私の同居人はエイリアンだ。
といっても、銀色に輝く皮膚を持っているわけではない。白く透き通るような肌は、体を動かしたり湯船に浸かったりすると温かな色を帯びる。
しかし彼女は間違いなく私たちとは違う生き物だ。風邪をひくことがないからと言って、入浴後にあの長い髪を乾かさずにいることがある。しかしそれで髪が傷んでいる様子もなく、柔らかさと艶やかさを失わないままでいる。
ちょうど私の書くSF小説に出てくる異星人のように、地球の常識が通用しない存在なのだ。
表向きは世界中で人気を博するアーティストだが、その正体は惑星ARIAからやってきた精霊――だとか、なんとか。
これはそんな宇宙人
*
熱を出した。
もともと体力のある方ではないが、その分普段から気を付けていたつもりだった。
「え、すごい熱……! 送っていきます!」
「いえ、そんな」
おまけに発覚したのが職場で、指摘したのは後輩の紲星あかりちゃんだというのだから情けない。彼女が使った非接触式の体温計には、明確な証拠が映っていた。
「ん? 結月さん、具合悪いの?」
騒ぎを聞きつけてか、上司が様子を見に来た。
「そうなんです……どうしましょう」
「あの、私は大丈夫なので……」
「いやまあ、結月さんは大丈夫かもしれないけど、この熱で職場にいてもらっちゃね」
上司も体温計の表示を見たようだった。
「まあ幸い、急ぎの仕事は私が片づけられそうだしね……。ちょっと早いけど連休ってことで」
「明日もですか?」
今日は木曜日。翌週の月曜日は体育の日改めスポーツの日なので、明日も含めると合計で四日間の休みになる。
「疲れ溜まってたんじゃないかな。なんだか先週の頭から元気なかったし」
「いえまあ……」
先週の頭。確かにそこで大きな変化というか、出来事があった。自分としてはあまり引きずっていなかったつもりだが――。
「やっぱりそうですか? 私もそう思ってて」
あかりちゃんにもこう言われてしまった。案外、周りの人は私のことを見ているらしい。
「……わかりました。それじゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、それがいい。一人で大丈夫?」
「はい」
「え、大丈夫ですか? 私、ついていきますよ?」
あかりちゃんがおろおろと手を伸ばすが、私は笑顔を作った。
「大丈夫です。家に着いたら連絡入れるので」
「そう……ですか」
あかりちゃんは複雑な面持ちで手を引っ込めた。心配しているだけではなく、どこか落ち込んだ風にも見えた。
定時よりも二時間ほど早く職場を出る。熱が出ていることを自覚したからか、先程より調子が悪い気がする。お昼過ぎまでは普通に――少なくとも自分の感覚では――仕事をしていたというのに不思議なものだ。
帰りの電車も、スーツ姿の大人より学生の姿が目立った。どこか落ち着かない。きっと熱のせいだけではないだろう。
家の最寄り駅についた。ここから家に行く途中に、いつも買い物をしているスーパーに寄ると、少し遠回りする必要がある。それが億劫で、普段はあまり入らない駅前のコンビニでスポーツドリンクとレトルトのお粥を買った。
「だるい……」
家につき、ようやく一息つく。荷物を置いてから手を洗い、うがいをし、あかりちゃんに連絡を入れた。
『今家につきました』
『よかたです』
すぐさま急いだ様子の返信がきた。仕事に集中できているだろうか……。
その後に続いた会話は適当に切り上げた。内容が頭に入ってこない。
化粧を落として体を軽くふき、パジャマに着替えてスポーツドリンクを飲む。シャワーを浴びる気力はなかった。そのまま寝室へと行き、枕元に飲みかけのペットボトルを置く。
「ふう」
冷却シートを額に貼ればよかった、と思ったのは横たわった後だ。もう体はすっかり休む気でいるようで、思考が見る間に輪郭を無くし、意識が遠のいていった。
*
真っ黒い視界に、無秩序な色の線が走る。赤青緑黄――かと思うと、万華鏡のようにくるくると視界そのものが回りだす。ベッドの上に寝ているはずなのに、どこかに落ちていくような感覚。
遠くから救急車の音が聞こえる。それに引きずられてか、鮮やかだった景色が
熱い。
廊下の壁は苔むしていた。巨大なシダのような植物が野放図に伸びている。葉が廊下をふさがんばかりに広がっていて、その向こうで動くものがある。
あかりちゃんだ。
あかりちゃんが何だか気の抜ける踊りを踊っている。声をかけようとしたが、声が出ない。
そうだ。喉が渇いていたんだ。
あかりちゃんの足元にある買い物袋から、ペットボトルの頭がのぞいている。それが欲しい。声は出ず、近づこうとする足も出ない。視界は前に進まず、ただ左右に揺れるだけだ。
その揺れがあかりちゃんの踊りのリズムと同調し、外れ、また同調し――。
「うう……ん」
目が覚めた。
なんだか奇妙な夢を見ていた気がする。パジャマがじっとりと嫌な汗を吸って気持ちが悪い。しかしそれより喉が渇く。まずは枕元に置いたスポーツドリンクを飲み干した。
「あ――……」
だるい。動くたびに声が思わず漏れてしまう。
「今は……」
もう夜の九時だ。四時間ほど寝ていたことになる。
汗を吸った服を洗濯機に入れる。タオルを水に濡らして絞り、体を拭いた。新しいパジャマに着替えると、幾らか気分がマシになった。
「何か食べないと」
レトルトのおかゆを買ってきたはずだ。どこに置いたんだったか――。
「ゆかり?」
気が付くと、定位置のソファにIAが座っていた。いつものように、どこか遠くからこの部屋に瞬間移動してきたのだろう。春先を思わせる花の香りがどこからともなく漂い始めた。
「どうしたの? 辛そう……」
「ただの風邪ですよ。……といっても、あなたには縁がないんでしたね」
「これが風邪……」
IAは立ち上がると、私の額に手で触れた。きっと体温だけではなく、もっと色々な情報が読み取られているのだろう。
「大変……」
IAが一度手を引っ込めると、その手にぼんやりと虹色の光が灯った。――だが、IAが何かに気付いたように目を見開くと、光はたちまち消えてしまった。
「どうしたんですか」
「えっと、今――その、治そうとしたんだけど」
やはりというか、風邪など軽々と治せるらしい。しかし彼女はそれを躊躇ったようだ。
以前のIAなら考えられないことだ。当たり前のように超現実的な変化を起こして、私の反応を観察していた。
「やっぱり気にしてるんですね、この間のこと」
「ゆかりは、あまり気にしてないの?」
「そのつもりですよ」
職場の人は知る由もないが、先週の頭――更にその前の週末。
私だけではなく、IAにも変化が訪れていた。
その日、私は、IAからすれば不可解極まりない理由で自分を苦しめる選択をした。
*
もともと、IAはこの地球を救いに来たのだという。そして
IAはこれまで、私の想像を超える能力やテクノロジーをいくつも見せてきた。それらは私の生活や、あるいはこの世界の常識さえもあっという間に変えてしまうような力を持っていた。だからこそ、私はあれこれ理由をつけてそれを受け入れずにいた。
それに業を煮やしたのか、IAのアプローチは形を変えた。並行世界――あり得たかもしれない地球を模した世界に私を送り込んだのだ。
唐突にもたらされる異星のテクノロジーではなく、可能性の違いで生まれた地球の産物。並行世界における私の友人や同僚たちが当たり前に受け入れているそれらの可能性に、私はうっかり気を許した。好奇心を抑えられず、自分の世界との違いを読み解くことを楽しんだ。
IAはこのアプローチに手応えを感じたらしい。二度、三度と繰り返された並行世界の体験に私が性懲りもなく慣れ始めたころ、私はその世界で兎に出会った。
双子――今いる世界における双生児を指す言葉ではない。その世界において、双子という言葉は、人間が生まれたときからずっとそばにいる動物のことを指す。
IAによれば飼い主の魂の一部であるそれらは、一人ひとり姿も形も違い、飼い主と一蓮托生の関係にある。そして、その世界に送り込まれた私のそばにも、勿論一匹の動物がいた。
思わず名付けたその名前は、かつて私が飼っていた本物の兎の名前だった。つまりそれは、
IAからすれば、その世界をあと何日か維持しているくらいは簡単なことだっただろう。けれど、私は一瞬でも早く元の世界に戻ることを選んだ。
目が覚めると、私の眼には泣いた跡がくっきりと残っていた。忘れていた悲しさと、新しい寂しさのせいだろう。
便利な道具も、辛い過去を埋めてくれる存在も拒み、自分を許さない――そんな選択をしておきながら、涙を流して眠る私の姿は、IAからすれば理解に苦しむものだったのだろう。
IAは謝罪のメッセージだけを残し、その後しばらく姿を見せなかったのだ。
*
「熱くない?」
「ええ」
IAが温めてくれたレトルトのおかゆを食べ、買い置きの風邪薬を飲む。
食べた後、少し話し相手になってほしい。IAは私の頼みを聞いてくれた。今はベッドの横に椅子を出して座っている。
気まずい沈黙が落ちる前に、私は「ふぅ」と息をつき、すぐに話し始めた。
「気を遣わせてしまってすいません」
「えっと、それは……」
「勿論、さっきのことですよ。以前のあなたなら、私に聞いていたでしょうね。『その風邪、治そうか?』なんてね」
「そうかも。でも……」
IAはしょんぼりとした表情を隠さない。今週の月曜日、やっと顔を見せた時からずっとそのままだ。
「ゆかりはそういうの、嫌がるってわかったから」
エイリアンとはいえ、一応は同居人だ。いつまでもこのままではこちらの気も滅入る。
だから、自分の思考を整理するのも兼ねて話を広げることにした。
「嫌がる……とは、少し違うと思います」
「違うの?」
「ええ、何となく」
正直な気持ちだ。しかし、うまく言い表せない。
こんな時、私は自分の言葉の足らなさを不甲斐なく思う。喜怒哀楽、愛憎、好悪。期待と不安、焦燥と安堵。言葉で言い表せるいくつもの感情の間、あるいは感情たちが重なり合う地点の『それ』を言い表す手段を持てないことが歯がゆい。
「私が私の辛さをそのままにしておくのは――どうしてなんでしょうね」
IAに聞いてみる。
「IAは、辛い状態はなるべく治してしまいたいですか?」
「うん。私だけじゃない。みんな、誰もが幸せでいて欲しい」
そこに嘘はないのだろう。IAの口角がわずかに持ち上がった。
「勿論、辛いことを乗り越えた先に得るものはあるけれど……でも、ゆかりが言ってるそれとは違う気がする」
「でしょうね。例えば今の風邪――これを自力で治したとして、何かいいことがあるとは思えません。かといって、あまり便利な力でポンと治してしまうのも、なんだか違う気がするんです」
「それは――大切なものを失った悲しさも?」
「ええ」
体も心も、積極的に鍛えれば成長は大きいだろう。だが、傷つき疲弊したそれをゼロに戻したところで、余計に得るものはほとんどない。
あえて言えば、傷ついたというその経験そのものだろうか。一部の表現者にとっては表現の幅を広げることになるかもしれない。しかし、その経験を得たいからと言って、わざと傷ついてから回復するのはあまりに不合理だ。
もし傷ついたのならば、手っ取り早く治してしまった方がいい。それが感情を抜きにした――あるいは感情に任せた意見だろう。
「自分の体や心が急激に変わってしまうのを恐れているんでしょうか」
「あんまり、そういう風じゃなさそうだけど。風邪薬も飲んでるし」
「ふむ……」
確かに。私がぼんやりと考えていると、IAが何かを思い出したようだ。
「前に言ってたあれは? 『兎の雫を失った悲しみは、私のものです』……って」
「ああ、確かに」
自分の責任で負った心身の傷を、誰かの助けでどうにかするのがしっくりこない。これはだいぶ近い気がする。
それに対し、でも、とIAは言う。
「私は一人じゃどうにもならないこともあると思う」
「でしょうね。例え私が自分でどうにかできると思っていることでも、傍から見たら無茶なこともあるでしょう」
「ゆかりは……自分の責任を自分で取るのが好きなの?」
「好き、というのとは違う気がしますが……」
さっきは『嫌がる』ということについても同じようなことを言った。私の判断基準は、単なる好き嫌いではないところにありそうだ。
「やっぱり、しっくりくるかこないか、という言い方が近い気がします。言い換えれば……正しいかどうか、でしょうか」
なんとも独善的な考え方だ。
「それを決めているのは、ゆかり?」
「でしょうね。あなたほどではありませんが、変わり者である自覚はあります。きっと普通の人間からすれば、わけのわからない基準で正しいかどうかを決めているんでしょう」
「そっか。じゃあ、ゆかりがいいと思えば、私の力で風邪を治してもいいんだね」
「……そうなりますかね」
今までの結論だと、そうなる。
「じゃあ、ゆかりはどうして私の力を借りるのが悪い――しっくりこないと思うの?」
「私にもわかりません。風邪薬を飲んでおいて、あなたの不思議な力での治療をよく思わない理由は、なんでしょうね」
「よくわからないものが怖い、とか?」
「ははは」
自分のことをよくわからないもの扱いする宇宙人とは。
「それはあるかもしれません。でも、私がこの風邪薬の成分を熟知しているかと言われればそうではありません」
ならば私は何を信じてこの薬を飲んでいるのだろう。何をもって『良い』としているのだろう。
「私が信じているのは――」
この薬を作った会社?
薬を承認した法律?
この薬を飲んでいる他の人々?
どれも正しくて、どれも違う。風邪でぼんやりした頭だが、それはわかる。
「……違いますね。私は何も信じていない。ただ、疑っていないだけ」
そうだ。
当たり前に売られていて、当たり前に使われているから疑っていないだけだ。何かを信じているわけではない。製薬会社も、法律も、他人も。きっと疑い出せばきりがないそれらを、疑いきれないからと言って疑わず、鵜吞みにしている。良いと思い込んでいるだけだ。
そして、IAの力を良くないものと考えているのは……初めから疑ってかかっているからだ。
「怒らないでくださいね」
「うん?」
私なりの考えを伝えると、IAはきょとんと眼をしばたたかせた。
「だったら――」
IAはそっと手を伸ばした。私の額まで10cmのところで止まったその手がぼんやりと虹色の光を帯びる。
「
「……今回は信じますよ」
私の風邪は治った。
*
翌日。もはや会社を休む理由はなかったが、一度取った休日を返上するほど私は聖人君子ではない。
IAは昨夜までのしおらしい態度はどこへやら、よだれを垂らして定位置のソファで眠りこけていた。まあ、変に遠慮がちなままよりはいい。
私の方はと言えば絶好調だった。風邪のついでに、普段から溜まっていた疲れも吹き飛ばされたらしい。体の軽さに任せてホットケーキを焼く。
IAからのサービスか、あるいは細かい調整を考えていなかったかは不明だが、おそらくは後者だと思う。もし私が病気や怪我を抱えていたら、それもまとめて治されていたかもしれない。相変わらず規格外の存在だ。
「IA、朝ごはんは食べますか」
「たべるぅ」
べしゃりという音がした。おそらくIAが寝返りを打ってソファから落ちたのだろう。
「いい匂い……」
このまま放っておくと床を這って台所まで来そうなので釘を刺した。
「顔を洗ってきてください。飲み物は紅茶でいいですか」
「うん」
二人分の朝食を並べて手を合わせると、さっそくIAはメープルシロップをこれでもかとホットケーキにかけ始めた。空にしかねない勢いだ。先に私の分を台所で使っておいて正解だった。
ほくそ笑んだ私の顔色を見てか、IAが言う。
「調子よさそうだね。これからもやってあげようか?」
IAが手を光らせて言う。
「今回は、と言ったはずですよ」
「だよね」
そう答えるIAの表情は、どことなく楽しそうだった。やはり一連の出来事は、私だけではなくIAにも変化を与えたらしい。
彼女が私に影響や揺さぶりを与えているのならば、逆もまた然りだろう。
IAにとっては、私こそ侵略者なのかもしれない。
「あ、もう無くなっちゃった」
と、そんなIAの不満げな声が私を現実に引き戻した。
「もう……?」
IAは空になったシロップの瓶を振っているが、すでにその下のホットケーキはじっとりと琥珀色に浸かっていた。
「もう一本ある?」
「IA……。地球の標準的な味覚を覚えましょうか」
ひとまず、私が取り組むべき侵略の第一歩は決まった。
*
私は知るよしもなかったが、すでにこの時、私たちが暮らす部屋の外に彼女はいたらしい。
どこで知ったのか、あんパンと牛乳というベタな組み合わせを手に、電柱の陰から私たちを見張っていたのだ。
「見てなよ、地球人」
牛乳のストローをくわえた少女の肩で、オレンジ色に輝く蝶が羽を揺らした。