時系列と年齢計算にミスがあったため、過去の話の矛盾する描写を訂正しました。すみません。
訂正したページの冒頭に訂正箇所を追記しました。
話の内容に大きな影響はないため、読み直す必要はないはずです。
正しい時系列と年齢設定を箇条書きにします。
・登場人物(人間)の年齢は基本的に公式設定+7歳の計算です。
・ARIAの精霊の年齢は本人たちにもよくわかっていません。
・本編現在、結月ゆかりは社会人4年目の秋です。
・紲星あかりは結月ゆかりより3学年下で、本編の年の春に社会人になりました。
・佐藤ささらは結月ゆかりの2学年下、鈴木つづみは結月ゆかりの1学年下です。
・弦巻マキは結月ゆかりと同学年です。
・結月ゆかりが休職したのは社会人3年目になった春、復職したのはその半年後です。
・結月ゆかりとIAが同居を始めたのは結月ゆかりが復職したころです。
私の同居人はエイリアンだ。
なんでも彼女は地球の悲鳴を聞きつけてやって来たとのことで、生命と愛と平和のメッセージを届けてこの地球に調和を取り戻すのが目的らしい。
そのために彼女――
彼女と関わるうちに、ゆっくりと、しかし確実に私の価値観は変容してきた。IAの持ち出す常識外れの能力やテクノロジーに驚くことも減ったし、以前のように劇物扱いすることも少なくなった。
そしてIAもまた、私から変化を受けているようだった。IAは不可思議な存在だが、話が通じないわけではない。それどころか、誰もが幸せになることを純粋に望む、公平で慈悲に溢れた存在のようだ。
IAの故郷の精霊たちが似たような考えならば、私の態度で示せばいいのだ。私がどのようにIAとコンタクトしたか、どのように価値観をすり合わせていったか――それをもとに、IAの仲間たちが地球の人類について学んでくれれば良い。そうして学び取ったことを生かして、地球に劇的な変化を起こすのは良くないことだと理解して欲しい。私が標準的な地球人代表かと言われると首を傾げるところだが、IAたちARIAの精霊からすれば些細なことだろう。
しかし、私の思惑は外れた。ARIAの精霊というものは、皆が皆IAのように公平で超然としたタイプではなかったらしい。
ONE。
彼女は私がIAの凄さや使命を軽んじていると勘違いして、ちょっかいをかけてきた。私を無人の世界に閉じ込めて、IAを頼らざるを得ない状況を作り出した。
ONEのやり方は明らかにIAとは違うものだった。私を地球人のサンプルとしてではなく、『IAを軽んじる結月ゆかり』という個人として狙い撃ちしてきた。
結局IAの力を借りてその場は何とかなったが、ONEはやはり私の態度が気に入らなかったらしい。あの様子では、きっとまた何か仕掛けて来ることだろう。
……正直言って、面倒くさい。はっきりしない予定をスケジュール帳に勝手に書き込まれたようなものだ。
とはいえこちらから出来ることなど何もない。IAにONEの居場所を尋ねれば答えてくれるかもしれないが、IAたちは一瞬で地球の裏に行けるような存在なのだ。こちらから接触することは無理だろう。私はONEが何か仕掛けてくるのを待つしかない。
だとすれば……いっそ、ONEの言うように、IAの偉大さを理解してしまえばいいのだろうか。IAの凄さを痛感し、私が間違っておりましたとひれ伏せば彼女の気は済むだろうか。
それは流石に極端な話だが、彼女たちのやり方について気になる点があるのも確かだった。IAに聞いてみることにしよう。
……私が理解できるかはともかくとして。
*
ONEの作った無人の世界から帰ってきた翌日。朝食の後。
「IA、ちょっと聞きたいことがあるんです」
「なに?」
無人の世界に放り込まれている間、私はいくつかIAに聞きたいことを思いついた。とはいえ、昨日はさすがに疲れていたので今朝を待つことにした。
「ONEちゃんが作った世界は無人でしたけど、IAの作った世界には人がいましたよね」
ONEは、人を反映せずに世界の複製を作ったと言っていた。つまり、人がいるかどうかはオプションのようなものなのだろう。
「その人たちはどうやって動いていたんですか? というより……こういう言い方はしたくないんですが、本物だったんですか? だとしたら、複製した世界が必要なくなった後はどうなったんですか?」
こうやって聞くのは、正直に言えば少し怖い。
ARIAの精霊である彼女たちにとって、地球の命などちっぽけな
例え複製だとしても、世界や命を軽々しく扱うことはしないだろう。そう思いつつも、実際は分からない。『もしも』があったら、という不安がつきまとう。しかし、一度気になった以上は聞くしかない。
IAは私の質問を受け止め、ゆっくりと「うん」と頷いた。
「じゃあ説明するね。これを見て」
そう言うと、手のひらを上に向けて差し出した。その上に虹色の雲のようなものが出現した。
「これが世界だよ」
「……この雲みたいなものがですか?」
「雲? ……あ、そうか。えっとね」
雲が形を変える。打って変わって、いくつもの立方体がずれて重なったような塊になった。虹色を帯びたままなのもあって、ビスマスの結晶にそっくりだ。
「どう見える?」
「角ばってますね。鉱物みたい」
「あれ? じゃあね……」
IAの手の上のものが何度も姿を変えて行く。無数の枝を寄せ集めたような天狗巣のようなもの。シャボン玉がいくつも重なり合ったような構造物。騙し絵のように遠近感が狂った町の模型。
形を作り変えるたびに、どう見えるかを聞かれたが、私の答えにIAは首を傾げるばかりだった。IAは世界の模式図のようなものを作っているらしいが、私の目に見える形とは違うようだ。
もしかしたら、と思うことがある。
「何と言うか……それ、人間にはちゃんと見えるんですか?」
「あ、そっか」
IAはぱちくりと眼をしばたたかせた。
「地球の人の空間は3次元なんだっけ。それじゃあ説明するのは難しいね」
「……いやまあ、IAがそうだというならそうなんでしょうね」
ふとした瞬間に次元が違う存在だということを思い出させてくる。
「うーん、それじゃあ、ちょっとARIAに戻って詳しい人に聞いてくるね。私はこういうのを説明するの、あまり得意じゃないから」
「自覚はあったんですね」
ONEという比較対象が出来たので分かりやすくなったが、IAはARIAの精霊の中でもかなりの天才肌で感覚派なのだろう。大抵のことはすぐにコツをつかんでしまうし、理屈抜きでどうにかなってしまう。その代わり、他人に順序立てて説明することは苦手としているようだ。
身近にこういう天才がいるONEの苦労がなんとなく想像できてしまう。
「それじゃあ、今週……ううん、来週かなあ。来週の土曜日でいい? ちょっと別の用事もあるから」
「ええ」
今回ONEがやったことの後始末か何かだろう。私は頷いた。
「それじゃあ、何かあったら指輪で知らせてね」
そう言うと、IAはいつものように忽然と姿を消した。七色の光の残滓がかすかに漂い、部屋の中の空気に溶けていく。春先を思わせる花の香りが薄れていく。
「さてと」
右手の人差し指にはめた指輪を見下ろす。ONEの作った無人の世界から帰ってくるとき、IAに渡されたものだ。いつもはIAが作る並行世界の複製に行くときに渡されるものだが、またIAの不在を狙ってONEが接触してくるかもしれないので着けたままにしている。
「使わずに済めばいいんですがね」
*
幸か不幸か、指輪の出番はないまま約束の日を迎えた。
先週末はあかりちゃんと喫茶店に行った後、ついでに一緒に買い物をした。今週はIAとの約束もあるし、なるべく出かけずに済まそう。
朝食を済ませた後、リビングで小説を書いていると、IAがいつものように忽然とソファの前に現れた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
段々驚かなくなってきている自分が怖い。
「何もなかった?」
「ええ。ONEちゃんは特に何もしてきませんでしたよ。どこで何を企んでいるのやら」
「そうなの?」
IAが手をぱんと打ち鳴らした。そこから虹色の波紋が周囲に広がっていく。
IAは首を傾げた。
「流石に隠れてるみたい。北の方? くらいしかわからない。もっとちゃんと探す?」
「いえ、いいですよ」
親しき中にも礼儀ありだ。隠れているならそっとしておこう。
「……一応聞いておきますけれど、IAってONEちゃんよりもそういう、精霊の力っていうのは強いんですか」
「強い……というより、色が多いよ」
「それはどう違うんですか?」
「んー、例えば、絵を描きたいとするよね」
「はい」
「私は沢山色があって、ONEはオレンジと白と黒だけ、みたいな」
「なるほど?」
IAは万能型で、ONEは特化型……と言ったところだろうか。
「その代わり、ONEの色はとっても眩しくてね。一気にエネルギーが必要な時は凄いんだけど、細かいのは苦手みたい」
「得意分野が違う……という感じですか」
言動一つとっても、ONEはかなりストレートな性格だ。ARIAの精霊は――私の推測だが――精神性と能力が密接な関係にあるようだ。
そう考えると、前回わざわざ手の込んだやり方をしてきたのはIAの真似という側面もあったのだろうか。
「それで、用事は済んだんですか?」
「うん、それは大丈夫。それから、こっちも」
IAがどこからともなく巻かれた模造紙のようなものを取り出した。広げた大きさはソファの前のテーブルくらいだろうか。
「世界の説明、でしたよね」
「うん。テーブル、空けてもらっていい?」
「ええ」
私は、造花が飾られている花瓶を壁際の戸棚の上に移した。
一方、IAはテーブルに紙を広げていく。紙の表面には虹色のマーブル模様がびっしりと書かれており、そこから意味を読み取ることはできそうもない。おや、と思っていると、模様から立体映像のようなものが立ちのぼった。
「これは……」
一瞬、宇宙を表しているのかと思った。何の支えもなく、いくつもの球が浮かんでいる。しかし星々にしては密度が高いし、大きさがどれも同じだ。片手に収まる大きさ……大体テニスボールくらいだろうか。
赤、紫、緑、青、色とりどりの球体が、いくつもテーブルと天井の間に浮かんでいる。テーブルをはさむとIAの顔が良く見えない程だ。私はIAの隣に移動した。
IAが言う。
「これが世界だよ」
「……どう見ればいいんですかね」
「えーとね」
IAは別の紙を取り出し、それを見ながら一つの球を指さした。青紫色をしている。
「これが私たちの世界。この球の一つ一つが世界を表してるんだって」
「じゃあ……一つの世界じゃなくて、いくつも並行世界が集まった様子を表した図、ということでしょうか」
「あ、そうそう。そう書いてある」
やっぱりIAは説明が苦手らしい。
この図はその並行世界たちを表しているのだ。
「チコーとか長老とかに手伝ってもらって作ったんだけど、やっぱり難しいや」
「それ、私にも読めますか?」
「読めるよ」
IAから紙を受け取ると、その紙に書かれた文章がぐにゃりと歪んで変化した。
おや、と思って読むと、それは私宛の手紙のようだった。
『結月ゆかりへ
IAとONEが世話になっている。礼を言いたい。
私は二人の親代わりをしているチコーという。
何かと未熟な二人だが、良い子たちなので暖かく見守ってあげて欲しい。
チコーより』
私が読み終えたのを見計らったのだろう。文章は再び歪み、並行世界の図の説明へと戻った。
そんなことより。
「チコーさん、きちんとしてますね」
「あ、チコーからの手紙が出てきたの?」
「ええ」
IAたちARIAの精霊に関わって初めて、常識というものを感じた。何だか感慨深くなってしまう。
……いや、こんな二人を私に託している時点でやや非常識か。
「それで、この図ですけれど……」
IAは何度か並行世界の複製を作り、私をそこに送り込んでいる。つまりはその複製元になった並行世界も存在する。それらを表しているのがこの図というわけだ。
「勿論、本当はこんな風に世界が星みたく浮かんでるわけじゃないよ。もっとこう……世界同士は凄く遠くて、隣の世界に行くのもすごく大変だから」
「そうなんですか」
これはあくまで三次元空間で表した図、ということだろう。私たちの尺度に置き換えれば……。
「飛行機で外国に行くよりも、ロケットで月に行く方が大変、と言ったところですかね」
「そんな感じ」
「なるほど」
少し離れて見てみると、色に何となく偏りがあることに気が付いた。距離が近い世界同士は色もまた近く、離れた世界同士は色はその逆だ。
「世界の色の違いは……それぞれの世界の違いとか?」
「そうだよ」
IAがテーブルに広げた模造紙に触れると、一つの世界に図がズームした。そして見ている間に、ぽこんと球が分裂して二つに増えた。
「えっ」
「あくまで図だけど、こうやって世界は増えていくんだよ。逆に、色が近い二つの世界がくっつくこともある」
「そうなんですか」
分裂した世界同士をよくよく見比べてみる。一つ一つの球の大きさは分裂前と変わらない。しかし、微妙に色が違うように見える。たった今、この世界のなかで分岐が起き、少しだけ違う世界に分かれたということだ。
こうして少しずつ違いが生まれ、やがては全く別の世界になるのだ。となると。
「この図って、私にも動かせますか?」
「うん。その指輪を着けた手で図を動かしてみて」
IAからもらった指輪のことだ。とりあえず、スマートフォンと同じ要領で動かしてみよう。IAの横に並んでソファに座り、テーブルに手を伸ばす――その前に一応確認した。
「人間が触れても平気ですよね?」
「もちろん」
紙に書かれたマーブル模様は、よく見ると刻一刻と変化していた。以前、似たような模様の物体に触ったせいで頭に大量の情報を流し込まれたが、今回は大丈夫らしい。チコーと長老とやらを信じよう。
右手の人差し指と親指で模造紙に触れ、つまむように動かす。
「おお」
図が縮小し、再び沢山の世界を表示するようになった。
「図が表示している時間を戻すことって出来ますか?」
「うん。戻したいって思いながら指を動かせばいいよ。ゆかりの意思が直接反映されるようになってるから」
「え? じゃあ、ジェスチャーの使い分けとかは……」
「要らないよ。触れながら、どうしたいかを考えるだけでいい。それとも、一つ一つ設定する?」
「……いえ、いいです」
何と便利な。地球のスマートフォンにも欲しい。
時間を前へ、と思いながら模造紙のマーブル模様に指を触れる。するとIAの言う通り、図が思い通りに動いた。
沢山の世界の球が次々に合体していく。いや、分裂する前の状態に戻っていく。球の大きさは変わらないので、どんどん図に空白が増えていく。
数が減っていくにつれて、球の色はどんどん明るくなっていった。そして最後には、赤も青も緑も、全ての世界が分裂する前の状態に戻った。
まるで太陽だ。全ての色が混じりあった白い球が図の中心で光り輝いている。大きさは分裂後の世界よりも一回りほど大きい。全ての可能性を内包した原初の世界がそこにあった。
少しだけ時間を進める。すると白い球が弾けて、世界の球が七つに分かれて飛び出した。七つの色に分かれた世界。これは果たして偶然か必然か。
「これが……」
「うん、これが並行世界の誕生」
こうして
*
「はあ……」
思わず感嘆が漏れる。模式図とはいえ、私は今、世界そのものの成り立ちを目にしているのだ。各地の神話で語られる世界の創造――おそらくは、それらの原型となった瞬間を知った。
初期状態へ、と思いながら模造紙を軽く指でつつくと、あっさり最初の状態へと戻った。色とりどりの世界たちが視界を埋める。
「それで、改めて聞きたいんですが……IAの作った世界にいた人たちはどうやって動いていたんですか?」
そして……こう言いたくはないが、本物だったのだろうか。本物だとしたら、世界の複製が必要なくなった後はどうなったのだろうか。それが私の疑問だった。
「うん。じゃあ、いつも通りのことをやってみるね」
IAはまず、先程と同じ青紫色の世界の球を指さした。
「これが私たちのいる世界。まずは、こことは違う世界を探すの」
「ええ」
どう探しているのかの説明は多分聞いても分からないだろう。そんなに重要ではないし、飛ばしてしまおう。
「例えば……食べ物を印刷できる世界」
私が最初に訪れた世界だ。あらゆる食べ物を3Dプリンターの要領で印刷・複製できる世界。『いただきます』が無くなりかけている世界だ。
IAは、私たちの世界からやや離れたところにある、赤紫色の世界の球を指でつついた。すると、私たちがいる世界の隣に、小さな赤紫色の球が現れた。ピンポン玉くらいの大きさだ。
「こうやって世界の一部を複製して、私たちの世界の隣に置くの」
「……はい」
本当は詳しく聞きたいが、IAの口調からすると、IAにとっては簡単なことなのだろう。横道に逸れてしまうのをぐっと我慢する。
「じゃあ、複製した世界の中を見てみて」
「はい」
私も指で軽く赤紫色のピンポン玉に触れる。すると空中に四角い画面が開き、どこかの街角を映し出した。
「動いてませんね」
人々はいる。しかし、一様にぐったりとしている。魂が入っていない、とでも言おうか。
「だから、この世界の人たちを動かすために、元の世界の人たちから力をもらうの」
IAは指で空中に線を描いた。赤紫色のピンポン玉と、その複製元の世界の球が光の線で繋がる。
するとその途端、画面の中の街角が息を吹き返した。人々が歩き出し、車が動き出す。
「こうすると、元々の世界の人たちの心が、複製した世界の人たちの体とリンクするんだよ。こっちの複製した世界の人たちは、元々の世界の人の無意識とか夢とか……そういう、表には出ない部分で動くの。普段の意識は、本来の世界で生きるのに必要だから」
「……つまり、複製した並行世界の人たちは――人たちの心は、本物なんですね」
「そうだね」
「じゃあ、この複製した世界が必要なくなった後は……」
「うん、この繋がりを切れば元通り。体は世界ごと消えちゃうけど、心は繋げただけだから元の世界にちゃんとあるよ。複製した世界で起こったことを、夢だと思って覚えてることもあるみたい」
体は実質使い捨てにされている。そう考えると、どうにも落ち着かない気分になるが、今聞きたいのはそこではない。
少なくとも、心は元の世界の人々の物なのだ。
「……安心しました」
「そうなの?」
「いえ、まあ。やっぱり、気になるので」
私がそれぞれの世界で関わってきた人たちは、その人たちなりにその世界で生きていた。IAが世界ごと生み出した複製の心ではなく、それぞれの世界の元々の人と繋がっているのなら、きちんと接してよかったと思う。
私のことを覚えているかもしれないのならば、なおさらだ。
と、そこであることに気が付いた。
「……あれ、私は?」
赤紫色のピンポン玉に触れると、空中に開いた画面の映す場所が変わり、私が今まさにいる部屋が映し出された。自分とそっくり同じ場所に私がいる。ただし、彼女の隣にIAはおらず、テーブルには造花が飾られている花瓶が置かれている。
冷や汗が背筋を伝う。
IAはそれを知ってか知らずか、軽い口調で言う。
「並行世界のゆかりの心と繋いだら意味がないからね。ゆかりの体だけは、この世界のゆかりの心と繋ぐよ」
「ああ、道理で……」
私が訪れた世界の一つに、全国民の善行や悪行がポイントとして計上され、財産として利用できる世界があった。ある朝目覚めると、右の掌に電子決済用のチップが埋め込まれていたのだ。勿論、そんな手術をした覚えはない。
「既にその世界で暮らしている私の体を使っているわけですか……何と言うか、ちょっと気まずいような」
文化が全く違う並行世界の私は、私のようで私ではない。その体を勝手に借りるのは申し訳ない。
「でも、並行世界のゆかりは何も気が付かないよ」
「それはそうなんですけれど……まあ私も明確に何がいけないのか言えないんですけれど」
IAはこの星の倫理観や法律には縛られない。多分、心や命といったものは、IAたちにとって肉体よりもずっと重要な意味を持っているのだろう。事実、その二つを分けて扱うこともできるのだから仕方がないとも言える。
だとしたら、人の心や魂とは何なのだろう。
魂が入っていない自分の姿を見るのが気まずい。せめて寝かせてやりたい、と思って画面に触れると、何かの拍子に画面の中の私の体がずり落ち、ソファに横になった。
「おや?」
「どうかした?」
「ああ、いえ……ひとまず、IAがちゃんと人の心を大切にしているのは分かりました。少し安心しましたよ」
私は画面が映す景色を元の街角に戻した。
「そっか。じゃあもっと安心してほしいから言うけれど……心や命はそもそも、そう簡単に増やせないからね」
「そうなんですか?」
「うん。私たちの力でも、かなり難しい。大きな命を分けて増やすのはどうにかできるけれど……ゼロから生み出すのは、やっぱり無茶かな」
「分けるというと、ちびオネのような?」
特に説明はなかったが、おそらくあれはONEの分身だろう。それぞれの意思を持って動いているように見えた。
「あれも完全に分けてるわけじゃなくて、ゆかりには見えないもので繋がってるんだよ。繋がりを切ると、元に戻せなくなるかもしれない」
「繋がっている……」
そう言われて、私はやはり並行世界での出来事を思い出した。双子と呼ばれる動物が全ての人のそばにいる世界。その動物たちは、IA曰く飼い主である人の魂の一部が分離したものだという。
その世界では、見えない繋がりを辿って双子の位置を探したり、双子に指示を出す技術が確立していた。かくいう私もその技術の一端に触れた。
私は自分の胸にそっと触れた。顔を伏せたまま言う。
「……こう言うのもなんですが、あなたたちは何でもできるのかと思ってました」
「そうなの? 私たちにもできないことは結構あるよ。この前も、ONEが作った世界を見つけるの、すごく大変だったし」
確かに、あんなに焦ったIAは初めて見た。あの時、世界の壁をこじ開けて私を見つけた時のIAの表情を今もはっきりと覚えている。
「あの時のこと、この図で表すとどうなりますか?」
「えっとね」
IAが私たちの世界の球をつつき、複製のピンポン玉を生み出す。
「こうやって、世界を複製する。あ、生き物は反映しないようにするよ。そうしたら、ゆかりを体ごとこっちの世界に移して、こう」
IAはピンポン玉を軽く放り投げ、世界の球の群れの中に混ぜてしまった。
なんてことを。
「これは……確かに、見つけるのは難しいですね」
「さっき言ったけど、世界の間を移動するのってすごく大変だから。さっきみたいに繋がりが作ってあるならともかく、それも無かったし」
「でも確か、私は元の世界とメール出来てましたよ?」
おかげで在宅勤務に支障はなかった。
「メール? ……ああ、ONEはやっぱり頭が良いや」
IAが模造紙をつつくと、世界の球の一つ一つが波紋のようなものを放った。
「世界同士って、こうやって少しずつ影響を与え合ってるんだ。だから、その影響の波に混ぜて小さな情報を埋め込めば……すぐには分からないかも」
「なるほど。メールは一度届いてしまえばお終いですからね」
人の体を動かすためのような、絶えない繋がりは必要ない。
「結局あの時は、ゆかりが呼んでくれなきゃ全然分からなかったよ」
「呼んだ?」
私はただ、モールス信号を叩いただけだ。それこそメールよりもずっと簡素な、ただのパターンだ。
私がそう言うと、IAは首を横に振った。
「
IAがソファの上で片膝を抱き、こちらに笑みを向けた。長い髪が揺れ、花の香りが少しだけ強まる。
「思って……。つまり、感情がこもっていたから?」
「うん、そう」
だから、とIAは私の右手をそっと握った。
「この指輪で私を呼ぶときも、そうしてね」
「わかりました」
その時はきっと、IAに助けを求めなければいけない状況だ。感情など勝手にこもるに違いない。
けれど私は、自分の意思でそうすると約束した。
*
一通り聞きたいことを聞けたので、私たちは世界の図を眺めながら一服することにした。
私はコーヒーを、IAは紅茶を手に、再びソファに並んで座る。
私は先程IAが作った世界の複製――赤紫色のピンポン玉をつつき、その世界の様子を見ていた。特に何も変わったところはない。……食品についての概念が、今いる世界とまるで違う以外は。
「今更ですけれど、この世界って今、本当に複製しているんですよね?」
「うん。この図があるからいつもとちょっと違うけれど、大体同じ」
「割と気軽なんですね」
「うん。複製する世界を探す方が手間がかかるよ。そもそもゆかりがいない世界とか、ゆかりが全然別の仕事をしている世界もあるから」
「……一応気を使ってくれてはいるんですね」
あるいは、世界の違いにのみ集中してもらい、その反応を見るためか。
「うーん、でもやっぱり、複製を作るのは二度手間のような……」
「色々理由はあるけれど、大きくは二つかな。一つは、元の世界になるべく干渉しないこと」
確かに、このやり方ならば複製元になった世界はそのままだ。IAが複製した世界の出来事が、夢として伝わるくらいだろう。
「もう一つは、やっぱり世界を越えるのは大変だってこと」
「……言ってましたね、面倒だって」
初めて並行世界の複製に飛ばされたとき、最初の説明で言っていた。私を並行世界そのものに移すのは面倒だと。
「世界を複製するには、その世界のことを見るだけでいいの。だけど、実際にその世界に行くのは大変だし、何かを持ち込んだり、物を持ち出すのはやっぱり大変」
「そういうものなんですか」
「うん。紙を貸して」
説明書きの紙をIAに渡すと、IAはその紙をつついてこう言った。
「ゆかりに分かりやすい説明に直せる?」
すると、紙に書かれた文章がこう変わった。
『土星の景色を望遠鏡で見て模型を作るよりも、実際に土星に行く方が大変』
分かりやすい。
「ONEがゆかりを無人の世界に移せたのも、今いる世界の複製だったからだよ。むしろ、ゆかりがいた場所から複製したのかな?」
「そのあたりは分かりませんが……帰ってくるときはどうしたんですか? あの時は、もう別の場所に移されてたんですよね?」
さっきの説明通りならば、私が閉じ込められた世界は、今いる世界とは引き離されてしまったはずだ。
しかしあの時、IAは空間をカーテンのように開くだけで、ONEが隠れていた場所からこの家に繋げてしまった。
「うん。あれは帰りのことを考えて、道を作っておいたから」
「そういうものですか。じゃあ、世界の方を動かすとか、別の世界への道を作っておくとかは出来ないんですか?」
「出来るけれど、世界を動かしたら絶対に影響が出るし、何度も使える安定した道を作るのは大変だよ。ONEがいた世界からの帰り道は、一回限りのつもりで作ったけれど、それでも結構疲れちゃった」
「手間を取らせちゃいましたね。ありがとうございました」
「大丈夫だよ」
私からすると、軽く手を振ったり光を出したりしているようにしか見えない。しかし、IAたちにはIAたちなりの苦労と工夫があるらしい。
「逆に言えば、この世界から出ない範囲なら大体のことはできるってことですよね。さっきの話じゃないですが、土星に行くのだって一瞬でしょうし」
「うん」
IAが目の前の空間をカーテンのようにめくると、大きな輪を持った惑星の姿がその向こうに見えた。
「やらなくていいですって」
「そう?」
そんな話をしながら、私は世界の図をつついていた。
食品の3Dプリンターが普及した世界の街並みを、何とはなしに眺める。この世界の給食はどうなっているんだろうか――などと考えながら、見ていたその時。
「――!」
住宅地の細い道を、やや速いスピードで引っ越しのトラックが走っていた。その前にピンク色のボールが転がり出る。ボールの後を追って、5歳くらいの女の子が――。
画面の映像に音はない。しかし急ブレーキの音が頭の中に響いた気がした。
気が付いた時には手を伸ばしていた。
*
……心臓が早鐘を打っている。
画面の中では、トラックの前で女の子がうずくまっている。トラックから運転手が飛び出してくる。どうなった? 見てはいけない。いや、見るまでもない。
触れながら考えるだけでいい。IAはそう言っていた。さっき、魂が抜けた私の体が横になったのは偶然ではない。
私は模造紙に触れ、図を全て消した。
「片づけてください」
「もういいの?」
「ええ」
IAが模造紙をくるくると丸めながら聞いてくる。
「他に分からないことがあったら、いつでも聞いてね。私は説明が苦手だけど、またチコーと長老に手伝ってもらって、分かるようにするから」
「ありがとうございます。……今週は予定ありますか?」
「ううん。今日と明日は何もないよ。どこかに行く?」
「そうですね。明日はどこかに買い物に行きましょうか。私は今日は小説を書くことにします」
「そっか。お昼はどっちが作る?」
「私が作りますよ。適当に暇つぶししていてください」
IAがぱちくりと瞬きをする。
「どうしたの?」
「何でもないですよ」
「そう? ……何かあったら、言ってね」
「ええ」
IAは私の返事を聞くと、定位置のソファに横になった。
私は飲みかけのコーヒーを片手に自分の部屋に戻ると、震える手から指輪を外し、机に置いた。携帯電話を手に取る。
さっき見えた場所の住所を打ち込み、その後ろに空白を開けて『交通事故』と入力し、検索する。
……直近の日付の記事はない。いくつかキーワードを変えて検索するが、それらしいものはない。
この世界とあの世界では、そもそも文化が違うのだ。文化が違う以上、どこに誰が住んでいるかも異なるだろう。この世界では、事故自体が起きていない。きっとそうだろう。
……ならば、あの世界では?
さっき、私は思わず手を伸ばした。思わず操作してしまった。干渉したのは、あの世界の複製の方だった。複製元の世界ではどうなった?
私はそれを確かめずに世界の図を閉じた。確かめるのが怖かった。だというのに、今になって事故があったかどうかを調べている。
ちぐはぐだ。
「私は……」
机に置いた指輪を見下ろす。
「私は、正しいことを……」
ゆっくりと息を吸う。
「正しいことをした」
命を救うこと。それが正しくないはずがあるだろうか。
……だとすれば、IAは?
IAはほとんど万能の存在だ。本人は出来ないことも多いと感じているようだが、やはり人間からすれば常識外れの力とスケールを持っている。土星ですら近所の感覚だろう。ならばこの星は庭も同然だ。
彼女は、地球で今まさに起きていることを常に感じ取っているだろう。テレビの画面越しに情報をつまんでいる私よりもずっと詳しく、生々しく。
今まさに失われつつある自然を、命を、感情を、彼女は救わずにいる。救える力を持っているのに、今はまだその時ではないと判断して、手を出さずにいる。
一緒に暮らしている地球人の様子を見て、そう決めている。
ONEがIAに言った忠告が頭をかすめる。
『IA。あんまり、
「私は……」
IAをこのままにしていて、良いのだろうか。
それが正しいことかどうか、今は結論を出せなかった。