「じゃあ俺はちょっと用があるから、少し外に出てるからな。」
「もしかして、シービーか?」
俺の考えはシェイプにはお見通しのようだった。かつての教え子のことが気にならないはずがない。ましてや、この世界中から注目される
日本ダービーが2400mで行われるように2400mという距離には特別な意味がある。本家、エプソム競馬場で行われるダービーステークスも同じように2400mである。また世界最高峰と名高い
展開が向かなかったと、2400mは長すぎたと、そう言ってしまえば済むことなのかもしれない。今回走った14人のうち、勝者となるのはただひとり。本来であれば負けることのほうが多い。
シービーの脚、一瞬のキレと抜群のスピードは、スプリンターかあるいはマイラーまでの型である。本来の走りができるのは良くて2000mまでだろう。
この評価は初めて彼女を見たときから変わらない。スタートも下手だった。それでも彼女が菊花賞に勝てたのは、追い込みという戦法と、その型にすらはまらないセオリーを逸脱したレース運びがあったからだ。
だが世界の壁は厚い。それらの戦法は全くもって通用しなかった。
「慰めに行ってやれよ。アイツが居たから、今のお前が居るんだろ。」
口ごもる俺にシェイプが続ける。
「いや、その必要はない。シーツの血液検査の結果を受け取りに行く。」
俺は強がりを言って、ドアノブに手をかけた。
海を越えて戦うためには敗北も距離適正さえも乗り越えなければならない。ただ慰めを並べただけでは意味が無いのだ。
そんなことは分かっていた。分かっていたはずなのに、俺は彼女がどうしているのかが気にかかる。俺の言葉で辛さが和らぐなら、それでいいと、そう思ってしまうのだ。
トレーナーは、ウマ娘の勝利のために身を尽くさねばならない。俺は今、シェイプオブユーとビトウィーンシーツというふたりのウマ娘のトレーナーであるはずなのに、俺の言葉は勝利のためのアドバイスであることがふさわしいはずなのに、慰めの言葉をシービーにかけようとしていたのだ。
俺はトレーナー失格だ。
廊下は閑散としており、俺はそこをひとりで歩く。レースもライブも終わり、熱狂していた会場はただ静かに横たわる。
1番人気のミスターシービーは敗北した。静寂でその事実がさらなる現実味を帯びる。
2分26秒3で多くの夢は破れた。俺は日本所属ウマ娘のジャパンカップ制覇を喜べばいいのか、担当ウマ娘の敗北を悔しがればいいのか、それともミスターシービーの大敗に嘆けばいいのか、もう分からなくなっていた。
レースは残酷だ。誰かが勝てば、誰かは負ける。今担当しているウマ娘、ビトウィーンシーツはミスターシービーに先着した。だがそれはシービーを傷つけることになってはいないだろうか。
廊下を進む脚が重い。こんな姿をシーツやシェイプに見せる訳にはいかない。俺はふたりのトレーナーであり、ふたりの勝利のために尽くさねばならない。
蛍光灯が眩しく歩むべき道を照らしている。だがその先には混沌とした暗闇に続いているようにしか見えない。
歩みを止めればどれだけ楽だろうか。それでも俺は脚を止めることはできない。どんな未来があろうとも、
だから今はその先を見ないようにと下を向いて歩く。シービーに敗北を贈ることが彼女を強くするのだと、『銀髪姫』のようにはならないと、自分に言い聞かせた。
「その顔、やめたら?」
ふと、俺の正面から声がかかる。聞き覚えのある声だった。飄々としたその声の持ち主が現れるのはいつも突然で、そして一番出会いたくない人物であった。
「シービー……。」
「タバコじゃないけど、これ。気分が楽になるよ。」
シービーは棒付きキャンディーを差し出し、どこか悲しげな作り笑いを浮かべた。