緑色の服を着た女性は帽子を目深に被りながらも眩しい笑顔を向けてくる。
彼女の名は駿川たづなと言う。トレセン学園理事長秘書を務める彼女はウマ娘達にも慕われている。優しく、時には厳しくウマ娘を導く姿は彼女たちの姉のようであり、母のようでもある。
「すみませんトレーナーさん、何かお取り込み中でしたか?」
「いえ、ちょうどシービーの見舞いから帰ってきたといころです。暇だったので、洗濯でもしようかな、と。」
シービーの話をすると、彼女の顔が曇った。
「ミスターシービーさんの容態はどうでしたか……?競争能力への影響などはありませんよね……?まさか──」
「たづなさん、落ち着いてください。予後も安定していますし、入院したことはウイルス性の気管支炎が原因ですから。安静にしていれば脚は良くなります。」
彼女の言葉は打ち寄せる波のようだった。
彼女はこれまで多くの新入生を迎え、退学者を見送ったのだろう。
退学者には自らの手で諦めをつけるものも居れば、怪我により道を閉ざされてしまう者も多い。その悲哀は彼女の心に深く闇を落としている。
俺が初めてたづなさんに出会ったのは、まだ冬の名残りがある寒い朝だった。
トレセン学園への採用が決まり、業務にまつわる事前研修が行われる日、生徒たちの生活に影響を及ぼさないようにと早朝に新規職員が集められた。
寝ぼけ眼を擦りながら学園への道を進むと、校門に彼女が立っていた。まだ日の出前だというのに、俺の名前を呼び、明るい挨拶をした。
初対面なのに、たづなさんは俺の名前を知っていた。どうして名前を知っているのかと尋ねると、『職員名簿で見た』と返ってきたのだった。
トレセン学園に在籍するトレーナーは100人を優に超える。教職員や学園常駐の医師や鍼灸師などの医療スタッフ、馬場管理部門やダンストレーナーと言った専門職員を含めれば2000人ほどになる。
その中から俺の名前と顔を記憶し、こうして当然のように挨拶をした。
ウマ娘の顔と名前も記憶しているようだった。
驚いて言葉を返せずにいると、栗毛のウマ娘が横を通り過ぎて行ったのだ。そのウマ娘にも、名前を呼んで挨拶をしていた。
名前を呼ばれた「サイレンススズカ」というウマ娘は、走ることが楽しいといった様子で、挨拶を返しながら走り去って行った。
年度の初めには数千人のウマ娘が入学する。その全てを記憶するということは常人に為せる技ではない。
だが、入学してきたウマ娘の中で無事に学園を卒業できる者は一握りも居ない。
競争は苛烈を極める。心が折れてしまうウマ娘も多い。日の当たらないところで、多くのウマ娘がひっそりとその競争人生に幕を閉じるのだ。
それでも、覚えていてくれる存在がある。それは何よりも大きな心の支えとなって
たづなさんの正式な役職は理事長秘書である。だが、その肩書には収まらないほど大きな存在なのだ。
多忙である彼女がカマリの部室にまでいらっしゃった。そして、シービーのことを心配して頂いている。
本来であれば俺が足を運ぶべきであり、シービーのことを報告するべきだったのだろう。少しだけ罪悪感に苛まれる。
「すみません、ご足労いただいた上にシービーの心配までしていただいて……。」
「いえいえ!とんでもないです。書類をお渡しに参っただけですので!」
そういった些事こそ俺がするべきなのではないだろうか。だが、気を悪くさせてもいけないので、善意をありがたく受け取ることにした。
「こちらがグレード制導入にまつわる資料と同意書、あとは調査票になります。」
「ついにグレード制施行のために動くんですね……。」
トゥインクルシリーズでは長らく競争同士の格付けが曖昧となっていた。そこで疑問となるのが成績の優劣である。
短距離競争と長距離競争では求められる素質自体が異なってくる。だが、これまで最も格式高いと言われている八大競争は中・長距離に偏っており、短距離競争を主体に走るスプリンターを軽視する風潮が見られた。
そこで、アメリカで行われている「グレード制」を導入し、八大競争と同じように、最も格式高いスプリント競争、マイル競争を創設することでその風潮を打破しようというのだ。
海外ではこれらの明確な格付けが進んでいる。格付けが進むことで、海外のウマ娘がトゥインクルシリーズに参加することも期待できる。
海外遠征は芝や気候などさまざまな環境変化に対応しなくてはならない。ウマ娘にとって、海外の国際競争に勝つことができれば、その適正の広さを顕示することができる。文化交流・技術交流が行われるようになれば、強いウマ娘が日本に集まってくる。レベルの高い競争が行われることになればトゥインクルシリーズは更なる飛躍を遂げるだろう。
学園理事長はこのために尽力していた。URAを辞する覚悟をもってこの計画を主導しているとも聞いた。
「同意書、調査票に関しては今月末を目処に提出をお願いします。」
たづなさんが軽く頭を下げた。
頭が下がる思いをしているのは俺のほうだ。
「了解です。お手数おかけしました。」
「いえいえ、それはこちらの台詞ですよ。」
たづなさんは口元に手を当て、小さく微笑む。
「トレーナーさんたちのご協力無くしては、実現しません。どうか、よろしくお願いします。」
「それでは、失礼いたします。」
たづなさんは帽子を押さえながら、深々と礼をした。俺もそれに合わせて礼をする。
俺たちはトゥインクルシリーズの大きな分岐点に居る。ウマ娘のために、大きく歴史が動こうとしているのを感じた。
資料を開くと、BHGA、*1IFHGA*2など、海外機関との関わりについて事細かに記載されていた。
この学園から世界に羽ばたくウマ娘が生まれたら、どれだけいいだろうか。夢のある話だ。
シービーにはそんな存在になってもらいたい。自由に、雄大に、まさしく天を駆ける彼女の走りは、空を越えて感動を届けるだろう。
想いだけは誰にも縛ることはできない。感動は彼女と同じように『自由』である。
部室に戻り、ペンを取る。
資料を読みながらひとつづつ書類を記入していく。
「海外へ挑戦する意思はありますか。」という欄には大きく二重丸を書いておいた。