「どうぞ、レディー。」
ホワイエには絨毯が敷かれており、この先は階段がある。彼は紳士らしく手をこちらに差し伸べてきた。
パンプスで歩くのは多少歩き辛いとはいえ、これくらいのものに足を取られるようなことはない。何より、このような場所での所作は身につけている。
彼からすれば、これは少しだけ意地悪ないたずらでいつも交わす軽口の延長なのかもしれない。
いつの時勢もオペラハウスに足を運ぶ人々は皆上流階級ばかりだ。ここは上流階級の社交場であり、社交界がそうであったようにオペラを観るということは彼らにとってオマケに過ぎない。
今を生きる人々には既に定められたシナリオなどありはしない。オペラハウスに集い、話し、酒を酌み交わすことで情報を仕入れ、自らのシナリオを決める。オペラハウスはそのための舞台装置であり、ハムレットでさえ彼らの、そして私のシナリオでも端役なのだ。
「ありがとうございます、ミスター。」
私は恭しく謝辞を述べてから差し出された手にそっと自分の手を重ねた。
彼は少しだけ驚いたような顔をして、微笑みながら私の手を優しく握った。
「行こうか。」
ざらついた親指が私の手の甲を撫でる。トレーナーとしての職務がその手にも染み付いていた。しかしながら、その姿には見合わぬように、女のエスコートは慣れたものと言ったような手つきでもある。
年頃の女に囲まれれば、このようにもなるか。と納得すると同時に少しだけ腹立たしくも思った。
歩みを進めると視線が私たちに突き刺さる。彼の服装はお世辞にも良いものとは言えない。それに、彼はアジア人であり、私はウマ娘だ。アジア人がする紳士の猿真似を面白がっているのだろう。
私たちを見つめる視線の持ち主たちは、カジュアルとはいえど気品に満ちたジャケットを着こなし、上等なコロンの甘い香りを漂わせている。
それでも、彼の高貴さにはかなわない。礼節とはジャケットやコロンから生み出されるものではない。心から生み出されるものであるからだ。
品のない軽口も、こうして私の手を引くことも、私と彼だけの最上級の礼である。私にすべてを尽くした彼がそうしているのだから。
「どうした」
私の手を引く腕が緩まり、歩みが止まる。
「なんでもありません……。行きましょう。」
オペラになんか、誘わなければよかった。私は少しだけ後悔した。
私と彼の違いがますます浮き彫りになる。共に歩んできたはずなのに、その差をまじまじと見せつけられる。
ここでの私と彼とのつながりは、この手だけしかない。そして私はその手さえも振り払うことになる。
手に残る温もりも、いつかは消え去るのだろう。それでいい。でも、今だけはその温もりを感じていたい。
思わず私の手に力がこもる。彼はまた優しく微笑んだ。
「胸を張って、キミは綺麗だ。」
歯の浮くような台詞に思わず吹き出しそうになる。でも、彼が真面目な顔でそう言うものなのだから、きっとそうなんだろう。
「はい。」
彼の親指が、もう一度私の手の甲を撫でた。
「行こう。」
「はい。」
開幕まであとわずかだ。私は彼の手に引かれるままに歩みを進める。
永遠に幕が上がらなければいい。そう思った。
周りの人々「あのウマ娘のカップル美男美女すぎてやべえ!推せる〜!」