歓声にレース場が揺れる。三冠の一角、皐月賞の発走まであとわずか。一生に一度の晴れ舞台がすぐそこまで迫っている。
「っ…!」
膝が小さく震え出す。叩いても、強く押さえてもその震えは止まらない。
膝の震えにあわせて勝負服の裾がひらひらと動く。目障りだ。大きな音で頭がぐらぐらと揺れる。うるさい。やめろ。やめろ。
私は1番人気だった。誰もが私の勝利を望んでいる。私だって勝利が欲しい。トレーナーだって、勝って欲しいから私にトレーニングを課している。
誰もが勝ちたい。誰だって勝つ可能性はある。なんと言ったって、今日は不良バ場だからだ。
バ場が重くなれば波乱を呼ぶ。力いっぱい蹴り上げて進もうとすればスタミナを浪費する。脚を残していても、ボコボコにえぐれた芝では加速しにくい。
共同通信杯でも、弥生賞でも、ここまでの緊張は無かった。普段通り3コーナーから追い込みをかければ勝てた。でも、今日は何故か勝てそうな気がしない。
怖い。
走ることが怖い。
どうしてだろう。
わからない。
私は走ることが好きだった。風を裂いて進む感覚も、冷たい雨が横に流れていく感覚も、その全てが好きだった。
ウマ娘が自由に走ることができる場所は限られている。レース場で走ることは最も自由で、最も好きなことのひとつだった。
でも、今は走りたくない。何故かはわからない。
そろそろパドックでパフォーマンスをする時間だ。でも立ち上がろうとしても、膝が震えて力が入らない。
また、歓声が上がる。その度にレース場が揺れる。
『次は2枠3番!カツラギエースです!!』
エコーのかかったアナウンスが遠くで鳴っていた。その音が不快で耳を塞ぐ。
突然、大きな音を立てて控室の扉が開く。
「おいシービー!!そろそろパドックに向かえ!!ファンのみんなが待ってるぞ!!」
「なんだ、トレーナーさんか……。」
胸を撫で下ろす。耳を塞いでいたおかげで驚いて声を上げるなんて醜態を晒さずに済んだ。こんな姿を見られたときには、卒業までずっとイジられ続けるだろう。
だから私はいつも通り、精いっぱいヘラヘラと笑って、精いっぱい飄々とした私を演じて、練り上げられた芝居がかったセリフを言う。
「ねぇ、トレーナーさん。負けちゃったらどうしよう?」
「負けたら……か………。そうだなぁ……。」
少しの間、沈黙が広がる。しばらくして、カタカタと何かが揺れる音がし始めた。
「あ、えっと、ホールケーキ、予約しちゃったんだよなぁ……。しかも、さ、あの、チョコにメッセージまで書いて貰えるヤツ。」
「気が早いよ。」
トレーナーの掠れた声がした。引きつった笑みで言葉もぎこちない。ズタ袋みたいにヘタクソな演技だ。だけど、私を笑わせようとしてくれたことだけは評価しよう。
「立てるか?」
差し出された手は手汗でびっしょりと濡れていて、小さく震えている。それに合わせて、赤いトレーナーバッジが音を鳴らしていた。
正直握りたくなかったけど、私はその手を力強く握った。
「好きに走ってこい。雨の日はお前も好きだろう?」
「大っ嫌いだよ。雨なんて。」
「せっかくの勝負服が、汚れちゃうじゃん。」
私は役者ではない。だから、私の言葉は『演技』ではなく『嘘』と言う。
「ジャージだったら良かったんだけどね。」
最後に本音も付け加えておいた。