[完]エイシンフラッシュ怪文書   作:パン de 恵比寿

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 有マ記念完走から2週間後。

 

 

「フラッシュさんのトレーナー……最近元気ないね」

「そりゃそうだよ。有マ記念も勝ち抜いて、まさにこれからだって時に突然の引退宣言なんだもの」

「……フラッシュさん、このままトレセン学園辞めちゃうのかなぁ。

 ファルコちゃんもショックなのか最近全然ライブ開いてないし……あのいつもは逃げてるスズカさんが心配に診に来るぐらいだよ?」

「けど二人で予め決めてたことなんでしょ。だったら私たちに言えることなんて無いよ」

 

 校内を歩けば意識せずとも耳に飛び込んでくる噂話。トレセン学園内に限らず、今や日本中が彼女(フラッシュ)の話題で持ちきりで、スポーツ新聞の一面も連日彼女の写真で飾られ、その引退理由については様々な憶測が飛び交っていた。

 

故障があったわけでもなく、まだ全盛期とも言える時期での引退。

精神的な疾患か。あるいは海外からの留学に伴い契約上の問題があったのか。

延いてはトレセン学園側の過失を疑う声などもあった。

 

 今朝も学園前には多くの報道陣が詰め寄せ、その矛先は主に専属トレーナーであった私へと向かい、結局質疑応答やインタビューにより午前中が丸まる潰されてしまった。

 そっとして置いて欲しいというのはあまりに贅沢すぎる我儘か。URAがファンの声援により支えられている以上、トレセン(こちら)の声を完全にシャットアウトすることは、両者の間に要らぬ禍根を生み出しかねない。ならばせめてトレーナーとして、万が一にも彼女の帰国に支障が出ないようにと、猜疑に満ちる視線の中でも誠心誠意に応えるしかなかった。

 

 それ程に、エイシンフラッシュの引退は衝撃的なものであり、多くの人が彼女の未来(これから)に期待を寄せてくれていたのだ。

 

 

 

「―――」

 

 沈む心を振り払い、大きく深呼吸を一つ。眼前に広がる扉を前に再度息を整える。予想以上に緊張しているのか手にはジワリと汗が滲んでいる。ソレも、扉の向こうに待つ人物のことを思えば当然だとも思えた。

 

「失礼します」

 

 数回のノックの後、生徒会室と記されたその扉を開け放つ。絢爛豪奢にして厳かな執務具が揃う内装。声に応えて、窓際からターフを見下ろしていた一人のウマ娘が振り返る。トレセン学園現生徒会長にして、史上初の七冠達成ウマ娘。生ける伝説、皇帝シンボリルドルフが其処に立っていた。

 

「急な呼び出しで済まない。記者陣への対応や年度末の手続きで忙しかっただろう」

「いいえ。たづなさんにも手伝っていただきましたし、必要な準備は事前に整えていましたから」

 

 声に曇りはなく、皇帝を前にしても物怖じしない凛とした佇まい。

しかしその姿にルドルフは微かに目を細める。 

 

 一見気丈には振る舞っているが……やはり以前に比べれば何処か覇気が凪いでいるようにも見える。

無理もない話だ。彼とエイシンフラッシュの繋がりの深さはよく知っていた。

 

 エイシンフラッシュの『日本ダービー』への挑戦時。

 後に史上最高メンバーでのダービーと評されたかの戦いにおいて、彼女の評判は決して高いものではなかった。同走者に比べての圧倒的な低評価、また自身の経験不足に焦り戸惑う彼女(フラッシュ)を救うために、彼はこの生徒会室の扉を叩いた。ダービー制覇者にして7冠達成の記録を持つシンボリルドルフ(わたし)の力を借りるため。その勝利経験を盗むため。……今思い返しても、通常のトレーナーであれば思わず躊躇するであろう豪胆無比な申し出だったと思う。ともすれば周りから後ろ指を刺されかねない行為。それさえも彼は承知で……ただ一心に、担当ウマ娘の力になりたいと願って。愚直にも真摯に頭を下げ心願する姿を、ルドルフは今なお瞳の奥に留めていた。

 

 ああ……だからこそ残念に思う。その繋がりが失われてしまうこと。彼らの織りなす物語に、終わりが訪れてしまうこと。

 

 

「さて、君もおそらく理事長から話を聞いていると思うが、君とエイシンフラッシュとのトレーニング契約期間はもう間もなく満了する。残り七日……しかし君はその後、次に担当するウマ娘を未だ決めていない。

 円滑な人員交代、トレーニング用具の新規申請、チーム登録等の事務処理を滞りなく行うためにも、事前に届出を出すのがトレーナーとしての規則(ならわし)だ。

 我が校としても数々のGI制覇者を育て上げた君の実力を無為に遊ばせておくのは忍びない。故に、すぐにでも新たな担当ウマ娘を見つけ出し、今後の育成に励んで貰いたいと思っている」

 

 いまやエイシンフラッシュは我が校内でも屈指の人気を誇る存在だ。トレーナーである彼もまた多くの注目を集め、そのトレーニングを受けてみたい、是非専属トレーナーになって欲しいという(オファー)も数多く受け取っていた。メイクデビューを控えている新入生徒たち。現在何処のチームにも所属せず、トレーナーも持たないフリーのウマ娘。あるいは……

 

「『皐月賞』『菊花賞』『有マ記念』制覇など華々しい成果を残しながらも、現在通算6人目の脱落トレーナーを出しているゴールドシップ……。君さえ良ければだが、その実力を信頼してどうか彼女の手綱を任せたいと思っている。エイシンフラッシュとは良くも悪くも真逆の性格ゆえに、苦労も多いだろうがーー」

「いいえ、大丈夫です。」

 

 挑むように、一歩を踏み出してみせる彼。

気概に満ちた瞳。雄気堂々と言い放つ影には、多少の空元気も含まれているかもしれない。

 

 きっと彼も懸命に戦っているのだろう。大切な繋がりを失う痛み。胸にぽっかりと穴が空いたような抗い難い空虚感と。それでも気丈に振る舞うのは、全ては彼女が迷いなく学園を旅立ち、次の夢へと歩き出せるように……。願わくば、その想いが賢者の贈り物にならないことを祈るばかりだ。

 

 

「ただ、そのお話。もう数日待って頂くことはできますか?」

「……?ああ、ソレは構わない。どちらにせよ君はまだエイシンフラッシュとの契約期間を残している。

君達が契約更新の意志を示さない限り、残りあと七日……それが、君たちがトレーナーとウマ娘として過ごす最後の時間だ」

 

 なにもこれが今生の別れというわけではない。それでも共に歩んできた者同士、別れの辛さは当人たちにしか分からないもの。気持ちの折り合いをつけるにはどうしても時間が必要になる。

ならば二人がより良き門出を迎えるため、我々はその時間を尊重すべきだろう。

 

「そういえば、君は2日後の木曜日に有給休暇申請を提出()していたね。対してフラッシュの方は通常どうりの出学だが……何か個人的な用事が?」

 

 二人だけの時間にあてるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 

 質問に対し彼は僅かな苦笑の後、どこか畏まったような……今まで以上に隠し切れない緊張した表情を浮かべて

 

 

「ええ。少し……人と会う予定が」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

「5:00 定刻通り。起床」

 

 アラームの一鳴りで目覚めた朝。

太陽の登りきっていない空は未だ瑠璃色の雲に覆われ、カーテン越しに溢れいる明かりも心許ない。

 

「……ぅ……んん…」

 

 微かに聞こえた声にふと隣を見やれば、同室(ルームメイト)のスマートファルコンさんが抱き枕を胸にくぐもった寝息を立てていた。

 その目元に薄っすらと残る涙の跡。昨日の夜も同じ栗東寮のメンバーを集めては遅くまでお別れパーティーを開いてくれた。普段ならば、ウマドルたるもの絶対に涙を見せちゃいけないと嘯く彼女なのに、途中からはおんおんと盛大に泣き始めてしまって。その姿に、どれほど自分が大切に想われていたか知っていたからーーまたズキリと、胸の奥に罪悪感が積もった。

 

 自分自身で決めた道。一度立てた計画ならば、どんな困難であろうと理路整然と遂行する。

それが私の強みであったはずなのに……この胸は、靄がかったような迷いをずっと振り払えないでいる。

 

「……ああ、いけない」

 

 思案の海に沈み、気付けばまた8分26秒もの予定超過。

 どこか動きの鈍い心と体を抱え、いつもの早朝トレーニングへと向かうべく急ぎトレーニングウェアへと着替える。すでに引退を宣言し、大きなレースに出る予定もない。それでもトレセン学園にいる間は、せめてこれだけは変わらなぬ習慣として自らに架し続けていた。

 

 怠惰で身を曇らせないように。

あるいは――未だ残る微かな“期待“を、棄て切れないというように。

 

 

 

■□■□

 

 

 

「17:30 HR(ホームルーム)終了」

 

 一日の座学が終わり、ガヤガヤと皆が談笑を始めるなか、鞄を持って足速に教室を後にする。

最近では他のクラスからも「どうして学園を辞めるのか」と質問してくる生徒も増えたため、なるべく教室には長居しないようにしていた。ソレを抜きにしても、予定とは迅速にこなすべきである。

 

「移動時間13分により、トレーナー室へ」

 

 廊下に並ぶ窓の向こう。暮れゆく夕日を目に一人呟く。

 ……どうしてだろう。有マ記念を終えてからは、時間の流れが酷く早く感じる。目に映る世界がどこか色褪せ、思案に耽け暮れる時間が記憶に空白を作りだすように。こうして淡々と口ずさむ次の予定さえも、嫌なことを考えまいと逃げ、思考を単純化しているようだとも思えてしまう。

 そんな自分の姿が、思い描く“正しい行い”から程遠いことは、フラッシュ自身が一番よく理解していた。

 

 

「え“ぇー、マジーッ!?」

 

 途中、廊下から響いた悲鳴にも似た声に振り返る。見れば色とりどりのネイルを身につけた鹿栗毛のウマ娘、トーセンジョーダンが信じられないと言った顔で他の生徒の話に聞き入っている。

 

「フラッシュのトレーナーさん、ゴルシに就くとか嘘でしょ!?アイツの無茶振りとドロップキックで何人が病院送りになったか知らないの!?」

「いや噂。あくまで噂ね?中・長距離が得意なのは同じだし、ゴールドシップさんも宝塚記念3連覇を控えてるから、早くトレーナーをつけないとホント何しでかすか分かんないって話で」

「つけたって変わんないし!どうせ滅茶苦茶やるに決まってんだから!はぁーもう……フラッシュのトレーナーさんほんとかわいそ……」

 

 

 ジクリと、胸を走る痛みに突き動かされるまま、逃げるようにその場を去っていく。

 

 ――分かっていたことだ。私が祖国へと帰る未来があるように、彼にもまた歩むべきその先がある。

沢山の人々を魅了してやまない最高のウマ娘を育て上げる。トレーナーならば誰もが抱くその果てない理想を叶えるため、きっと彼はこれからも研鑽を重ねていくのだろう。多くのウマ娘と出会い。多くの時間を共に過ごし……きっと、愛想も少ない私とは違う。一緒に泣いて笑って、より深い絆を結んで。私との時間も、いつかは遠い思い出の彼方へと色褪せていく。

 

 そんなことは、彼に引退の予定(計画)を告げたあの日から、分かりきっていたことなのに。

 

 

「ーーっ……」

 

 顔を伏せ、知らず駆け足になっていた足は、気がつけばトレーナー室の扉前へと辿り着いていた。

予定よりも遥かに早い到着。大した距離も走っていないのに、酷く乱れた息を抱えて。

 

 別段、会ってどうにかなるわけでもない。それでも……顔を見て、安心させて欲しかった。

たとえ一時でも、張り裂けそうな胸の痛みを忘れさせて欲しかった。その一心で、息も整えぬままに扉を開け放つ。

 

『やあ。フラッシュ』

「あ……」

 

 けれどそこでようやく気が付く。思い出す。

誰も居ない無人のトレーナー室。耳に届いたのは只の幻聴で……今日の彼は私用により休み、学園には来ていないことを。

 

 ぐらりと、体の芯から力が抜けていく。信じられないと目を覆いたくなる。

こんな初歩にも満たないミス。そんなものにすら気付けないほど……私は思いつめていたのだと。

 

 

 

 

「予定を……組み直さないと」

 

 眼前に広がる虚空を眺めたまま、どれほどの時間が経ったのだろう。ようやく絞り出せたのはその一言。不意に空いてしまった時間を無駄にしないために、力なくトレーナー室の机に席着いては予定帳を広げる。

 

 けれど、そこまでだ。どうしてもその先に心が向かってくれない。

 ドイツに帰ったところで、それで終わりではない。寧ろ其処からが始まり。製菓という新たな道へと歩みだす以上、備えるべきことも無数にあった筈なのに。

 

(『Aller Anfang ist schwer――全ての始まりは厳しい。だからこそ、入念に準備をしなければ』)

 

 ――泣き暮れるファルコンさん(親友)の姿を思い出す。多くのファンが、悲しむ姿を思い出す。

 

 その期待を振り払って進む以上……私に迷っている時間など許されないのに。

 

 

 開いた手帳へと目を落とせば、いつか(トレーナーさん)にも見せた、今後10年に及ぶ計画が隙間ないほどの文字の羅列と共に書き連ねられている。長い年月をかけて少しずつ。綿密に綿密な計算を重ね、起こりうるあらゆるリスクを想定して、築き上げてきた自分だけの未来。

 

 ああ。なのにどうして。今はその姿がどうしもなく希薄で、冷たく、頼りのないものに見えてしまった。

トレーナー室の棚に飾られた数々のトロフィー。『天皇賞・秋』、『東京優駿』、『有マ記念』……。この3年間を通して私は確かに成長した筈なのに……まるでその全てが夢幻であったかのように、心は不安に囚われていた。

 

 

 ――ふわりと。心痛に落ち込む私を慰めるように、香しい花の匂いが包みこむ。

 

 机の上に置かれた花瓶、そこに飾られたベルベットのように滑からな一輪の赤い薔薇。いつかのバレンタインの日。彼へ送ったのは随分と前のことなのに……大切にしてくれているのだろう。花は変わらぬ美しさで佇んでいた。

 彼は気付いてくれているのだろうか。この薔薇に込められた意味。その本当の想いを。

 

「……?」

 

 そこで気が付く。花瓶の隣、そっと寄り添うように置かれた一冊の手帳。

使い古されたブラウンのレザー。背の色褪せたバイブル型のソレは……彼がトレーニング予定を記録する際にも使用していた愛用の手帳だった。

 

 どうして此処にーー

 

 疑問を浮かべながらも、手は自然と手帳へと伸びていく。

表紙に書かれた彼の文字。丁寧で、けれど男の人にしては少し丸みを帯びたような筆跡。それを可愛いといった時には、彼は酷く照れて……そんな思い出を懐かしむように。愛しむように。気付けば乾いたレザーの表紙を何度も撫でていた。

 

「……」

 

 “いけない”と頭の中で囁く天使の声を聴きながらも、大切な宝物の箱を開けるように、ゆっくりと胸の前で手帳を開いていく。

 

 ああ…懐かしい。其処に記されていたのは、私達が歩んできた3年間の記録。

 

――メイクデビュー前。

まだお互いに歩み寄れていなかった時期。何度も書き直した後は、きっと私のトレーニング方法を模索してくれていたのだろう。寸秒単位で計画を立てる私に合わせるため、多くの努力の跡が垣間見えた。

 

――皐月賞、日本ダービー。

実力不足に焦り、毎週模擬レースをやろうだなんて無茶な計画を立てる私。そんな私を制して、ミスターC.Bさんへの協力を申し出てくれた。ただ入賞するだけで満足だった私が、初めてレースに『勝ちたい』と思い始めた時でもあった。

 

――菊花賞からジャパンカップへの軌道修正。

ダービー後、負傷した脚に菊花賞を諦めざるをえなくなった頃。“完璧なスケジュールを崩された”だなんて、子供のように怒り落ち込む私を、トウカイテイオーさんと共に励まし、夢へ挑む意味を思い出させてくれた。ただ両親を真似るだけだった自分が……初めて自分だけの『走り方』を、考え始めた頃。

 

――そして、3年目、シニア級

自らを『壁』と名乗り、次々と立ちはだかるシニア級の怪物達。圧倒的な実力差、両親に不甲斐ない姿を見せるわけにはいかないと、必要以上に負けることを恐れる私は、ただ勝てるレースにだけ出走()ようと逃げて――

 

 

(ああ……そんな私を。そんな私でも)

 

『誰よりも努力してきた自分を信じて』

 

 ウマ娘である私に、あろうことか徒競走を挑んできた彼。額を汗で濡らし、ぜぇぜぇと肩で息をするその姿が……涙と共に溢れ出す。

 

 決して愛想をつかすことなく向き合い、自信を取り戻させてくれた。今まで頑張ってきたことの意義を、思い出させてくれた。

 こうして思い返してみると、本当に挫折ばっかりで……完璧な計画が聞いて呆れる。とても、決して、一人では歩んではこれなかった旅路。

 

(――何度助けられただろう)

 

『今の君が誇らしいよ』

 

(一体どれだけ支えになってくれただろう)

 

 

 もう一度、自身の手帳(今後10年の計画)を見直す。

 ああ、頼りなくて当然なのだ。不安になって当り前なのだ。

 

だってこの未来(ここ)には―――貴方が居ないのだから。

 

 

 

 けれど、彼の予定帳は3年目、12月のページは有マ記念の記載を最後に、後は空白だけが続いていた。もうその先は無いのだと、物語るかのように。

 

 何故この手帳がトレーナー室に放置されていたのか。その理由だって、本当は気づいていた。

 使い古され、色褪せた手帳。空きページも残り少なく、日付や年歴だって来年(この先)には対応していない。ましてや、彼はこれからは違うウマ娘を担当することになるのだ。ならばいつまでも遠い思い出(過去)に浸っていることは許されない。古い手帳は役目を終え、きっと今の彼の手には、次の未来を歩むための、新しい手帳が握られているだろう。

 

 思い出す。有マ記念の日、地下通路で最後に見た彼の表情。

トレーナーとして在るべき理想像。その瞳は既に3年間の終わりを受け入れてしまっていた。

私と歩む未来(その先)を――諦めてしまっていた。

 

ああ。でもそれは

 

『トレーナーさんに望みます。完璧なスケジュールを全うする完璧な私を仕上げてください。

 私にとって約束は絶対です。そのうえで、私を最後まで走り抜かせると――今この場で約束してくれますか?』

 

 思い返せば、いつだってそうだった。

計画の本筋を決めていたのはいつも私。予め『引退』を定めていたのも。この3年で『最後(終わり)』だと言い張り続けてきたのも、いつだって私の方で……。

彼は懸命に応えようとしてくれただけ。ただ私の未来(こと)を想って――諦めてくれたというのに。

 

 それなのに、どうして今更――“まだ貴方と走りたい”だなんて言い出すことが出来るだろう。

 

 

 零れ落ちた大粒の涙が、ポタポタとページの上へと零れていく。

ジワリと広がるインクが滲みに、ページが汚れると分かっていても、手帳を手放すことができなかった。

 

「……?」

 

 けれど、そこで気が付く。

涙が零れたのは何も書いていない空白の部分。それなのに、どうしてインクが滲むことがあるのだろうと。

 

 まさか――。

 

 震える手でページを捲る。

ずっと胸に抱いて手放せなかった“期待”。その正体を今更ながらに理解する。

 

「———っ……」

 

 ページを捲った裏側……有マ記念を越えた、3年目のその先。そこに顔を出す新たな文字の羅列。

 

筆跡はどこか急ぎ足で、時折迷うに、苦しむように筆圧も乱れて。インクは滲み、所々に涙の跡もあった。

 

計画というにはあまりに杜撰で。私の計画(もの)に比べれば、酷く稚拙で、穴だらけで

 

(ああ……なのに)

 

こんなにも、暖かく思えてしまう。

こんなにも、愛おしいと想えてしまう。

 

諦めてくれた訳ではなかったのだ。

あの人だって……私と走る未来を、望んでくれていたのだ。

 

それは紛れもない、私が心から求めていた――“4年目”の計画だった。

 

 

 

 

 

「———っ!?」

 

 突然、傍から響いた大きな振動音に、驚き顔を上げる。

メールの着信を知らせる携帯電話。

誰だろうという不安。もしかしたらという期待が胸を擽る。

 

 

 そうして携帯へと注がれた目は、しかし更なる驚愕に見開かれた。

メールの差出人の名前。何より、其処に記された文章に。

 

 

 

 考えるよりも速く、体が動く。

 

机を立ち上がった拍子に自身の手帳が床へ落ちたが、それさえ見向きもしない。

 

胸にはただ一つ、彼の手帳だけを抱いて。

あれほど迷い苦しんでいたのが嘘かのように。

 

 

私の脚は、もう走り出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




*あとがき*

次項最終回。ちょっとシリアスばっかりで食傷ぎみなのでギャグ多めになる予定です

自分の感性が人とズレてないか不安になる時って……あるじゃない?そんなアンケート

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