――覚えている。
3年目、最後の夏合宿。茜色に染まる海岸で二人。沈みゆく夕日を海の向こうに交わした言葉を。
彼は語ってくれた。私のトレーナーになろうと思った理由。その最初の切っ掛けは、私の走る姿だったのだと。
懸命に駆ける姿を見て、私を支えたい……そう感じたのだと。
『なぜでしょう。
他の方の走りと比較しても特色のある走り方ではないと思いますが』
『なんでだろうな。直感的なものだったから』
『……そうですか。根拠のないものに従って。貴方は此処まで走ってきたんですね』
自分でも驚くくらい、柔らかな微笑が浮かんでいた。
そんな曖昧な理由、かつての自分なら何より毛嫌いしていた筈なのに。
きっと私には分かっていたのだろう。その根拠のない“何か”が、私にとってどれだけ大切なものであったかを。
『その直感は正しかった。大阪杯でも春天でも、君は誰よりも輝いていた。
ここまで君と走ってきて感じたこと。あの日、君のトレーナーになれたこと。
その選択は、自分にとって“正しい行い”だったと、心から誇ることができる』
『ええ……私だけではとうに破綻していたかもしれないスケジュールを全うさせてくれている。貴方のおかげです』
『いいや、違うさ。二人で正しくしてきたんだ。二人だから……ここまで走ってこれたんだ』
『……!』
遠く夕日を目に。どこまでも眩しいものを見るように呟く彼。
波打つ海辺に反射しているせいだろうか、その横顔は、何処か泣いているようにも見えてしまった。
『……その口ぶり、振り返りには早いのでは?まるで全てが終わってしまうかのような―――、っ!』
気付いてしまった。その時になってようやく。
なんて滑稽。スケジュールを立てた本人が失念していただなんて。
ただこの時が。この幸せな時間が、いつまでも続けばいいなんて……そんなありもしない幻想を心から願ってしまっていた。
『……練習に戻ろうか』
『あ……』
遠ざかっていく背中を、愕然と見つめる。掛けるべき言葉も。伝えるべき本心もあった筈なのに。
突然突きつけられた終わりに、ただ立ちつくすしかなかった私。
その間違いを今でも覚えている。
その後悔を――いつまでも、胸の奥に刻み続けている。
■□■□
風さえも置き去りにして、ひた駆ける。
帰宅ラッシュの時間帯。都心の車道では見慣れた渋滞が起こり、多くの車が数珠繋ぎになって停滞している。
そんな彼らを遠く抜き去るように、ウマ娘専用道路を疾走する一筋の閃光。
「お、おい、あれエイシンフラッシュじゃね!?引退宣言した!」
「えっマジ!? ん……いや、でもあれ……本当にフラッシュか?」
都内を駆ける以上、観衆の目は免れない。しかし彼女の姿を見たファンは困惑しただろう。
勝負服でも運動着でもない、紫を基調としたトレセン学園の学生服のまま駆ける彼女の姿。
いつもの計算され尽くしたような冷静沈着な走りではない。ただ速さのみを追求したスプリンターのような疾走。
ペース配分も曖昧なのか表情には疲れが浮かび、手に何かを持って走っているのかフォームさえ崩れつつある。
ただただ必死で、我武者羅で。それは彼女というウマ娘が持つイメージとはあまりにかけ離れてた光景だった。
(あと――600m)
そんな奇異の視線さえも振り払い、ただ前だけを見る。
数分前に届いたメール。差出人の名前欄に記されていたのは、驚いたことに父の名前。
ほんの少しの短い文章と、とあるレストランの住所が記されていた。
“フラッシュ。もし君に、まだ彼と走りたい気持ちが残っているなら、この場所まで来なさい”
想像や疑問を抱くより早く、弾かれるように動いていた手足。
————心は
ああ、きっと居るはずだと。瞼の裏に浮かぶその横顔に、また踏み込む足に力が戻る。
距離だけで言えばステイヤーズステークス3600mをも遥かに超える長路。
破裂しそうな肺の痛み。鉛のように重い手足。けれど何一つ苦には感じなかった。
ただ、会いたかった
会って、もう一度想いを聞いて欲しかった。
不安が無かった訳ではない。
何をいまさらと、ぶつけられるかもしれない拒絶の瞳が、本当は恐ろしくて仕方がなかった。
『負けるかもしれないものへ挑むことに……意味はあるのでしょうか』
まだ脆く、誇りの意味さえ知らなかった私が零した弱音。
きっとあの頃の自分なら、この恐ろしさに負けて。計画の完遂だなんて言い訳を盾にして、逃げ出してしまっていただろう。
何度も間違えてしまった選択。何度も抱いた後悔。
その懺悔に、今もこうして、瞼を濡らして走り続けている自分がいる。
だけど
『だけど――フラッシュさんは違うよね?たとえ失敗しても、失敗したことは絶対に忘れない。
行ったり来たりしないで、前にだけ進んでる。それって、とっても凄くて、素敵なことだと思うよ?』
3年間の道の中で、私は知った。
たとえ何度間違えようとも。何度道に迷おうとも。失敗も後悔も、一つ一つを積み重ねて“正しさ”へと変えていく。努力を決して怠らずに邁進し続ける。
ただ不器用なだけではなく、それこそが私の本当の強さなのだと……そう教えてくれた人達がいた。
ならば、どんなに恐ろしくても前を向かなければ。
たとえその先に望まぬ未来が待とうとも。
この気持ちに嘘をついたまま、逃げることだけは―――絶対に
『だからやりたいようにやっちゃえばいいよ♪フラッシュさんなら、なんだって出来るもん』
(ええ――そうですね。ファルコンさん)
宵闇へと染まりゆく街を、一筋の閃光が駆けていく。
微かに星の瞬き始めた空。望むべき場所は、もう目の前まで迫っていった。
■□■□
「フラッシュ……」
レストラン入口に現れた彼女の姿に、言葉を失う。
普段なら髪の毛一本のハネも許さない整然とした身なりの彼女。それが今は、疲労に肩を揺らし、乱れた衣服を直す余裕さえない。
何より……泣き腫らしたその表情。今にも零れ落ちそうなほどに浮かぶ涙が、トレーナーの心を深く抉った。
ああ。こんな表情を浮かべて欲しくないと、自分は頑張っていた筈なのに。
「っ!?」
言葉を投げかけるよりも早く、トレーナーの元へと飛び込んでくる彼女。
トン、と。泣きじゃくる子供のように、小さな頭を胸の中へとうずめる。
「……なさい…」
「フラッシュ…?」
「ごめん、なさい……私は、また。大切なものを見失っていました。
貴方が与えてくれるものに“期待”して。貴方がどんな気持ちだったか考えもしないで。
ただずっと……貴方の優しさに甘えてばかりいた」
「———っ、」
震える小さな体を、けれど抱きしめることもできず……両肩を掴み、そっと胸から引き離す。
視界一杯に広がる涙に濡れた青い瞳。そして、その右手に握られた一冊の手帳に、ハッと目を見開く。
色褪せ使い古されたレザー表紙。見間違うはずもないその姿に、胸の奥が締め付けられる。
「それ、は……」
「お願いです。トレーナーさん。もう一度……もう一度、貴方の隣にいさせてください。
どうか私のトレーナーで在り続けてください」
手帳を差し出し、懇願するように真っすぐ頭を下げるフラッシュ。
突きつけられる、かつて手放した筈の夢。
一度は諦めた未来が目に前へ広がる光景に……揺れる心が手を伸ばしそうになる。
けれど――
「それは、出来ない」
「———っ!」
ビクリと震える肩。
どうして……と、涙にぬれた瞳が悲哀を訴える。
苦し気な表情で彼女の体を引き離しながら、カウンター席へと瞳を向けるトレーナー。
その瞳が映すのは、今もテーブル上に並ぶ白磁のように美しい食器達。
輝かしく眩しい……本来彼女が追い求めるべきものの姿。
「レースを続けて欲しいというのは……トレーナーである私だけの願いだ。
君には、君が目指すべきものがある。君でなければ、輝けない場所がある」
知ってしまった。彼女が目指すものの頂。製菓という道にかける、職人たちの限りない情熱。
その道がいかに長く、荘厳で、険しいものであるかも。
それでも、彼女なら必ず辿り着けると信じていた。
憧れの父。愛する家族。尊敬できる多くの職人達に囲まれて。
長き研鑽を重ね、多くの困難を乗り越え……その先に、いつかは彼女も多くの人を幸福にできる、偉大な
その未来を汚すことなんて出来ない。
その道を諦めさせることなんて出来ない。
「私だけの
まるで血を吐くような、悲痛にも満ちた叫びが響く。
その痛みが溢れ出すように、いつしか青年の瞳にも涙が浮かんでいた。
「————」
ツーーと、少女の青い瞳から零れる雫。
哀しかったからじゃない。
その言葉が。その
どれだけ私を想ってくれているか、ちゃんと分かっていたからだ。
トン、と。もう一度トレーナーの胸へと額を寄せる。ふるふると、小さく首を横に振りながら。
「違うんです……トレーナーさん。
我儘なんかじゃない。この手帳に書いてある未来は……もう貴方だけの夢じゃないんです」
天皇賞・秋を走り終え。
両親に誇れる姿を見せられた以上。もう私に走る理由はないと、そう思っていた。
少なくとも3年前の私は、そう定めていた。
けれど私の心に芽生えたものは、それを“違う”と否定する。
そんなもので、この憧れを侮辱してくれるなと――怒りにも似た叫びを上げている。
『ダービーで勝つコツはね。――“勝つ”って思うことだよ』
長く苦しいレースの道の中で、私は多くのライバルと出会った。
押し潰されそうなほどに高く聳え立つ壁。その重圧に負け、一度はレースを諦めかけた。
けれど分かったのだ。彼女達とて初めから強かったわけではない。誰もが苦難なくその頂へと昇りつめたわけではない。
私と同じように多くの挫折に打ち拉がれ、私以上の絶望さえも乗り越えて。
それでも、諦めなかった。決して前を向くことを止めなかった。
同じ夢を追い、同じ頂へと挑み続ける―――心からの尊敬を抱ける人達と知った。
『(勝ちたい――。勝ちたい――!勝ちたい――っ!!)』
ダービーに挑む中で、胸の中に初めて芽生えた気持ち。
彼女達の想いを否定するのではなく、ただ真正面からぶつかって。
それぞれが抱く誇り。それぞれが想う“正しさ”へと、ひた走る彼女たちを尚越えて、私が一番になりたいと思った。
以前の私では決して知ることの出来なかった
そう……両親に別れを告げ、日本を目指した“あの頃”から、私は変わったのだ。変われたのだ。
今の自分を追い越すために、日々一つ二つと共に記録を綴り。譲れない覚悟。揺るぎない誇りを胸の奥に抱いて。
あの日……『一目惚れ』だと言ってくれた。
貴方が私の走りに感じてくれた、“何か”を信じて
「――貴方と、勝ちたい」
ただ貴方の隣に居たいだけじゃない。
ただ、貴方の夢に嫌々身を
「私は私の意志で、まだ走っていたい。
私自身が、まだこの誇りある
それこそが貴方と歩んできた道の中で見つけることの出来た、本当の“
「お願いします。トレーナーさん。もう一度私をあの舞台に立たせてください。
どうか私に、もう一度――貴方と共に走らせてください」
紡ぐ言の葉が、胸の奥底を揺さぶる。
凍てつかせていた筈の心に、また熱を灯りだす。
「私、は……」
彼女が口から、“最期”と言う言葉を聞く度に、ずっと押さえ込んでいた気持ち。
望んではいけないのだと思っていた。
彼女の幸福のために、願ってはいけないのだと……ずっと心を殺してきた
けれどそれさえも誤っていたのだろうか。
全て愚かな間違いだったと……君はそう言ってくれるのか。
差し出された手帳を、震える手で受け取る。
一度は手放してしまった夢。我儘としか描けなかった未来。
けれどそれは今も……こんなにも輝いて見えて。
ああ、私は、また
「君の隣にいることを……望んでもいいのか」
「はい……っ!はい――っ!」
固く、もう決して手離すことのないように強く、強く抱きしめる少女。
悲哀しか纏わなかった涙が嬉色へと変わる。それでも、瞳からは今まで以上に涙があふれて……止まってくれなくて。
包むように抱きしめ返された体。伝わる温もりに、胸の奥からとめどない
本当はずっと気付いていた。この幸福がどこから来るのか。
心の底に宿る想い、その本当の名前も。
「だって、私には……」
花瓶に捧げられた赤い薔薇が揺れる。
ただの一輪の花に込められた意味は、『一目惚れ』。
そして――
「私には――『貴方しかいない』んです」
「…………」
遠く、互いの存在を喜び確かめ合うように、固く抱きしめ合う娘たちの姿を見つめる。
胸に残る大きな安堵。想像していたよりもずっと、穏やかな微笑みを浮かべでいる自分がいた。
勿論、同じぐらいに寂しい気持ちもあった。
共に店を営む未来が、遠くなったことにではない。
父親として。娘を持つ者として。それはマイスターという地位にまで昇ろうと変わらない、親ならば誰もが抱く祝福にも似た寂しさ。
ふと、胸ポケットで中で鳴り響く携帯電話。
待ちきれないとばかりに震えるその画面を覗くと、予想通り、彼女の名前が浮かんでいた。
“どうです?どうなりました?”
「……うん。君が、言った通りだったよ」
私の言葉に、ああ、やっぱりと、嬉しそうに息を零す彼女。
少しはしゃぐような声は、どれだけ年を重ねようと変わらない。眩しくも温かな、愛しい人だ。
思い出す。彼女と初めて出会った日。
そして、結婚を誓い合ったあの夜、
『“きっと、こうなる予定だったのよ ”』
ああ――ほんとうに、君には敵わない
■□■□
「ああ、もうすっかり夜だな」
時刻は19時40分。冬至を遥か以前に過ぎた空は日も既に沈み切り。淡く輝く月明かりが冬の星座達と共に大地を照らしている。
肌を撫でる冷たい風。隣を歩く彼女が体を冷やさぬようピタリと肩を寄せ合い、繋いだ手を固く結んだままま、ゆっくりと帰り路を歩いていく。
あの後……互いに泣き疲れた頃には、外はもうとっぷりと夜の帳が降りていて。御父君は、まだお弟子さんと話すこともあるらしく、レストランでそのまま別れることになった。
フラッシュの門限が迫る関係もあり、あまり長い時間を話すことは出来なかったけれど、それでも娘の言葉を真摯に受け止めていた彼。
まだ日本で走り続けたいこと。3年による引退の約束は守れないこと。
何度も謝るフラッシュに、けれど彼は全て分かっていたと言うように微笑んで。
『君にも、誇れるものが見つかったんだね。なら、これ以上に嬉しいことはない。
いつまでも彼と仲良く、これからも頑張るんだよ』
『———はい!』
迷いなく頷くフラッシュの姿に、彼は何度も満足そうに頷いていた。
その間、私の方は今日の料理をご馳走してくれた
とてもとても、美味しかったこと。そして私は、本当はただの一般人であり、名のある審査員などではなかったこと。
きっと要らぬ緊張を与えてしまっただろう謝罪も含めて。
『いいえ?先生から事前にお話は窺っていましたよ』
『え……?だったらどうして』
『そりゃ……先生の娘さんのVerlobteに皿を出すんです。緊張しない筈がありません』
破願して頬をかく彼。聞きなれない単語に小首を傾げる私に、彼はまたくすりと笑うと
『いつもは決して自分の我儘を言ってくれない先生が、こうも頼ってくださったのです。弟子として、これほど嬉しいことはありません。
……何より、
どうかこれからも頑張ってください。また、観客場から活躍を応援させていただきます』
固く握手を交わし、祝福の言葉を捧げるシェフ。
ああ。お金が溜まったら、また絶対に来ようと思える店だった。その時は必ずフラッシュも一緒に。
リリリ…と、虫の囁く微かな音色。
ふと携帯を開くと、SNSやウマッターには街内を学制服のまま爆走するフラッシュの画像が上げられ、“エイシンフラッシュ”、“そっくりさん”、“バクシン教入信”、などのタグが揃ってトレンド入を果たしていた。
それを話すと彼女はただ、必死だったんです。と顔を赤らめ、隠れるように肩に身を寄せてきた。
伝わる温もりを、決して夢ではないのだと確かめるように抱き寄せる。
きっと、これから大変になるだろう。
予め宣言していた引退を急遽取りやめ、URAへと復帰する。
二転三転と意志を変えればファンからの印象も悪く、となれば良い悪い含め多くの反応が返ってくる。
また会見台に立つことは必然。シンボリルドルフ会長からも、レースを無礼るなとお叱りの言葉を頂戴するかもしれない。
それでも、胸にはなに一つの恐れもなかった。
彼女と共にまた走れる……その喜びに比べれば、如何に小さな憂事か。
この擦れ違いにも、きっと意味があったのだと思う。
どれほど互いの存在を深く想っていたか、この繋がりがいかに固く、同時に脆く、稀有なものであったか。
信頼に甘えることなく、大切にしていかなければいけないもの。
フラッシュとの別れに直面して……その瀬戸際になって、ようやく自覚した己の本心。
この
けれど……本当のことを明かせば、不安も一つ。
「本当に、よかったのか?菓子職人になるもう一つの夢……諦めてしまっても」
「……道は、一つしか選べませんから」
それだけを小さく零す彼女。
どちらかを蔑ろにしたままでは進めない。そんな甘い気持ちのまま挑むことに“正しさ”などない。
時間とは限られているものであり、一人の人生で修められる道も、また一つしかないのだと。
前を見据え、凛とした声で囁くフラッシュの顔には、けれどやはり寂しさのような色も滲んでいた。
「じゃあ。半分こだな」
「え……?」
耳へと届いた言葉に、彼の横顔を見上げる。
その言葉は以前にも聞いた……いつかの日、彼と一緒にケーキカフェへと行った時の出来事。
当初頼むことを計画していたタルトセットに対して、当日になって突然存在を知った季節限定のスペシャリテセット。
計画通りにタルトを頼むべきだと考えながらも、けれどもう一方も諦めきれなくて。決めあぐねる私に対して、彼は二つともを頼んで『半分こ』にする道を選んだ。
二人で訪れたからかこそ……一人では決して選ぶことのできなかった選択。
レースに挑むという私たち二人の夢。
それでも、ウマ娘として、私が走れる時間は限られている。
じゃあ……その後は?
もし夢を遂げた後でも……二人の夢を。
二人の
気付いた意味に、ハッと顔を上げる。
月明りに照らされた彼の横顔には、やっぱり何の迷いも恐れもなくて
……いいんですか? そう問うように、そっと彼の手を握る。
「――…」
握り返される手に、朱色に染まる頬。
それに以上に、溢れる涙で瞼の奥が熱くなる。
輪郭のぼやけた月は、けれど今まで見たどの月よりも眩しく輝いていた。
――ゆっくり歩きすぎたせいだろう
そうして視界の奥に見慣れたトレセン学園の正門が映る頃には、もう門限の時間はギリギリにまで迫っていた。
自分が住むマンションは此処から反対方向。彼女一人を見送るために付いてきたが、帰るにはもう少し歩かなければならない。
名残惜しさが胸に溢れる中、別れを告げるために繋いだ手を離す。
門限までは残り数分。それでも、彼女の足ならば余裕をもって……
「――フラッシュ?」
とん、と。腕へと抱き着いてくる彼女。
右手にかかる小さな体重。決して離さないというように肩に額を埋めたまま、まるで幼子のようにふるふると首を振るう。
優等生であり、時間を厳守する彼女にとって、門限を破るなど御法度だろうに。
「———……」
瞳を見つめ、両手で包んだ彼の手をきゅっと握る。
今だけは、決して離したくないというように
「私はこれからも、ウマ娘としてレースに挑んでいきます。自分の信じる正しい姿で。……でも」
でも、今だけは
「貴方の腕の中でだけは……悪い子でいさせてください」
■□■□
トレセン学園における毎年恒例行事の一つ、ファン感謝祭。
例年ならば4月前半の春に執り行われるだが、今年は特別準備が必要だったのだろう。7月初旬にまで開催が引き延ばされていた。
トレセン学園が誇る広大な運動場。その中央に高々と聳え立つ特設ライブステージ。
URAの好評により爆発的に増えるファンの数に対して、施設内のステージでは収まりきれないと、今年新たに作られた夏感謝祭限定の野外ステージ。
周囲には多くのファンや在学中のウマ娘たちが詰め寄せ、先ほどまでフジキセキ先輩とテイエムオペラオー先輩による特別公演が行われていたせいもあるだろう。
阿鼻叫喚の如く鳴りやまない喝采。巻きあがるスタンディングオベーション。通算の18回目の緊急搬送に召されるアグネスデジタル。
そんな喧騒からは少し距離を置くように、校庭ステージを眺めるエイシンフラッシュの姿があった。
突然の引退宣言。そして電撃の撤回宣言と、年明けには随分と世間を騒がせた彼女。
当然、多くのメディアが彼女の勝手を責めもしたが、しかし天皇賞・春を走り抜いた頃には、その悪評も煙のように消え失せていた。
フラッシュ自身は否定しているが、その閃光の末脚から為される怒涛のごとき
上がり3ハロン32.7秒という記録。一部からはニトロを積んでるのでは?と評されるほどの爆発的な加速力。そんな武器を持つ彼女の帰還を喜ばないファンはおらず、僅かに残った悪評も、先の『宝塚記念』でゴールドシップが起こした歴史的な大事件の方へと、根こそぎ持っていかれてしまった。
「――……♪」
しかし難しい顔ばかりを浮かべていた以前に比べて、今は随分と楽しそうである。
走る筆先は軽く、まだ見ぬ未来に希望をはせるように、時折鼻唄混じりに。
「フー・ラッシュ・さん♪」
「きゃっ!?ファルコンさん!?」
突然後ろから抱き着いてきた親友の姿に驚き上がる声。
「もー。また手帳ばっかり見てる。もう少しで私達『逃げ切りシスターズ』のライブが始まるんだから、ちゃんと見ててくれなきゃヤダよ?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと、一秒たりとも見逃したりしませんから」
「えへへ~。フラッシュさんがそう言うとホントに実現しちゃいそう」
今までのゲリラライブではない。初めてトレセン学園のターフを貸し切っての専属ライブだ。
ブルボンはいつも通りの冷静さでアンプを破壊し、スズカは集まったファンのあまりの多さに嘘でしょ……と顔を青染め。
ゲキマブ悩殺ポーズを決めるマルゼン。グッズ販売に余念がないアイネス。
観客席にはいつもの扇子代わりにサイリウムを持つ秋川やよい理事長たちの姿もあり、今までにない宴になることは明白だった。
その光景に思わず笑みを零すフラッシュ。
ああ――日本に残って良かったと。心から思える微笑みだった。
「――?」
そんな親友の姿を嬉しそうに見つめながら、ふと、彼女の手にある手帳の中身が目に映る。
彼女が改めてトレーナーと立てたという今後10年の計画。
相も変わらず、いいや今まで以上にビッシリと、オレンジ色多めで書かれた筆跡の数々。
その大半がドイツ語混じりで、意味はよく読み取れなかったけど……手帳隅、余白部分にポツンと書かれた文字が目に留まった。
「Kinder……drei……?」
「
人差し指を自らの唇に当て、恥ずかしそうに頬を赤らめる少女。
彼女らしからぬ、どこか悪戯めいた微笑みにドキリと胸が高鳴る。
「フラッシュ!」
「っ、トレーナーさん!」
遠く、トレーナーの声に呼ばれ嬉しそうに彼のもとへと走っていく背中を、小首を傾げながら見送るファルコン。
「点火ーー!!」
理事長の掛け声とともに、舞い上がる打ち上げ花火。
空一面に広がる光の花びら達。
眩しい輝きを目に、どちらからともなく手を繋ぎ合った。
もう決して離さないと誓い合うように。
彼女と契約を結んで4年目の夏。
閃光は今も消えることなく、ターフの上で輝き続けている
完
最後までお読みいただきありがとうございました。
皆さまからも多くの好評を頂き、「エイシンフラッシュ怪文書」、無事最後まで完結することができました。
最後はちょっと糖分多めでお送りしましたが、まあこれだけ互いに悩んだんですからご褒美ということで一つ。ぶっちゃけ其処だけが書きたくて見切り発車したシリーズでした。
割と多くのオマージュを所々に散りばめているので、エイシンフラッシュのストーリー7話や育成ストーリーをもう一度見直していただけると、新たな発見があるかもしれません。
本小説を読んで、エイシンフラッシュがもつ止めどない魅力が、少しでも伝わってくれていたら幸いです。
二人の行く末にあらん限りの祝福を祈りつつ、最後にもう一度。本小説を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
自分の感性が人とズレてないか不安になる時って……あるじゃない?そんなアンケート
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泣いた
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笑った
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アグネスデジタルが死んだ
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エアグルーヴのやる気が下がった