ラジカセがファンファーレを鳴らすと赤旗が挙げられる。シービーがググッと伸びをしてから、ゆっくりとゲートに入った。
そこから数秒、金属がきしむ音がして、扉が開く。
「おいシービー、ゲートは一番初めに行われる勝負なんだ、しっかり集中しろよ。」
「いや、集中してるはずなんだけどね?」
「お前の脚はとても良い。スピード・パワーは先行してこそ活きる。出来るだけ良い位置につけて、コーナーの一瞬で抜き去っていく。お前の脚ならできるはずだ。」
シービーには出遅れ癖がある。
彼女はゲートに入った後、ソワソワとして落ち着きを無くしスタートのタイミングを逃してしまう。落ち着いているな、と思ったときには上手く出ても体が硬くなり、二の足がつかない。ゲート練習を楽しげに行っているときは、扉を触ったり、金網をいじってみたりとやりたい放題だ。
「ねえ、なんでウマ娘のレースってゲートがあるんだろうね。ヒトみたいに一列に並んで、パーンって音鳴らせばいいと思うんだけど。」
「いや、ファンファーレに驚いてるお前じゃ無理だろ……。」
ウマ娘は姿こそ似ているが、ヒトとは大きく異なる部分がある。圧倒的な身体能力はヒトのそれを遥かに凌駕する。それは聴覚に関しても同じだ。
レース前に行われるファンファーレ、そして観客が行うファンファーレへの手拍子。白熱したレースに熱狂して上げられる歓声などは、本来であれば競争の障害になる。
ウマ娘の精神は繊細なものであり、そういったストレスは走りに大きな影響を及ぼしてしまう。
ウマ娘が一番かかりやすい傷病は、繋靭帯炎でも、骨折でも、屈腱炎でもない。胃炎と胃潰瘍だ。今日、トレーニング中にケータリング食を用意することが推奨されているのは、糖質をはじめとしたエネルギーの補給のためだけではない。
通常、胃の中には胃酸とその酸から胃壁を保護する粘膜層が存在する。胃酸はきわめて高い酸性を示し、これによって食物を消化・分解を行う。
だが空腹時には胃酸は胃に大きな負荷をかける。ストレスや睡眠不足などにより体調が崩れ、胃の粘膜層の構成が不調に陥れば、臓器そのものが分解されてしまう。その対策のため、食物を摂取し胃酸を中和させるのである。
しかしながら、近づいてくるレースのストレスによって全く食べられなくなってしまうこともある。よく食べていても遠征先の土地で水や食べ物が合わず、体調を崩してしまうこともある。
かつては銃声やスターターによる大きな音で競争をスタートすることもあったという。日本では旗が用いられた。
だが旗がはためく様子や音でさえも落ち着きを無くしたりパニックになるウマ娘が居たために、ロープ式のスタートになった。
ロープ式のスタートにも問題があった。コースの内ラチから外ラチにかけて渡されたロープが上空に跳ね上げられたらスタート、というものだが、風で揺れてしまうロープではスタートのタイミングが分かりづらく、出遅れやフライングが絶えなかった。観客からもスタートしたかどうか見えづらい。強風のときはロープがウマ娘に絡まるというアクシデントも起きる。
そのために開発されたものがゲートだ。
ゲートはアメリカで開発された。日本の発明品ではない。
だが現在使われているものは我が国オリジナルのものだ。ウマ娘の競争環境について、諸国にしばし遅れを取ったが今や巻き返しの時にある。
一列に並び、公平さはしっかり確保される。脚が引っかからないように支柱はできるだけ排除されている。前にあるものは金網と扉だけ。開く際も極力音がしないようになっている。
だがそれでも、ゲート入りは難航する。
ゲートの適正試験に落ちたためにダービー出走を逃してしまったウマ娘も居る。彼女には確かな実力があったが、ゲートだけは苦手だった。観客はそれを面白がり、観客席の柵を叩いて音を鳴らしたり、大声を上げたためにパニックを起こしてゲートから出られなかったのだ。
うずくまり、『やめて!やめて!』と泣き叫ぶ彼女の姿はとても痛ましかった。それを笑う観客の顔を殴ろうとも思った。観客の顔が変形しようとも醜悪な
『ダービーに出られなくとも、あの子にも、貴方にも未来がある。』と言われた。だがそんなものはどこにも無かった。その後彼女はレースに出られず、学園を去ってしまったからだ。
シービーに関しては、ゲートから出ることには出るので試験に関しては問題ないと思われる。問題はレース内容だ。
「ねぇ、そろそろ走っていいかな?」
シービーは開いたゲートをつまらなそうに出たり入ったりしていた。
「そうだな、じゃあこのゲートを開いたらゴール板まで、1600m走って来い。」
「じゃあ、頑張らないとね。」
顔にはやる気が満ち溢れている。こういう時は大体二の足がつかない。
「閉じるぞ。」
赤旗を上げ、ラジカセのスイッチを入れる。けたたましい音がひとりだけのレースのために鳴った。
ゲートが開くと同時に一陣の風が吹き抜けた。冷たい風に目が覚める。
「すごいな、あいつは。」