トレセン学園に到着した後、トレーナー室に向かう。
どんな零細トレーナーであっても、教室ひとつぶんほどの部屋がひとりにつきひとつ貸し出されるのだ。流石は日本一の規模を誇るトレセン学園といったところだ。
だがひとりで使うには広すぎる。チームは解散し、この部屋を訪れる者は居なくなった。そのため、ひとりで煙草を吸いながら新聞や論文を眺めている時間が増えた。
不甲斐なさを実感する。レースのデータを調べあげ、様々な研究論文を読んで、トレーニングに取り込んだ。チームの仲を深め、メンタルを安定させるために様々なレクリエーションも行った。夏合宿では海にも山にも連れて行った。だがそれはチームのウマ娘のためにはならなかった。
「まともな練習がしたい。」
「もっと強くなりたい。」
「もう、諦めたい。」
彼女達はそう言って去っていった。ウマ娘の気持ちを尊重すると言えば聞こえは良いが、結局のところは引き止めることが出来なかっただけなのだ。
「どうしたもんかね……。」
椅子に腰掛け、部屋を眺める。日が出ていないため薄暗い。誰も居ない代わりに論文が印刷されたコピー用紙の束があちこちに置かれていた。
担当するウマ娘がいなければ、トレーナーは何もすることができない。もちろん、何もしていないトレーナーは解雇される。
チームに勧誘するために名簿でも眺めようか。そう思ったとき扉が鳴った。
「入るわね。」
聴きなれた声がして、落胆した。
「やあ、ハナ。調子はどう?」
「いつも通り、という答えでは不服かしら。貴方もまたいつも通りみたいね。」
「嫌だなあ、『水も滴るイイ男』だなんて。聞き飽きちゃったよ。」
「その楽観的な姿勢だけは尊敬するわ……。」
目の前の女性は頭を抱えて深いため息をついた。
彼女の名前は東条ハナ、俺の同僚のトレーナーだ。チーム『リギル』を結成し、採用された初年度から目覚ましいまでの活躍をしている。
「ほら、タオル。煙草も消しなさい。」
「いや、いいんだ。雨に歌えば、晴れやかな気分になる。」
「意味分かんないこと言ってないで、早く拭きなさい。」
タオルを被せられ、わしゃわしゃと乱暴に頭をこねくり回される。
「もしかして、『雨の中閉じた傘を振り回して歌いながら踊ってた男』って貴方じゃないでしょうね。今朝の不審者情報で流れてきたわよ。」
「たぶん俺だな。」
彼女はまた、深いため息をついた。
「貴方、最近変よ?私ならいつでも力になるわ。リギルのサブトレーナーになることを上に打診してもいい。悔しいけど、スクールの成績は確かだったんだから。」
「そんなことより──」
「そんなことよりって何よ。せっかく人が心配してるって言うのに。」
「──マルゼンスキー、あいつは大丈夫か。」
マルゼンスキーはリギルに所属するウマ娘だ。これまで全てのレースにおいて勝利している。デビューして1年目のジュニアクラス王者を決めるレース『朝日杯ジュニアステークス』に関しては13馬身差をつける大差で勝利した。だが彼女は規約によってクラシック三冠に出ることができなかった。
彼女が出走を表明すれば殆どのウマ娘は回避した。格式高い日本ダービーでさえ、彼女の居ない『残念ダービー』と揶揄された。ライバルも、競りかけてくる相手もいないレースは興奮よりも孤独を感じさせるものだった。
マルゼンスキーが強いことは変わりない。だがその強さに苦しめられたのは彼女自身も例外ではなかった。
「……相当、堪えているみたい。だけど大丈夫よ、あの子は走ることを諦めてはいない。」
「俺なんかより、あいつを支えてやってくれ。」
「……そうね、そういうところだけは変わらないのね、安心したわ。」
「あと、コレ。」
白い冊子が机に置かれた。
「今度の選抜レースの出走表。良い子をスカウトしなさいよ。」
笑顔で背中をバンバン叩かれた。結構痛い。
「それじゃあ、行くわね。」
「ああ、そうだ。ちょっと待って。」
離れていく彼女を呼び止める。「何よ」と言い、少し不機嫌そうだ。
「俺もこれから『おハナさん』って呼んだほうがいいかな…?」
「勝手にしたら。」
おハナさんは呆れるかのように鼻を鳴らして、振り返らずに歩いて行った。