僕の姉さん、結月ゆかりは宇宙人だ。とは言っても、本当に地球外生命体というわけではない。ただ単に、彼女が子供の頃にそう自嘲していただけだ。
僕と姉さんはよく似ていた。今はさすがに男女の差が目立つようになったが、中学生くらいまでは瓜二つだった。見た目は勿論、声も仕種も、二卵性双生児とは思えないほどに。
ただ一点だけ異なったのは、他人に対する態度だった。
姉さんは一人でいることを好んだ。人と遊ぶより、読書やブロック遊び、自然の観察や答えの出ない考え事に時間を使った。人と同じことに興味を持たず、むしろ人と違うことに価値を見出しているように思えた。
研修医となった今の僕の知識で考えるなら、姉さんの行動にそれらしい説明をつけることができる。しかし、当時は何故姉さんがそんな風にしているのかが分からなかった。本人に理由を聞いても、こんな答えしか返ってこなかった。
『人と遊ぶより本を読んだ方が面白いから』
『私の考えを人に説明するのが面倒だから』
『人の話は同じことばっかりで飽きたから』
人に飽きる。そんな考えを持つこと自体、子供の僕にはわからなかった。人と何かをするのは楽しいし、一緒に笑ったり泣いたりすることが大切だと感じていたからだ。
今思えば、姉さんのそんな視点こそ、人間を深く知りたいと思ったきっかけであり、今の仕事に就いた原点と言える。大人になってから人の心理を学び、多くの人に触れることで、姉さんのことを少しだけ理解できた気がしている。
しかし、当時の僕は考えが浅かった。姉さんのそんな様子を心配して、友達や、そのまた友達や兄弟の中から、姉さんと仲良くなれそうな人を探して引き合わせるということを繰り返した。
ずっと一人でいる姉さんのことを見ていたら、ある日突然いなくなってしまいそうで怖かったのだ。
今思えばお節介でしかないが、姉さんは寛容だった。僕が連れてきた人と本の貸し借りをしたり、買い物に出かけたりしていた。
しかし、いずれも長くは続かなかった。段々と交流は減り、僕が紹介した人たちは姉さんから離れていった。
曰く、ゆかりちゃんは私のことを友達だと思っていない。
曰く、最初は趣味が合うかと思ったけれど、何かが違う。
曰く、一方的に見透かされているみたいで落ち着かない。
それぞれ、そんな言葉を残して。
『ごめんね、
そしてそうなるたびに、姉さんはなぜか僕に謝った。謝ることなんてないのに。僕が勝手なことをしていただけなのに。
そして、僕もとうとう理解した。姉さんは一人でいいのだ。一人がいいのだ。だからもうこんなことはやめよう。そう決めて、姉さんに話をした。
『ごめんね』
その話をした時も、やはり姉さんは僕に謝った。
そして、続けてこう言ったのだ。
『望のせいじゃない。きっと、私と相性のいい人は最初からいなかったんだよ』
姉さんは諦めたように笑った。
『私は宇宙人だから』
そして何の因果か、今や姉さんは本物の宇宙人と暮らしている。そしてまた、僕も彼女たち――ARIAの精霊と少々の関わりを持っていた。
これは精神科医の卵である僕こと結月望と、客人との会話の一幕だ。
*
「読んでるだけで頭が痛くなる……。これを好き好んで書く人間って、頭大丈夫なの?」
僕の部屋のソファに寝転がって本を読む宇宙人がそう言った。彼女がいるだけで、一人暮らしの部屋に初夏を思わせる花の香りが広がるのだから不思議なものだ。
「姉さんとは君も直接話をしただろう。どう思った?」
「中身はグチャグチャなのに、輪郭を見るとマトモ」
「言い得て妙だ」
彼女の名前は
本来は『OИE』と書くらしいが、まあ言葉遊びの範疇だろう。僕は普通の表記でONEと呼ぶことにしている。
「ねぇー。本当にこれ読んでれば結月ゆかりのことが分かるの?」
「ああ。姉さんは滅多に本音を表に出すことがない。つまり姉さんが書いた小説は、姉さんの内面を知る貴重な手掛かりになる」
「確かに……前に会った時は、こいつ嘘しか言わないのかよって思った」
ONEは眉間にしわを寄せたままページをめくった。読んでいるのは
「こういう小難しいことを考えてる小説ってさ、どうやって読めばいいの? 一緒に考えればいいの? 単に物語として受け取ればいいの?」
「それは読む人次第じゃないかな。ただ、君が今すべき読み方は一つだろう。『作者は何を考えながらこの話を書いたのか』、だ」
「そりゃそうなんだけどさー。この本に出てくる――アンドロイド? 人間の遺伝子を乗せて、人間と全く同じ生活をしてる? なんでこんなの思いついたわけ? なんでそのアイディアを広げようと思ったわけ? あーもー、わかんない!」
ONEは本を閉じてテーブルに投げ出した。
「貴重なサイン本だ。丁寧に扱ってくれ」
「あっ、ごめん」
ONEは飛び起きると、本に傷がついていないか確かめ始めた。
「君は衝動的だな」
「うるさいなー。謝ったじゃん」
「褒めたんだよ」
「……お前の考えてることもよく分かんないな。はー、やめやめ」
ONEは本をそっと机に置き、スマホを取り出した。横に構えているので、昨日もやっていたリズムゲームだろう。ほどなくして軽快な音楽が聞こえてくるようになった。
僕も読んでいた医学書を一旦置いた。一服しよう。
「コーヒーを淹れるけど、君は?」
「ん-、欲しい」
ゲームに集中しているのか、生返事が返ってきた。苦笑しつつ来客用のカップを出す。
しばし、コーヒーを淹れる匂いと明るい音楽が部屋を満たした。
「よっしゃ」
満足いくスコアを出せたらしい。ONEが小さく呟いた。僕は二杯のコーヒーを持ってリビングに戻り、ONEの前に砂糖とミルクを並べた。
ONEがテーブルに向き直ってスマホを置いた。待ち受け画面はONEとIAさんのツーショットだった。
「ありがと」
「どういたしまして」
ONEは昨日と同じく、角砂糖を一つとミルクを少し入れた。僕はブラックの気分だったのでそのまま口にする。
「それで、姉さんのことを理解してどうするのかな。また何か仕掛けるつもり?」
昨日、いきなり訪ねてきた彼女は僕に姉さんのことを教えろと迫った。態度とは裏腹にきちんと菓子折りを持っていたので、近所の喫茶店に場所を移して話を聞いてみれば、一応僕と関係のある身の上だと分かった。
僕の姉さん、結月ゆかりはONEの姉と同居しているのだという。そしてその姉というのがIAさん――流行に疎い僕ですら知っている世界的なアーティストだと。
それだけでも驚きなのに、IAさんとONEは遠く離れた惑星からやってきた精霊なる存在らしい。まさかと思ったが、ONEはデモンストレーションとしていくつかのことをやって見せた。
まずは瞬間移動。
次に、故障したヘッドホンの修理。
挙句の果てには、僕をオレンジ色のシャボン玉に入れ、月面まで連れて行ってみせた。
これはもう信じるしかなかった。つい先日、姉さんと月の石を見ながら話をしたばかりだったのが皮肉に思えた。
……姉さんは日々こんな荒唐無稽な状況に放り込まれているのだろうか。大丈夫だろうか。
僕の胸中とは裏腹に、ONEはコーヒーをゆっくりと味わっているように見えた。
ONEはカップの中身を半分ほど飲んでから僕の質問に答えた。
「どうしようかな。なんか、私が何かしても結月ゆかりは揺らがない気がする」
「弱気じゃないか」
姉さんの同居人、IAさんは地球人のサンプルとして結月ゆかりに様々な揺さぶりをかけているが、どうにも感触が悪い。おまけにIAさんのことをなおざりに扱っているように見える。それに我慢ならなかったONEは結月ゆかりにちょっかいをかけたが、どうにもうまく行かなかった――ということのようだ。
そこで、結月ゆかりの双子の弟である僕のところにやってきた。僕と姉さんが上野公園で話をしているところを見ていたらしい。僕から姉さんのことを聞き出して、結月ゆかり対策会議をしようというわけだ。
だというのに、昨日の今日でこの調子なのだからこっちは苦笑するしかない。
「だってそうでしょ。望は結月ゆかりがパニクってるところが想像できる?」
いつの間にか僕も呼び捨てにされている。僕の友達にも何人かこういうタイプはいるが、ONEはそれに輪をかけて明け透けだ。まだ関わりは浅いが、それがONEの良さだと僕は思う。
「そうだね……。姉さんはいつでも冷静だ。表面上は、だけれど」
「中身は違うって?」
「実際、どうだった? さっきの印象はそういう意味も含んでるんだろう?」
「うん。私が精霊の力で何かすると、すごい勢いで考えを巡らせてた。こっちが目を回しちゃいそうだったよ」
ONEは不満げに言う。彼女たちARIAの精霊は、人の感情を敏感に察知できるようだ。
「……でも顔に出ない。私が何をしても、あっさり対応して意図や行動を読んでくる」
姉さんはいつもそうだ。小さい頃はまだしも、中学生になったころからはほとんど感情をむき出しにすることはなくなった。そう、ちょうど――飼っていた兎の
勿論、誰でも大人になるにつれて本音を表に出すことは減っていく。感情の処理がうまくなったり、あるいは周りの目を気にするようになったり。理由は様々だ。
僕がそう話すと、ONEは興味深そうに頷いた。
「じゃあ、中学の時からずっとあんな感じだったの?」
「あんな、というと?」
「嘘つき」
はは、と僕は笑った。そして、少し考えてから首を振った。
「それがね――中学や高校の頃は、あんな風にジョークを織り交ぜながら喋るような人じゃなかった」
本音を滅多に出さないのは今も昔も変わらないが、表面上は違った。
「無口で、何を話しても会話が長続きしない感じだったんだけれどね」
実を言うと、どうして姉さんが今のようになったのか、僕は知らない。
高校は別の学校に進学したし、大学に至っては、姉さんは一人で上京した。確かなのは、帰省した時の土産話を聞く限り、大学生活を楽しんでいるということだった。
「その頃には物腰も柔らかくなっていたし、なんというか……大人になっていると思ったよ」
「じゃあ、結月ゆかりがどうして嘘つきになったかは知らないんだ」
「離れて暮らしていると、どうしてもね。上京してから出来た友達に話を聞いてみるのもいいんじゃないかな」
「なるほどねー」
ONEはふむふむと頷いた。
「それで、その後は――仕事が大変になったんだっけ?」
「らしいね。僕は
姉さんは就職した後、一度体調を崩している。そして、僕も両親も頼ることなく復職をした。おまけに小説家になったというのだから驚きだ。
姉さんの内心では、一体何が起こったのだろう。
ONEに貸した短編集は、姉さんの二冊目の本だ。大学生の頃に書いていたストックもそろそろ切れるとのことで、三冊目が出るのはいつになるのか分からないと言っていた。
兼業作家なのもあり、執筆のペースは遅めなのだろう。
一方、会社の環境は大幅に改善したと本人から聞いた。本人が良いというのなら、余計な手出しをしない方がいいのだろう。
僕が姉さんについて語れることはこれくらいだ。
双子と言っても、もう二人とも大人なのだから。少し寂しいが、嬉しくもあった。
*
しばらくして、ONEは姉さんの小説を読み終わった。
本を閉じ、目も閉じたまま、困惑気味に感想を言う。
「うん、やっぱり難しかった。けど……何だろう。読み終わったときの感じは、悪くないんだよなあ」
「分かるよ」
姉さんの小説は大体そうだ。頭が痛くなるような、苦しくなるような過程を経た物語のはずなのに、結論はシンプルで明快だ。迷路から抜け出したような解放感がある。
ONEが読み終わった本を改めてぱらぱらとめくりながら言う。
「結月ゆかりはめちゃくちゃ深く物事を考えてる。矛盾だらけだし、全然まとまりがない。でも表に出てくる言葉とか意思はすごくさっぱりしてる。この小説もそう」
「そうだね。それを踏まえた対策として、姉さんが一番動揺するのは――かえって、まっすぐな感情をぶつけられた時かもしれない」
「というと?」
「姉さんの内面が複雑なのに、行動が理路整然としてるのは、自分の内心について深く考えて客観視しているからだと思う。そして、同じことを相手にもしているから他人の行動が読める」
「同じことって?」
「簡単に言えば……相手の思考や行動のパターンを考え抜いて予測している」
ONEは眉間にしわを寄せた。
「それって、ほとんど初対面の相手にできるものなの? おまけに私、人間ですらないんだけど」
「できるよ。姉さんほどじゃないけれど、誰だって自然とそうしている。僕が君の前に砂糖とミルクを出したようにね」
ONEに会って二日目の僕でもそれが出来る。昨日、喫茶店で彼女の味の好みを知ったからだ。
「あ、そういえば。望はブラックなのにね。ありがと」
ONEは本当に素直だ。
「どういたしまして」
そう、僕たちは常に相手の行動を予測しながら行動している。無意識にそうしている。
僕がONEにそうしたように、過去の事例から推測をする。
初対面の相手であれば、自分の知っている人のうち、誰に似ているかを考える。
加えて、その場で表情や声色から相手の心を読み解こうとする。
自然なことだ。相手が人間以外の動物だろうと、ARIAの精霊だろうと要領は変わらない。そして、姉さんはそれが抜群に上手い。
「姉さんの小説を読んでどう思った? 特に、登場人物の心理描写について」
「なんていうか……キャラがぶれてない。この人ならこの場面でこう言うよなーっていうのがしっかりしてる」
「そう。しかもその幅が広い。老若男女、善人から悪人まで、人物の内面がしっかりと描かれている」
そんなことができるのは、人の心理について客観的に考えているからだ。
沢山の小説を読み、映画を見て、現実の人を観察する。そうして沢山の人間の行動パターンを頭の中に蓄えているからだ。
「君の行動を読むなら、逆のことをすればいい。君に近い傾向の人物を当てはめて、細かい部分は話しながら微調整していく。そうすれば――姉さんの頭の中に、君の思考を模したモデルが出来上がる」
「んー、それっていわゆる共感とは違うの?」
「ほぼ同じだよ。けれど、姉さんの場合は客観的に人を見ているからね。一方的に理解するだけだ。姉さん自身の感情が揺らぐことはほとんどない」
「……なんか怖いな」
ONEは自分の服の裾を軽く握った。
「まあ、あくまで推測だけれどね。僕も少し似たようなことをしてるから」
「そうなんだ」
「職業柄、適度に患者に共感しないのも必要でね」
「精神科医だっけ」
「まだ修行中だけどね」
僕は医学書の表紙をぽんぽんと叩いた。
「……結月ゆかりがきっかけで?」
ONEは僕の感情を読んだようだ。僕からしてみれば、彼女の能力の方がよっぽど怖い。
「そうだよ。姉さんは、小さなころから独特だった。姉さんのことを理解したくて、沢山姉さんのことを考えた。それがきっかけで、人の心理そのものに興味を持つようになったんだ。幸い、勉強は得意だからね」
僕の答えを聞いたONEはソファーの上で膝を抱え、仕切り直すように言った。
「ねえ」
「ん?」
「結月ゆかりのこと、好き?」
ONEの視線はまっすぐだった。きちんと受け止めなければ後ろめたいほどに。
幸い、僕は姉さんほど嘘つきではない。
「好きだよ、とっても」
僕はそう答えた。
*
ONEはしばし無言だった。
僕の答えに困惑している様子だったが、ややあって疑問を重ねてきた。
「なんで、私に協力してくれるわけ?」
「君が協力して欲しいと頼んだから。あと、手土産の羊羹が美味しかったからね」
「あれはIAのおすすめ。……じゃなくて。私に結月ゆかりのことをあれこれ教えるのって、つまり結月ゆかりより私を優先してるってことでしょ。でも望は結月ゆかりのことが好きで、私のことは変な奴くらいにしか思ってないはず」
ONEの物言いに思わず笑ってしまう。
「まあそうだね」
「じゃあ、どうして?」
「一つは、君に協力するのが面白そうだから。まあ、欲しい情報を引き出し終わったら記憶を消されてしまうかもしれないけれどね。それくらいできるんだろう?」
「ぎく」
「二つ目は、姉さんが困ってるところを見たいから、かな」
「んー……」
ONEが目を細めて僕を見た。僕の胸の奥を覗き込んだ。
嘘をついていないか、ONEは慎重に確認しているらしい。
「好きなのに?」
「好きだからさ」
数秒、彼女は更に目を細めたが――。
「人間、わっかんないなー!」
ONEはそう言ってソファにひっくり返った。
部屋に来るのは二度目だというのに、彼女はすっかりソファを占領してしまっている。ARIAの精霊はソファを好む習性があるのかもしれない。
僕は苦笑しながら言う。
「利用できるだけ利用してくれればいいよ。勿論、君が来たことは姉さんには内緒だ。僕は君の味方だよ」
「嘘ついてないんだよなー。結月ゆかりと似てるのにそこだけ全然違うや」
僕は苦笑を深めた。
「さて、話を戻すと――客観的に人を理解している姉さんに動揺を与えられるのは、理屈なんて投げ捨てた感情だと僕は思う」
「感情かー。でもあの時、私は結構感情的だったと思うんだけど」
上野公園でのことだ。僕はあらましを聞いている。
「でも君には目的があった。目に物言わせてやりたい。IAさんの凄さをわからせてやりたい。
「う……」
痛いところを突かれたのか、ONEの周囲にオレンジ色の燐光が浮かんだ。彼女たちARIAの精霊は、感情が高ぶるとこうして光を放つらしい。実に分かりやすい。
「それに、君自身にも問題がある」
「え、そうなの?」
「ああ。君は衝動的だ。さっきも言ったけれどね」
ONEは頬を膨らませた。
「褒めたって言ってたけど、噓でしょ」
「嘘じゃないよ。普通の人間にはない美徳だ。さっきまで粗雑に扱っていた本を、今この瞬間『大切に扱わなければ』と思ったら大切にする。実に衝動的だ――直前の感情を全く引きずっていない」
僕は言葉を続けた。
「普通の人間は直前の感情を引きずる。それどころか、何年も前の感情にだって今の思考を乱される。最高峰のメンタルトレーニングをしているアスリートですら、過去の失敗を思い出して全力を発揮できないことが多々ある」
「だから誉め言葉だって?」
「そうだ。――でも姉さんに対しては相性が悪い」
僕は人差し指を立てた。
「姉さんは相手の行動を観察し、その先を読んでいる。僕の推測が正しければ、そうしている」
「うん」
ONEは頷いた。
「予測というものは、要因が少なければ少ないほどしやすい。普通の人間なら、相手の背景や過去、関係性だとか、色々なことを考えなければいけないけれど……」
「私は衝動的だから、それがないって?」
「そう。今この瞬間の刺激に素直に反応する。姉さんからすれば、これ以上なく先読みがしやすい相手だ」
「え、じゃあ――私はどうすればよかったわけ?」
僕は結論を言った。
「姉さんの前に姿を見せて会話した時点で負けだったね」
「元も子もないこと言うなよぉ!」
一際強いオレンジの光が部屋を満たした。
*
ONEは『覚えてろよ!』などと言い残し、空中に現れたジッパーを開いて謎の空間に消えていった。
昨日実演してもらったのと同じく、種も仕掛けもない超常現象だ。あとにはただ、オレンジ色の光の残滓と、初夏を思わせる花の香りが残っていた。
「やれやれ」
ONEの残したカップを台所で洗う。
一応記憶を探ってみるが、昨日ONEに会ってからのことをきちんと覚えている。まだ利用価値があると判断されている――それか、ただ単にONEの方が後処理を忘れているだけだろう。
少々からかいすぎた感じはあるが、なかなかONEとの会話は楽しくて興味深かった。自分がONEの味方だということは強調しておいたし、きっとそのうちまた来てくれることだろう。
今は恋人もいないし、可愛い子が訪ねて来てくれるのは嬉しい。あるいはそういった認識や記憶すら操作されているかもしれないが、確かめる方法はない。
だったら今を楽しむとしよう。
そう思いながら、おかわりのコーヒーを手に、リビングに戻って椅子に腰を下ろした。
『ONEとのおしゃべりは楽しかったか?』
下ろそうとした――まさにその瞬間。どこからともなく声がした。
「…………」
息が詰まる。どことなく猫を思わせるその声は言葉を続けた。
『からかいたくなる気持ちも分かるが、ほどほどにな。
気配が去っていく。去っていくことを伝えるためだろう、わざとらしいほどに空気が変わった。
乾いた喉から独り言を絞り出す。
「参ったな……」
ONEは姉さんに対し、どうすればよかったか。今回僕が挙げた反省点は二つ。一つ目は感情的になりきれなかったこと。二つ目は姉さんの前に姿を見せて、まともに会話をしたことだ。
それらを踏まえた対策は、ヒットアンドアウェイ。つまりは――
こうすれば、姉さんのようなタイプは相手の出方を予測することなんてできないし、理論で防御することもできない。
そして僕もまた、姉さんとよく似たタイプなのだ。
「……以後、気を付けます」
相手が聞いていないのを承知で、そう言うのが精一杯だった。