性飢末《セイキマツ》の覇者 ~暴走する性癖を食い止めろ!~ 作:ごぼう大臣
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……手綱が謎の呼吸困難に倒れるより、数分ほど前の出来事。
「
「あ……うん。オッケー」
客たちがそれぞれ陣取っているパラソルの中で、一組の男女が話していた。一人は水着すがたの高校生くらいの女子で、もう一人は細身の、マッシュルームヘアの内気そうな男子。そばには拳次郎や歪武もいる。
内気そうなその男子は、名を
浸はオイルの小瓶と、目の前に寝そべっている女子を交互に見る。そして拳次郎と歪武へも視線を向けたが、二人とも知らないふりをしただけだった。
(うぅ……いきなりこんなの照れ臭いよ……)
浸は内心で愚痴りながらぎこちなくオイルを塗る。視線は手元に向いているものの、意識はいずこか。薄く筋肉がついた胸の内で、心臓が張り裂けそうなほどに激しく動いている。
無言で顔を真っ赤にしながら、浸はここにくる前に親友にかけられた言葉を思い出していた。
『……浸。今度いっしょに海行こうぜ。もちろん女子も一緒だ。別にいいだろ。関係を進展させるとか、そこまで考えなくていい。ただ、"殻を破る"んだ。ふふ、親友の青春に彩りを……ってな。なるべくノリのいい娘を連れてくから』
『あいにく俺は男女の付き合いについては疎い。とりあえず頑張れ』
……歪武と拳次郎はそれぞれそう言ってのけた。余計な世話を、と一瞬思って、それでもありがたい気持ちもあり、浸の思考は照れのせいで混乱をきわめていた。気分だけはもう熱中症である。
そんな軽いパニックの中にあって、彼に明確に知覚できたものが、一つだけ。
浸は今まさに塗っているオイルを見つめる。手のひらにまとわりつく半透明な粘液。特に敏感な手指に広がるねばついた感触をふと意識し、浸は考えた。
(……ヌルヌルする)
ただ、それだけ。ほんの一言の感想。しかしそれを意識した時、彼の両目は明らかに輝いていた。
が、その時。
「おい、何だありゃ?」
歪武の声で我に返る。顔を上げると、浜の一角でざわざわと騒ぐ人だかりがある。浸がおそるおそるその方角を見渡すと、前にいた拳次郎がぽつりと言った。
「舞……!?」
そう、拳次郎の視線の先には、人だかりの中心にいる舞と、紫乃と水魚、そして彼女らに囲まれて横になっている手綱の姿があった。
様子からしてただ事ではない。拳次郎は何も言わない内から、その人だかりに向けてまっすぐ走り出した。
「おい、どこに行くんだ!」
歪武があわてて呼び止める。事情を話す時間も惜しく、拳次郎は振り向いて叫んだ。
「来るなッ!! ……楽しんでろ」
「は、はぁ?」
簡潔きわまる言葉を残し、拳次郎はあっという間に小さくなった。そして人ごみをかき分け、大声をあげる。
「舞、何があった!!」
「お兄ちゃん……!?」
「日出先輩!?」
群衆の中から顔を出した拳次郎に、舞も紫乃も目を丸くする。それにかまわず、彼は手綱のそばに屈んだ。そばでは水魚が目に涙を浮かべ、ライフセーバーが困り果てている。
「これはどうした。話してくれ」
「あ……ついさっきまで海で普通に泳いでたんだけど……その」
戸惑いつつも話しだした舞はそこで言葉を切り、水魚の方を一瞥する。水魚は辛そうに鼻をすすり、言葉をついだ。
「いきなり呼吸が変になって……ぐったりしちゃったんス」
「呼吸……」
「タヅはツボを突かれたって、そこに指で書いたんスけど……ウチはこんな技に心当たりなくて……!」
話すうちに、水魚はどんどん涙声になっていく。紫乃が横から必死になぐさめていた。
拳次郎は横たわっている手綱を凝視する。彼女はもう何も話さず、意識して静かに呼吸しているようだった。目を閉じ、深呼吸を繰り返すのに合わせて腹が上下する。
「ちょっと見せてくれ」
そう言って拳次郎は手綱に顔を近づけ、四ヶ所ほどのツボを突く。すると、手綱の手足の緊張が目に見えて解けていった。
「! これって……」
「"
拳次郎が緊張した面持ちで言った直後、手綱がおもむろにムクリと起き上がった。
「うひゃっ!?」
「タヅ!!」
性闘拳を知らないライフセーバーは驚き飛びのいたが、水魚は真っ先に抱きついた。ポカンとしている手綱にしがみついて、ぐすぐすと泣いている。
「え……水魚?」
「手綱ちゃん! 私たちが分かる?」
「う、うん……。ちょっとボーッとするけど……」
呼吸が治った彼女へ、舞たちは寄り添ってさまざまに言葉をかける。しかしそんな中で、拳次郎は海原のはるか遠くをにらんでいた。
(どこかにいるはずだ……。彼女を苦しめた犯人が……!!)
そしてついに。
「!!」
沖の方でぽつんと泳いでいる不審な影を見つけた。見た目十代後半の男。そう予想をつけるや、拳次郎は海へと駆け出し、音を立てて飛び込んだ。
「え、お兄ちゃん!?」
その音に気づいた舞が顔色を変えて振り返る。波打ち際まで追いかける彼女に、紫乃が後ろから問う。
「舞ちゃん、先輩は一体どこに……」
「沖の方に何か見つけたみたい。でも……」
舞は言葉を切り、拳次郎のいる辺りの水面をボンヤリと眺める。そして呆れた口調で言った。
「お兄ちゃん……泳げないのよ」
「あ……」
舞の横に並んで同じ方角を見た紫乃が、察したように黙り込む。彼女らのいる浜辺から十数メートル先で、拳次郎は手足を犬かきのようにばたつかせ、無駄そのものの大きい水しぶきをあげながら水中を進んでいた。
「ああもう見てらんないわ。助けないと!」
「わ、私もいく!」
「水魚は手綱の方をお願い!」
「分かったッス!」
手綱の介抱を水魚にまかせ、我慢ならなくなった舞は紫乃と共に海に飛び込む。拳次郎よりはずっと速い泳ぎで彼女らはほどなくして追いついた。
「お兄ちゃん、待って!」
「……!? 二人とも、なんで来た!」
「心配だったんです! 何を見つけたんですか!?」
追いかけてきた二人を見て、拳次郎は目の色を変える。先ほどの騒ぎのせいでひと気のなくなった遊泳区域に、焦った声が響き渡った。
「この辺りに怪しい人影があった! 犯人がいるかもしれないんだ。とにかく二人とも戻って……」
拳次郎が急いでまくし立てていた、その最中。
沖の方面、彼の背後から不気味に忍び寄る、海中の黒い影。拳次郎と向かい合っていた舞は、一番にそれに気づいた。
「! 舞、待っ――」
舞の視線を見て、遅れて気づいた拳次郎が止めたがもう遅い。彼女は拳次郎の肩をつかんで押しのけ、同時にそれを支えにして水中に前蹴りをくり出した。バシャア、と足に押し上げられた波があがり、そこから逃れるように何者かが水面から飛び出す。
「あ、あっぶねーなオイ!」
「……お前は……!」
その見知らぬ声に振り向いた拳次郎は、目の前の何者かを見て息をのむ。海にもぐってずぶ濡れになった、青白い肌のやせ形の男。その男をにらんで、拳次郎はいまいましげに口を開く。
「
「よぉ、日出……。そっちは、うわさの妹か」
ふと口にした名前に、その男は気弱そうに顔をゆがめて笑う。舞が拳次郎をおそるおそる見ると、拳次郎がこう話す。
「
「ただ?」
深刻な顔で言いよどむ拳次郎。舞が眉をひそめていると、紫乃が察したようにささやいた。
「……まさか、手綱ちゃんをあんなにしたのは……」
「そうだ。コイツの使う"
「呼吸困難!?」
驚いた舞は拳次郎と外丸へ交互に目をむく。外丸はしばし弱ったように顔をひきつらせていたが、やがて肩をすくめてこう言い訳する。
「いや別に……殺人のための技じゃねえんだよ。首しめプレイとか聞いた事あるだろ? なにも俺だけが危ないわけじゃ……」
「だが、トップクラスに危ないのは知っているだろう。お前も拳をおさめたなら、少しは聞いた覚えがあるんじゃないのか?」
拳次郎が低い声で口をはさむと、外丸は言葉につまり、渋面をつくる。そして言い逃れする子供のように大声をあげた。
「チッ……ちゃんと後で治すつもりだったんだよ! けど、一緒にいた女が泳いで連れていっちまったんだ!!」
「何よその言い方! 水魚がどんな気持ちでいたと思ってんの!?」
「知るかよ! こちとら止めたくても止められねーから、あんな学校にいるんだ!!」
舞と怒鳴りあいをするさまを見つめ、拳次郎は呆れたため息をつく。そして拳を鳴らしつつゆらりと近づいた。
「なんにしても……だ。お前は何も知らない一般人を意図的に巻き込んでいるんだ。許すわけにはいかん」
拳次郎の顔が険しくなり、あたりに刺すような鋭い気配が広がる。近くにいるだけで怒りが色濃く感じられたが、外丸はぎこちなく笑って言った。
「は、はは……偉そうに。こっちに来るまで、俺が見てなかったとでも思ってるのか?」
「…………?」
「拳次郎お前さ……泳げないんだろ?」
確信した様子でそうつぶやくと、外丸はバシャリと海中に身を沈める。拳次郎がハッとなって舞と紫乃を両肩に抱えあげると、外丸はすでに水中から拳次郎の体に肉薄していた。
(
水を切り裂き、外丸の指が拳次郎の胴体を突く。その瞬間、水面の上で拳次郎の口から空気の抜けるような音が飛び出した。
「お兄ちゃん!?」
「ふーっ……ふーっ……!」
抱えられたままの舞が目を丸くする。それをよそに拳次郎はまるでひどくせき込んだ後のように細い呼吸を繰り返す。おろおろする舞や紫乃だったが、二人の体が不意にぐらりと揺れた。
「うわっ!?」
「きゃっ!!」
倒れるか、ととっさにしがみつく舞。しかし拳次郎はとっさの所で体勢を立て直すと、脇を泳いですり抜けようとしていた外丸を、体で受け止めた。
外丸は驚き、拳次郎をにらんで後ずさる。
「まだ動けるとは驚いたな……。一体どういうカラクリだ?」
「……性闘拳に伝わる……例の呼吸法だ……。これならいくらか、持ちこたえられる……」
拳次郎は意識して腹式呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと答えた。彼の体全体が呼吸のリズムに合わせて揺れ、海面に規則正しく波紋が浮かび上がる。
外丸は苦々しい顔をしていたが、やがて鼻で笑って言った。
「へへ、さすが……。だが、それがいつまでもつ? いいから俺を逃がしてくれよ」
「…………」
「その女二人を持ちきれなくなったら、そいつらまで終わりだぞ? 俺を逃がすなら、治してやってもいいんだぜ? どうする?」
苦しく息をする拳次郎に向けて、外丸は優位とみて交渉を持ちかける。実際、舞と紫乃を抱えて必死に呼吸を保っている拳次郎が不利なのは間違いなかった。舞も悔しげな表情こそすれ、拳次郎をけしかけたりはしなかった。
数秒、互いににらみ合う状況が続く。拳次郎はまんじりともせずに外丸を見据え、一時も注意をそらさなかった。
しかし、ついに拳次郎は力尽きたのか、抱えていた二人をそっと降ろす。好機とみた外丸はすぐさま拳次郎を出し抜いて逃げようとしたが、直後に予想外のものが彼をおそった。
「ぶわっ!?」
外丸の背にぶつかる、大きめの波。目の前の拳次郎にばかり気を取られていた外丸は、背後のそれにまるで気づけなかった。
ヒヤリとした水の感触、口に入り込む塩からさ、体に一瞬とはいえのしかかる圧力。それらは彼に隙をつくらせるのに十分だった。
「――あっ」
眼前に気迫をにじませた拳次郎がいるのに、外丸は少し遅れて気づいた。望みをかけた両手の指が、立て続けに外丸の体のツボを突き刺す。
「
外丸の体がビクンと震え、ひとりでに海中を後ずさる。顔をあげると、拳次郎、舞、紫乃がそれぞれ注意深く外丸を見つめている。
外丸はおそるおそる自身の鼻を押さえた。鼻血は出ていない。技は食らったようだが、さしたる影響はないのだ。
そう考えた矢先。
「ふ……ぐっ……!?」
外丸の鼻の奥が、急にビリビリとしびれはじめた。尋常ではない刺すような痛みに悶絶していると、拳次郎が自身の体をツボを突いて治しながら言った。
「……痛いだろう? お前の鼻の粘膜が薄くなっているんだ」
「ねん……まく?」
「普段、鼻の内部をさまざまな刺激から守っている部分……その働きが薄まれば、ささいなもので痛みを感じる。たとえば、塩水とかな」
「…………!」
外丸は息をのんで眼下の海をにらむ。その直後、押さえていた鼻の穴からたらりと血が流れた。
拳次郎が再び接近する。外丸はとっさに逃げようとするが、海の中をもがく速度などたかが知れている。泳ぐためにもぐろうとして、海水にさらされる鼻の痛みを想い、背筋を凍らせた。
「……水に顔をつけるのが怖いか?」
「いっ……」
「俺もいまだにそうなんだ。恥ずかしながらな」
彼なりの軽口なのだろうか。拳次郎はそれだけ言って真面目な顔になり、ぐんと拳を振りかぶる。そして真っ青になった外丸の顔へ、重いストレートを見舞った。
「ぶほぁっ――」
まぬけな声をあげて外丸は吹っ飛び、海面に大の字になってダイブした。体の全部がぶつかった水しぶきに、舞と紫乃がそろって目と耳をふさぐ。
「ふぅー……っ」
そして拳次郎は長いため息をつき、ぷかぷかと浮いている外丸を引き寄せる。白目をむき、すでに気絶しているようだ。
そこに、舞と紫乃がバシャバシャと近寄って言った。
「日出先輩、手伝います!」
「すまないな。じゃあ肩を貸してもらえるか」
「は、はいっ」
拳次郎と紫乃が左右から支え、外丸をどうにか浜へと運ぶ。ようやく陸地に降ろしたところで、次々に水魚や手綱、そして歪武や浸たちが駆け寄ってきた。
「舞ちゃん、紫乃ちゃん!」
「あ、今もどったわ」
「おい拳次郎、無事か!?」
「……ああ、心配かけてすまない」
たちまち彼らのところに人だかりができる。歪武は舞たちがいるのもかまわず、拳次郎へ笑いながら言った。
「お前、泳げないなら始めっから言えよ~。俺たちといて楽しくないかと思ったぜ」
「そんな事はないさ。ただやはり恥ずかしくてな……」
拳次郎は苦笑し、照れたように頭をかく。その時、紫乃が大きな声で口をはさんだ。
「で、でもすごく格好よかったですよ日出先輩! 一時はどうなるかと思いましたが……」
「なんだ、後輩の子か? ……はは、人気者じゃんお前」
「からかうなよ。そんな柄じゃない」
拳次郎は笑って答えたが、ふと横たわっている外丸を見て、表情に影がさす。そして、おもむろに外丸を抱えると、こんな事を言い出した。
「……悪いが、少し二人きりにしてくれ。コイツと話がしたい」
「ええ!?」
拳次郎の言葉に、その場の一同が驚いた顔がする。歪武が勢いこんで尋ねる。
「なんだよ、ソイツにそこまで構うことないだろ? もう放っておこうぜ?」
しかし、拳次郎は首を横に振った。
「いや……そうはいかない。さすがに今回は命に関わるからな。じっくり話し合わなきゃ解決にはならん」
その答えに、歪武はやれやれと肩を落とす。すると今度は手綱が後ろで言った。
「……相変わらず優しいんですね。いちいちバカな連中を気にかけて」
そんな憎まれ口にも、彼は微笑んで言った。
「……性癖というのはな、海のように広く、そして深いんだ。自分かもしくは他人が止めなきゃ、どこまでも流されてしまう」
「…………」
いささかもトゲのない言葉に、手綱は不機嫌そうに眉をひそめる。すると水魚が彼女の背を軽くたたいた。
「ほらタヅ、お礼言わなきゃダメッスよ。今ごろ死んでたかもしれないんスから」
「む……」
珍しく水魚にたしなめられ、手綱は小さく頭を下げる。それを見届けると、拳次郎は外丸を抱えてゆうゆうと浜の隅へと歩いていった。
「……なるべく、早くもどって来てね」
精いっぱいの声量で言う浸に、手を振って答える。その姿を見つめながら、紫乃や舞は内心でそれぞれ色んな事を思った。
(……日出先輩、やっぱりいい人だ)
(お兄ちゃん、ちゃんと友達いたんだ……)
彼女らの感想はともかく、その日の海の時間はどうにか平穏に過ぎていったのだった。