肺ははち切れんばかりに膨れ上がり、体からは汗が無尽蔵に沸いてくるような錯覚がある。
足が痛い。また足の裏の血豆を潰してしまったんだろう。指の間にある嫌なぬめりがそれを知らせる。
心臓の鼓動は鳴り止まない。それに呼応するように、身体中の血管が浮き上がる。皮膚の表面に近い静脈でさえ、ピクピクと脈打っているのが目に見えてわかる。
そんなことはいさ知らず、観客たちは無邪気に歓声を上げる。ああ、これは全て私のものだ。
大きな音は苦手だ。騒がしい声もあまり聞きたくない。大きく振られる手もチラチラと視界の端に映るだけで腹が立つ。はしゃいでるヤツなんか論外だ。
それでも、この声のほとんどは私に向けられたものだ。この喝采は、勝者であっても受け取ることは難しい。
とても疲れた。この苦痛は言い表すことができない。追われる恐怖、勝たなければならないという使命。その中で薄れていく判断力。悲鳴を上げる身体を酷使してもぎ取った勝利だ。そして、ようやくこの苦しみから解放される。
コースの上でしか私たちは全力で走れない。その上を私はゴールとは逆向きにゆっくりと歩いている。無論それは地下バ道を通り、控え室に戻るためだ。
これから、ウイニングライブがある。応援してくれた観客への感謝を示すためだと言うが、揺れるペンライトの色も、眩しい照明も私は苦手だ。
歓声はやがて拍手に変わる。しばらくすればそれもまばらになり、満足した観客はウイニングライブのステージへ移動し始め、興奮が覚めやらぬ観客は誰の走りがどうとか、このレースの分岐点はどこだったとか身内で楽しく話合いをし始める。
なんと言えば良いんだろうか。この感覚が心地いい。今なら芝の上であぐらをかいても、『脚を閉じなさい』と怒る人もいないだろう。大の字になって、寝そべるのもいいかもしれない。
歓声はすでにどこかに行ってしまっていて、視線はもう私に向いていない。
ようやく理解できた。私は自由なんだ。
ここでなければ走れないというのにそこを堂々と歩くことも、歓声や拍手に対して何も反応をしないことも、それは私ができる自由なのだと理解した。
地下バ道までの距離は短い。この一瞬、この一歩をしっかりと噛み締めるようにして私は歩みを進めた。
「おつかれ。追い込みが板についてきたな。」
「そうでもないよ」
地下馬道の入り口にはトレーナーさんが立っていた。疲れたろう、と言って棒付きのキャンディーを差し出してくる。スインギーは疲れて私の控え室で寝てしまっているらしい。彼女も健闘をしたので当然のことだろう。寝る子は育つと言うし、良いことだ。
だが、初めての重賞勝利でお祝いがキャンディーだけとは言わせない。お祝い事には苺の乗ったショートケーキを食べると決まっている。
おねだりをしたら、トレーナーさんは買ってくれるだろうか。でもアタシはそういう人に媚びたり、ゴマをするようなマネは得意じゃない。
もちろん、スインギーもトレーナーさんもよく頑張ったので、3人分は欲しい。
「ねえ、トレーナーさん。アタシ、苺の乗ったショートケーキが食べたいな〜?」
なんのひねりもないおねだりの言葉。弁明をしておくと、キャンディーが要らないわけではない。むしろキャンディーは好物だ。
だがこれでは『勝ったのだから奢って当然だ』と強請っているみたいだ。もう少し頑張りましょう、私。
「すまないが、これで我慢はしてくれないか。」
トレーナーさんが何かのチケットのようなものを手渡してきた。やけにニヤニヤしていたのが気にかかる。
「高級ホテルのスイーツ食べ放題券……?」
「ああ、服装に少しだけ気を配るようにしてくれ。スインギーも一緒でいいか?」
「もちろん。」
「少し退屈かもしれないが、今後について大事な話がある。楽しみにしててくれ。」
柄にもなく、トレーナーが真剣な表情をした。少しだけ、どきりとする。案外、顔が良いんだな。
「あと、ライブ。レース同様気を抜くなよ。」
トレーナーが地下バ道を歩いていく。後ろ向きで手を振りながら。
その手の中にあるチケットはピラピラと揺れていて、少しだけ目障りだった。
投稿遅れたのはお絵かきしてたからです
色塗り無理だわ