっていたのだ。
ただ、それは妖夢たちも知っていた事であった。
驚いたのはそこでは無い……。
「……14月の、札?」
「ええ……こんな所にあったのねぇ」
「貴子さんが置いたんでしょうか……何の為に?」
「さあ……」
幽々子がゆっくりと札を手に取った。
書いてあるのは、何の変哲もない龍の絵だ。
一度目にした事もある。
「特に変な所は……」
すると、妖夢が札を指さして声を上げた。
「あ、幽々子様!後ろに何かが!」
「え?」
ペラリと札を裏返した。
そこには、綺麗な若葉色に、すこし乱れた文字で何かが書いてある。
「……これは」
願はくは 花のもとにて 春死なむ
その如月の 望月のころ
何処からか、一片の桜の花びらがそよ風に乗って、貴子の手へと乗った。
麗かな沈黙。
ポタポタと、幽々子の顔から雫が溢れた。
「……幽々子様?」
「うふふ。まさか……貴子に、泣かされちゃうなんてねぇ」
「もしや、不快な事が?」
「いいえ、逆よ。それはそれは愉快なこと」
『どうせ死ぬのなら、花の咲く春に死にたいものねぇ』
遠い昔の、誰かが言った。
着物を着た、桃色の髪の女が。
「……あぁ、懐かしいわねぇ」
暖かい彼岸西風が、幽々子の髪を揺らすのであった。
最後の句は、西行法師の辞世の句です。
生前の記憶がない幽々子に、見えた物は何だったのでしょう。
ここまで書けて自分でも驚きです。
読んでくださり、本当に嬉しく思います。
一つ一つのアクセスに胸を弾ませている所存です。
永夜抄編 次回から
お楽しみ