嘘つき作家と宇宙人   作:喜来ミント

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遅くなってしまったうえ、書きたいことが多すぎて分量が前半の倍になってしまいました。すみません。
ごゆるりとお楽しみください。



Phase 2b Always With Me

 私は宇宙人と蕎麦を食べに来ていた。

 言うまでもなく、私の同居人にして世界的アーティストであるIA(イア) -ARIA ON THE PLANETES-(アリアオンザプラネテス)である。彼女のほかに火星人(マーシャン)だとか上帝(オーバーロード)だとかの知り合いはいない。

 外国人は麺類をすするのが苦手だと思っていたが、惑星レベルで日本国外出身のIAはごく普通に音を立てて蕎麦をすすっている。私と同居する前から日本にいるようなので、こうして物珍しそうな目で見るのは見当違いかもしれない。

 今は火曜日の夜。あかりちゃんと買い物に行き、ちょっとした騒動があった土曜日から三日が経っていた。私は相変わらずIAが作り出した並行世界の中にいた。

 この世界では生まれてから死ぬまでずっと、全ての人間の傍らに動物がいる。それはその人の魂の一部が分離した存在であり、普通の動物と違って食事や排泄の必要がない。そして飼い主と密接にリンクしており、飼い主の内面や異変は動物に現れ、また反対に動物の怪我は飼い主の精神に影響する。

 胎児のときからずっと一緒にいるこの動物を称して、双子という。この世界では『双子』とはそういうものを指す言葉として使われている。私がよく知る双子は四つ子、三つ子は六つ子と呼ばれているようである。

 IAが蕎麦を一口嚥下し、顔を上げて言った。

「食べないの?」

「いやまあ」

 今日は少々問題があり、帰りが遅くなってしまった。ちょうどシンガポールで一仕事終えて帰ってきたIAと会えたこともあり、こうして外食に来たのだが――。

「てっきり、話が先かと思ってたんですが」

「ううん」

 IAは蕎麦を箸で掴みながら言う。

「伸びちゃうしさ」

「まあ、それもそうですか」

 そう言われては私も食べないわけにいかない。箸を手に取った。

 ぱきり、と割った箸の向こうに鮮やかな青の色彩が見えた。IAの傍らにいるモルフォ蝶だ。

 羽の表面はIAの眼と同じく、見る角度によって微細に変わる青色をたたえている。しかし裏側は地味な茶色をしており、目玉のような模様もついていた。

 勿論IAはこの世界で生まれた人間ではないので、このモルフォ蝶はこの世界に合わせて自分の魂から作り出した存在だろう。つい先日はIAの意のままに姿を変えるのも目にしている。

「いただきます」

 私も蕎麦をすする。季節は秋に差し掛かっており、冷たい蕎麦にするかどうか迷う時期だった。私は少し感傷的な理由で暖かい蕎麦を選んでいた。

 一方のIAは、私の注文に続けて「同じので」と言ったのでどれでもよかったようだ。

「ん……」

 IAが味に変化をつけようとしたのか、七味唐辛子を蕎麦に振っている。しかし詰まっているのか上手く出ないようだ。

「えい。えい」

「あっ」

 中蓋が取れ、七味が山盛りになって蕎麦つゆの中に入ってしまった。

「…………」

 が、固まる私をよそに、IAはそのまま真っ赤になった蕎麦をすすった。

「え、大丈夫なんですか?」

「悪くない。ROCKを感じる……」

「はあ……」

 感じているのは辛味ではないだろうか。

 とにかくそんな奇妙な食事が終わり、IAは傍らのモルフォ蝶に指を伸ばした。蝶はふわりと羽ばたいてその細い指に止まる。

「さてと、話をしよっか」

「ええ」

 そう答える私の右手は、冷たいテーブルの上に置かれていた。

 IAが首を傾げながら言う。

(しずく)は、どこに行ったの?」

 

  *

 

 話は日曜日まで遡る。

 前日にちょっとした騒動があっただけに、その日はあまり遠出をせずに過ごした。スーパーと図書館に行く程度で、あとは自分の家で過ごしていた。

 私の双子、兎の雫はどうにも不愛想な性格で、私が声をかけても大体は億劫そうに反応する。これが私の魂の一部だというのを素直に認めるのが少々(しゃく)だ。

 しかし不思議なもので、小動物となるとこの不愛想さすら可愛げに変わる。さらに言えば、普通の動物なら避けられない寿命や病気の問題すらも双子にはない。つくづく得な存在だと思う。

 そしてその得は私もちゃっかりと享受していた。なにせ食事も排泄も必要ないのだ。普通のペットであれば生じる細々(こまごま)とした世話の必要がなく、可愛さだけを味わっていられる。おまけに普通の兎よりも賢く、部屋に放していても無闇に電源コードや家具をかじるということもない。

 この世界を作った存在がいるとすれば、本当にいい仕事をしたと言える。

「あ、雫」

「…………」

 リビングで読書していると、どこかに歩いていく雫が目に入ったので声をかけたが、ちらりとこちらを見ただけで進路を変えることなく物陰に消えた。どこに行くのかと思えば、風通しのいい所の床で寝そべっていた。どうやら昼寝の場所を変えたかっただけらしい。

「あなた寝てばかりですね……」

「ぶぅ」

 悪いかと言わんばかりに鼻を鳴らされたが、確かにペットの仕事など食べるか遊ぶか寝ることだろう。

 そんな風に過ごした日曜が終わって翌日の朝。私が仕事のために出かけるときもこの調子だった。私が起きてから朝食を済ませ、出かける準備を終えるまで雫はずっとベッドの上で伸びていた。

「出かけますよ、雫」

「…………」

「生きてます?」

「ぶぅ」

 返事があったので抱き上げる。完全に脱力しきっていた。こいつ……。

 電車の中は相変わらず、この世界の常識に合わせた日常風景だった。座席は減り、その分だけ大型の双子が乗るためのスペースが設けられている。

「……ふむ」

 こうしてみると、やはり哺乳類が多い。雫もそうだが、私が元いた世界でペットとして飼われている種類がほとんどだ。

 犬や猫を基本として、兎やハムスターがちらほら。爬虫類や無脊椎動物はほとんどいない。だとすると、テントウムシ――土曜にIAに助けてもらった少年の双子は珍しい部類だったようだ。

 電車はまだ乗換駅につかない。続いて、動物の種類と飼い主の相関にも自然と考えが及んだ。

 大型の動物は比較的男性の飼い主が多いように見える。やはり双子の見た目と内面が対応していることが多いのだろうか。

 などと考えていると、大人しそうな女子高生の膝の上で毒々しい蛇がケージに入れられていたりする。スーツがはち切れそうなほど筋骨隆々な男性の肩の上にちょこんとヤドカリが乗っていたりする。そう単純な話ではないようだ。

 面白い、と思ってしまう私がいる。

 乗換駅の連絡通路はいつも以上にごった返しているように感じた。私と同じくスーツ姿の男女が、それぞれに動物を従えているから当然だろう。毎朝の通勤風景も、そこに動物たちがいるというだけでどこか微笑ましく思えてくる。

「おはようございます」

「あ、ゆかりさん! おはようございます!」

 職場につくと、あかりちゃんがシロと一緒に小走りで駆け寄ってきた。

「土曜はすみませんでした!」

「いえ、そんな。ご両親との約束は間に合いましたか?」

「はい、なんとか」

「それならよかったです」

 そんなやり取りの間にもシロは私のパンツスーツの裾をカリカリとひっかいていた。可愛らしい。

 あかりちゃんがシロを抱き上げて戻るのを追いかけて自分の席に向かう。私の机には一点だけ、この世界に来るのとは違うところがあった。

 優先度が低い書類をなんとなく積んでいたはずのスペースに、ややくたびれたクッションが置いてある。

「……なるほど?」

 相変わらず脱力している雫をそこに下ろすと、もぞもぞと動いてこちらに尻を向けて寝転がった。こいつ……。

 そして仕事が始まってみれば、やはりというか目立った変化はなかった。これまでに訪れた平行世界でもそうだったように、結局どんな世界でも人間たちはその世界なりに仕事をしているのだ。

 その日の帰りはつづみさんに聞いた和菓子屋さんに寄って羊羹を買った。先日IAに助けてもらったお礼のつもりだ。

 そして家に帰りついてテーブルの上に羊羹を置き、物思いにふけった。

 土曜日には、緊急事態だったとはいえ、あまりにあっさりとIAを頼ってしまった。どうにも最近は忘れがちだが、IAは私を試しているのだ。地球の人類に惑星ARIAの精霊の力やテクノロジーを見せつけた時にどういう反応をするのか――その試金石として。

「もしこの先、似たようなことがあったら……」

 またIAに頼る必要が出たら、私はまたああして助けを呼ぶのだろうか。人差し指の指輪の宝石は、不可思議な七色に輝くばかりで何も答えはしない。

 IAのやっていることは、ある意味マッチポンプだ。普通の日常で精霊の力を見せつけても芳しい反応が得られないから、特殊な環境に私を置くことで新しい反応を引き出そうとする。

 不慣れな環境に放り込んだ実験動物が助けを求めてくるのを、この指輪の向こうで待っている。――そんな風にも取れるが、IAがそこまで考えているとは思えない。

 頭の回転が悪い、という意味ではない。やろうと思えば綿密で周到な計画を立てられるだろうに、そうしていないように感じる。そんな邪気があるように思えないのだ。……だからこそ厄介かもしれないが。

 あくまで推測だが、IA自身が試行錯誤の途中で、やむなくこういう形になってしまっているのではないだろうか。私があれこれ理由をつけて、彼女の力やテクノロジーを拒否しているから。

「じゃあ自業自得か……」

 私の普段の生活の中で力やテクノロジーを見せるというアプローチ。

 それが駄目なら平行世界を模した世界に送り込んで新しい反応を引き出すというアプローチ。

 それも上手くいかなくなったら……彼女は一体どんな手段に出るのだろう。

「どう思いますか、雫」

「ぶぅ」

 知ったことか、と言わんばかりに鼻を鳴らされる。

 たった数日で、私は雫に話しかける回数が増えていた。

 

  *

 

 前日の夜にそんなことを考えていたからだろうか、あるいは膝の上の暖かさのせいだろうか。

 翌日の火曜――今日の帰宅途中。寝不足を感じていた私は、久々に仕事帰りの電車でうたた寝をしてしまった。

 がたんごとん、とリズミカルに揺れる車体。どこか遠く響く低い走行音。なんとなく朝とは違う空気。仕事が終わったという解放感の代わりにエネルギーを支払った人々の雰囲気。飼い主たちに寄り添う動物たちの息遣い。

 それらがないまぜになって、ぼんやりと私の感覚に忍び込んでくる。だんだんと時間の感覚が薄れ、思考がとりとめのないものになっていく――その瞬間。

「…………?」

 寂しさ。

 疎外感。

 悲しさ。

 喪失感。

 どこからともなく伝わってくるそれを、可哀想だと思う自分の気持ち。

 私の薄っぺらな良心が、この感情を憂いている。

「ん……?」

 違和感。眼を開く。そして気づく。

 膝が寒い。

「雫……?」

 辺りを見渡す。しかし終点が近い電車の中に人はまばらで、兎が隠れられるようなところはなかった。大体あの性格からして、自発的に私から離れて行ってしまうとは思えない。

 ざわつく気持ちを何とか押さえつけて周囲を探す。見知らぬ人たちに聞く。しかし手がかりはない。

 昨日の夜、ああ考えたばかりだというのにこの始末だ。

 乗り過ごして着いた終点で、結局私は駅員に助けを求めたのだった。

 

  *

 

 私は一連の行動だけを説明した。月曜の夜の物思い、そして雫がいなくなった直前に流れ込んできた感情のことは省いた。

 ……言えば話をややこしくするだけだ。その気になれば読み取られてしまうとしても、今はIAに対する疑念を隠しておきたかった。

 そう。率直に言えば私はIAを疑っている。

 あの電車の中の出来事。他人の感情が自分の意思とは関係なく流れ込んでくる――そんなあり得ない現象を、私はすでに一度体験している。他でもない、IAが差し出してきた虹色の円盤に手を触れることによってだ。

 その気になれば、できる。ああして他者の感情を伝え、私が動揺している隙に雫を攫うことくらい、この宇宙人にはできるのだ。

「なるほどね」

 蕎麦湯を飲みながら話を聞いていたIAはこくりと頷いた。そしてスマホを取り出すと地図のアプリを開く。

「さてと、雫はどこかな」

「……探せるんですね」

 探せるんですか、ではない。これはただの確認だ。

「うん、探せるよ。でも」

 IAは私の眼を覗き込みながら言う。深い青が揺れる。

「なんだか、ゆかりは乗り気じゃないみたい」

「……そう、ですかね」

 口ではそう言うものの、内心ではIAに頼るという選択肢はほぼなくなっていた。

 雫を探してください、というのは簡単だ。しかしそれは罠かもしれない。雫という存在に私を慣れ親しませ、そのあとに取り上げる。モルモットが助けを求めてくるかを見定める実験――そう考えるのが一番腑に落ちる。

 では、あなたが雫を攫ったんでしょう、と詰め寄るべきだろうか。

 正直なところ、私はこちらを選ぶのも気が進まなかった。

 IAに軽率に頼るべきではない。そう考えたのは確かだ。IAがマッチポンプを仕掛けてくるかもしれない。そう思ったのは本当だ。状況に変化が見られなければ新たなアプローチを仕掛けてくるはずだ。そう予測したのは事実だ。

 だとしても、()()()()()()()

 何かが引っかかる。IAがそんなに順序立てて私を追い詰めるようなことをするだろうか。1年近く一緒に暮らして身近に見てきた彼女が、そうするだろうか。

 迷う。

 信じるか、信じないか。

 結果として、私はIAに何かを言うことが出来なくなっていた。

 黙ったままの私に、IAは小首をかしげて疑問をぶつけた。

「どうして? 自分の一部がいなくなっちゃったのに。私に頼めばあっという間だよ?」

 IAの眼は私の心まで覗き込んでくるようだった。思わず目を伏せながら言う。

「いやまあ、何というか。この間助けてもらったばかりですし。頼りすぎるのもなあ、と」

「気にしなくていいのに。それともお礼を気にしているの? 羊羹は美味しかったよ?」

 駅員に事情を説明し終えて帰った私を出迎えたのは、羊羹を丸ごと一本手掴みで食べるIAだった。それなりに良い値段の代物だったのに……と、逸れそうになる考えを抑え込み、彼女に頼らない理由をひねり出す。

「……あー、緊急性が低いからですかね」

「そうなの?」

「ええ。この間の男の子は双子のテントウムシが怪我をして、あの子自身にダメージが返ってきていました。でも私はこの通りですし」

 と、軽く両手を広げて言う。それに対し、IAは視線で私の輪郭を一周なぞってから頷いた。

「うん。魂に傷はついてない。雫も無事みたいだね」

 気軽に魂とやらを見透かされたと知り、少し背筋が寒くなる。しかしそれを表面に出さず、提案をした。

「だからまあ、まずは自分で探してみようかと」

 自分で探す。それは勢いで言っただけだったが、この場の結論としては最適なように思えた。最終的な結論を先延ばしにしているだけとも言えるが。

「……うーん?」

 IAは首を捻った。そしてぽつりと言う。

「もしかして、また楽しんでる?」

「そう見えますか?」

 最初に送り込まれた平行世界。その世界で、私はIAに助言を求めなかった。右手の人差し指の指輪を通してIAに呼びかけることはなかった。好奇心に任せて世界を観察し、分析し、考察した。

 楽しんだのだ。そしてそんな心理をIAに見破られ、一杯食わされた。

 IAは今回も、私がこの状況を楽しんでいるのだと考えているようだ。だが前回とは状況が違う。今回は流石に不安のほうが勝っている。

 しかし、IAから見れば一番それらしい理由だろう。私はこれ幸いと曖昧に肯定した。

「……いえ。案外そうかもしれないですね」

「ふうん?」

 IAは不思議そうに首をかしげたが、とりあえず納得した様だった。気が変わらないうちに話を終わらせよう。

「まあとにかく、何日かは自分で探してみますよ」

「……大丈夫?」

 IAの言葉に裏はなさそうだった。その瞳が憂いの色を帯びるのが見える。彼女は心から私を心配しているように見えた。

 だが、私はこの場でIAを信じるか信じないかを決めないことにした。

 自分で雫を見つけなければいけない。そのために、無いも同然の手がかりを手繰り寄せなければいけない。正直に言えば不安だらけだ。

 だが私の口は勝手に言葉を紡ぐ。私の中で(くすぶ)る感情など構わずにあっさりと言ってしまう。

「まあ大丈夫ですよ、きっと」

 

  *

 

「雫に何かあったら、自分で探すのはそこで終わりにしよう」

 IAはそう私に告げたものの、私の判断を尊重してくれた。蕎麦屋から帰り、IAが風呂に入っている間に私はカフェインレスコーヒーを淹れて自分の部屋に戻った。

「さて……」

 思考を整理しよう。メモに箇条書きで状況を書き出す。

 ・双子の世界に飛ばされた。

 ・雫と三日過ごした。

 ・帰宅途中に他者の感情が流れ込んできた。

 ・雫がいなくなった。

 ・IAが疑わしい。

 ・IAは私のことを心配しているように見える。

 以上のことを書き出してから、一度視界の外にメモとペンを追い出した。少し冷め、ちょうど飲み頃になったコーヒーをちびちびと飲む。いつも以上にゆっくりと。舌の上で転がすように。

 自分の書いたことを客観的に見るには、ペンを置いてから全く別のことをするに限る。小説を書く時にもよく使う手だ。本当は一晩眠るのが良いのだが、出来れば今のうちに行動を起こしておきたかった。

「よし」

 空になったカップを置き、メモを手に取る。文章を改めて頭から読む。そして。

「……慌てすぎだ、私」

 『帰宅途中に他人の感情が流れ込んできた』のところにアンダーラインをひき、そこに『誰の?』と書き加える。さらに『IAが疑わしい』という文章を二重線で消した。

 どうやら冷静さを失っていたようだ。前者は思いついて当然の疑問だし、後者は根拠のない疑念にすぎない。

 改めて、事実だけが並んだ文章を見直す。そしてこれから明らかにするべきことを書き起こす。

 ・雫はどこに行ったのか

 ・流れ込んできた感情は誰のものか

 ・IAはこの件に関わっているのか

「うん」

 やっとすっきりした。とはいえ、後ろ二つはどこから手を付けたらいいかわからない。

「……やっぱり、雫が先か」

 雫を探すのも手がかりがなさそうに思える……が、ここはそういう世界なのだ。そして、この世界のことはこの世界の人に聞けばいい。

 IAには自分で探す、と言っておいて人に頼る姿勢に自嘲しつつ、私は携帯電話を手に取った。

 

  *

 

 翌日。出勤した私をあかりちゃんとシロが出迎えてくれた。だが……。

「雫ちゃん、どうかしたんですか……?」

 想定通りの質問だ。私は頬を掻きながら答える。

「意地でも家から出たくないようでして……仕方ないので置いてきました」

「えっ」

 素直に雫が行方不明になったと言えば、自分も探し出すと言いかねない。あかりちゃんはそういう人だ。躊躇なく人のために動けてしまう、優しい子だ。

 だからこそ、あまり心配はかけたくなかった。

「あの、ゆかりさん」

 ……ところが、あかりちゃんは視線だけでちらりと周りを見てから、私に身を寄せてきた。思いがけない距離にどきりとする。

 あかりちゃんは小声で私にささやいた。

「……ゆかりさん。悩んでることとかあったら、何でも言ってくださいね。いつでもいいですから」

「え、ええ……」

「絶対ですよ」

 そして私から離れ、自分の席へと行ってしまう。

「ええと」

 今の反応は一体……。

 首をひねりつつも、仕事をしないわけにはいかない。上司にも同様の説明をすると、訝しげな顔をされたものの「無理はするなよ」とだけ声をかけられて仕事を回された。

 一方のあかりちゃんは私のほうをちらちらと見て気にしている様子だったが、それ以上立ち入った話をする気はないようだった。

「はて」

 などと思いつつ仕事を片付け、昼休み。

 ずい、と。

「ゆかりさん、どうぞ」

「はあ」

 いつも通り二人でお昼を食べようかと思ったところで、あかりちゃんがシロを差し出して来た。シロ自身は宙で足を漕いで私のほうへ進もうとしているので、遠慮なく受け取っておく。ふわふわとした毛並みは雫よりも多く空気を含んでいて、私の指先が少しだけ埋まった。

「あの、これは」

「遠慮なくモフってください。私にできるのはこれくらいですから」

「はあ」

 まあ撫でていいならそうしよう。私なりにこの世界の常識を調べて、他人の双子に勝手に触れるのはマナー違反だということは知っていた。

 それ以外に調べたことといえば、やはり双子を見失った場合はどうするか、だ。

 一番は警察に届けること。まあそれはそうだろう。しかし私の知る世界での行方不明事件と同様、明確な事件性が無ければ本格的な捜査は難しいようだ。

 次に双子自身の帰巣本能に期待すること。双子は飼い主と引き合うため、少し離れた程度ならば自然と帰ってくるらしい。

 そして、この二つの方法で帰ってこなかった場合。つまり、双子が第三者によって動けなくなっており、警察が見つけてくれるのも期待できない。

 そうした場合の最終手段として、双媒師(そうばいし)なる職業を頼るという選択肢があるという。平たく言ってしまえば霊媒師の双子版だ。しかし、やはりというか眉唾ものとして扱われているようだ。

 IA曰く双子と飼い主は魂で繋がっているそうなので、そういう発想が生まれるのも当然なのかもしれない。

 そして私がどの選択肢を取るかといえば、今のところはそのどれでもない。

「わふ」

 私に撫でられ、シロが満足げに声を漏らした。その様子に思わず顔がほころぶ。

「ありがとうございます、あかりちゃん」

「いえ。……ちょっとは役に立てましたか?」

「ええ、とても」

 お昼を食べ終え、名残惜しいがシロをあかりちゃんに返し、午後の仕事を片づける。

「お先に失礼します」

「お疲れ様です」

 定時に会社を出て、いつもは土曜の打ち合わせに使っているファミレスへ。ここに心強い味方が来てくれるはずだった。

「ん、まだ会社ですか」

 店に入る前に携帯を見ると、少し遅れると連絡があった。先に入っていよう。

 自動ドアをくぐると店員がいつものように人数を聞いてくる。

「いらっしゃいませ。何名様ですか」

「三人です。あとで待ち合わせが来ます。」

「ええと……」

 と、ここで私の予想しないことが起きた。

 店員が私の姿を上から下まで視線でなぞり、少しだけ表情を硬くしたのだ。

「その、待ち合わせの方の双子は……」

「……ああ。家猫と大型犬です」

「かしこまりました。こちらのテーブルへどうぞ」

「ありがとうございます」

 席に着き、いつも通りにドリンクバーだけを注文する。コーヒーを一杯淹れて席に戻り、店の中をぐるりと見回す。

 亀、犬、猿、そして変わったところではダチョウ。誰もが動物を連れている。

 この世界ではレストランでも双子と離れることはない。大型動物ならそれなりのスペースが必要だ。

 さっき店員が表情を変えたのは、私が何の動物も連れていなかったからだ。例え毒や爪が危険な動物であろうと、双子は常に一緒にいるものなのだ。

「……一人っ子」

 そういう俗称があるのは知っていた。先日、私と同じく双子とはぐれた少年のことをあかりちゃんが勘違いして呼んでいた。

 この世界では、誰もが自分の魂の一部を分けた動物を連れている。しかしどんなものにも例外はある。

 もともと私はこの世界にとって異物だが、それが一段と際立つ形になっていた。いるはずの存在がいない、それだけで。

 膝の上に乗せた鞄を軽く撫でてみるが、冷たさと硬さだけが返ってきた。

 なんとなく、寂しさと疎外感を覚える。

 ……ん?

「なんだか、デジャブのような」

 そうだ、最近似たようなことを考えて――。

「先生」

 声を掛けられ、反射的に顔を上げる。思考は打ち切られた。

「遅れてすみません」

「いいえ。無理を言ったのはこっちですから」

 そこにいたのは、黒猫を抱えた鈴木つづみさんだった。

 

  *

 

 味方ことつづみさんに今までのことを順を追って話していく。一応一通りの事情は昨日の夜に伝えておいたが、細かいことも含めて聞いておきたいとつづみさんは言った。

「……という感じで、すごく心配されてしまいまして」

「それはそうでしょう」

 そして最後に今日の会社での様子を話すと、さも当然と言わんばかりにこう答えられた。

「そ、そうなんですか……」

「ねえ、(しおり)

「みゃあ」

 栞と呼ばれた黒猫はつづみさんの発言に同意した。もちろん彼女の双子で、青色のリボンを首に巻いた気品ある姿だ。

「先生、双子のことにそんなに疎かったかしら」

「いやまあ、雫がいないせいで動揺してるのかもしれません」

 他に頼れる人が思いつかなかったとはいえ、つづみさんのような鋭い人に対して、この世界のことでボロを出さずにいられるかは賭けだった。そして賭けには負けつつある。

「想像してみてください――こんなことを先生に言う日が来るとは思いませんでしたが――ある人の心の一部が、何が何でも家から出たくないと主張しているんですよ」

「あ」

 双子は魂の一部。心の一端。

 それが出勤を拒否しているとなれば、何か悩みがあると思われて当然だろう。

「あー……他の言い訳のほうがよかったですかね」

 とはいっても、双子を家に置いてこなければいけない理由など他に思いつかない。まさか兎がいきなり毒を出すようになったなどと言い出すわけにもいかない。

 つづみさんは栞を撫でながらため息をつく。

「まあ、正直にいなくなったと言うよりはましでしょうけど……そのあかりちゃんっていう後輩さん、ゆかりさんをかなり慕ってるみたいですし」

「まあ、年も近いですしね」

「そうではなくて……いえ、いいです」

 つづみさんは携帯を見てため息をついた。

「うーん、まだ着かないみたいです。先に本題に入りましょう」

「分かりました」

 もう一人の味方はさらに遅れるようだった。時間が定まらない仕事をしているから仕方ない。

 つづみさんはメモ帳に書いた路線図をコーヒーカップの横に広げた。

「ゆかりさんが寝落ちしたのがここ。雫ちゃんがいなくなったと気づいたのがここ。途中に止まった駅は二つ。そしてそのうち一つは、この路線との乗換駅です」

「ええ」

 本来私はその駅で乗り換えるはずだったのだ。しかし寝過ごして終点まで行った。

「仮に雫ちゃんが何かの拍子に電車を降りて迷ったとしても、見つからないはずはないでしょう。一人でいる双子なんて、駅員に保護されないはずがないです。増してや駅の外に出たり、別の電車に乗り込んだりしたとは考えづらいですし……」

 つづみさんは一拍置き、目を伏せて言った。

「となると、誘拐でしょうね」

 誘拐。考えたくはないが、そう考えるのが一番自然だ。

「……そうなりますか」

「そうなりますね」

 つづみさんはメモの余白にはっきりと『誘拐』と書いた。私がその字をちゃんと認識しているのを確認し、つづみさんは言った。

「……考えてもいなかった、という顔でもないですね。なのに全く慌てていない。警察に捜索届けも出していない。……正直言って、ゆかりさんの意図が分かりません」

「それは……」

 この件には私の同居人の世界的アーティストにしてARIAの精霊だとかいう宇宙人が関わっていて、そもそもこの世界はその宇宙人が作った地球のコピーであり、雫をさらったのもマッチポンプかもしれないのだ――などとは言えない。「次回作の構想ですか?」とでも言われかねない。

 だからもっともらしい言い訳を用意しておいた。それに言い訳といっても全く根拠のないわけではない。

「雫を連れて行った人は、多分雫に酷いことをするつもりがないと思うんです。もう丸一日経っているのに、私の身には何も起こっていない」

 雫はどうやっていなくなったのか。自分の足で歩いて行ったのか、誰かに攫われたのか、忽然と消えたのか。

 もしもIAがこの件に関わっているなら、わざわざ雫に歩かせたり雫を抱いて攫ったりなんてことはしなくていい。彼女自身が普段から忽然と現れたり消えたりしているのだから、そうすればいい。

 それと同じように、私に何かする必要もない。文字通り瞬く間に雫を連れて行ってしまえばいい。

 だがあの時――私は誰かの感情を感じた。

 寂しさ。

 疎外感。

 悲しさ。

 喪失感。

 そう。先ほど感じたデジャブはこれだ。

 あの時流れ込んできた感情は、同じく電車の中にいた誰かの感情なのではないか。そしてその感情の持ち主が、寂しさや悲しさを埋めるために雫をさらったのではないだろうか。

 私はそう推測したのだ。

 ならば、仮にIAがこの件を仕組んだとしても、実行犯は彼女ではない。疎外感と喪失感を抱いた誰かをそそのかしたのだ。

「雫を連れて行ったのは『一人っ子』ではないかと私は考えます」

「……少々、飛躍していると思いますが」

 つづみさんがそう感じるのも無理はない。私はこの推論に至るために一番大事なカードを隠しているのだから。

 しかし、今は隠したまま協力してもらうしかない。何の進展も見られなければ、IAが見かねて手を貸してくるかもしれない。

「飛躍……そうかもしれません。しかし、そう考えればしっくりきます。雫だって、見知らぬ人に黙って連れていかれるとは……まあ、あるかもしれませんが」

 あの無気力っぷりだ。しかし。

「雫が何も考えていないとは思いません。私の双子だから分かります」

 私はわざとずるい言い方をした。

「雫はあえて無抵抗に連れていかれたんです。もしそうなら、無闇に大事(おおごと)にしたくはないんです」

 つづみさんは目を閉じ、深く息を吐き出した。

「すでに大事だと思うのだけれど……まあ、私にできることはあくまで手伝いですから。頼りになるのはむしろ――」

 と、その時。もう一人の味方が遅れてやってきた。

「つづみちゃーん、ゆかりさーん、遅れてごめん!」

「あら、どこに寄り道してきたのかしら」

「収録長引いただけだってば! というわけで、ただいま参上!」

 もう一人の味方こと、佐藤ささらちゃんが謎のビシッとしたポーズを決めながら言った。

 

  *

 

 つづみさんの親友、ささらちゃん。年はつづみさんよりも一つ下だが、長い付き合いである彼女たちはお互いに気安く話していた。

 昨日の夜、つづみさんに協力を仰いだところ、ささらちゃんも呼んだ方がいいという提案があったのだ。あらかたの事情は昼の間につづみさんから伝えておいてくれた様だった。

 ささらちゃんはつづみさんの隣に。そして彼女の双子であるボルゾイ犬、シュガーは私の隣の席に上がりこんだ。

 先ほどまで動かなかった栞がすっと立ち上がり、テーブルの上に顔を出したシュガーの前に行く。シュガーは喜んで栞に鼻を押し当てようとしたが、栞はぺしりと前足でシュガーの鼻を叩いて牽制した。テーブルに顔を伏せて「参った」のポーズをしたシュガーの顔の横に栞が満足げに座り、その大きな耳を舐めた。

「縮図……」

「何が言いたいのかしら」

「いえなんでも」

 不自然ににっこりと笑うつづみさんの横で、ささらちゃんはそっぽを向いて口笛を吹く真似をしていた。

 閑話休題。

「お昼につづみちゃんから事情は聞いたけど……ちょっと難しいです。電車だとかはただでさえ臭いが入り乱れてるし……」

「やっぱりそうですか」

 雫のクッションを一応会社から持ってきたが、役に立つことは無さそうだ。

 ささらちゃんを呼んだ理由は二つ。一つはシュガーの鼻を使って雫を追いかけられないかということ。こちらは望み薄であり、やはり無理そうだった。

 そしてもう一つの理由は――。

「ゆかりさんに『制御』を教えられないかしら」

「うーん……」

 制御。それはつまり、この世界においては双子の制御を指す。

 爪や牙、あるいは体格や毒が理由で危険だと判断される双子を公共の場で自由に振舞わせるには、双子を制御する免許が必要なのだ。

 それができなければ、枷を施したりケージに入れたりという処置が必要になる。

 そして、そういった事情がなくても双子制御免許の取得率が高いのが犬の飼い主だった。双子の制御そのものに適性があり、警察犬やレスキュー犬、貸出盲導犬などの仕事に生かせる機会が多いためだ。

 そしてささらちゃんもまた、あかりちゃんが推測していた通りに双子制御免許の持ち主だった。

「そっちについても――うーん。双子の場所を感知するのは確かに初歩の初歩ですけど」

「難しいのかしら」

 つづみさんは双子制御について詳しく知らないようだ。犬の飼い主とは対照的に、猫の飼い主が制御免許を持っている割合は低いらしい。やはり自由気ままな性格の双子が多いからだろうか。

「双子の場所を感知する訓練って、すぐそばに双子を隠してもらってやるんですよね……やっぱり距離が離れてるとその分難しいですし、大雑把な方向や範囲の目星がないのはもっと難しいです」

 最初は二つの箱のどちらかに双子を隠して、二択を当てるところから始めるのだという。そして慣れてきたら三択、四択と増やし、距離や方角を問わず感知できるようにする。

「そうやって、自分と双子の間の繋がりを意識できるようにするんです。そして次は、その繋がりを通して指示ができるようにする」

 ささらちゃんは指を()()と上げた。それに合わせてシュガーが鼻先を天井に向ける。指を下げれば下へ。右へ左へ。

「今こうしている指示も、私はその『繋がり』を意識してシュガーに伝えてます」

「何だか曖昧な言い方をしますね。繋がりって……犬ですし、リードとか?」

「今は秘密です」

 ささらちゃんは両手でバッテンを作ってそう言った。

「何故ですか?」

「この『繋がり』は一人ひとり、何をイメージするかが違うんです。だから、先入観を持ってもらいたくないんです」

 なるほど。ささらちゃんとシュガーが使っている『繋がり』のイメージに引っ張られて、私と雫の『繋がり』に最適なイメージができなくなってしまうのを危惧しているのだ。

「まあそういうことなら」

 私たちがそんな会話をしている横で、つづみさんは栞の前で指を振っていた。しかし、栞は知らん顔で丸まってくつろいでいる。

「駄目みたい」

「猫はむしろ、双子のやりたいことを上手く読み取って制御する方向で訓練するのが多いんだって」

「個性があるのね」

 つづみさんは納得したように頷く。

 ささらちゃんはこちらに向き直り、背筋を伸ばした。

「で、ゆかりさんの場合ですけど……とにかく場所を割り出すのを優先で、何とかやってみましょう」

「ええ」

「でも本当に難しいですよ。本来なら位置の特定だけでも一週間くらいは訓練しますから。もしもの時は、もう双媒師に頼むつもりでいてください」

「わかりました」

 双子がいなくなったときの対処として挙げられていた方法は三つ。警察と帰巣本能と双媒師だ。そして、それらの方法は『もし制御免許を持っていないなら』という前置きがあった。これを見て、つづみさんはささらちゃんに協力を仰いだのだ。

 双媒師に頼むのはなるべく避けたい。いわゆる『本物』に最初から依頼できる保証などないのだから。

 よし、と軽くつぶやき、ささらちゃんを見る。ささらちゃんは軽く頷き、口を開いた。

「それじゃあ、まずは眼を閉じて、とにかく雫ちゃんのことを強く思い浮かべてください」

「はい。それで次は?」

「そうすると……こう……わかります!」

 何もわからない。

「ささらちゃん……」

「あー、つづみちゃん、私のことおバカだって思ってるでしょ。でも本当だもん」

「言いたいことはわかるけれど、もうちょっと不安にならない説明の仕方をしてちょうだい」

 まあ、説明の仕方はともかくやり方はわかった。思えば繋がる、ということだろう。

 私は用意してきた雫のクッションを取り出すと、膝に置いて眼を閉じた。

「じゃあ、やってみます」

 二人が固唾をのむ気配が伝わる。私も一度深く呼吸して、自分の内側へと没入しようと試みる。

 雫。雫のこと。雫の姿。鳴き声。手触り。匂い。

 ふてぶてしくベットに横たわる雫。

 私の声に無愛想に返事をする雫。

 あかりちゃんに撫でられている雫。

 膝の上でうとうととしている雫。

 私が帰ってきたのを見て駆け寄ってくる――。

「違う――」

「……ゆかりさん?」

「すみません――駄目みたいです」

 つづみさんが心配そうにのぞき込んでくる。私は「大丈夫です」と機械的に答えた。

 水を一口。

 やはり、違和感に逆らってでも別の名前を付けるべきだっただろうか。しかしそれも無駄な足搔きに思えてならない。兎の名前は雫。そういう風に、できている。

 だからこの方法ではだめだ。あの雫だけを鮮明に思い浮かべることはできない。

 もう一度深呼吸して気持ちを切り替える。

「別の方法があるんですよね」

「う、うん」

 ささらちゃんが不安そうに頷く。私は意識して微笑みを浮かべた。

「お願いします」

「うん……さっきみたいに直接双子のことを思い浮かべるんじゃなくて、双子との『繋がり』をイメージするんです。そうすればその『繋がり』を辿って、どっちにいるかが分かるはず」

「ああ、『繋がり』に先入観を持たせないようにしたのはこのためですか。ありがとうございます」

「うん……でも大丈夫ですか? 慣れないことをすると結構疲れるし、ここだと周りの音があるから……」

 ピークには少し早い時間帯のファミレスだ。幸い小さな子供を連れた家族などはいないものの、それなりに賑わいはある。

「とりあえずやってみますよ。駄目そうならまた静かな場所で仕切り直します」

「うん……じゃあ」

 ささらちゃんは何か紐のようなものをすくい上げるように手を持ち上げ、顔より低いくらいの高さで止めた。

「イメージしてください。自分の胸から伸びる『繋がり』を。試しに色々な種類を想像してください。とにかく、自分と双子を繋げられそうなものなら、材質や色は何でもいいです。上手くイメージできないならその時はいくつか例を挙げますから、まずは自分なりにやってみてください」

「分かりました」

 深呼吸して眼を閉じる。ささらちゃんの真似をして、自分の胸から延びる紐のようなものをイメージし、手ですくい上げてみる。

 ……紐のようなもの、ではやはりイメージしづらい。ささらちゃんが言ったように、しっくりくる実体を考える。

 それは私と雫を繋ぐのにふさわしいもの。あの不愛想な兎へと続いていて違和感のないもの。

 リード……違う。雫はそう言ったものを好まない。

 縄……これも違う。ましてや鎖も違う。

 毛糸……は近いような気もするが、色がイメージしづらい。やはり違うか。

「ゆかりさん……?」

 おずおずとささらちゃんが訪ねてくる。眼を閉じたまま返事をする。

「ごめんなさい。もう少しやらせてください」

「うん」

 もう一度深呼吸する。

 そうだ。雫は何かで繋ぐまでもなく私のそばにいた。されるがままにそこにいた。そんな雫と私を結ぶものは……。

「雫――」

 お互いを繋ぎ止めるのに必要な強度を持つものではない。

 お互いがそこにいるという事実だけを確かめられればいいもの。

 紐や鎖よりも頼りない、けれど確かに互いを結ぶもの。

 ……私は持ち上げていた手を下ろし、全神経を集中した。私と雫を繋ぐものをイメージする。

 いつの間にか、周囲の雑音は耳に入らなくなっていた。

「雫……」

 呼ぶ。

「雫……!」

 声の波を起こす。どこかの方向へではなく、自分の周囲に波紋を広げていく。そして。

 ――ぶぅ。

 不愛想な声の波が返ってくる。

 ――ああ、そこにいる。

「そっち」

 気が付くと、私はある一方を指さしていた。

「ゆかりさん……大丈夫?」

 眼を開けると、ささらちゃんが心配そうに私を覗き込んでいた。

「あー、どうにか、なり……あれ?」

 おかしい。上手く声が出ない。喉が枯れている。心臓が早鐘を打っている。

「シュガー!」

 ささらちゃんの声を聞き、シュガーがぱっと私の隣から飛びのく。かわりに私の隣に滑り込んだささらちゃんが私の額にハンカチを当てた。

「すごい汗……よっぽど集中したんですね」

「ああ、なるほど」

 慣れないことに神経を使ったせいか。

「とりあえず、水を」

 つづみさんが私の前に三人分の水のコップを集めてくれた。

「温かいものを何かとってきます。コーヒーでいいですか?」

「ええ、すみません」

「いえ」

 水を飲んで乾いた喉を潤し、つづみさんがドリンクバーで淹れて来てくれたコーヒーをゆっくりと飲んで深呼吸をする。ようやく鼓動が落ち着いてきた。

「すみません。落ち着きました」

「よかったー。まさかあんな風になるなんて……ごめんなさい」

「いえ。助かりましたよ」

 ささらちゃんがシュガーを触らせてくれる。体温と手触りが心を落ち着けてくれる。

 十分に回復したとみてか、ささらちゃんが聞いてくる。

「それで、何をイメージしたんですか?」

「ああ、あれはですね」

 私と雫を繋ぐもの。物理的に縛られず、ろくに私を見ないあの兎と交わされるもの。

「声でした」

 私と雫は声で繋がっていた。ピンを打つように、呼んで呼ばれて互いの位置を確認していた。

 ささらちゃんがぱちくりと瞬きをする。

「声……? え? 紐とかじゃなくて?」

「変わってる……んでしょうね、やっぱり」

「多分……」

 と、私たちの会話が途切れたのを見計らって、つづみさんが軽く手を挙げて質問した。

「ちなみに、ささらちゃんとシュガーを繋いでいるのは何なのかしら。もう教えてくれてもいいでしょう?」

「えっと……それは、その」

 ささらちゃんの眼が泳いでいる。心なしか顔が赤い。

「別に無理に言わなくてもいいですよ」

「いいえ、ゆかりさん。私たちには知る権利があります。ゆかりさんは教えてくれたのに、ささらちゃんは秘密だなんて、ねえ?」

 そして、そんなささらちゃんの様子を見て、つづみさんの悪い癖が出ていた。

「ええと……笑わないでよ」

 ささらちゃんは携帯で何かの写真を見せてくれた。ピンクと水色のリボンをそれぞれつけた二人の女の子――私が知るのよりもずっと幼いが、間違いない。

「あら、ささらちゃん。これって――」

「そうだよ。つづみちゃんと小さいころにお揃いで買ったリボン。それが私とシュガーを結んでるの」

「……へえ」

 つづみさんの笑みが一層深くなった。ささらちゃんが慌てて聞いてもいないことを話し始める。

「ち、違うよ!? なかなか上手く『繋がり』がイメージできなくて、色々な人に聞いたら小さい頃から大切にしてるものを使うと良いって言ってて、それで――」

「ええ知ってるわ。ささらちゃん、このリボンを今も部屋のぬいぐるみにつけてくれてるもの。もうボロボロなのに……本当に嬉しいわ。今度またお揃いの物を買いに行きましょうか?」

 つづみさんがささらちゃんの頭を撫でながら言う。ささらちゃんは顔を真っ赤にして叫んだ。

「ああもう、こうなるから言いたくなかったんだよー!」

 仲がいいなあ。

 

  *

 

「さて」

 ささらちゃんを弄り終えたつづみさんが、満足げな表情で手帳を差し出してくる。

 手帳の地図には赤い矢印が書き加えられていた。

「さっきゆかりさんが指さした方角がこれです。違う方角からもう一度――それか念を入れて二度。そうすれば確実に位置を割り出せます。雫ちゃんが動いていなければ、ですが」

「ありがとうございます。まあ、もしあちこちに連れ出されているならお手上げです」

「でも大丈夫ですか? 雫ちゃんがどっちにいるのか探ると、結構疲れちゃうでしょ?」

 ささらちゃんが心配そうに聞いてくる。

「そうですね。一日に何度もできる気はしないです」

「となると方向を割り出せたとしても、その日のうちに迎えに行くのは難しいかしら」

「ええ。今日が水曜で、明日……それと明後日。その次だから土曜になりますね」

 ささらちゃんが身を乗り出す。

「ねえ、ゆかりさん。もしよければ、私とつづみちゃんが代わりに雫ちゃんを迎えに行くっていうのは? 明日おおよその場所が分かれば、あとはシュガーに匂いを辿らせれば行けると思います」

「それは……どうなんでしょう」

 ここまで巻き込んでおいてなんだが、雫のいる場所にたどり着いたら何が起こるかわからない。案外あっさり雫を取り返せるかもしれないし、そうではないかもしれない。なにせこの件を仕組んだのはIAかもしれないのだ。ここまで手を借りておいてなんだが、そこには巻き込みたくない。

「そういうのはこう……自分で何とかしたいというか」

「まあ、自分のことですものね」

 ささらちゃんとは対照的に、つづみさんは意外なほどあっさりと同意してくれた。

「え、でも……」

「双子は自分の一部だもの。ゆかりさんが自分で何とかすると言っているなら、そうさせてあげるのだって親切よ、ささらちゃん」

「つづみちゃんがそう言うなら……」

「決まりね。……でも」

 つづみさんが言葉を続ける。

「気を付けてくださいね。そこにいるのは雫ちゃんを(さら)った相手なんですから。……もし何かあったら私たちか、警察に。躊躇わないでください」

 つづみさんはやはり冷静だった。私の気持ちを汲みつつも、きちんと警告してくれる。そこで起こる『何か』の想定が違うとしても。

「……ええ」

「本当に大丈夫ですか? せめてついて行っちゃ……」

「ささらちゃん」

「だって心配だし……シュガーなら、その、結構――」

「大丈夫ですよ」

 私はささらちゃんの言葉を遮った。

「ささらちゃん。きっと大丈夫ですよ。今、私は何ともない。つまり雫の身に何も起きていないってことです。ね?」

「ゆかりさん……」

 シュガーは可愛らしくても大型犬だ。ささらちゃんの制御を受ければ、もしもの時に頼もしいのはわかる。けれど、私はそんなことにシュガーを使ってほしくなかった。

 つづみさんがシュガーの頭を撫でながら言う。

「何かあったら、私たちを遠慮なく頼ってください」

「ええ」

 本当に頼れるだろうか。いいや。きっと自分で何とかしようとしてしまうだろう。

 それでも今はこう言うしかなかった。

「その時は、きっと」

 

  *

 

 翌日。仕事から帰った後、自分の家でもう一度雫との繋がりを探った。雫を呼び、雫に呼ばれる。私と雫を結ぶ線が分かる。

 ふう、と息をつく。用意しておいたコップの水を飲み干し、息を整える。昨日よりは消耗せずに済んでいる気がする。

 パソコンで地図を印刷し、昨日つづみさんが書いてくれた矢印を書き写した。そして今日の矢印を書き加え、二本の線が交わる。

「ここは……」

 雫を見失った電車の沿線から少し離れている住宅地のはずだ。試しに自分のパソコンで地図を拡大してみても、特徴的な何かがあるということもない。郵便局と公園、図書館、喫茶店にクリーニング店。まさしく閑静な住宅街だ。

「見つかったの?」

 風呂から上がったIAが、髪をタオルで拭きながら近づいてくる。いつも以上に花のような香りを強く感じた。季節は秋だというのに、春先のような空気がリビングに広がる。

「おおよその場所は。明日は職場の近くからもう一度探ってみます。それで三本の線が重なったら決まりです。そうしたら土曜の午前中にでも行ってみますよ」

「そっか。結局、私の助けは要らなかったみたいだね」

「……まあ、雫のところに着いてから何かあったら頼るかもしれません」

「そう?」

 IAは私の右手の人差し指の指輪を見た。そう。シュガーよりもずっと心強いジョーカーがここにあるのだ。もしこの一件がIAと無関係なら、これに頼らない理由はなくなる。

「じゃあその時は呼んでね。またあの羊羹食べたいし」

「別にそんなことしなくてもまた買ってきますよ――というか。あなたのほうが稼ぎは大きいでしょう。自分で買えばいいじゃないですか」

 遅筆の兼業作家と世界的なアーティスト。比べるまでもない。

「んー、でも何だか自分で買うのとは違うんだよね」

「そういうものですかね……」

 ARIAの精霊だという彼女は人の感情に敏感だ。もしかしたら人の気持ちがこもった物の方が美味しく感じるのかもしれない。

「それじゃ、私は待ってるよ。今週の土曜は仕事もないし、一日家にいるから」

 そう言ってIAはソファに寝ころんだ。

「髪を乾かしてからにしてくださいよ」

「大丈夫だよ」

「いや、風邪とか寝ぐせとか……」

「それも平気」

 宇宙人にはどちらも無縁らしい。素直にずるいと思った。

 

  *

 

 金曜日の仕事終わりに職場の近くのカラオケボックスに入り、雫の位置を探った。三本の線は綺麗に一点で交わり、間違いなく雫がそこにいると教えてくれた。

 そして予定通り土曜の午前。朝食を終えた私は線が交わる場所にやってきていた。

「この辺りですか……」

 やはりというか、ごく平凡な民家の連なりだ。古すぎず新しすぎず、本当に普通の住宅街だ。

「さてと。――雫、どこにいるの」

 眼を閉じる。私と雫の繋がり――声を探る。呼ぶ声の波紋が広がり、一拍置いて私を呼ぶ声が返ってくるのを感じる。

「――いた」

 雫の位置を探るのにもそろそろ慣れを感じていた。距離が近いのもあるだろう。疲れもほとんどないし、ずっとはっきりと声を感じる。

 声のするほうへと角を曲がる。少し道を歩き、もう一度集中。通り過ぎていた。戻る。もう一度。

「――ここだ」

 そこはやはり、何の変哲もない民家だった。二階建てで、車庫に車はない。『三島』という表札がかかっていた。

「……よし」

 インターホンを押す。

『はい』

 ほどなくして応答があった。何と言おうか、と考えるも、結局は当たり障りのない言葉が口から出た。

「すみません。うちの兎がご厄介になっていないでしょうか」

『――』

 息を呑む気配。対応を間違えていなければいいが。

『……今出ます』

「……ありがとうございます」

 インターホンが切れ、玄関のドアが開く音がする。中から顔を出したのは、おそらく七十過ぎくらいであろう女性だった。

 その傍らには、何の動物の姿もない。

 自分の予想が的中した得意さと、当たって欲しくなかったという気まずさが胸に満ちる。

「どうぞ、お上がりください」

「お邪魔します」

 彼女の招きに応じて家の中へ。他の人の気配はない。廊下を通り、ダイニングへ。椅子に座るよう促される。

「飲み物をお出ししますね」

「いえ、お構いなく」

 定番のやり取りをしたのち、女性は台所へ向かった。私は失礼にならない程度に周囲を観察する。

 ごく普通のダイニングだ。特に不審なものはない。勿論、IAがどこからともなく現れたりはしない。

 少なくともこの場には彼女しかいないようだ。

 女性が戻ってきた。紅茶をはさんで二人で向かい合う。そして。

「……すみませんでした」

 先に動いたのは彼女のほうだった。

「では、やはり」

「ええ。あなたの双子を連れ去ったのは、私です」

 とてもそんなことをする人には見えなかった。物腰も丁寧で、突然の訪問だろうに髪も服もきちんとしている。淡いピンク色のカーディガンが似合う上品な女性だ。

「……申し遅れました。私は三島梅子と申します」

「結月ゆかりです」

 名乗りに合わせて二人でそろって頭を下げた。お互いに距離感を測りかねているようだった。

 それはそうだろう。大袈裟に言えば加害者と被害者なのだから。しかし梅子さんには私をこれ以上困らせるつもりは無さそうだし、私にもまた梅子さんを責めるつもりはなかった。

 梅子さんは私がもっと激しい剣幕で怒鳴りこんでくるのを予想していたのかもしれない。けれど私は梅子さんの寂しさを知ってしまっていた。あの電車の中で同情してしまっていたのだ。

 そして、雫が傍らにいない数日を過ごし、その同情はさらに深くなっていた。少しの間なら雫を貸してあげてもいいとさえ思うほどに。

 だがこれ以上は無理だ。私はここにたどり着いてしまった。用事を済ませてしまおう。

 私は切り出した。

「一応聞いておきますが……兎を連れて帰ってしまって構いませんか? 警察には届けを出していません。大事(おおごと)にするつもりはないので、それで済ませてしまいたいんです」

 梅子さんはそんな申し出に対し、戸惑うように頭を下げた。

「ええ。本当に申し訳ないことをしました。どうぞ、連れて行ってあげてください。……いえ。こう言うべきですね。お返しします」

「雫……兎はどこに?」

「こちらです」

 梅子さんが大きな引き戸を開けると、今いるダイニングとリビングが一続きになった。リビングの大きな窓から差し込む光が伸び、私の座っている場所までふんわりと明るくなる。リビングのほうは客を迎え入れる想定をしていなかったのか、折り畳んでいる途中の洗濯物が山を作っていた。

「……あら?」

 が、梅子さんは意外そうな声を上げた。

「どうされたんですか」

「ごめんなさい、さっきまでそこに……」

 直接日が当たらない部屋の隅に、いかにもちょうどいい大きさのクッションが置いてある。いいご身分だったようだ。

「失礼します」

 梅子さんがリビングの物陰を探している間に、私はクッションに近づいた。そこから周囲を見渡してみる。

「……ん」

 和室だろうか。ふすまが細く開いており、その奥から気配を感じた。

「三島さん。こちらは?」

「ああ、和室です」

「開けても?」

「ええ」

 ふすまをもう少し開けて中をのぞくと、畳の上にふてぶてしい寝姿があった。なんでこんなところに。

「いました。……入っても?」

「ええ、勿論。ごめんなさい」

「すいません」

 ぎこちないやり取りをしてから和室に踏み入り、雫のそばにしゃがみ込む。

 そしてその名前を呼んだ。

「雫」

「ぶぅ」

 いつも通り無愛想な返事を返された。

「帰りますよ」

 雫を抱き上げ、視線を上げたその時。私は雫の意図を悟った。

 何故ここにいたのか。何故ここで寝ていたのか。

 ……ああ、なるほど。

「三島さん」

「はい」

「お線香をあげてもいいですか?」

 この和室にあったもの。それは仏壇だ。

 一つは旦那さんのものだろう、穏やかな笑顔の男性の写真が飾られてたものだ。そしてもう一つは――。

 梅子さんはおずおずと訪ねてくる。

「ええと、それは……どちらに?」

「勿論、どちらにも」

 この世界ではきっと、とても珍しいもの。

 雫にそっくりな兎の写真が飾られた、ペット用の仏壇だった。

 

  *

 

「私はいわゆる『一人っ子』でした」

 ダイニングのテーブルに戻ると、梅子さんはそう切り出した。

 雫はといえば、リビングのクッションで横になって寝息を立てている。いいご身分だ。

「そのせいか、どうにも周りに馴染めなくて……でも、主人もまた双子について悩みがあったんです」

「というと……」

「仏壇の写真、見たでしょう?」

 旦那さん――(ひろし)さんの写真の横には、毒々しい色をしたサソリの写真が飾ってあった。私の知る世界の常識では、仏壇にそんな写真は飾らない。つまりは。

「十八になって真っ先に免許を取っても、周りの目は変わらなかったそうなんです。それはそうよね。こんなにあるサソリだもの……」

 そう言って梅子さんが広げた両手の幅は大型犬ほどもあった。

「だからかしら。私たちは自然と一緒にいました」

「……苦労されたでしょうね」

 この世界でまだ一週間しか過ごしていない自分からは、こんな薄っぺらい言葉しか出てこない。それでも梅子さんは微笑んでくれた。

「幸い、子供たちの双子は犬と狐でした。本当に、本当に子供たちに同じ苦労をさせずに済んでホッとしました」

「……やはり、違うものですか」

「ええ。あなたの身近に、毒のある双子をお持ちの方は?」

 私は緩く首を横に振った。IAのモルフォ蝶は――どうだったか。そのくらいしか心当たりはない。

「そう……もし、これから先出会うことがあっても、どうか仲良くしてあげてくださいね」

 梅子さんは紅茶を一口飲んだ。

「それで、あの仏壇の兎さんは……」

「かおり、と言います。あの子は――主人が亡くなった後に飼っていた兎です」

「……本物の」

「そう、本物の」

 この世界において、わざわざ双子以外の動物を飼おうという人はほとんどいない。少なくとも、産業としてはかなりニッチなものになる。

 手続きも煩雑であり、小動物の飼育だというのに保健所の審査もあるという。餌や道具の調達も大変だし、獣医を探すのにも苦労する。

 この世界の学校では鶏や兎も飼われてはいないだろう。

 そんなことをしなくても一人一人の子供の隣に動物がいる。

 いつでも触れられる場所に、何より身近な存在として。

 学校の教室にもたくさんの動物がいて、一緒に授業を受けている。

 ……そんな中、一人でぽつんと座っている女の子を私は想像した。

「どうしても、主人がいなくなった後に耐えきれなくて。娘にはだいぶ心配されました。(なま)の生き物を買うなんて、責任が取れるのかって……」

「……長生きされましたか」

「十年ちょっと。そして、去年の暮れに。……本当に、かけがえのない時間でした」

 答える梅子さんの声は震えていて、聞いている私も辛いくらいだった。

「ご愁傷さまです。……わかります、その気持ち」

 梅子さんは静かにこぼれた涙をハンカチで拭いた。本当に仕種の一つ一つが上品な人だ。

 だからこそ、こんな梅子さんが雫を無理やり連れて行ったとは信じがたい。私は身を乗り出さないよう心がけながら聞いた。

「……話しづらいとは思いますが、火曜のことを話していただけますか」

「ええ。……そうよね」

 梅子さんはリビングで寝ている雫のほうを見た。雫はやはりというかこちらを見もしない。

「火曜のこと。私は編み物の教室の帰りでした。少し買い物をしていたら電車が遅くなってしまって、会社帰りの人たちと重なってしまったわ。……どこを見ても双子の動物たちがいて、寂しさがぶり返してきました。かおりを飼っていたころは一緒に電車に乗って、他の人たちと同じようなふりをして……そんなことを思い出していた、その時です」

「はい」

「女の子がこっちに歩いてきたの」

「女の子が……」

「ええ。とても綺麗な子だった。どこか現実離れしているというか……その子が、私に向かってこう言ったの」

 梅子さんは言葉を区切った。

 現実離れした綺麗な子、という言い方に、私の背筋に緊張が走る。まさに自分が知る彼女を言い表すのにぴったりな表現だ。

「『あっちの車両に、もみあげだけ長い髪型をした女がいる。その人の双子なら、あなたの寂しさを埋めてくれるかも』」

「……寂しさ」

 そう。雫を見失った時に感じた感情。どこからともなく押し寄せてくる、自分のものではない感情。あれはやはり梅子さんのものだったのだ。

「それを聞いて、私、どうしてかぼーっとしてしまって。そのまま車両を移って、そして、あなたの膝から雫ちゃんを――」

 梅子さんは顔を抑えた。

「魔が差しただなんて言い訳にはならないわ。あれから雫ちゃんを連れて警察に行く時間はいくらでもあったもの。私はわかってやっていたんです」

「……確かにまあ、褒められたことではないかもしれませんが」

 私は雫を見た。

「雫があの調子なので。本当に嫌なら抵抗しますよ、多分」

「……本当に良い方ね。あなたも、雫ちゃんも。でもその優しさに甘えてしまったわ」

 梅子さんは長年連れ添った夫を亡くし、その寂しさを埋めるために飼った兎も亡くした。その感情は抑えが効かないものになり、飼っていた兎の面影がある雫を思わず連れ去ってしまった。納得のいく筋書きだ。

 ……ある一点を除けば。

 そう、梅子さんに話しかけてきた女の子だ。

 梅子さんの事情を把握しており、雫のことを知っており、どうやってか梅子さんの寂しさを私と雫に伝えて同情を引き、梅子さんの感情を刺激して駆り立てた。

 だからこそ雫は抵抗もせずに梅子さんに連れ去られたのだ。

 そして、私はそんなことができる存在を知っている。指一本で相手の頭の中を読み、拍手一つで人の認識や記憶を操作できる存在を。

 心臓が早鐘を打つ。

「雫のことを教えてくれた女の子、どんな双子を連れてました? 蝶ですか?」

 そう言うと梅子さんは驚いた様子だった。

「お知り合いなの? そう、蝶よ」

 やはり。確信に変わる。帰って問い詰めなくては、と決意が沸き上がり――。

「オレンジ色の、綺麗な蝶だったわ」

 行き場を失った。

 

  *

 

 梅子さんは最後に雫の頭を撫でて「ありがとうね」と言っていた。この不愛想な兎が彼女の慰めになったのなら言うことはない。深々と下げられた頭から逃げるようにして、私はその場を立ち去った。

「……まあ、何とかなったかな」

「ぶぅ」

「いくら可哀想になったからって、黙って連れていかれることはないでしょう。私を起こせばいいものを」

「ぶぶ」

「……まあ、起きなかった私が悪いのはわかりますが」

 訓練を通して雫との繋がりが強まったからか、雫の思っていることが以前よりはっきり分かるような気がする。……とはいえあまり独り言が多くても困る。駅に近づき、人通りが多くなる前に私は会話をやめた。

 たどり着いた駅のホームで電車を待つ。早めに報告を済ませることにしよう。

 私は椅子に座って雫を膝に乗せ、携帯電話を取り出した。

「もしもし」

『あ、ゆかりさん。どうでした?』

 相手はささらちゃんだ。結果を知らせることになっていたのだ。

「何とかなりましたよ。平和的に解決しました」

『よかったぁー……』

 よっぽど安心したのか、言葉の後に深々と息を吐くのが聞こえた。

「本当に助かりました。今度お礼をしますよ」

『いやそんな、お礼だなんて――』

『いいじゃない。もらっておけば』

 電話の向こうから別の声がした。

「つづみさん? 一緒にいるんですか?」

『ええ。どっちに最初に連絡があってもいいようにしてました』

「なるほど。つづみさんもありがとうございました。助かりました」

『私は何もしてませんよ』

 つづみさんが苦笑しているのが電話越しでもわかる。

「いえ。ささらちゃんの手を借りようと言い出したのはつづみさんですから。二人とも、どこか行きたいお店とかありますか?」

『え、ちょっとちょっと、大袈裟だよゆかりさん。私はできることをしただけで』

「それが助かったといっているんですよ」

『でもー……』

『ささらちゃん。遠慮してばかりじゃゆかりさんの気が済まないし、甘えていいと思うわ。気になるならあまり高くないお店を選べばいいのよ』

『もう、つづみちゃんってば』

 うーんうーんと唸る声がしばし。

『それじゃあ……ごめんなさい、ゆかりさん。また今度、お店を決めたら連絡しますね』

「良いんですよ。お世話になったのはこっちなんですから」

『はーい。ねえつづみちゃん、ゆかりさんってお仕事でもいつもこうなの?』

『ええ。本当に律儀な先生よ。こっちがやりたくてやったことなのに、「働いてもらった分は返す」っていう文句を何度聞いたことか』

『あはは、ゆかりさんらしいや』

 電話の向こうで盛り上がり始めてしまっている。私はさっさと退散しよう。

「それじゃそういうことですから、連絡待ってますね」

『え、うん。それじゃあ、また。ほらつづみちゃんも』

『ええ。ゆかりさん、また今度』

「ええ。また」

 電話を切る。

「さてと」

 報告を終え、これでようやく一息付ける。考えを整理しよう。

 ひとまず、この件にIAは関わっていなかった可能性が高い。梅子さんをそそのかした少女が連れていた蝶はオレンジ色をしていたという。一方、この世界でIAが連れているモルフォ蝶は青色だ。

 勿論、IAは七色の魂を持つ精霊だとかいう存在なので、オレンジ色が含まれてはいる。しかしそれをわざわざ前面に出して偽装するとも思えない。

 だとすれば、IAと同じようなことができる別の存在。IAに心当たりがないか聞かなくては。

「それは困るな」

「え――」

 声が聞こえた気がして、ぱっと顔を上げる。

「……あ、蝶」

 そこにはオレンジ色の蝶が飛んでいた。ほのかな燐光を放つそれは、多分自然界のものではない。誰かの双子だろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

『まもなく2番線に電車が参ります。黄色い線の内側まで――』

「おっと」

 椅子から立ち上がり、乗車位置へ。何を考えていたんだったか。そうそう。

 雫は見つかった。IAはこの件に関わっていないようだった。ならば、残る問題は一つだ。

 ……そう、目をそらし続けてきたことと向き合うときだ。

「……帰りましょう、雫」

「ぶぅ」

 ようやく取り戻した暖かさが、今は何だか重たく思えた。

 電車に乗り込む私の視界の端で、オレンジ色の蝶がどこかに飛び去って行った。

 

  *

 

「ただいま帰りました」

「おかえり」

 時間は十一時の少し前。

 IAはソファで羊羹を食べていた。包み紙を見ると、私が前に買ってきたものと同じだ。一本丸ごとではなく、半分に切ったうちの片方を手掴みで食べており、もう半分が皿に乗っていた。

「こっち、ゆかりの分だよ」

「ああ、どうも……」

 床に下ろされた雫を見て、IAの顔がほころぶ。

「よかった。雫、ちゃんと見つかったんだね」

「ええ、何とか」

 IAが羊羹でべたべたの手で撫でようとすると、流石に雫は逃げ出した。

「あー」

「そりゃそうですよ。……それと、IA」

「なに?」

「お昼の前に、少し話したいことがあるんですが、良いですか」

「勿論。待ってるね」

「ありがとうございます」

 コーヒーを淹れ、半分に切られた羊羹にフォークを添えて自分の部屋へと運ぶ。雫はすでにベッドの上で伸びていた。

 羊羹とコーヒーを机に置く。羊羹を一切れ、口に入れると上品な甘さが広がった。後味が消えないうちにコーヒーを呑む。甘さと苦みが溶け合って舌の上で踊る。

「さてと」

 私はスマホのアラームを十二時に設定した。あと一時間と少しだ。

「雫」

「ぶぅ」

 ピンを打つように名前を呼ぶ。波紋と共に声が返る。声に乗って意思が伝わる。雫は億劫そうに起き上がると私の前にやってきた。私もベッドの上に座り、雫と向かい合う。

「ねえ、雫。私の思い出話を聞いてくれませんか」

「ぶぅ」

 聞くまでもなくわかっているだろう。なにせ私の一部なのだから。

「あなたにつけたその名前……本当は、あなたのものじゃないんですよ」

「……ぶぅ」

「小学生の一年か二年から、中学生の途中まで。七年くらいかな。私が飼っていた兎の名前。それが雫です」

 目の前の雫は答えない。

「あなたに名前を付けるとき、別の名前にしたほうがいいと思ったんです。でも思いつかなくて。()()雫は本当に人懐っこくて、私が家に帰ってくると、撫でろ撫でろってすり寄ってきて……あなたとは、全然、違うのに……」

 話せば話すほど声が詰まっていく。

 もうずっと昔の話だ。それなのに。

 寂しさも喪失感も、忘れていただけで、ずっと感じていた。

 梅子さんの感情を知って、蓋をしていたものが溢れてしまった。

「……私は、梅子さんと同じことをした。大切なものを失った寂しさを、別のもので埋めようとした」

 この不愛想な兎と過ごした数日は、とても心地よかった。暇さえあればこの子を撫でていた。

 この世界はよくできている。一人ひとりに動物が寄り添い、嬉しいことも悲しいことも共有してくれる。

 許されるならこの世界にいたい。

 でも、それを決めるのは私ではない。

「雫。……あなたさえよければ、私はずっと、このまま――」

「ぶー!」

 雫は足を踏み鳴らし、激しく鼻を鳴らした。始めて見るそんな態度に驚きつつも納得する。

「そうですよね」

 私は横になった。雫と目線の高さが合う。

「そんなに怒らないでくださいよ。ちょっと、思ってもないことを言っただけじゃないですか」

 雫はなおも不満げに鼻を鳴らした。

「ぶぶぶ」

「厳しいですね、あなたは……」

 寝そべったまま雫を抱き寄せる。雫の耳元に顔を近づけて匂いを吸い込む。

 ふわふわとやわらかい毛並み。その奥の少し筋張った感触。草や土にどこか似た獣の匂い。

 そしてなによりその温かさ。

「雫……」

「ぶぅ」

 ぴたりと体を寄り添わせている今、声で互いを探す必要はない。思いがそのまま伝わっていく。

 私と雫の気持ちは一つだった。それはそうだろう。

 雫は私の魂の一部。私の心の一端なのだから。

 机に置いた飲みかけのコーヒーから湯気が立ち上るのが見える。冷えていく。

「ごめんね。もう少しだけ……」

「ぶぅ」

 アラームが鳴るまで、私と雫はずっとそうしていた。

 

  *

 

 冷えきったコーヒーを呑んだ。苦みが口いっぱいに広がり、眠気を飛ばしてくれる。空っぽのカップだけを持って、振り返らずに部屋を出る。

「IA」

「ああ、もうそんな時間?」

 IAはソファで眠っていた。起き上がると大きく伸びをしてあくびを一つ。

「ええ。話、いいですか」

「うん」

「先に顔を洗ってきますね」

「分かった」

 空のカップをキッチンに置き、洗面所で用を済ませてからテーブルに座る。定位置のソファに座るIAと向かい合って座り、一度深呼吸してから切り出した。

「この世界を終わらせてください」

「……え」

「元の世界に戻して欲しいんです」

 人差し指から指輪を外して机に置く。それは平行世界の体験を終わらせる合図だ。

「どうして? 雫がせっかく戻ってきたのに――」

「その雫が許してくれないんですよ」

 私は梅子さんのことを話した。寂しさのあまり、許されないことをした女性の話を。

「私は昔、兎を飼っていました。本物の兎です。雫と名前を付けて可愛がっていました。……そして、亡くなったんです」

「そう、なんだ」

「私も梅子さんと同じなんです。大切なものを失った悲しみを、他の何かで埋めようとした」

「でも。雫はゆかりのものでしょう? 梅子さんとは違う――」

「ええ。雫は私の一部。私のそばにあるべきもの」

 私は目を伏せて言った。

「そうして、梅子さんから雫を奪い返しました」

「それは――」

「この世界の常識に照らしても正しいことでしょう。あのままで良かったとも思いません。でも私は――雫はそれが許せない」

「ゆかり……」

「大切な物を失った寂しさを知っているのに。この世界で双子がいない疎外感を知っているのに。このあと、彼女はどうなるでしょうか」

「それは――」

 IAが何かをしようとした。私はそれを察して、あえて鋭く言った。

「やめてください」

 IAの動きが止まる。

 きっと、彼女なら何とかできる。何とか出来てしまう。どんな寂しさも悲しさも、無かったことにできてしまう。

 でも、それを許してはいけないと私は思った。

「だって、その寂しさも悲しさも彼女のものですから。それと同じですよ。兎の雫を失った悲しみは、私のものです。それを、あの雫で埋めるのは許されない」

 指輪をIAの方に押しやる。

「梅子さんがこれからそうしていくように、私は私自身で、この喪失感と向き合っていかなくてはいけないんです。目を逸らして、この世界で生きていくわけにはいきません」

「……どうして?」

 IAは泣いていた。ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。その一滴一滴でさえ、うっすらと虹色に輝いて美しかった。

「どうして、わざと辛い思いをするの? ゆかりも、雫も、一緒にいたいでしょう? なのに、どうして?」

 私は無理に笑顔を作った。

「どうしてでしょうね……でも、私と雫はそうしたいって思うんです。だから、お願いします。雫とはお別れを済ませてきましたから」

「……分かった」

 IAは指輪を受け取ると、私を手招きした。

「横になって。三つ数えて……目が覚めたら、元通りの世界だよ」

 普段はIAが寝ているソファに横になる。ふわりと花のような香りが立ち上った。

「それじゃあ……」

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 IAと一緒にそう数えると、眠気があっという間に襲ってきた。

 この世界で起こったことや出会った人が浮かんでは消えていく。

 あかりちゃんとシロ。ささらちゃんとシュガー。つづみさんと栞。IAとモルフォ蝶。そのほかにも、たくさんの人と動物と――たった一人の梅子さん。

 ――ぶぅ。

 意識が途切れる寸前、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

  *

 

 目が覚めると日曜日の朝だった。とても暖かくて、悲しい夢を見た気がする。

 IAに促されて眠ったのが土曜日の昼。まあ多少寝すぎたと思えば違和感はない。ただし。

「一週間前……」

 あかりちゃんと出かけた日の翌日だ。

 いつもなら、並行世界で過ごした日々は元の世界に『上書き』され、並行世界で過ごしたのと同じ日数だけ私は元の世界で生きていたことになっている。それが今回は違う。

 テレビをつけてみれば、そこには私がよく知る日常が広がっていた。キャスターやコメンテーター、芸能人の傍らに動物はいない。

 私も部屋に戻ってあちこちの物陰を覗き込む。当然、そこには何もいない。

 ベッドに腰かけ、布団のちょうどいいくぼみを撫でる。昨晩誰も眠っていなかった布団は、冷たい手触りだけを返した。

「……これでいいんだ」

 立ち上がる。

「……さて」

 起きた時から目に入ってはいたが、触れる気にならなかったものに手を伸ばす。

 造花が飾られている花瓶の横に、一輪の虹色に輝く花が浮かんでいるのだ。この場にいないIAが残していったのは明らかだ。

 恐る恐る触れると、そこからIAのメッセージが流れ込んできた。

 かつて虹色の円盤に触れた時のような情報の洪水ではない。普通の人間である私でも、きちんと理解できる文章だった。

『ゆかり、おはよう。ごめんね。今回の世界は上書きしきれない。雫がいなくなって、そこからゆかりの行動がどんどん変わっていったから。火曜日に雫がいなくなったところまでは上書きできるけど、いきなり仕事する気分にはならないでしょう? だから、日曜日にしておくね。……ごめん、本当にごめん。泣かせちゃったね。ごめん。ゆかりが言ったこと、しばらく考えてみる』

 メッセージは終わった。

 役目を終えた花が光を放ち、私の手から浮かんだ。そして見る見るうちに姿を変え、IAのそばにいたモルフォ蝶になった。蝶は窓のほうへと飛んでいく。

 一瞬迷ったが、私が手助けするまでもなく、蝶はそこにガラスなどないかのように外へ出て行った。

「……はて」

 泣かせちゃった、とは何事か。まあ一つしかないだろう。洗面所に行って鏡を見る。

「ああ……これはひどい」

 真っ赤に泣き腫らした目だ。悲しい夢を見て、情けないくらい泣きながら寝ていたらしい。それを見られたと思うと恥ずかしいが、一方でどこか清々しくもあった。

「泣けなかったからなあ……」

 中学生の時。本物の兎の雫を亡くした時、私はなかなか泣けなかった。寡黙な父すら涙ぐんでいたのに。一番世話をしていた私が泣けないのが本当に不思議で、情けなくて、悲しんであげられないのが申し訳なかった。

『きっと、まだその時じゃないのよ。その時が来たらたくさん泣いてあげて』

 そう母は言っていた。

 そして一か月ほど経った後、庭に埋めた雫のお墓をぼんやりと見ていたら、涙がどこからともなく零れてきたのだ。

 胸いっぱいに雫との思い出が溢れて、感情の抑えが効かなかった。そばにいた弟の(のぞむ)にしがみついて、みっともなく大声で泣いたのを覚えている。

 胸に手を当てる。

 これから上書きされなかった一週間を生き直して、私は本当の意味で双子の雫に別れを告げることになるだろう。一緒に過ごした日々は、この世界には無かったこととして消えていく。

 しかし、雫が私の魂の一部だというなら――元に戻っただけだ。ここにいる。私が覚えている限り、雫が消えることはない。

「……書こう」

 自然と私の足は自室のパソコンへと向いた。ワードソフトを立ち上げて、肩をぐるりと回す。

 体験した並行世界の出来事を書くのは初めてだ。何だかずるい気がして、誰にも見せない形であっても書いたことはない。でも今回は書かずにいられなかった。形にしたくてたまらなかった。

 書き出しはもう決まっている。

「よし」

 この世界では生まれてから死ぬまでずっと、全ての人間の傍らに動物がいる。胎児のときからずっと一緒にいるこの動物を称して、双子という。

 双子はずっとそばにいる。あなたのそばに。そして、私のそばに。

 この世界では、誰一人として孤独ではないのだ。

 

  *

 

 地球ではない場所、今ではない時間。

 見渡す限り広がる花畑の中で、一人の少女と一匹の猫が向かい合って座っている。

「何か言うことはあるか、ONE(オネ)よ」

 猫――チコーは口を開かずにそう言った。

「あんまり上手くいかなかった」

 それに対し、ONEと呼ばれた少女は不機嫌そうに言った。オレンジ色の蝶が彼女の周りを舞いながら燐光を辺りに散らしている。

「そうか? IAを困らせる地球人、結月ゆかりをこらしめる。十分な成果だと思うが」

「でも、IAは泣いてたよ」

 ONEは口を尖らせた。

 チコーは育ての親として、娘のそんな様子を微笑ましく思いながらも言う。

「それは結月ゆかりの感情に共鳴したからだ。IAは間違いなく成長した。そのきっかけを作ったお前を、私は褒めたい」

「……なんか、はぐらかそうとしてる?」

「ぎくっ」

「適当に私を満足させて、もう地球に行かないようにしたいとか」

「ぎくぎくっ」

「あのねえ、チコー。こんなので私の気が済むわけないじゃん」

 チコーはため息をついた。

「ONEよ――私はIAもお前も可愛くて仕方がない。だからお前の行動をIAに黙っているのだ。分かっているな?」

「分かってるって。感謝してるよ」

「本当か……?」

 ONEはチコーを撫でた。

「本当だよ。私のわがままを許してくれるの、チコーだけだもん。でもやっぱり、私はあの地球人をもっとこらしめてやりたい。IAのことをあんな風に扱うのは許せない」

 ONEは何か思いついた様だった。

「そうだよ。自分がどんなすごい存在の近くにいるか、わかってないんだよ、きっと」

「で、あれば……」

「うん、次にやることは決まった。上手くいってもいかなくても、流石にIAにはバレちゃうかなあ。ね、チコー。これが最後のわがまま。私が仕掛けるまで、IAには内緒にしてて」

「……わかった。くれぐれも、取り返しのつかないことはするなよ」

「それはわかってるよ。私だって、あの星の命は大好きだもの」

 ONEは立ち上がった。

「それじゃ、行ってくるね」

 ONEが手を一振りすると、オレンジ色の光が集まり、宙に浮くジッパーを形作った。ひとりでに開いたジッパーの向こうにはオレンジ色の光が渦巻く奇妙な空間が広がっている。

「うむ。気を付けてな」

「はいはい」

 ONEはジッパーの中の空間に飛び込んだ。ひとりでに閉じたジッパーが光の粒となって散り、チコーはオレンジ色の蝶と共に花畑に残された。チコーは地面に寝そべり、花々の匂いを吸い込んで伸びをした。

「IA。ONE。私の可愛い娘たちよ。例え隣にいなくとも、私の心はお前たちのそばにいる」

 地球ではない場所、今ではない時間。

 どこからともなく飛んできたモルフォ蝶が、オレンジ色の蝶とともにチコーの傍らに止まった。


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