くだらない、その一言に尽きる。
不快な劇は鳴り止まぬ拍手とともに幕を下ろした。隣の席の彼は、私の手を握りながら、幕を下ろした舞台を眺め続けていた。
「ミスター?」
呼びかけても、返事は無い。
バルコニー席から見下ろす一階席には既に帰り支度を済ませ、離席する人々の姿が見えた。
「ミスター?」
「ああ……」
気の抜けたような返事が返ってくる。しかしながら、彼の表情は憔悴したように暗く、陰がある。劇場の煌びやかな照明は誰も居ない客席を照らすばかりで、彼の思いも、私の行く末も、照らしてはくれない。
「行こうか。」
また、彼が私に手を差し伸べる。
その優しさに、いつまでも甘えていたい。その温もりに、いつまでも包まれていたい。
だが、その手を取ることは、許されない行いであった。
「ありがたく存じます。」
もう一度手を取れば、私の決意は揺らいでしまうだろう。
「でも、今はいい。」
彼を押し退け、通路を進む。振り返ると、呆気に取られたような顔で私を見ていた。
「……行くぞ。」
そう呼びかけると、彼が小走りで私の後を追う。
私達はそのまま劇場を出た。残暑の残る季節とはいえ、外は暗くなり、コヴェントガーデンのアーケード街が眩しく光り輝いていた。
「いつもの調子に戻ったな。」
ようやく追いついた彼が私に言った。優しく、穏やかな口調だった。
「どうだかな……」
私は言葉を濁した。街の喧騒がふたりの静寂を際立たせる。瞬きをするほど短く、そして永い、永い静寂だった。
「少し歩こう、またレモネードが飲みたいんだ。」
そう呼びかけ、また歩みを進めた。
「去年を思い出すな。」
「そうだな。」
彼がひとこと、そう呟いてレモネードを手渡してくる。甘酸っぱい味わいは変わらない。ただ凍えるような冷たさが口の中に広がり、胸を満たした。
去年はここで、泣いてしまった。
欄干にもたれながら眺めるテムズ川の流れは相変わらず緩やかで、その水が途切れることはない。
一滴のしずくが集まり、こうして河となる。何百年、何千年もの間、テムズ川はこのロンドンの街を眺めつづけてきた。
あの時の涙も川に流れて行った。押し流されて、消えてしまった。それで良かった。
いつかはきっと全てが時の流れに押し流されてしまう。それが歴史の常だ。歴史に名を刻むということは、それだけ偉大なことなのだ。
ウィリアム・くそったれ・シェイクスピアは、それを成し遂げて見せた。救われない悲劇と共に、名を残したのだ。
だが、悲劇なんざ、くそったれだ。
「今日はありがとな、ついて来てくれて。」
これが最後のデートになる。私はせめてもの感謝を彼に伝えたかった。
「良いものを見れたよ、こちらこそありがとう。」
「そうかよ。」
彼はまだ沈んだ顔をしていた。
「どうした?そんなにあんな作り話が気に入ったかよ。」
からかうように私は軽口を叩く。いつも通り、彼には笑っていてほしかった。私は、彼のためにこの選択をしたのだから。
「いや、そうじゃない。」
ゆっくりと彼が口を開く。
唇が震えていた。
「ハムレットを幸せにするには、どうしたら良いかを考えていたんだ……」
「そんなことかよ。」
彼は優しい。だがそれは唾棄すべき愚問であった。
「亡霊なんかに、出会わなきゃ良かったんだ。」
ハムレットは父の亡霊と出会い、復讐を決意する。彼はきっと、その時点で発狂していた。
過去の者の声などに価値はない。生きとし生けるものは、己の力で未来を切り拓くことができる。それは、生者にのみ許された特権だ。
私の競争生命はあと僅か。だから私は口を噤む。
この想いも抱えて、地獄まで行こう。
業火に焼かれようが、構わない。
だからお前も、過去に囚われるな。
亡霊の声に、耳を貸すな。
たとえその声が、ミスターシービーであってもだ。
お前はハムレットになってはいけない。
お前はまだ生きているからだ。
お前はその手で、未来を切り拓け。
「やっぱり、セントレジャーに……。」
「ああ。」
震える声で、彼が言う。
私はそれに背を向けて冷たく言い放つ。
今だけは、顔を見られたくない。
私もきっと、泣いているから。
「だからお前はもう、日本へ帰れ。」
「お前を待ってるヤツが、日本にはいるだろ。」
「安心しろよ、ハッピーエンドにしてやるさ。」
私はそのまま歩みを進めた。
オレとは違う道を歩んでゆけ、未来で待つ者のために。そう祈りながら。