ま、それを文章にするのが難しいんですがねぇ…
牧場主こと君塚未来の元へ引き取られて一晩を越した
簡素で使い古された、それでいて手入れが良いのか古さはあっても妙に清潔感のあるベッドの上でイオタは目覚めた
「ふぁ‥まだこんな時間か‥」
あくびを噛み殺しながらベッドから出る
仕事の手伝いにはまだ少し時間があるが、二度寝するのはあまり好きではない
何より‥
「走らないとモヤモヤするし、ちょっと身体動かしとこ‥」
毎日朝起きてから日課にしていたランニング
実家は出てこれからここで仕事をしていく身としては、もう学校に未練は無い、だから走らなくても別に良い
レースに出るわけでもないのに走って自身を鍛え上げるのは全くの無駄ではあるのだが
物心ついた頃から現在に至るまで、毎日毎日雨が降ろうが雪が降ろうが朝と夜に必ずターフを走っていた
故に走らなくても良いが走っておかないと身体が違和感を訴えてくるのだった
「‥よし、こんな物かな」
手鏡片手に小さな折りたたみの櫛を使って軽く寝癖を直し、無地のTシャツとホットパンツのみ身につけて身支度を完成させる
(‥だいぶ侵食が進んできてるな)
手鏡を小さな机の上に置き、指先で自身の白髪に触れる
元々は母親譲りの暗い鹿毛色だったのだが
厳しいトレーニングと座学で身体がバラバラになるような疲労感を毎日味わってるうちにいつの間にやらストレスで色が抜け落ちてしまった
今では根本に暗い鹿毛色がわずかに残る程度である
「あんまり好きじゃないのよね、目立つし」
根本に残る鹿毛色はよくよく近くで光に当てなければ暗すぎて黒に見える
耳としっぽも合わせて白黒で老けて見えるのが本人的には嫌だった(実際には多少なりとも手入れはしているのと年齢もあって艶々で自然な白髪という不思議な仕上がりになっている)
ほっと一息ついて深呼吸
まだ僅かに睡魔を訴える脳に強制的に新鮮な酸素を送り完璧に意識を覚醒させる
「‥行きますか」
覚醒させた意識がまた微睡みに落ちないよう
イオタはドアを開けて部屋の外へ出てターフへ向かった。
◆
「思ったより朝露溜まってるな‥」
イオタは家を飛び出した際に履いていたターフ用蹄鉄のついた練習にもレースにも使えるシューズで芝を踏みしめ思った事を口にした
日が昇ってだいぶ経つ日中と夜のうちの水分が芝にたまり、それが乾ききる前の早朝ではターフの見せる顔はガラリとその姿を変える
そして本来ウマ娘と言うものは走るという行為が大好きであり
その大好きな行為が出来なくなるというリスクというものに非常に敏感で
詰まるところをいうと本当の早朝にターフを走るウマ娘はほとんどいない
理由は単純で芝を走るなら舗装路用の靴裏がゴムで出来てるシューズが使えず
蹄鉄付きシューズを使用しなければならないのに濡れた芝地と言うのはあまりにも相性が悪いからだ
硬い蹄鉄と極端に低い路面の摩擦係数と言うのは一度滑れば踏ん張りなど効きようがない
それこそレースを控えたウマ娘なら本番が良バ場である保証などどこにも無いため
天候が荒れることも視野に入れて走るものもいるが誰も好き好んで走る者などいない
だが逆にイオタはそんな踏ん張りの聞かない芝地が意外と好きだったりする
「おっと‥危なっ!?あっぶねぇ‥」
一瞬でも気を抜けば即転倒しかねない程グリップの効かない状態で自分の脚質とその日のターフの状況に合ったステップへ手探りながら切り替えていくその感覚
うん、やっぱり好きだとイオタは軽く頬を綻ばせた
(よし‥とりあえずこれで少しペースを上げてみよう)
少し走りある程度転倒する恐れを感じないステップへ身体が切り変わればそれを暫定とし
一度軽く走ってた見ようと体勢を僅かに低くして加速し始める
(滑る‥けど、これはこれで楽しいわね‥!)
そしてコーナーに入る前に体を起こして僅かに減速すると
重心をコーナー内側へ落として曲がりながら蹄鉄のグリップを最大限に効かせる為にわざと少しずつ加速して荷重を載せる
本来であればそのまま僅かに滑る程度に抑えて立ち上がって行くのが一番早いのだが、まだ暫定仕様でステップのツメが甘い分予想に反して身体がコーナー外側へズルズルと滑って行く
が、似たような事を実家にいた頃から何度もやっていた為慣れており変に慌てることもない
滑り過ぎたら修整を入れて、逆に微塵も滑らなければコーナー速度が遅くなるためちょっとステップを強くして
そうやって地道にその日の芝状況に合うステップを編み出していくのも中々に楽しい
(ここから立ち上がって‥よし!
駆け込めッフラットアウト_____ッ!!)
____ドンッ!
グルリとコーナーを周り、直線へ出れば脚力を全開にし後ろ足で濡れた芝を一気に蹴り上げる
刹那、当然のごとく靴底の蹄鉄は一気にグリップ力を失う
(怖っ!?けど楽しぃいい!!)
転倒すれば大怪我は免れない為
転倒するギリギリを見極めて一歩、二歩、三歩と素早く交互に足を出す
右足を出したら右へ、左足を出せば左へある程度速度が乗るまで身体がフラつきながら加速をしていくその様はアクセル全開で自身の大出力に耐えきれずにふらつく往年のレーシングカーのようだ
(摩擦力の低い路面じゃ体格からの歩幅や脚力に関係なくスムーズな脚裁きが物を言う
特に私らウマ娘なんて人間と比べて何倍にも踏み込む力が強いから神経質にステップを踏んでちょうどいいくらい)
一度は安定したと言え相変わらず足場は悪い
その状態でさらに加速となると上半身は慣性で矢のように進むのに対して下半身は摩擦力の低い芝地のせいで滑りバランスが最悪なまでに悪い
(…40km/hってとこ?まずまずね)
慎重なステップで現状出せるギリギリまで速度を上げ
外ラチの柵間の通過時間で最高速度を大まかに割り出す
(さぁ…もう一本行きますか!)
コーナー手前で前かがみに落としていた体をすっと上げる
途端に空気抵抗が増え風に煽られた身体がグラリと振られるも挙動を落ち着かせてコーナーイン側へ荷重をかけて曲がっていく
この日はそのまま2〜3周全開で走り続けてクールダウンに入った
◆
「…中々速いな」
クールダウンを終えて入口まで戻ってくるとふとそう声をかけられる、目を向ければそこには未来の姿があった
「あっ…すいません…いつもの日課で走らないと落ち着かなくて」
「いや、気にしなくていい
…軽く見させて貰ったがフォームは誰から教わった?」
まずは許可を取らずに勝手にターフを走った事を謝罪するイオタだがそれに関して気にしていないと未来は口にし
続いて走る際のフォームは誰からの受け売りかと問う
「…大元は母さんから…です、でも面と向かって教わった事は無くて、家にいたトレーナーともあんまり方向性が一致しなかったので
ほとんど独学に近いです」
「…途中でステップを変えたり敢えて滑らせてたのは?」
「芝の状況なんて日によって違いますからね、母さんのフォームをベースにしてその日の状況に合わせて多少即興で変えてます
それに個人的にちょっと滑りながら走った方が速い気がするんですよね、恐怖で体感速度が上がるだけかもしれませんが
それに今日はステップのツメが甘かったのか特大ホームラン並に滑りましたし…」
走りを見ていて何か違和感があったのか
イオタの返答に未来は納得したかのように何度か頷く
「なるほど、いやフォーム教わって無いにしては嫌にスムーズだったから気になってな…
とはいえ独学でこれか…。」
「何か問題でも?」
最後の方で少し言い淀んだ未来に何か不味いことでもあるのかとイオタは聞き返すがすぐに未来は首を横に振って続けた
「いや確かにまだまだツメの甘いところはあるけど
基本的なフォームはあれで合ってる…まぁ個人差で色々変わってくるところもあるがね」
「…随分と詳しいですね」
問題点があるわけではなく基礎は出来てる事を未来はイオタに述べた
しかし今度は逆に一介の牧場主にしては随分と詳しいと口にするイオタへ未来はその理由を告げた
「それについては、ここのターフは広いからさ
俺がガキの頃はよくトレセン学園の合宿所にもなってたのよ」
「ガキの頃は…?」
「そ、だからある程度のレベルなら身体にあったフォームかどうかは見てるだけでわかるけど…」
合宿場として貸し出してる期間があれば多少なりとも賃貸料が入る、しかし現在生活苦と言っている様子からもうずっとここは合宿所として使われていないのだろう
「…ずっと昔の話だ、当時はそれこそ広いターフさえあればどこでも良いって感じだったからな
URAの上層部がウマ娘の育成に効果がありと見込める所にだけ指定合宿として以降の訓練合宿はその指定された場所にのみ絞り込むように取り決めを作ったのさ」
現在シンボリルドルフが七冠を取ってすぐと言うことはイオタが元いた時代より当然ながらウマ娘に対する訓練や設備の質は悪い
しかしそれよりも前となるとレースシーンを取り巻く環境は劣悪と言っていいくらいこと更に悪くなる
ただ勝つことが重視され、オフィシャルも何もなくURAが名ばかりの効力しかなかったトキノミノルら第一世代からノーザンテーストら第二世代
そしてトレセン学園が作られ秋川やよい理事長が就任し、初めて取り決め等が公式化された黎明期
それこそ真実とデマが入り乱れ、それに翻弄された結果引退やこの世を去るウマ娘も少なからずいたテンポイント、ミスターシービー率いる第三世代
そしてちょうど第三世代からの入れ代わりでトゥインクルシリーズも生まれ、現在は史上初の七冠を達成したシンボリルドルフらの第四世代だ
ウマ娘の適正距離別レース、多様で信頼性のある訓練法や治療法が確立され
より安全で歴代類を見ない程熱狂の出来るスポーツへとレースは進化した
しかし一方でURA上層部はそれまで懇意にしてきた訓練施設等を様々な理由で一方的に打ち切った
ウマ娘達が活躍し、トレセン学園やURAの浴びる光が強ければ強い程
その分運営の裏側に潜む影も濃くなっていった
「合宿所として貸し出してた頃は随分繁盛してたらしいぜ
俺の覚えてる限りだと小等部だった頃のミスターシービーとシンボリルドルフが来てたのは覚えてる、それ以前だと俺の記憶にないくらい昔だがノーザンとトキノミノルか」
「おおぅ…知らない人がいないクラスのビッグネームが…」
「うちのターフは国内の牧場でも上から数えたほうが早いくらいの広さはあるからな…
これでも無名時代のミスターシービーとシンボリルドルフとはよく遊んでたぞ」
未来のその言葉を聞いてイオタは先程まで自分が走っていたターフへ目を向けた
自分の時代には既に引退済みだがレースに出るウマ娘もそうでないウマ娘も例外なく全員が憧れを抱くようなウマ娘だ
(…往年のチャンプがここを走ってたわけね)
イオタはターフ全体ヘ目を向け、テレビや書籍でしか見たことのない時代の王者に思いを馳せる
ここにあるものが見た若き英雄達はどんな姿だったのか、何を思ってここを走っていたのか
(ま、その辺りは本人のみぞ知るって____)
軽く鼻を鳴らして意識を現実へ戻す、憧れがないわけではないがレースに関わることのない以上虚しくなるだけだ
けど…
「…ちなみにミスターシービーさんとシンボリルドルフさんってどんな人でした?」
英雄達の裏側、プライベートでの素顔の話が聞けるならちょっと面白いかもしれない
「シービーは自由人だったな…あと天然でちょっとだらしなくて、何故か『お姉ちゃん』呼び強要されたっけ」
「お姉ちゃん呼び…」
刹那イオタは予想とは斜め上の方向へぶっ飛んだ英雄達の過去の所業に早くも後悔することとなった
「あぁ、流石に恥ずかしすぎて『シービー姉ちゃん』で落ち着いた」
「いや重要なのは決してそこじゃないですよね!?」
ミスターシービーの事を天然呼ばわりしていた未来の方も天然が入っているのではと考えたがさすがに口にはしなかった
得てしてこういったものは本人に自覚などないのだから
「つ、次行きましょう
ルドルフさんはどんな感じだったんですか?」
「シンボリルドルフは…お互い小等部ってこともあったからかな、合宿期間の自由時間はよく遊んでたけど
気弱なのに負けん気と理想が人一倍強くてしょっちゅう泣いちゃう子だったな」
「へぇ…意外っちゃ意外ですけどありえそうでなんとも言えないです…」
「あとダダ子ですぐ拗ねるけど構わなかったら大泣きする
普段もダダ子の時もすぐ感情的になって大泣きするから『泣き虫ルナちゃん』ってあだ名が付いたくらい」
「何やってんだ皇帝…」
イオタは自身の中の皇帝像にヒビが入り音を立てて崩れていくのを感じ取りながら精一杯の引きつり笑いを披露した