靴は無い。それでも私は芝の上に立つ。硬い葉が足の裏を容赦なく突き刺しても、私はここに立たねばならない。
この痛みは罰だ。そしてこうしてまた罪を重ねようとしている。
陽が沈んだのはもう何時間も前になる。ターフを照らす照明はすでに消え、月だけが私を見つめている。
今日は特に月明かりが眩しい。無情にもその輝きは星々が懸命に放つ光でさえも飲み込んでしまう。
寮の門限はとうに過ぎた。消灯時間まであと数分となる。
私は間違ったことをした。レースに出る以上、脚を止めてはならない。脚を止めるということは、ここに立てなかった全てのウマ娘に対する冒涜である。
どれだけ請い願ってもここへ辿りつけなかった者も居る。故障して、走れなくなってしまった者も居る。
レースは甘く無い。ゴールまでの道中で誰かが故障することもある。それでも私たちは走り続けなければならない。それが私たちがここに居る意味であり、私たちに課せられた義務でもある。
トレーナーが言っていたことは何ひとつ間違っていない。だから私はあの場所から逃げた。
義務も意味も私には必要ない。私はただ自由に走りたいというだけでここに来てしまった。
ウマ娘が全力で走ることを許される条件は限られている。靴も無く走れば故障は免れないだろう。私の傷だらけの足ならばなおさらだ。
一度でいいから、裸足で芝の上を駆けてみたかった。
夏までの芝ならば草丈が伸び、冷たい葉に包まれて気持ちが良かったのだろう。冬の芝は千切れて短くなり、針のように硬くなる。茶色に変色したそれは私の心までも串刺しにした。
冷たい風が頬を撫でる。これが貴方の暖かい手ならばどれほど良かっただろうか。
私を止めてほしい。自分の罪深さを知りつつも、それでも彼に甘えてしまう。
私が走れなくなれば、彼とともには居られない。でも、私が憧れた『彼』はもうすでにどこにも居ない。
彼の言葉は今日の風のように冷たかった。
だから私は、暖かな彼に殉じよう。まだ『彼』が居るのであれば、私を止めてくれるはずだ。
ゆっくりと踏み出せば私の足がやめろと悲鳴を上げる。この足は私とともに傷ついていく。
脚を止めれば、もう傷つくことはない。この足にはずいぶんとお世話になった。この足があったおかげで、彼と出会えた。
あと一回だけ、私のために傷ついてほしい。これが終われば、もう傷つくことは無い。
これが終わったら、ペディキュアを塗って、お洒落なサンダルを履いて、いろんなところに行こうか。
街にいるごく普通の女の子みたいに、いっぱい遊びに行こう。恋愛もしてみたい。ケーキもたくさん食べたい。きっと、毎日が幸せな日になる。
「遊園地にも、行きたいな……。」
彼に連れて行って貰わなくてもきっと楽しい。何と言っても、あそこは夢の国だ。
私が夢を諦めても、夢を見せてくれる素敵な場所だ。
「もっと走りたかったな……。」
私の夢の残骸はターフに置いていこう。私が歩いた後に残るものは何もいらない。
脚の回転を速めていく、その度にこれまでの思い出が頭の中を駆け抜けていった。
まだ全力じゃない。それなのに呼吸が乱れて、上手く息が吸えない。視界がぼやけて前がよく見えない。まだ足は残っているのに、私は走れない。
「そこまでだ、ミスターシービー。」
脚を止めてすぐ、私を呼ぶ声がした。
彼の声ではなかった。
「点呼のときに君がいないと聞いてね、方々を探したよ。灯台下暗しとはまさにこのことかな。」
月明かりの下で三日月が揺れた。白いそれは暗いターフの上でひとつだけ光っている流星でもあった。