記憶の中の母さんはいつも厳しかった
物心のつく前からハードなトレーニングは勿論、私の子なのだから当然だと人間で言う高校入試でやるような問題文を解く幼少期の毎日
かつて日本のレース界を席巻した『英雄』ディープインパクト
それが母さんの名前だった
そんな母さんの元に生まれた私を含む姉たちは
生まれた時から『英雄』の娘たる実力を求められた
他の姉たちはまだ良かった
英雄に至らずともその片鱗を幼少期から周囲に見せつけ
ディープの血は強しを日本中にしらしめた
対して私は何処までも凡庸だった
大きすぎず小さすぎずの身の丈は見た目同様長年に渡って普通の脚力しか産まなかった
初めてレースに出た年は母さん以外は優しかった
何度惨敗してもそんなこともあると励ましてくれた
2年目に入ると励ましてくれる人は一人、また一人と消えていき
裏で成果を挙げられない私を嗤う側に回った
この頃から少しでも成果を出さないと、と焦った私は文字通り死ぬ気でトレーニングした
何度も血反吐を吐いて地をのたうち回ったし
限界ぎりぎりで走り続ける度に脚の骨が軋んで激痛が襲う程走り込んだ
けどそれでも現実は残酷で
私の才能は何一つ開花なんてしなくて‥
3年目には私の味方は誰一人としていなくなった
それでも走るのだけは辞めなかった
ウマ娘としての本能か、結果が追いつかなくても、誰に何を言われようと走るのだけは好きだったから
例え私に先頭の景色なんて見れなかったとしても
レース中のあの数分の時間だけ
私は自由になれたから‥
「アールゼットインパクト、君は今日限りうちとは何も関係ない
どうぞ好きなところへお行きなさい」
「え‥」
だからこそ、地方だけれど死ぬ気で勝ち取ったトレセン学園への入学を控えたこの日
なんの前触れも無く唐突に執事を通して絶縁状を叩きつけられて
何がなんだかわからないまま着の身着のまま実家を追い出された
怒りや絶望のよりも真っ先に頭に【なぜ?】と言う言葉だけが反芻した
レースじゃ大した成果を残せない勉学も並み、それでもようやく念願叶ってトレセン学園の切符を掴んだのに
それは一瞬で水の泡になって消えた
フラフラとした足取りは地を掴んでいるのか怪しかった
吐き気を催すような身体の震えは止まることは無く視界の端にはチカチカと星が飛び散り気を抜けばこのまま気を失う事が出来そうで
しかしウマ娘という人間より無駄に丈夫な己の肉体がそれをすることを許してくれず
真っ暗になりそうな視界に死人が如く足取りで、生まれてこの方トレーニングと勉学以外に費やす時間が無かった為に家から数歩出ればもう勝手のわからない街をひたすら彷徨い歩いた
「あはは‥最後くらい顔見せろってのよね」
ここ最近ろくに顔を合わせない、実家を追い出された今日など遂に終始一度も顔を見せなかった自身の母に思わず悪態が溢れる
(結局愛されなかったってことか‥
どいつもこいつも私を、自分の家の名声を保つ道具程度にしか思ってなかったってわけ)
乾いた笑みと悪態とは裏腹に胸が痛む
愛されてない自覚はあったけど腐っても血のつながりのある家族だった
『穀潰し』や『恥晒し』と罵られようともいつか見返してやるとどんなに苦しいトレーニングも耐え忍んできた
それも今日で終わりだ
「‥このまま死んじゃおうか」
ふとそんな言葉が口から溢れ
すぐに首を振る、そんな事が出来無いのは最初からわかっていたから
(何て、そもそもそんな事が出来たら私はもうこの世にいないでしょ)
死にたくても死ねない、本心では死にたくないと思う気持ちもあるが何よりその一歩を踏み出す一瞬の勇気すらない
このまま無駄な時間だけを過ごし、誰にも知られず朽ち果てて、孤独のままに死んでいくのだろう
こうして誰にも愛されず期待もされなかった『アールゼットインパクト』と言う名のウマ娘はデビューすることすら叶わずひっそりとそのレース生涯に幕を降ろした
かに思えた‥
◆
「__君、おい君、大丈夫か?」
声がする
真っ暗な意識の中を
誰かが自分に語り掛ける声がする
「‥見たところ外傷も無さそうだし‥‥
しかし寝てるにしてはなんでこんな所で‥?
おーい起きれよいい加減、身体痛めるでこんなトコで寝てたら」
最初は自分の事では無いだろうと思って寝続けては見たがどうやら声の相手が心配そうに言ってる相手は自分だったようだ
少し控えめな強さで肩を揺すられ
流石にこれ以上たぬき寝入りを決め込むのは申し訳ないとゆっくり目を開く
「あ、起きた‥」
「ヒッ」
声の主を視界に入れた瞬間、思わず素で悲鳴が上がった
目を開けてすぐに飛び込んできたのはまるで死人のような見た目をした男だった
顔立ち自体は整っているのだろうがろくに栄養のあるものを食べてないのか顔色が悪く
頬はコケて目には光がなく虹彩はドロリと濁っている
子供が相手なら確実に泣かれるような見た目を、その男はしていた
「あぁ、すまん‥怖がらせたか?」
「あ、‥いや」
だがそんな見た目と裏腹に、男から放たれる酷く優しげな声色に見た目で判断した申し訳なさですぐにいっぱいになった
「んで、聞きたいことがあるんだが
まず君はなんでこんな所で寝ていたんだ?」
「ごめんなさい、家を勘当されちゃって
行く宛もなくさ迷ってたらここに辿り着いたみたいで」
ふと辺りを見渡すと寝る前には暗くて気づかなかったが大きな敷地の建物の門の前で眠りこけてしまったようだった
「‥そうか、行く宛がねぇ」
目の前の男はふむ、と顎に手を添えて少しばかり考え込んだ後
1尺ばかり時間をおいてクイッと親指で後ろの建物を差し小さく笑みを浮かべる
「‥ならしばらくうちに来るといい
なに、ウマ娘の一人くらいなんとかなる」
「‥いいんですか?」
あぁ、と軽く相槌をうち
男は後ろの大きな建物、よく見れば結構くたびれた外見のそれへ入っていく
アールゼットインパクトは素早く体を起こしてそのあとをついていった
◆
そこは寂れた牧場だった
手入れは怠っていないのか、使い古された施設や道具などはくたびれてこそいても
綺麗に手入れがされており一種の味のような趣がある
「‥へぇ」
「そんな珍しいか?」
辺りをキョロキョロと見渡してると、ふと先行で歩いている男からそんな声がかかる
「実家にいたときはあまり外に行くことが無かったので色々と新鮮ではありますね」
少し照れくさそうに笑う男を尻目に
初めて見るような物がほとんどな牧場をキョロキョロと見渡す
次第に中庭と思わしき場所に自身もよく見慣れたあるものを見つける
「ターフ‥?」
それは実家で毎日目にしていたターフ(芝地)だ
牧場ということもあり放牧の為に用意されたであろうそれは、都会の実家よりも幾分か広く
それでいて芝は綺麗に整えられている
「あぁ、放牧用のな
これでも昔は大きな牧場だったから、その名残だ
今では客が来ることすらほとんどないけど、俺にできる範囲で管理し続けてる」
「‥ということはここは一人で?」
「ここは、も何も
この牧場は今は俺しかいねぇ
文字通り俺一人で動物達の管理をやってるよ」
男の告げた事実に目を見開き、驚きを顕にする
建物を含めた広範囲を目の前の男は一人で切り盛りしていると言うのだからこれが驚かない筈がない
「飼育員や修繕員さんはいないんですか‥?」
「昔はいたんだけどな、何年か前に経営が傾き始めた時にみんないなくなっちまった」
そう言って瞳を閉じ、少しばかり寂しげに笑う男を見てその姿に目が離せなかった
「‥両親や親戚は‥‥」
そしてふと零した言葉に思わずハッとする
少し考えればわかることだ、対して歳も行ってるわけでも無さそうな男が一人で切り盛りしてるという時点で気づくべきだった
「5年ほど前に事故で同時に、な‥
親類とは親父の代に牧場の方針で揉めてから連絡も取れねぇ」
首を振って遠くを見つめるようにそう呟いた男は
ただでさえ小柄な身長も相まってとても小さく見える
(‥同じだ)
妙に納得がいった
自分自身、何故出会ってすぐの男の元で世話になることに対してあまり疑問を持たず
すぐに肯定的になれたのか
(さっきあったばかりなのに何故信用できるのか
今わかった、この人と私は親と死別したか否かは別として
天涯孤独の身という点で一緒なんだ)
状況に差異はあれど根は同じ
お互いに孤独なのだ
しかし、だからこそ信頼できた
(‥この恩は、必ず返す
私の生涯を賭けてでも‥必ず)
大きく頷き決意を新たにする
元々捨てられて行く宛も身よりもない死んだも同然の状態だ
拾ってくれた恩人に尽くす余生でも悪くはない
この時ようやく運命の歯車は音を立てて回り始めた
「そうだ‥名前、当面一緒に過ごすんだ
名前を教えてくれないか?」
「‥イオタ、イオタって呼んで
元の名前は好きじゃない」
ふと名前を聞いた男に少女、アールゼットインパクトは元の名前のアールゼット(英語表記でRZとなる、Rはレース、Zは英語の最後の単語に当たるため、レースに出る最後のディープ産子ということになる)を捩り
ギリシャ語で数字の最後の9を指すイオタと言う咄嗟に考えた偽名を口にした
「わかった、俺は未来(ミキ)、君塚(キミヅカ)未来(ミキ)だ
これからよろしくイオタ」
「うん、よろしくキミヅカさん」
お互いに笑い合い、これから先を考えて表情を引き締める
そんな折、アールゼットインパクト改めイオタの前にある新聞の一部が目に止まった
「‥え?」
「あ、ないと思ったらこんなところにあったのか‥」
新聞を手に取り震えるイオタを他所に紛失してしまったと思い込み半ば諦めていたらしい未来はそりゃ見つからんわと顔を引つらせた
「昨日の夕刊だから知ってる内容しかないと思うけど
何か目新しいものでもあったか?」
「昨日の夕刊なの!?これが!!?」
未来から告げられる事実にイオタは目を見開く
それもその筈、新聞には
【シンボリルドルフ 七冠達成】
イオタの認識では生まれるより前の出来事であり、当人はとっくの昔に引退してしまっている人物についての見出しがでかでかと書かれていた