──中つ国の中でも有数の尾根であり、エリアドールを東西に分かつ霧ふり山脈の山道にて。
カツンと、石突が硬い地面とぶつかる音が狭い空間に木霊した。
「これは……旅人の一行がゴブリンたちの犠牲になったのかな?」
そう呟いた人物の装いは旅人のそれ。槍を持ち、弓を背負ったその人物は灰色のマントを着込み、同じ色のフードをすっぽり被っている。肩の辺りで二つに結わえられた黒の長髪がフードの外へと零れていた。
彼女──声の高さからして女で間違いない──はその山脈の中に開けたその空間を静かに見渡した。暗闇の中でも爛々と輝く赤い瞳は壁の方に置き去りにされた複数の荷物を見つけている。しかし持ち主たちは何処にもおらず、ただ不気味な静寂だけがこの空間を支配していた。
「本道だけじゃなくて、こっちにまでゴブリンの罠が出来てたなんてね。ご愁傷様、名前も知らない旅人たち」
霧ふり山脈には昔からゴブリンたちが数多く巣食っている。狡猾な彼らは旅人たちが休めるようなところに罠を張って、寝入っているところを攫ってしまうのだ。しかもこの場所の罠はしばらく前まで無かったはずだから、運の悪い旅人たちはあえなく新造の罠の餌食になったようである。
可哀そうではあるが、中つ国ではままあるような出来事だ。旅人の女はそのことを熟知していたから勇んで助けようとは考えない。むしろ残された荷物をありがたく拝借し、今後の旅に役立てるつもりでいっぱいだった。残酷なようだが、旅をする以上はそのような非情さも求められる。
ひとまず残された荷物を集め、後は必要な物だけ取ってそそくさと立ち去ろうと女が考えていたその時だった。
女がやってきた方と別の入口から、不意に杖をかざした老人がやって来た。灰色の装いにとんがり帽子を被った魔法使いの装い。一瞬身を強張らせた女はすぐに正体に気付いて破顔した。
「おや、これはガンダルフじゃないですか、このようなところで出会うなんて奇遇ですね。気を付けてくださいね、ここはどうやらゴブリンたちの罠場らしいので」
「お前さんに言われなくてもそんなことは見れば分かるし、わしがここに来たのも奇遇では無いぞ、ミリアンよ」
旅人の女は魔法使いをガンダルフと呼び、そのガンダルフは旅人の女をミリアンと呼んだ。気安いやり取りから見ても、この二人はどうやら旧知の仲であるらしかった。
「それより、いつからここに居る? ドワーフ達の一行を見かけたりはしなかったか?」
「ドワーフ達ですって? いいえ、全然。東から西へと向かって来ましたがドワーフどころか人一人だって見かけませんでしたよ」
「やはりか……となれば、万が一にも難を逃れて取るものも取り敢えず逃げおおせた訳では無いようじゃ」
そう話すガンダルフの視線が置き去りにされた荷物へやられているのを見て、ミリアンは何となくの事情を察した。
「もしかして
「無論していたとも。いや、している
「だったら難しいでしょう。たとえ灰の魔法使いが救援に向かったとしても、広大なゴブリン町に迷い込んで生きて出られる望みは薄い」
しかしガンダルフはミリアンの言葉に耳を貸さず、荷物の傍の地面を触り何かを確かめているようだった。
「まだ地面は温かい。彼らが罠に落ちてからそう時間は経過していないはずじゃ。助けに行かねば」
「……お言葉ですがガンダルフ、あなたはこのようなところで無謀にかまけて無駄死にをしていい方では無いはずです。考え直した方が良いのでは?」
「そういうお前はいつから臆病なほど冷静になったのじゃ、血塗れエルフ、
山の下の王、と黒髪の女エルフは小さく呟いた。その名は無論知っている、かつて栄華を誇ったドワーフの国の王を指す言葉だ。しかしかの国は竜の襲撃によって失われて久しく、数多の財宝共々打ち捨てられた王国であると記憶していた。
まさか、とミリアンは口を開いた。
「ドワーフ達と結託してエレボールを奪還するつもりですか? 竜を相手に?」
「そのつもりじゃ。そしてそのためにはこのような場所でトーリンらを失う訳にはいかぬのじゃ。お前さんとこうして話している間にも貴重な時間は刻一刻と過ぎておる。手遅れになる前に手を打たねば」
それからガンダルフは、ミリアンを見やると少しだけ笑みを浮かべた。
「ここで出会ったのも巡り合わせ、奇遇な縁の一つじゃろう。彼らを助けるために力を借りたい」
「……えー」
「何を渋っておる。お前さんの抱く憎しみの一端を滅ぼし、ついでにドワーフ達の財宝の数々と復興したエレボールの威容を再び目にする良い機会ではないか。何より、こうして時間を浪費している責任の一端はそちらにもあるのじゃぞ」
「確かに金銀財宝を鍛えたり眺めたりするのは好きですけども。ああ言えばこう言う、さっきは奇遇じゃないとか言ってたくせに」
「どうとでも言え、時間が惜しいわい。わしはもう行くぞ」
既にガンダルフの決意は固いようで、こうなると何を言っても曲げられないとミリアンは知っていた。それなりに長生きしているせいか付き合いも長いのだ。
魔法使いの杖が光り、そのまま地面へ勢いよく叩きつけられた。一瞬の閃光、ついで地面に隠されていた罠の扉が勢いよく下に向かった口を開けた。どうやらここからドワーフ達は落ちていったらしい。
覗き込んだ先は非情に暗く、まったく先の見えない落とし穴。誰が見てもゾッとするような深い穴へ、けれどガンダルフは一瞥だけすると身を躍らせて穴の下へと降りていった。
「まったく、仕方ないですね。あのエレボールが絡んでるなら少しは手伝いますよ」
やれやれと頭を振って、結局ミリアンもまたガンダルフを追いかけ穴へと飛び込むのだった。
◇
ゴブリン町の奥では既にドワーフ達が殺される瀬戸際まで来ていた。そこをガンダルフが魔法による閃光と衝撃でゴブリン達を吹き飛ばし、立ち上がれと檄を飛ばしたところである。
「私、場違いだなー」
別にドワーフ達の仲間でもなんでもなく、ただの成り行きでやって来たミリアンにとっては居辛いことこの上ない。どちらの陣営からも『誰だこいつは』という目で見られつつ、ぼやきながら手に持つ槍でゴブリン達を突き殺す。その動作に淀みはまったく無かった。
ただ、ガンダルフの他にもミリアンというエルフを知っている者は存在するようで。ゴブリン達の首領、大ゴブリンはミリアンを見て目を丸くしていた。
「
「ご紹介どうも。というか、私のこと知ってるなんて随分と博識な」
何千年も昔のミリアンの経歴を知っている人物などそうは居ない。さらに古くからのエルフの名剣を知っていたりもする辺り、この巨大なゴブリンは醜い外見に反してかなりの知識を持っているようだ。だからといって手加減してやるつもりは毛頭無いのだが。
その後は案の定と言うべきか、無数のゴブリン達の追跡を振り切りながらの殺し合いとなった。広大かつ複雑なゴブリン町を駆けまわり、どこにあるとも知れない出口を探しながら武器を振るう。ドワーフ達は想像以上に屈強かつ器用にゴブリン達を蹴散らしていく。この調子なら別に私が居なくても良かったのでは、と槍を握りながらミリアンは考えていた。
「お主、人間ではなくエルフだな。何故ガンダルフと共にいた、裂け谷から追いかけてきたのか?」
走りながら一人のドワーフがミリアンへと声を掛けてきた。エルフの名剣オルクリストを振るい、明らかに他のドワーフ達と一線を画す風格を持った壮年のドワーフである。
「そういうあなたはトーリン・オーケンシールド、まさか本当に山の下の王が出てくるとは。ドゥリンの一族は今も壮健なようで何よりです」
「質問に答える気は無いと?」
「私はミリアン、流浪のエルフです。上で偶然ガンダルフと出会って助力を頼まれました。ドワーフは好きだし、オークとゴブリンは皆殺しにしたいのでこうして共に戦ってます。これで満足ですか?」
「ミリアン……まさかあの『指輪細工師』のミリアンか? だとすればお主のことは好かんが、今は言ってる場合でもない」
頑固で、かつあまりエルフを好かないドワーフの王もさすがにこの状況で言い争う気は無いようだった。不満を持ちながらもそのまま
「そういう王様、私は好きだな」
トーリンと真逆に好感を覚えながらミリアンも走っていく。槍の一突きでゴブリンを二体刺し貫き、薙ぎ払えば三体は谷底へと叩き落していく。雑兵程度は歯牙にもかけない戦いぶりを見せつけながら余裕を持って走っていく。
この分なら、思っていたよりも簡単に難を逃れて一息つくこともできるだろうと、この時のミリアンは考えていたのだった。
◇
その後は待ち伏せしていた大ゴブリンをガンダルフが斬り殺し、谷底へと滑落しつつどうにか外へと脱出すると難を逃れることに成功した。ミリアンもガンダルフもドワーフ達も、まったく欠けることなく逃げおおせたのは奇跡に近い。
「いや助かった、あれだけの大群を相手となるとお前さんの力を借りれて幸いだったとも」
「別に私が居なくとも十分に逃げられたと思いますけどね。こっちは裂け谷の「最後の憩」の館へ行くつもりが、結局東側に戻って来ちゃったし」
「それはすまなかったとも」
あんまり悪く思ってなさそうな灰色の魔法使いへミリアンはこれ見よがしに溜息をつく。彼女からすれば本来の目的地からは遠ざかるし、今もドワーフ達からは敵対に近い疑惑の視線を向けられているしで居心地が悪いといったらない。エレボールという興味の対象が無ければすぐにでも去っているところだ。
「あーあ、これからどうしようかな」
女エルフは一人夕焼けの空を見上げながらぼやく。ドワーフ達の話題はいつの間にかもう一人の仲間の話になっていたようで、本格的にミリアンの出る幕が無い。手持無沙汰な彼女は仕方なしに鞄からパイプとパイプ草を取り出すと、火を付けて一服。人間やドワーフ、それに小さな人の間で流行っている嗜好品だが、これを吸うエルフをミリアンは他に見たことが無かった。
ぷかぷかと煙を吐きながら思い出すのは、かつて見たドワーフの王国の絢爛たる様だ。
「エレボールの財宝はまた見たいなぁ……」
エルフというのは美しいものを生み出すのが好きで、それ故に石細工が巧みで宝石を掘るのに長けたドワーフ達とも本来は仲が良い。ただ、過去の遺恨から種族によってはドワーフとの確執があり、確か山の下の王の場合は他に闇の森のエルフと救援などの関係でいざこざがあったとミリアンは記憶していた。
なので別にミリアン自身はドワーフに対して隔意は無く、むしろ種族としては大変好きな部類だ。特に冷淡な態度を取ったことも無い。だから旅に同行しエレボール奪還の手助けを行うことも嫌ではないが……果たして成り行きで出会った程度の相手を秘密主義のドワーフが信用するかどうか。
「まず無理かな、うん」
自分でそう結論づけて思考を打ち切った。財宝奪還の旅は大いに興味があるが、同行は難しいし元々の目的地もある。無理を押して付いていく必要はないだろう。
と、話も終わったのかガンダルフがやって来た。いい加減にドワーフ達にミリアンを紹介しようという腹だろう。面倒だし断ってこのまま去ろうかなと考えていた、ちょうどそんなとき。
身の毛もよだつような遠吠えが夕焼けの斜面に響いた。
「──これは」
「ワーグだ!」
「オークが来ているぞ!」
この場の誰もがその意味を知っている。闇に潜む呪わしき生き物たちがこの場を目掛けて近づいている。
ドワーフも魔法使いも、遅れてやってきた小さな人も全員が身構えた。一難去ってまた一難、誰かがそう呟くのが聞こえる。そして巻き込まれたエルフはといえば、「これは面白くなった」とばかりに赤い瞳を輝かせた。
「なんですかガンダルフ、あなた達オークに追われてるんですか? 早く言ってくれれば良かったのに」
「ああそうじゃな、そんな余裕があればどこかで言ってるとも。無駄話をしている暇はない、全員走れ!」
最後はこの場の全員に対しての指示だった。一挙に駆けだした彼らの間を縫いつつ、ガンダルフはミリアンに対してだけ静かに付け加える。
「この旅はオークだけでなく、『
「なるほど、それはまた」
果たして、かつて『血塗れエルフ』と呼ばれた女は愉快そうに喉を鳴らした。
「サウロンとオークが絡んでるなら私の領分です。追手の半分はこちらで請け負いましょう、奴らを血祭に上げてみせますから」
「頼もしい限りじゃ」
──ノルドール・エルフの一人にして、かつて『力の指輪』の作成に携わったエルフ達の最後の生き残り。
仲間も親も殺され、故にサウロンとオークに対して絶えぬ憎悪を燃やし続けている女こそ、ミリアンというエルフだった。