それは戯れのようにも見えた。
空を飛んでいるのだろうか。
誰もが内を避けて走る。地面は降り続いた雨によって柔らかい。何度もウマ娘が踏みつけたために芝が抉れ、大きく荒れている。これでは走ることもままならない。運が悪ければ転倒し、選手生命が絶たれる。
残りは直線のみ。コーナーは無いため、外を走ることで受ける不利はない。できるだけ状態の良い芝を踏みたい。
そんな思いが一瞬の隙を生む。先行するウマ娘が横に広がり、馬群がほんのわずかに減速する。追い抜くには充分すぎるそれを彼女が見逃す訳が無い。
ミスターシービーが一気に加速した。
初めて彼女に会ったときの走りとは違う。物足りなさなど、どこにもない。だが、その走りはどこか見覚えがあった。
長いストライド、そのたびにふわりと浮く華奢な身体。空に羽ばたかんとするような加速。バ群さえ突き抜ける抜群の脚さばき。
天馬だ。天馬が目の前で翼を広げたのだ。
かつて『天馬』と呼ばれたウマ娘と同じ走りだ。
俺の憧れたウマ娘だ。
『天馬』と呼ばれた彼女ほど豪快な走りではない。それは、彼女とシービーの体格差のせいもあるだろう。だが、上体を上手く使い、沈み込みようなフォームと、ストライドの長い脚の動きはそっくりだ。
豪快さの他にも『天馬』と呼ばれた彼女との違いがある。シービーの脚には綿毛の上すら踏んで駆け上がれるような、まるで踊っているかのような、そんな『自由さ』がある。何者も、彼女を縛ることはできない。それは重力さえも同じことなのだろう。
勝負はその一瞬で決着した。ターフの上では湧き上がる歓声と拍手に対して、ミスターシービーが深々とお辞儀をしていた。
「ねえ、トレーナーさん、面白かったかな。」
シービーはこちらに歩み寄ってくる。飄々としたいつもの姿ではない。勝負を決めに行ったという自信と、その勝利を確信したという余裕がその顔に現れていた。
勝負とはもちろんスカウトのことだ。どうやら彼女は一度の走りでふたつの勝利を手にしてしまったらしい。
「ミスターシービー、ちょっと良いかしら。」
「なあに、おハナさん。」
ハナは手元でタブレットをいじりながら、シービーに呼びかける。
「どうして先行策を取らなかったの。貴女なら最高のスプリンターを目指せるわ。貴女の出遅れ癖もリギルに入ってくれるなら──」
「だって、レースが始まったら、そこは私たちの世界。でしょ?」
遮るようにしてシービーが言う。その言葉には、何か信念めいたものが感じられた。
「それに、生憎だけどスカウトは先約があるんだ。リギルに入るのもいいけど、その先約次第かな。」
屈託の無い笑顔でこちらを見た。泥だらけの姿は、まるで野山を駆けずり回った少年のようで、いつかの自分の姿と重なる。
走ることが好きならば、走ればいいのだと。走ることは自由でいいのだと。そう言われたような気がした。
「トレーナーさん、面白かったかな?」
シービーが振り向き、もう一度言った。
「ああ、面白かったぞ。」
「じゃあ、契約は成立だね。」
柵越しに右手が差し出される。泥にまみれたそれを、俺は強く握った。
シービーが笑う。
整った容貌に大きな黒い目。その姿は俺の憧れたウマ娘、『天馬』に似ていて、少年のような人懐っこさを感じさせた。