『山椒魚は悲しんだ』
私はそんな書き出しから始まる物語をぼんやりと思い出していた。あの物語は、教科書に載っていたものを授業中に暇つぶしとして読んだものだった。
鞄をそこらへ放り投げて、乱雑に髪を拭く。引退式は滞りなく進み、ミスターシービーはその役目を終えた。疲れた私を待つのはこの陰気な病室だけだった。
夢には届かなかった。みんなはきっと、こんな気持ちを味わいながらも、私に食らいついて来たんだろう。
どれだけ努力をしても、埋められない差。理想だけははっきりと見えているのに、そこにたどり着けない絶望。
そんな中で、故障した。それでも私はあまり悲しくなかった。それはきっとどこか心の隅で分かっていたからなのだろう。
運がいいのか、悪いのか、結果まで残してしまった。自由とか、楽しくとか、そんな綺麗なお題目を並べて、動こうともしなかった。
これじゃダメだと気づいたのは、彼が居なくなって、そして、勝てなくなった後だった。
そのときにはもう、身動きが取れなくなっていた。膨れ上がったうぬぼれが、まるでコロップの栓となるように、つかえていた。
病衣に着替えて、漂白剤の匂いがするシーツの間に潜り込む。この中はまだ冷たく、仄暗い。だがこの検査入院が終われば、晴れて自由の身だ。
ミスターシービーはもういない。口論をする相手もいなくなった。そして私はターフからも解放されて、ただのウマ娘になる。
私はもう、物語の主役ではない。辛いことも、悩むこともない。暗闇の中で、悲しむことすらない。
これから、何をしようか。レースのために身を絞る必要もない。たくさん、好きなだけスイーツを食べようか。寝る間も惜しむくらい、映画を見てもいいかもしれない。化粧を覚えて、かわいい服とサンダルで出かけるのもいいな。ペディキュアとマニキュアの違いも、まだわからないけれど、これから覚えていけば、きっと大丈夫だ。
おしゃれに着飾って、誰もが振り向くような美人になって、それで、恋をしよう。熱く燃え上がるような恋をしよう。恋なんてしたことないけれど、きっとそれはとても素敵なものだ。なんて言ったって、映画や物語の題材になるくらいだから。
私は、どんな人を好きになるんだろう。やっぱり、背が高くてカッコいい人なのかな。でもそれだけじゃあ、つまらないかもしれないな。
やっぱり、面白い人がいいな。あと、タバコを吸わない人。それだけじゃなくて、表情が豊かで明るく笑ってくれる人。
寂しそうに笑われたら、きっと忘れたい夢を思い出してしまう。だから明るく屈託のない笑みがいい。そして、そばに居て、離れないでほしい。
「バカだな、アタシ。」
唇をぎゅっと噛み、崩れぬように顔の皮膚を引き締める。
髪はまだ、少しだけ濡れていた。今ならまだ雨だと言えるかもしれない。
それで、ステップを踏もう。脚はまだ、少しだけ痛む。それでも、耐えられないほどじゃない。
だから私は踊るのだ。雨にうたえば、晴れやかな気分になる。そう信じて。
起き上がり、ベッドに腰をかける。薄っぺらなスリッパを足に引っかけたとき、ノックも無しにゆっくりと病室のドアが開いた。
それと同時にキャンディーと、服に染み付いたタバコの匂いが漂う。
「今だけは、会いたくなかったかな。」
私がそう言うと、男はいつか見たような顔で寂しそうに微笑んだ。