[完]エイシンフラッシュ怪文書   作:パン de 恵比寿

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次に投稿するのは最終話だと言ったな。……あれは嘘だ。

ちょっと話が長くなりすぎたので途中投稿です。ごめんなさい


3

 時は少し遡り、午後15:30

 

 

「ふーーっ」

 

 首が痛くなるほどに高く聳え立つビルを見上げながら、緊張に茹立った息を吐き出す。

 

ガラスに反射する陽光が眩しい。12月の寒い時期とはいえ、日差しがあれば暖かいこの時間帯。ピシリと正装に身を包んだ体は微かに蒸し暑さも覚え、先程も鏡で整えた外見が汗で乱れていないかが心配だった。

 

 東京都内でも指折りの規模を誇る複合商業ビル。施設内にはミシュランガイドにより星を定められた高級レストランなどが多数経営し、まさにセレブ達にとっての憩いの場。同じ都内に住む者として、存在こそ耳にすれど決して訪れることはないだろうと思っていた歓楽地であった。

 

 一言で言ってしまえば“場違い”。おろしたてのスーツに身を固め、特にドレスコードの無い店とは聞いていたが、それでも不安が残る。その緊張たるや、シンボリルドルフ会長を前にした時より遥かに心臓が暴れまわっていた。

 

 迫る約束の時間(タイムリミット)が背中を押す。エレベーターのボタンの一つを押すだけでいちいち跳ね上がる心臓が煩わしい。知らずtoi,toi,toiと。レースに挑む前の彼女のように呪文を囁く口。どうやら思っていた以上に、自分の日常は彼女の色に染められていたらしい。

 

 目的のレストランへと着くと、店前には給仕服姿の店員が佇んでいた。

こちらの姿を認めるや、深く一礼。名前を確認し、そのまま流れるような所作でレストランの中へと案内してくれる。

 その際、店の表札に掲げられた「貸切」の看板文字に、またもくらりと意識を手放しそうになった。

 

 内装の一つ一つのから伝わる高級感。まるで別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚。

 広大なホールからは崖下に広がる東京の街を一望でき、また料理中の姿を観覧できるサービスも行っているのか、一部テーブル席からは厨房内が見渡せる内装(つくり)になっていた。

 

 その中でも最も厨房に近いカウンター席。花瓶入りの薔薇が飾られたその一席にて、一人の外国人男性客が待っている。

 その出立ちからも漂う厳格な空気。見間違う筈がない、彼女と同じ澄み渡るような空色の瞳。

 

「お久しぶり、です。トレーナーさん」

 

 微かに片言ながら、以前に聞いた時よりも遥かに上達している日本語。

ドイツが誇る一大巨匠(オーバー・マイスター)。エイシンフラッシュの御父君が、そこには立っていた。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 数ある東京の有名店の中でも、洋菓子を味わうならば最高峰(ここぞ)と評されるこのレストラン。

 厨房には今も一人のシェフが立ち、観るも鮮やかな手際で調理を進めている。作っているのはミルフィーユ系のケーキだろうか。生クリーム特有の甘い香り、チョコレートを砕く快音。飴細工を溶かす姿など、料理を待つ間にも目で、耳で楽しめる最高の甘美空間となっていた。

 フラッシュが居たらきっと喜んだだろうと……なかば現実逃避ぎみにその姿を思い浮かべる。

 

「………」

「………」

 

 重い。あまりに重い沈黙。なにせカウンター席に肩を並べての二人きりだ。平日の喫茶店ならばいざ知らず、ここは地上35mにある超高級レストラン。まして貸切り、他の客の話し声も無いとなれば嫌でも沈黙がよく響いた。

 

 

 

 彼———エイシンフラッシュの御父君から手紙を受け取ったのは、今から10日ほど前。丁度、フラッシュが記者会見で引退宣言を行った直後のことであった。

 

 是非、一度会ってお話ししたいと。

慣れない日本語ながらも、とても丁寧な文書で書かれた手紙の中には、レストランへの招待状も同封されており、あとは日程を決めるだけ、という段階まで既に計画が組み上げられていた。

 

 流石は彼女の親御さんというべきか。

 しかしこれまでフラッシュの話から、御両親がとても多忙な身であることも知っていた。なにせ実の娘にさえ、この3年間を通じてただの二度しか会いに来れなかったほどだ。

 先の先のまで計画を立て、予定外のことは決してしない。それがフラッシュも憧れるご両親の姿であり、だからこそ直接日本に会いに来るという申し出には心底驚かされた。

 

 加えて……いや寧ろこれこそが本題というべきなのだが、あくまで“二人きりでお話ししたい”というご要望だったのだ。

 今までのごとくフラッシュを中心にした談笑ではない。One-on-One。一対一。ガチタイマンでの対話だ。

 手紙を読み始めた当初はフラッシュも喜ぶだろうと彼女の同席を考えていたが、しかし読み進めるうちに表情はどんどん緊張へと固まっていた。なにせ、『娘には秘密にしておいてほしい』という念押しまでされていたのだ。

 

 

 なんなのだこれは。いったいどういうことか。

 

 

 フラッシュが帰国する上での最後の挨拶か。否、それならば彼女に秘密にしておく理由がない。もしやドイツ文化にそのような風習があるのでは?とネットを血眼になって探しもしたが、甲斐なく。

 ともなれば、どうしても嫌な想像というものも浮かんでくる。

 

 まさか……苦情案件ではなかろうか?

フラッシュへのトレーニング方法や、日常生活での接し方に関する何らかの個人的な糾弾(クレーム)。彼女の耳に入れるべきではない大人同士の対話として――直接ナシをつけにきたと。

 

 無論、心当たりなどある筈もない。トレーニング中においても、私生活においても、私たちの関係は良好であったし、不平不満があれば隠さず口に出すことをルール付けていた。寧ろ不満点を洗い出すことで、よりトレーニングを効率化させようと互いに息巻いていたほどだ。フラッシュの人柄を考えても、隠れて告げ口するような性格とは思わない。

 

 ……が、しかしだ。彼女とてお年頃。口を大にして言えないことや、思春期特有の悩み事ぐらいはあったのではないか。

 彼女の勝負服は、正直他のウマ娘と比べてやや露出が多い傾向にある。最近では何を思ったか水着姿でレースに挑むウマ娘も増えてきたため一概には言えないのだが、まあ多いことは確かだ。

 無論トレーナーとして、真剣にレースへと挑む彼女の勝負服。その信念に礼を欠いてはいけないと心を鋼にして誘惑の一切を断ち切っていたが、それでも四六時中彼女の顔ばかりを見つめているわけにはいかない。ふとした折に、どうしても視線がかち合ってしまうこともあった。

 もし彼女がそれを気にしていたら……。肉親であり誰よりも心を許せるご両親に、電話で話すうちについ口に零してしまったら……。

 

“ーーUnglaublich!?(なんですってぇ!?)

 

 

 先日も記者陣に詰め寄られたせいだろうか。やたらリアルに想像できてしまう、謝罪会見で深く頭を下げる自分の姿。スポーツ新聞一面を飾る見出し。

『教職員による猥褻行為発覚!』

『ウマ娘とトレーナー間に広がる不純異性行為!』

『激写!婚活お見合い会場と化したトレセン学園!!』

 

 ……死ねる。トレーナーとして以前に社会的に死んでしまう。

 悪い想像や胸騒ぎが止まらなかったが、しかし自分のためにここまで準備して頂いた計画。ご厚意を無碍にするわけにはいかない。何よりここで逃げるような真似をしたら、それこそ“詰み”だと、ドイツ辞典と睨めっこしながら必死に返信を書いたのを覚えている。

 

 その後、招待された店について調べ――――いや、なにこの高級レストラン。

 

 身なりを整え緊張の面持ちのまま出向き―――ーいや、なんで貸切り!?

 

 そうして疑問も動揺も一切整理できないまま、今に至るのだ。

 

 

 

『今日はあなたに、お礼を言いに来たのです』

『お礼……ですか?』

『はい。フラッシュ……私たちのSchatziを最後まで支えてくれたこと。無事、走り遂げさせてくれたことへの、お礼です』

 

 ああ、だからこそ。始めに顔を合わせた際、柔らかな微笑みと共に御父君から告げられた言葉には、本当に心を救われた。いろんな荷が肩から降り、体重が21グラム減ったのではと錯覚するほどだった。

 

 しかし、となれば何故に二人きりでの会話なのか。

尋ねようとした言葉は、けれど“話は料理を食べてからにしましょう”との申し出により、はぐらかされてしまった。

 結果、胸には釈然としない疑問と。担当ウマ娘の親御さんという只でさえ緊張する相手。ましてやマイスターという社会的地位を鑑みても遥かに目上の存在と二人きりで話さなければならないという、いかんともしがたい緊張のみが残った。

 

 

 穏やかではいられない内心が、隣に座る御父君へと伝わってはいまいかと、ちらりとその表情を盗み見る。

 しかし彼の視線はただ真っ直ぐに、今も厨房に立つシェフの手元へと注がれている。隣で狼狽える男の姿などまるで目にも入っていないというように。

 真剣だ。声を掛けることすら躊躇われるほどに。フラッシュもお菓子作りの時は同じような表情を浮かべることがあったが、年期も気迫も勝る彼の集中力は正に刃のような鋭さで、隣に座る自分の胃をも容易く切り裂いていく。

 それは厨房に立つシェフも同様。卵をボウルで解かし、溶かしたバターに小麦粉を篩う。そんな工程(動き)の一つ一つにもかける熱量。針を通すような緊張感。

 真剣と真剣の鍔迫り合い。間でプレッシャーに晒される自分は、なぜ此処にいるのだろうと、時折己を見失いそうになるほどだった。

 

 厨房に立つ彼とは、今日の担当シェフの紹介ということで、調理に移る前に少しだけ顔を合わせる機会があった。

 無論初対面であり、名前も顔も知らない。顔つきからおそらく同じ日本人だと分かるくらいで、職種や年齢さえもまるで違う立場だ。だというのに……何故だろう。私は、彼が見せる隠しきれない緊迫の表情に、どこかシンパシーのようなものを感じていた。

 極度の緊張による錯覚か。“速く料理を持ってきてこの沈黙を終わらせてくれ”という願いがそうさせているのか。

 

 ーーその時、隣で静かにふう息を吐く声が聞こえる。

 

「ああ、黙ってしまって、すみません。職業柄、どうしても、気になってしまって」

「気になる……調理の様子が、ですか?」

「ええ。厨房に立っている彼……今はこのレストランの、料理長を勤めているのですが、彼は以前、私の元で『徒弟(Geselle)』として働いていたんです。今ではこんなに立派な店を構えて……師として、嬉しいかぎりです」

「…………なるほど」

 

 なるほどじゃないが。もっと会話広げてほら。マイスターまた調理を眺める作業に戻ってしまったではないか。

 頭の中で焦りを覚えながら、しかし納得できたことも一つ。

 

 徒弟(Geselle)ーーつまりはお弟子さんか。

マイスターという職位に至るには、ただ自分の腕だけを磨いていれば良いわけではない。後続を育てる教育者として、弟子を取り技術を継承する能力(ちから)も必要になる。

 おそらく突然に見えたこの訪日も、元々はマイスターとしてレストランへの視察を目的としていたのだろう。厨房に立つ彼としても、久しぶりに師匠に腕を見せる機会。緊張は当然であり、そう考えると彼に感じたシンパシーにも納得がいった。

 

 改めて思い知る世界の違い。

 ドイツが誇る巨匠(オーバー・マイスター)。そんな偉大な人の隣で、自分は呑気に座ったままでいいのか。

 

 話題を振ろうと考えてもみたが、鬼気迫る彼の表情に“邪魔してはいけない”と頭の中の天使が囁く。悪魔の方は正座で沈黙。要するに心がビビっている。

 この3年間におけるフラッシュの話を振れば、興味を惹かせられるであろうことも分かっていた。

 しかし本当にそれでいいのか。彼女の存在をまるで餌のように利用する行為。そんなものに頼って、自分の存在を彼にアピールすることに果たして意味はあるのか。どうにか自分の力だけで……あのシェフにも負けない存在感を引き出せないものか……。

 

(……いや、ちょっと待とう)

 

 なにか方向性がズレてきている。

 何だ。隣にいる方は誰だ。

フラッシュの親御さん。あくまで保護者と教員ぐらいの繋がりでしかない筈だ。

なのに何ゆえ自分は、まるで娘さんを貰いに来た婚約相手のごとく緊張と嫉妬に戦っているのか。

 

 

 いよいよ統率を失ってきた心に戸惑っていると、シェフが皿を手に厨房から顔を出した。

時計を見て驚く、体感では2時間は余裕で過ぎていたのにまだ20分程しか経っていなかった。

 

 白磁の皿と共に現れるミルフィーユケーキ。

施された艶やかな飴細工の装飾。純白の生クリームは店の明かりを反射し輝いているようにさえ見える。

果物の瑞々しさ、パイ生地の香ばしさ。まだ口にさえ入れていないのに、既に幸福感が心を擽っていた。

 

 この一皿で一月分の給料に相当するのでは?そう思えてしまう程に気品と、貫禄と、優雅さに溢れた一皿。マイスターはおよそ数秒、ケーキの出来を確かめるように外観をよく見通すと、感心が入ったように、うんと小さく頷く。

 良い評価が貰えたのだろう。むかいに立つシェフから安堵と歓喜の雰囲気が伝わり、その視線は今度は(こちら)の方へと向いた。また緊張した表情を浮かべ……。

 

 あれ?もしかして、アレだろうか。マイスターの隣に座っているということで、自分も何か名のある審査員だと勘違いされている感じだろうか。いやほんと、3本入り98円のみたらし団子でも幸せになってしまう庶民の自分にはキツイ――

 

「さて、いただきましょう」

「は、はい」

 

 マイスターの声に助けられるように、慌ててフォークを握る。

しかしそれも小刻みに震え、こんな気持ちのままでちゃんと味わえるのかと不安になってくる。マイスターの手順に倣い、パリパリと小気味の良い音と共に切り分けたミルフィーユを、ゆっくりと口の中へと運んだ。

 

 

「―――」

 

 言葉を失うとは、正にこういうことを言うのだろう。そのあまりの美味しさに暫し思考を忘れる。

 甘く、しかし舌に残りすぎれば(くど)いだけの生クリーム。そこにパイ生地特有の食感と香ばしさが加わることで甘さを抑え、次の瞬間にはフルーツの芳しい味が口全体へと広がる。

 味の推移。風味の変化。全てが計算され尽くしたような精巧さで、芸術的なまでの一つの美味しさを作り出している。

 

『1グラム多い……減らさないと』

 

 ああ、今ならばわかる。フラッシュ達の真剣な表情。その拘りの意味。

分量や工程、そこに寸分のズレがあっては実現できない完成された美味。

彼女が目指すものの、粋を味わった気分だった。

 

 

 

「トレーナさん」

 

 呼ばれた声にはっと我に返る。どうやらケーキのあまりの美味しさになかば放心していたようだ。

恥ずかしい。既にシェフの姿は無く、驚いたことに皿の上のミルフィーユも既に8割が無くなっており、その間、自分は無我夢中で食べていたことになる。

 

 満足して頂けたようでなによりですと、そんな私の姿に嬉しそうに微笑む御父君。

お弟子さんの仕事にしっかりと自分の教えが活きていたことを確認できたのか、その表情はとても朗らかであった。

 

 ――さて、と。食器を置き息を静かに整える気配。ここからが、話の本筋だというように

 

 

「先もお話ししたとおり。今日は貴方にお礼を言いたくて来たのです。

 ……本当にありがとうございました。貴方がいてくれたから、フラッシュは無事に走り続けることができた」

「い、いえ……!お礼を言われるようなことは……!」

 

 マイスターである彼に突然頭を下げられ、慌てて否定を述べる。

自分は、トレーナーとして当然のことをしてきたまでだと。

 

しかしその言葉に、彼はゆっくりと首を横に振ると

 

「私の国にも、多くのウマ娘がいます。

 走ることを夢見て、誰よりも速くなることを願って……けれどその全員が、無事に選手生命を終えられるわけではない。

 中には、怪我により引退を余儀なくされた子。後遺症により日常生活さえ満足に送れなくなる子もいました。

 ただ走りたかっただけなのに、今や歩くことすらままならない……そんな悲痛に濡れる子供たちを、家族を、私は何度も見て来た。

 

 ……正直に明かしましょう。フラッシュに3年間の引退(終わり)を一番最初に提案したのは、私なんです」

 

「————」

 

 驚き目を見開くトレーナーに、(マイスター)は続ける。

ウマ娘を我が子に授かったからこそ、その種の危険には人一倍敏感になったのだということ。

我が子を襲った不幸を先駆けに、生活が一変し……ときに家族の絆さえ修復不可能なまでに散り散りになってしまった家庭もあったこと。

 

ただ静かに、悼むような口調だった。

 

「3年の縛り。勿論、それはマイスターになりたいというあの子の夢を考えての言葉でもありました。

 けれどそれ以上に……私はあの子に降りかかるかもしれない不幸を恐れた」

 

 ケーキ屋という自家営業の環境もあっただろう。フラッシュは幼い頃より私達の傍で、ずっと私達の背中を見ながら育ってきた。

多くの愛情を込めた一人娘。あの子の模範であろうと、あの子が誇ってくれる親であろうと、必要以上に頑張る姿を見せてしまうこともあった。

そうして大きくなったあの子は、私たちの教えをよく守り、そしてパティシエである私が製菓に込める想いも、深く受け継いでくれた。

けれど……

 

「けれどまだ若いあの子は、経験や実力の不足から無理をすることも多かった。

 予定の遂行にのみ集中するあまり、周りが見えなくなってしまうことも。自分の計画を過信するあまりに、気持ちを抑えられず無理を通して体調を崩してしまうことだってあった。」 

「それ、は……」

 

 

 思い出す。あれはまだ、フラッシュのトレーナーになる以前。最初の選抜レースでの出来事。

 

『たった1グラムの誤差が全てを狂わせてしまう』

 

 両親に成長した姿を見せたいと。しかし過度なトレーニングの積み重ねにより、倒れるほどまでに身を削り続けていた彼女。

 計画の未遂を恐れ。完璧な自分でいなければ、両親は自分を誇れる娘として認めてくれないと……真面目過ぎる故の不器用さが、あの子を苦しめていた。

 

 そんな彼女を放っておけないと、しつこくも手伝いを買い出たのが、私たちの馴れ初め。思えばアレが、フラッシュが味わった最初の挫折だった。もしあのまま、彼女が自分の間違いに気づけず、計画に従うことだけに重きを置き、体を酷使し続けていたら――きっと今の彼女はなかっただろう。

 

 

「同じウマ娘である妻は、そんな不器用さや、走りたいというあの子の願望にも良く理解を示していたけれど……私は違った」

 

 自分と同じ、パティシエの道を歩むのならばまだ良い。

たとえ失敗は重ねても、怪我や病気を恐れることもなく、少しづつ学んでいくことができたから。

 けれどレースの世界……リスクと常に隣合わせにある環境では、その不安はいずれ取り返しのつかない致命的な故障へと繋がるのではないか。

 夢を追い、結果走ることも出来なくなったあの子達と同じように……フラッシュもまた、いつかは不幸の枝に捕らわれ、望まぬ未来を迎えてしまうのではないか。

そんな想いが、あの子へ三年間での引退を提案する駆け口になっていた。

 

 ……提案などと、今思えば卑怯な言い方だ。あの子が私の言葉を蔑ろにする筈がないことは分かっていた。

あの子の尊敬と、憧れを利用して……私は、あの子に3年での引退を約束させたのだ。

 

ああ、けれど。

 

「けれど3年前。日本で初めて貴方と会った時。あの子は自分の想いを抑える術を身につけていた。

 ……本当に驚きました。私達には出来なかったこと。言葉だけでは伝えきれなかった想いを、あの子は確かに学んでいたのですから」

「そんな。私がやったことといえば……」

 

 『たとえ結果は残せずとも気持ちは伝わる』と、そんな励ましの言葉を送ったくらいだ。

大事なことは、既に父の思い出(教え)から学んでいた。

誰のために……何のために努力するのか。彼女は、ただその教えを思い出しただけだ。

 

 

「いいえ。貴方は、知らないのでしょう」

 

 男は首を横に振るう。マイスターとしてではない。娘を持つ一人の父親として。

 

『私のトレーナーさん…………に、なって欲しいと考えている方です。まだ予定ですが』

『訂正します。予定ではなく、彼女のトレーナーです』

 

『……そうですか。娘をよろしくお願いします。フラッシュ。この方と一緒に、頑張るんだよ』

 

 あの時の言葉にどれほどの安堵が込められていたか。娘を怪我と不幸から守ってくれる貴方の存在に、私がどれだけ感謝していたか。

 

「そうしてあの子は、貴方と共に日本の舞台を駆け抜け……無事に走り遂げただけではない。

 数多くの栄光あるレースを勝ち取り、いまや一人の人間として尊敬できるほどに、立派に育ってくれた。

 本当に……どれだけ感謝の言葉を述べても足りません」

 

「私だけの、力ではありません。全ては彼女が……フラッシュの頑張りがあったからです。

 何より、誇りあるご両親(貴方達)が居てくれたから。あの子は最後まで目標を見失うことなく走り遂げることができた。

 辛い時にも、苦しい時でも――貴方達のようになりたいという想いが、フラッシュを支えてくれた。

 だから本当にお礼を言うべきなのは、私の方です」

 

 深く、それまで抱いていた全ての想いの全てを曝け出すように頭を下げる。

おかしなものだ。自分はあれほどにまで緊張していたというのに、今は何の迷いもなく言葉を紡いでいる。

けれどそれも当然で。フラッシュとその御両親……彼女達へと抱く感謝の気持ちは、きっとどれだけ伝えても伝え切れないのだから。

 

 

 真摯に。ただ真っすぐに頭を下げるトレーナーの姿を、父親は静かな瞳で見つめる。

 

「本当に良かったのですか?」

「え……?」

「フラッシュの引退です。貴方は、本当に納得出来ているのですか?」

「……」

 

 

 意地悪な、質問だと思う。一度決めた心を揺さぶられるような。

 

 諦められるわけがない。後悔を抱かない筈がない。

 

『なぜ彼女ほどの才能を手放す』

 

 それは同僚である他のトレーナー達からも、何度も聞かされた言葉。

 

栄えある実績を持ち、多くのファンを得ていながら、一体何が不満なのか

必死に努力し、なおも夢に届かないウマ娘たちに失礼だと思わないのか

たとえ走ることに興味が無くとも……それを持たせる(・・・・)のがトレーナー仕事だろう、と。

 

 彼女の引退に対して、未練を見せようとしない私の姿に、『トレーナー失格』だと罵る声は、決して少なくなかった。

 

 

 けれど彼らの気持ちも分かるのだ。

 

 

「彼女以上に、自分の信念を強く抱けた人を、私は知らない」

 

 努力を“願う”ことと、実際に“行う”ことは違う。

走るという最も原始的で誤魔化しの効かない運動行為。

速くなるには、強くなるには、己の身と心を削る地獄のような痛み(努力)からは、決して逃れることはできない。

 

 その姿を誰よりも身近で見て来た。トレーナーとして、何度もその地獄を彼女に強いてきた。

 

 容赦無く照りつける炎天下。喉から迫り上がる血の味。

疲労と痛みを訴え上がらない手足で、それでも一歩。踏み越えれば更にもう一歩と。

“限界を超える”なんて、口にするだけならばなんて容易い。悲鳴と苦痛(ブレーキ)を訴える心を殺しに殺してひたすらに走り続ける。

 

 努力が必ず結ばれるわけではない。伸び悩むタイム、数字という厳格にして残酷な指標は、人の心をいとも容易く折りにかかる。

 “十分頑張った”と。“もう休んでもいいのだ”と。疲労に沈む心に幾度も浮かび上がる言い訳の言葉。甘い囁き。

 

 その中で、なお自分を“信じ続ける”ことが、いかに難しいことか。

 

 

 それでも、彼女は、一度とて弱音を漏らすことはなかった。

 トレーニングを緩めることも。妥協に身を曇らせることもしなかった。

 

 

『私は私の道を往く。いつだって強い人は自分を信じているものだから』

 

 

 たとえ迷えども、ひたすらに前へと進む姿がなによりも眩しかった。

 幾度挫折に身を沈めようとも、君はより大きな輝きを纏って立ち上がった。

 

 

「きっとこれから先、私は何度も彼女のことを思い出すのでしょう。

 他のウマ娘のトレーナーに就くことになっても。それがいけないことと分かっていても。あの子という完璧を思い出しては、無意識に比べてしまうでしょう」

 

 それほどに、私の人生にとってエイシンフラッシュという女性は鮮烈で。

 そんな彼女の側に居れたことが、私にとって何よりの誇りであったのだ。

 

 

「それほどの想いがあるのなら、どうして……?」

「……」

 

 “どうして”

 有マ記念の直前。降り積もる雪を窓の外にするトレーナー室で、叶わぬ夢を自らの手帳に描きながら、何度も呟いた言葉。

 

 本当は悲しくて仕方がなかった。どうしてと、叫び出したい気持ちで一杯だった。

 けれど彼女の夢がレースに無い以上……今まで通りの結果や実力が出せないことなどは目に見えていた。

それは私たちが信じてきた戦い方さえも否定することに他ならないから。

 

だから。選べる道など初めから決まっていたのだと、諦めるしかなかった。

 

 

(いいや……それも、本当は違う)

 

 

 

『この先私はウマ娘として、レースを走り抜いていかなければなりません。

 そのスケジュールの中に、貴方も組み込んでおきます。

 共に誇りある仕事を全うしましょう』

 

思い出す。

始まりの日。果てない未来へと歩き出すため、互いにぎこちなくも固く組み交わした握手を。

 

 

 

――super, toll, klasseですよ、フラッシュ!

『お母さん、私……すごいこと、できたよ。ダービー、勝てたよ……!』

 

 幼い頃に母と交わした約束を胸に、見事日本ダービーを勝ち取った喜びへ浮かべた、子供のような笑顔を。

 

 

 

『楽しみにしているスケジュールは、オレンジ色で書くようにしているんです。

 いえ、ドイツの文化ではなく私の昔からの習慣で……もう、どうして笑うんですかトレーナーさん。

 色分けしているのが可愛いって……だったらトレーナーさんも試してみてください。いかに合理的な判別方法か理解できますから。』

 

恥ずかしさを誤魔化すように、むくれた顔で理詰めの説明を迫ってくる姿。そんな日常を。

 

 

 

そして――天皇賞・秋

長い長い苦難の果て。多くの人々の歓声と祝福が降り注ぐターフ中央。

今まで乗り越えてきた苦難。迷い。それら出会いの全てに感謝するように、片膝を付いて示した最敬礼。

眩しいほどに輝く彼女の姿を……涙と共に思い出す。

 

 

 

 

どうか、幸せになって欲しいと想った。

どうか、いつまでも輝かしい君であって欲しいと願った。

 

たとえ手が届かなくなろうとも。

たとえ私自身の夢を棄てることになろうとも。

 

 

 

ああ――トレーナー失格と言われても仕方ない。

いつしか私は、彼女をウマ娘としてではない。

エイシンフラッシュという一人の女性として、その幸福を願うようになってしまっていたのだから。

 

けれど、それが……それこそが、私にとっての

 

 

「あの子の幸せが私の幸せです。たとえ彼女が引退の道を選ぶとしても、その想いに変わりはありません。

 ウマ娘(彼女たち)の幸せのために、自分のなすべきことを手を抜かずに正しく行う。

 

 それが、彼女との3年間を通じて学んだ―――トレーナーとしての、私の誇りです」

 

 一切の曇りも無い、凛とした声に父親(マイスター)は言葉を失う。

その言葉。その誓いは遠い日、自らが娘へと伝えた大切な教えと同じものであったから

 

 

『フラッシュ……私たちのSchatzi。けれど忘れてはいけないよ。誤差を許さないその理由は、もちろん品質のためだ。

 だがそれ以上に大切なのは――誰かの幸せを想い、自分の成すべきことに手を抜かずに正しく行うこと。

 祈りを……心を込めて仕上げるから、私たちの為す仕事の意味があるんだ。』

 

『でも、心に味はついてないよ?パパのレシピにも書いてない……』

 

『ふふっ。今は違いが分からなくてもいいさ。けれどいつか君にも分かる日が来る。

 

 自分が心から誇れる仕事が出来たならば、きっと―――』

 

 

 

 

「そうですか……貴方も(・・・)

 

 心からの安堵と…感謝が浮かぶ。

その出会いに。あの日、娘を彼に任せた自分の判断は……決して間違っていなかったのだと

 

 

 

「毎年……」

「……?」

「毎年、我が家ではバレンタインの日、私が妻に一本の花を贈るんです」

 

 テーブル脇に飾られた黄色い薔薇の花を撫でながら、マイスターは突然そんなことを言い出した。

いまいち要領を得ない言葉に首をかしげる。

 

「とても大切な家内(ひと)です。彼女無しでは私の人生など考えられないほどに。

 寸分刻みのスケジュール。融通の利かない几帳面すぎる性格。それゆえに私も若い頃は随分と周りから煙たがられたものです。

 共に居ることへの息苦しさに、離れていった同僚も少なくない。貴方も、フラッシュのトレーナーを務めるのは大変だったのでは?」

「まさか」

「ええ……妻も、同じことを言ってくれました」

 

 遠い日を懐かしむように息を零すマイスター。

 

「毎年贈るのは一輪の赤い薔薇。

 ご存じですか?薔薇は贈る色とその本数で花言葉(意味合い)が大きく異なるのです。

 同じ赤い薔薇を贈るにしても、7本ならば『ひそかに想っています』。13本ならば、『永遠の友情』

 そして一本のみを贈る際の意味は……」

「————」

 

 耳に入るマイスターの言葉に目を瞬かせる。思い出すのは、今もトレーナー室に飾られた一輪の薔薇。

しかしフラッシュは本当に、そんな想いを込めて贈ってくれたのだろうか。

 

 思案に暮れる私に、マイスターは席を立ちあがり真っすぐと此方へと向き直る。

そして、頭を下げた。

 

「……トレーナーさん。どうかもう一度、フラッシュと話をしてあげてください

 あの子は、大きく成長しました。私たちが想像するより遥かに立派で、輝かしく。

 フラッシュの手帳に在る10年間の計画は、3年前のあの子が立てたもの。

 成長した今ならば、きっと違う視野、新たな目標を見つけられている筈です。

 あの子が抱く夢……あの子の中に芽生えた、新しい想いを確かめるにも、どうかもう一度だけ、話を聞いてあげてください。」

 

 恥も外見もなく、真っすぐ頭を下げる彼の姿。その言葉に。必死に押しとどめていた想いが揺れ動く。

 

「けれど……フラッシュは――」

「大丈夫……あと12秒です」

「?」

 

 そう言って微笑むと、マイスターはレストランの入り口の方へと視線を送った。

誰も居ない貸し切りの店内。

しかし入口から徐々に聞こえ始める靴音。

 

ひどく速足で。けれど、とても聞きなれたその音色(足音)は――

 

 

 

 

 

 




ウマ娘の娘を持った父親の心境を考えて書いていたらこんなに長くなってしまったい。次項、本当の最終話です。

ウマ娘の娘ってなんだよ

自分の感性が人とズレてないか不安になる時って……あるじゃない?そんなアンケート

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  • 笑った
  • アグネスデジタルが死んだ
  • エアグルーヴのやる気が下がった
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