トレーナーさんが何も言わずに立ち去っていく。
理事長はそれに背を向けて、カーテンを力強く握り締めていた。
「秋川理事長……?」
声をかけると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「理事長!!」
額には汗が浮かび、黒鹿毛の髪が張り付いている。顔は見たことがないほどに青くなっていた。目はうっすらと充血し、溢れんほどの涙が零れ落ちる寸前で止まっていた。
「たづな……。」
先ほどの声が嘘のようだ。蚊の羽音ほどもない弱々しい音で私の名前が呼ばれた。
「理事長!どうしたのですか!」
「水と……、角砂糖を、頼みます……。」
流しに行き、コップに水を汲む。棚から角砂糖の袋を引っ張っ出す。
「甘いですね……。」
角砂糖を口に含ませると、青い顔で優しくほほえみかけてくる。本来の理事長のようで、胸を撫で下ろす。
「水を頂けますか……?」
そう言って差し出された理事長の手は赤く汚れていた。
強く握りしめられたせいで爪が手のひらに食い込み、4つの切り傷が出来ていた。
「こうするしか……なかったのです……、たづな……どうか私を許してください……。」
「貴女には……とてもつらい役をさせてしまいました……。どうか……私を許してください……。」
「いいんです理事長……。私は理事長秘書ですから。」
「今日は……貴女の好きなラーメンを食べに行きましょう……。餃子も……たくさん頼みましょうか………。」
「驚かせてしまいましたね……。」
落ち着いたようで、私の腕の中でぽつり、ぽつりと話し始める。
「私は、あまりにも無力でした。そのために、彼を人柱にするような真似を、止められませんでした……。」
「カノープスはトレーナーが引退を考えていたことと、サブトレーナーに南坂さんが居ることから、話は順調に進んで行きました。」
「試験的にスインギーウォークを南坂さんに任せていたそうなのですが、結果として、安心して後を任せられると喜んでおりました……。」
ため息をつき、私の目を見つめる
青みがかった鈍色の目からは透明な雫が溢れ落ちて行った。
「この体も、不便なものですね。走ることはできても、心は耐えられない。」
「私は、少し疲れてしまいました。」
「彼のために、ミスターシービーのために、私は何も出来なかった……。」
「こんなことを伝える勇気も無く、私は貴女に押しつけてしまった……。その上、心無い言葉まで吐いてしまった……。」
「ひとりの犠牲の上に成り立つ全てのウマ娘の幸福など、あってはいけません。」
その言葉だけは、はっきりと聞こえた。
理事長は静かに目を瞑った。
「たづな、これを受け取ってください。」
白い封筒と小切手が手渡される。
理事長なりの意志がそこには現れていた。
「これで坂路を建設してください。地面にはウッドチップを敷いてください。ウマ娘たちの怪我も少なくなるはずです。」
「後任には、私の娘、秋川やよいが居ます。どうか、娘を支えてください。」
「この期に及んでまで、私は貴女に頼ってしまう。私は理事長失格ですね。」
「そうですよ、ポケットマネーを使うのは、秋川家の悪い癖です。秘書として、それを治すまでは理事長で居て頂かなければ困ります。」
「たづな、少しは言うようになりましたね。」
理事長は泣きながらも笑顔を作る。細められた彼女の目からは、大粒の涙が流れて行った。
「私は、最後まで走るつもりです。貴方も、一緒に走ってはくれませんか……?」
「走ることは、得意なつもりですよ。お忘れですか?」
「そうでしたね……、貴女はそういう方でした。」
「ラーメン、高くつきそうですね。」
「ええ、たくさんご馳走してもらいますから。」
小さく寝息を立て始める。
その姿は在りし日の、まだ純粋な少女のような顔つきで、美しく輝いて見えた。
吐いた唾は、もう飲み込めないんだよなぁ(遠い目)
展開が辛すぎる