彼が立ち去ると煙草の香りだけが病室に取り残された。甘いような苦いようなその匂いは寂しさを浮き彫りにする。
レースの前日は必ず煙草の香りがした。レースの当日は甘いキャンディーの匂いがした。
彼は不安なときに隠れて煙草を吸う。隠せているつもりなのだろうけど、嗅覚に優れるウマ娘にはわかってしまう。彼が逃げる先はいつもこの香りだった。そして、次の日にはキャンディーを咥えて、何事もなかったかのように強がっている。
今日の彼からはいつもよりも強く煙草の香りがした。私は彼に要らない心配をかけてしまった。そして、あのライターは未だに返せていない。
ライターは火を付ける道具に過ぎない。安物のライターであれば、どこにでも売っている。それでも、私にとってあのライターは特別だった。
彼が逃げなくともいいように、私はライターを奪った。それでも彼は煙草に逃げてしまう。それは追い込んでも届かない。走ることしかできない私には無力だった。
彼は私のために逃げている。私に不安が伝わらないように煙草を吸う。口寂しさを紛らわせるキャンディーはその証拠だ。だがそれもダービーで瓦解した。
彼は去り際に小さな白い箱を置いていった。中身はおそらくケーキだろう。箔押しされた『Eclipse』という文字は祝勝会のときにも見かけた。クリームと果実の甘い匂いが届かないほどに、煙草の香りが強かった。
箱を開けるとショートケーキが二切れ入っていた。
今日は特に祝いごとでもないのにな、そう思っていると病室のドアが鳴った。
「怪我をしたと聞いてね、見舞いにきた。」
その声の持ち主には、三日月のような形の流星がある。だが、その三日月は以前にも増して大きくなったように感じられた。
「ルナちゃん……。」
「その名で呼ばれるのは、少し気恥ずかしいな。」
「かわいいと思うよ?」
「花を持ってきた。」
照れているのを隠すように、無理矢理話題を変えられてしまった。青い薔薇が入ったガラスのボトルが、窓際に置かれる。
「先ほど、君のトレーナーとすれ違ったよ。相変わらず煙草の匂いをさせていた。」
「やめるようには言ってるんだけどね。」
「ふむ……。」
三日月が揺れて、眉間にシワが寄る。
「匂いは集中力に悪影響を及ぼす。受動喫煙という問題もある。言語道断だ、ウマ娘とトレーナーは一蓮托生。キミが嫌だと言うのであれば、彼の得手勝手を許してはおけない。」
「そういう訳じゃないよ。」
「そうなのか……。」
一転して穏やかな顔となる。どこか満足気に笑う彼女の姿は私たちを羨むようにも見えた。
「キミとトレーナーは肝胆相照と言ったところだな。私が口を出すことではなかった。」
「そう?アタシは『青藍氷水』だと思うけど。」
「確かにそうかもしれんな。」
破顔一笑。もちろん私の言っていることは冗談に過ぎない。彼は私のためにいろいろと尽くしてくれている。それをあのように評することなど私はできない。
「そういえば、ルナちゃんは合宿に行かなかったの?」
夏になればトレセン学園は合宿所を解放する。夏に予定の無いウマ娘たちは合宿を行い、ここで心身共に鍛え上げるのだ。
スインギーウォークの所属するチーム『カノープス』も合宿に行っているため、夏の間は彼女に会えない。
「急遽デビューが決まってね。本格化が急速に始まったようなんだ。」
彼女の流星が大きくなった理由はこれなのだろう。風格が増し、幾分か体つきも良くなったように見える。
「明日には発つ、新潟の1000mだ。三冠ウマ娘であるキミにアドバイスでも貰えないかと思ってね。」
「二冠だよ。まだ菊花賞は走ってない。」
「いいや、キミなら獲れるさ。」
そう言って、彼女は青い薔薇の入ったボトルを2回指で弾いた。
「シービー、キミは幸せの青い薔薇という題の絵本を知っているかい?」
「小さい頃に読んだよ。青い薔薇は不吉な花だって言われてたけど、最後には綺麗に咲いてみんなを幸せにしてくれるヤツだよね。」
「その通りだ。」
短い沈黙の後に、また彼女が続けた。
「キミはこの青い薔薇に近しい存在だ。ボトルの中のものは着色されたプリザーブドフラワーだがね。」
「どういう意味?」
私の言葉に返答はない。ふわりと髪がなびき、また三日月が揺れた。
「では、青い薔薇の花言葉は何か。」
「不可能。」
「もうひとつある。それは『夢かなう』だ。」
ニヤリと笑いながら彼女がそう言った。唇からは白い歯が見える。してやったりという顔つきだ。
「キミは現在、学園スローガンに最も近いウマ娘だ。 “
「やめてよ、恥ずかしい。」
「先ほどのお返しだ。」
腕を組み、私を見下ろしている。これは称賛などではない、私の喉元を食い破らんとする獣の目が爛々と輝いていた。
「ルナちゃんってさ、そういうところあるよね。」
「勝負に生きる者の
「いいよ。勝負なんだから、仕方ない。」
私が勝てていなければ、こうして彼女と語ることもなかったのだろう。来年には彼女はクラシックを迎える。同じ山の頂を登るのだ、彼女が至るそれまでに、爪は十分に研いでおこう。
「菊花賞、自信の程は?」
「そうだなぁ……。」
長距離レースは私が苦手とするところではある。ダービーだってフラフラになって走った。だが、正直にそれを話すわけにはいかない。何より、正直に話したところで面白くない。
だから私は『Eclipse』と書かれた箱を開けた。
「
「ああ、いただくとしよう。」
私の言葉を聞くと、彼女は満足そうに笑っていた。