オレンジ色の間接照明がぼんやりと手元を照らし、音楽がゆったりと流れる。刹那を争う彼女たちとは違った緩やかな時間は私の疲れた心を癒す。
春は残酷な季節だ。多くの夢が芽吹く傍らで、ひっそりと枯れ落ちていく花がある。眩しいそれを彼女たちはどんな気持ちで見つめていたのだろうか。
また、少なくない数のウマ娘が学園を去っていった。デビュー2年目の秋までに勝ち星を挙げられなければ、年度末をもって退学となる。
私のチームには多くの志願者が訪れる。だが、その全てを受け入れることはできない。これは単なる私の力不足だ。ルドルフとマルゼンスキーこのふたりだけでも今はすでに手一杯の状態にあった。
志願してきた者達は皆、勝つことができただろうか。
今考えるのはよそう。私はそういった憂鬱から逃れるためにここに居る。何より、『私が見ていれば』などという考えは傲慢に他ならない。
トレーナーの仕事は彼女たちが抱く夢への道を拓くこと。どんな結果であろうとも、それを見届ける義務がある。
「強めで飲みやすいものを。」
「かしこまりました。」
氷がグラスの中でくるくると回る。ステアは澄んだ味わいにはなるが、シェイクのほうが角の取れたまろやかな味わいになる。
バーテンダーはきっと私の顔を伺ったのだろう。これは逃避のためのものだ。半ばヤケ酒に近い。
プロとして客の注文に沿わないものを提供するわけにはいかない。だが、酔い潰れるまで飲ませるわけにもいかない。その結果が緑の液体となって私の前に現れる。
スノースタイルのグラス。底にはレッドチェリーが沈む。
カクテルはグラスの中で様々なものを表現する。グラスの縁についた砂糖は波しぶき、レッドチェリーは珊瑚礁を表現している。爽やかな色合いと味わいは沈んでしまいたいと思わせる憧憬がある。
グラスを持つ指の爪は割れている。真っ赤なルージュも似合っていない。髪はただ後ろにまとめ上げているだけだ。海だって、久しく行ってない。
エメラルドグリーンの珊瑚礁はきっと私には似合わない。私はレッドチェリーではないのだから。
緑なら芝がある。冬には茶色くなってしまうが、それは海だって同じだ。わざわざ冬の荒れた海で海水浴する人は居ない。
私は憧れと一緒にその緑を飲み込んだ。
ミントの香りが鼻から抜けていく。憧れと一緒にすぐに消えていった。
深いため息をつく。少しだけ喉が焼ける感覚があった。ショートドリンクではあるが、もう少しゆっくり楽しめば良かった。
間接照明がぼんやりと手元を照らす。爪は割れている。ネイルとまではいかなくとも手入れはしてもいいかもしれない。ベースコートくらいなら目立たないだろう。
顔を上げると、注文した覚えの無いグラスがひとつ置かれていた。
「これは……?」
「あちらのお客様からです。」
差し示された方向を見ると一番見たくないヤツの顔があった。
「こんなのを頼むなんて、ずいぶんとロマンチストなのね。」
「カクテルの名前とか、気にしちゃうタイプ?」
許しを得ることもなく隣に座ってきた。グラスは暗い
「今日はどうしたの。あなたも感傷に浸りに来たの?」
「ハナ“は” 感傷に浸りに来た訳か。」
私の言葉尻を捉えて彼は悪戯っぽく笑う。
「そういう日があってもいいでしょ。」
グラスに手を伸ばす。ありがたくカクテルはいただくことにしよう。口を付けるとチェリーブランデーの香りがした。
「弥生賞、凄かったわね。」
「ああ、だがあいつの真価はあんなもんじゃないさ。」
彼の担当するウマ娘、ミスターシービーは弥生賞を勝利した。
3コーナー前から内ラチ沿いにスルスルと登っていき、4コーナーで先頭。そのままスピードで押し切った。
「良馬場であったことが幸いだったわね。」
「あいつなら、皐月も取れるさ。」
彼は胸ポケットからタバコを取り出して咥えたあと、火を付けずに仕舞った。どうやら禁煙しているらしい。
健康のためなのか、シービーのためなのか、それはわからない。だがシービーのためならば、もっと気を使うべきところがある。
「春は荒れるわ。天候も、芝も。そして中山。『セットがなければ上手く走れない』なんてことにはならないようにね。そんなようでは大舞台の役者たり得ないわ。今のうちに先行策を取らせるべきよ。」
中山は先行有利。道悪となれば直線で伸びを欠くこともあり得る。最終直線の急坂はただでさえ過酷なコースだ。
だが彼はそれをどこ吹く風というように笑った。
「雨に唄えば、大丈夫さ。あいつはドンじゃない。どちらかと言えばアンディだ。」
「確かに不器用だが、雨の中でも自由に走る。そういうところに俺は惚れたんだ。」
「そうね。」
ゲーテ曰く、雨の中、傘を差さずに踊る男がいてもいい。自由とはそういうことだ。
ゲーテは全てのことを言ったと称される。ならば、彼を見た時にはきっとこう言うはずだ。
「ウオッカでマティーニをふたつ。ステアではなくシェイクで。」
私のグラスが空になった時に彼がそう言った。
「帰るわ。」
「どうした、もう飲まないのか。」
「生憎、スパイ映画は好きじゃないの。」
重い扉を開けると、煌々と光る街に出る。
憂鬱は彼と一緒に薄暗いバーに置いて行こう。
「もう一軒行こうかしら……。」
この街はまだ眠らない。あと一杯だけ、ビトウィーン・ザ・シーツが飲みたくなった。