「ねえ、見なかったことにしてくれない?」
「二冠ウマ娘と言えども、門限破りは見逃せないな。」
風が彼女の髪を揺らす。月明かりの下で黒鹿毛はきらきらと光り、悔しいことに私はそれを美しいと思ってしまった。
鮮やかな末脚に誰もが湧いた。私でさえもだ。やはり、彼女はこのトレセン学園を率いて行くにふさわしい英雄のひとりである。
ミスターシービーは不敵な笑みを浮かべながら、上空の月を見る。
今日の月はやけに大きい。
「反省文は原稿用紙3枚分だ。後日、生徒会に提出するように。」
「退学すれば、提出しなくてもいいよね。」
「何を言っているんだ。君の言う冗談にしては笑えないぞ。」
「ねえ、笑ってよ。」
彼女がこちらを向く。濡れた頬は月明かりを乱反射させ、その光を増幅させる。
「もう、走りたくないの。」
滴り落ちる滴は流星のようでもあった。
「笑うのは君のほうだよ。私には、どうしたらいいかわからない。」
「そうだね、ごめん。」
シービーは涙が溢れないようにまた月を眺めて笑う。
「訳を聞かせてはくれないか。」
「ずいぶんとひどいことを言うんだね。」
「すまない……。君の他に友人という存在が乏しくて、どうしたらいいかわからないんだ。」
「いいよ、聞かせてあげる。」
無知の知という言葉がある。私にはわからないことが多すぎる。だからこそ私は研鑚を積むことができる。課題は明確なのだ。
しかし私には気軽に話せる者は彼女くらいしか居ない。このときだけは私の無知を恨んだ。
「菊花賞には出たくない。」
「もう走りたくないと言うのかい?」
シービーが静かに頷く。月の光を帯びた雫がひとつふたつと落ちていく。
「アタシは間違ったことをした……。きっとトレーナーも失望した……。先行策じゃ……、私は勝てない……。」
「そうか……、惜しいことになるな。」
「ごめんね、ルナちゃん。」
「一番残念に思っているのは君のトレーナーだろう。無論、私も残念に思っているがね。」
「私が知っているトレーナーは、どこかに行ってしまったから。」
寂しげに笑う顔はどこかいじらしい。噛み付いて食べてしまいたいようなそんな衝動に駆られてしまう。
シービーほどのウマ娘であっても弱点はある。だから私はトレーナーを想う彼女にいたずらをしたくなった。
「それは、恋というものなのかな。」
「違うよ。」
「恋なんて言葉じゃいい表せない。もっと複雑で、大きくて、それでもさらっとした、よくわからない気持ち。」
「気がついたら、彼の存在がいつの間にか大きくなってたの。」
「アタシは彼のおかげで、ここまで来れた。それなのに、彼は私を置いてどこかに行ってしまう。」
「離別の悲しみを癒すには、私では力不足だな。」
下賤な私を許して欲しい。そう思うとともに、私は彼女を羨ましいとも思った。
ウマ娘とそのトレーナーは一蓮托生。どんなウマ娘であってもそうであるはずだ。私とおハナさんもそうであるはずだ。
だが、シービーとトレーナーはもっと深く結びついている。彼が居なければ、彼が彼女の手綱を握って居なければ、追い込みという戦法に才を見出すことも無かっただろう。
魂の半身と呼ぶにふさわしい。私には得られないそれが、何よりも羨ましく思えた。
「私も、原稿用紙3枚を書くとしようか。もう少し詳細に話して欲しい。生徒会役員として私達も動こう。」
「アタシとトレーナーさんのことだから……、生徒会は関係ないよ……。」
「どういうことだ……?」
思えば、シービーの言葉には違和感があった。彼女のトレーナーがBHGAへ出向となるのは来期からのはずだ。それなのに彼女は『トレーナーはどこかに行ってしまった。』と、過去形のように話している。
彼女のトレーナーはまだこの学園に所属している。『どこかに行ってしまった。』というものは比喩表現なのだろう。
「もしかしてシービー、キミは知らないのか……?」
違和感は予想もしていなかった結果を演繹的に導き出す。私がこれを告げることが間違いで無ければ良いと私は祈った。
「キミのトレーナーには、BHGAへの出向命令が下っているんだ……。」
今回はかなり難産でした
お待たせしてしまい申し訳ありません
不定期更新の良くないところですね。
鬼束ちひろ、良いですよね。