もうすぐ曲が終わる。赤信号に捕まり、前には進めない。映画ならば、タップダンスをしているところだ。銀幕のスターは喜び溢れるといったものを体いっぱいで表現していた。
雨の伴奏はいつまでも続く。終わり側に少しだけ帽子を上げて彼に礼をしてみた。聴いてくれた方には感謝を伝えることが、役者としての最低限のマナーだろう。
青信号に変わり、伴奏にエンジンの音が加わった。すると、彼がまた同じ曲を歌い始める。
ひどい出来だった。調が外れ、音程が合っていない。歌い出しは必ず外す。テンポもまちまちで、速くなったり、遅くなったり。
大きく溜めたかと思うと、歌い出しなので調子の外れた音がやってくる。ひどい、ひどすぎる。
そういえば、彼はウィニングライブの練習の際、いつも褒めてばかりだった。歌とダンスは苦手なんだろう。
「ねぇ、やめて。全然ダメだよ。」
「なんだよ、せっかくドンになりきって歌ってたのに。」
「違うよ、それじゃあリーナだよ。全然ダメ。」
「悪声ってことか……。」
声よりも、彼の歌にはもっと致命的な欠点があった。
「俺は、ドンのようないい男にはなれないな。歌もヘタクソだ。」
「そうじゃないよ、全然わかってないな。」
彼はいい男だ。演技はヘタクソでも、本心から私と向き合ってくれていた。
いや、この表現は少し違う。彼の場合は本心が大きすぎて、演技から溢れ出てしまっていた。不器用な彼の演技はいつも優しさという形で添えられていた。
ドンなんかよりもずっと良い男だ。だから私は演出家としてひとつだけアドバイスをしよう。
「この曲を歌うときは、もっと笑顔じゃないと。」
「ほら、笑ってよ。」
二本の人差し指で持ち上げた自分の頬は『もっちり』としていて、厚みがあった。彼に釣り合う良い女になるために、やっぱり痩せようと思った。
「そうだな、笑顔は大事だ。」
優しく微笑みかける彼の髪は濡れていて、その雫が頬を伝っていく。
「歌もダンスもトレーニングしなきゃね。トレーナーさんも、一緒にやる?」
車の中にゆったりとしたふたりの歌声が流れる。私の声にあわせれば、彼も音を外したりはしない。伴奏はその歌声を優しく包み込んだ。
車は百貨店の駐車場に入っていく。ここの店内には、勝負服とレース用靴の専門店がある。そこで、アルミニウム合金の軽い蹄鉄とゲル素材でできた柔らかい中敷き、最新式の練習靴と勝負服用の靴を買った。
今履いている血が染みた靴はきっともう履かなくなってしまう。だから私はその靴で水たまりに飛び込んだ。
そのしぶきが彼にかかる。初めて出会ったときもそうだった。
「ねぇ、踊ろう?『グッドモーニング』だよ。」
「夜更かしはするなよ。」
彼と腕を組み、こちらに引き寄せる。
タップダンス用の靴は金属のプレートがつま先とかかとについているらしい。
練習靴にはつま先に蹄鉄がついているだけ。それでも私は銀幕のスターに負けないくらいステップを踏んだ。
理事長「甘いですね……。」