「無理はするなよ。」
ミスターは私にそう声をかけた。その返答が出来ずに困っていると、彼は胸ポケットからキャンディーを取り出して、口に運んだ。
レースの前になると彼は必ず飴を舐めている。子供が食べるような棒付きの、どこにでもある安っぽいヤツだ。
タバコを吸っていたときの習慣だろうか。口寂しさを紛らせるためにガムを噛んだり、飴を舐めたりする人がいるというのは私も聞いたことがある。しかし彼は甘いはずの飴を苦虫を噛み潰したような顔で舐めているようなときがある。
何を思っているのかは、私にはわからない。ただ、彼が幸せではないということは伝わってくる。
ミスターシービーは引退したと彼は言った。担当していたウマ娘が引退すると言うのであれば嬉しいはずがない。故障ともなればもっともだ。
私の脚は丈夫なほうではない。体質も強いとは言えない。アイツはいい奴だから、心配するのも無理はない。
幸いにも、素質はあった。才能もあった。12
現実はいつもクソッタレだ。夢も希望も何もかも笑いながら壊していく。その中で私はただなにもできず、がんじがらめの縁に縛られたままそれを見届けることしかできない。
でも、ミスターはそんな私を少しだけ変えてくれた。このレースだって、本来ならば出られていたかもわからない。
彼がシービーに出会わなければ、彼はトレーナーを続けていただろうか。シービーが彼と出会わなければ、三冠を達成していただろうか。三冠を達成していなければ、彼はここに来ただろうか。ありえもない縁が私の運命を少しだけ変えてくれた。
私は一度運命を呪ったことがある。この身体を、脚を、才能さえも憎んだ。駆ける喜びを知らなければ、駆けようなどとは思わなかった。才能さえ無ければ、ドンや殿下にも出会わず、ただ平穏な生活をママと過ごしていたはずだ。
クリスマスには塩気の足りないパイではなく、ママが作ってくれたたくさんの好物を食べていたのかもしれない。プレゼントもダサいセーターではなく、素敵なおもちゃだったかもしれない。
それでも私は走ることを望んでしまった。走ることがなによりも幸せだった。G1を獲り、ダービーを獲り、クラシック三冠、欧州三冠を獲ることを無邪気に夢見た。
この身体が不完全なものだと知っても、私はまだ夢を見続けていた。だがあのクリスマス前のパーティで、心はぽっきりと折れてしまった。
あのときの出来事は悔やんでも悔やみきれない。
通路を抜けるとまばゆいばかりの日差しが降り注いだ。たくさんのまなざしが私たちの姿に向く。
このレースは勝たなくてはいけない。走る以上、勝つべきだ。
私が出たかったレースだから、欧州最高峰のレースだから、そんな理由はもうどうでも良かった。
私は私ひとりでここまで来たわけじゃない。交わった運命とその因果が私をここまで導いた。
私の呪われた運命も、不完全な身体も今だけは愛したい。全てを終えた先で「あなたに出会えて幸せだった」と笑顔で言うために勝つのだ。
私はもう少しでもすれば走れなくなる。だがあいつなら私の運命を変えてくれるかも知れない。そんな見てはいけない夢を見てしまいそうになる。
私の呪われた運命は、あいつのおかげで狂い始めた。
ただ、あいつの運命を変えたのはシービー、おまえだろう。
シービー、私はおまえのことは何も知らない。
だがおまえは、恋焦がれるほどここに来たかったんだろう。
おまえは、あいつに会いたかったんだろう。
あいつの前で、もう一度勝ちたかったんだろう。
本当は、あいつと離れたくなかったんだろう。
「オレも、おまえみたいになれるかな。」
思わず呟いた独り言は涼しげな風に乗ってどこかに消えていく。
あいつの中では、おまえはずっと大きな存在なんだろうな。そう思うと胸の中がチクリと痛んだ。